双子が再会する過去のお話、第二話
細い雨の降る休日の午後は、まどろむように静かだった。
カーテンを閉めた薄暗い部屋の中。宗一は下着を身につけたきり、うつ伏せた肩まで毛布をかぶって枕元の読書用ライトで漫画を読んでいる。私はその腰辺りを枕にして半ば眠りかけていたけれど、宗一の身じろぎで目を覚ます。
翳った天井。丸い電気から垂れ下がる短い紐、そこにぶら下がるクマのキャラクターのストラップ。
「ねえ、宗一」
「んー」
ほとんど上の空の声が返ってくる。
「藤間先輩、加野さんと付き合ってんだって」
「藤間って亮たんたちの友達の?」
「そう」
「俺のクラスに加野さんと付き合いたいってやつ何人かいるよ」
「ふうん……残念でした」
複雑な気分になって呟く。けれど宗一は何の反応もせずに漫画に意識を戻した。
藤間先輩とあの加野さんが付き合っていると知った日から、私の心にはもやもやとそのことが霧のように覆いかぶさっていた。自分で思う以上に加野さんのことを嫌いだったのかもしれないし、藤間先輩が大事だったのかもしれない。
例えば、亮たんや加野先輩が嫌な女と付き合っていたら傷ついてほしくない、さっさと相手の嫌なところに気が付いて別れてほしいときっと思ってしまうように。
宗一がこの気持ちに共感してくれれば気も晴れるかもしれないと思ったけれど、いまいち興味も示してもらえなかった。あまり加野さんのことを考え続けたくなどなかったから早いところなんとかしたかったのに、非常に不満である。もしかしたら漫画に集中しているせいかもしれないから、また後で話をしてみようと気を取り直し、私は体を起こした。ベッドから立ち上がると、漫画を開いたまま宗一が振り向く。
「どこ行くの?」
「コンビニ。何か買ってくるものある?」
「俺も行く」
「すぐ戻ってくるよ」
「うん、行く」
宗一も起き上がり、散らかしたままの服を手早く身に付けた。
財布を取りに部屋に戻ると、スマホの通知ランプが点滅していた。見ると着信二件の他にメッセージが九件。メッセージは全て亮たんからだ。嫌がらせだろうか。
一番最初のメッセージを見ると「電話出ろよ」の一言に十個くらい感嘆符がついたうえに、情けない表情のスタンプが続いている。
何か緊急の用事かと思って身構えたけれど、次のメッセージを見ると「カラオケ行くんだけどお前らも行く?」と今度は絵文字がたっぷりに書いてあった。単にカラオケのお誘いだったようだ。最終的には、もう行くから来たいなら連絡しろ馬鹿野郎と怒りマーク付きで吐き捨てられている。それで連続メッセージは終わっていた。
そのメールもすでに一時間以上前のものだ。とりあえず謝罪とお断りの返事は帰ってきてから送ることにしよう。メッセージ画面を閉じたスマホを机の上に置き部屋を出た。
マンションの前の横断歩道を渡り少し歩いたところにあるのが一番近いコンビニだ。
信号待ちをしているときに何気なく宗一を見上げてみた。わずかに頭を傾けて、ぼんやりとした目で車通りを眺めている。ずいぶんと背が伸びたようだ。あの再会の日から一年以上経ったのだな、と思った。あまり実感がない。あっという間だった気もするし、私たちが失った十年をまさに十年かけて取り返してきたような気もする。
私たちは何か変わったのだろうか。失われた時間と愛情を埋めあうために体を重ねた。それは人道にもとる行為だ。どうしてだろう。私は宗一が欲しかったし、宗一も私が欲しかった。だからこうするしかなかったのに、これしかなかったのに。血が繋がっているから私たちは愛を分け合うことが出来たのに、血が繋がっているから愛し合うことを許されない。息苦しいジレンマだった。誰も解決することができない。
私たちはこのままどこへたどり着くのだろうか。ふたりで愛情の果てへ行けると思ったのに、いまだにそれは見えてこない。そこへたどり着けばもう怖いことなんて何もなくなると思った。寂しい思いをせずにすむはずだ。けれどもこの道の果てには、もしかしたらそんな楽園のような場所ではなく、大きなくちを開けた蛇が私たちを飲み込もうと待ちうけているのかもしれなかった。楽園は遠く、林檎も手に出来ないまま追放される。それが私たちに課せられる罰なのか。
「一佳、青だよ」
不思議そうに声をかけられ我に返った。宗一が青信号を示している。ああ、と呟くと、宗一が私の手を引いて横断歩道を渡り始めた。
私たちはあまり顔が似ていないから、信号待ちをしている車のドライバーからはきっと恋人同士に見えているはずだ。この両足に絡みつく囚人の鎖が彼らには見えない。
宗一と再会したのは一年半ほど前、まだ私たちが中学生のときだ。離ればなれになってからおよそ十年ぶりの邂逅だった。
その十年間、遠目に姿を見ることすらなく、電話も手紙もメールのやり取りも許されなかった。別れが突然だったにも関わらずそれなのだからひどい話だと思う。
理由は単純に両親の離婚だ。なぜ離婚に至ったのか、詳しいことは知らない。主な理由は母の浮気らしい。どうやら気の多い人だったようだ。とは言え父に何も問題がなかったわけでもないらしいのだけれど、その辺のことは私も宗一も知らないままだった。知りたくないと言ったら嘘だけど、わざわざ実の親の口から聞きたい話では決してないから、父の気が変わるかどうかして話して聞かせてこない限りはおそらく知ることのないまま一生を終えるだろうと思う。それともいつか、直接聞かせてほしいと思う日が来るのだろうか。想像はつかない。何かと仕事が忙しい人だから、その辺のすれ違いもあったのかもしれないと私は思っている。
両親の事情はそれ以上知らないけれど、ともかく双子である私と宗一はばらばらになった。私は父と、宗一は母と。お互い引越しをして、その引越し先はどれほど頼んでも教えてはもらえなかった。母との面会日というやつも一応あったけれど、離婚後二年ほどでほとんど途絶えた。たぶん宗一と父はもっと会っていたはずだけれど、そこに私が連れていってもらえることはついになかった。
両親は私と宗一を会わせるのを恐れていたようだった。一緒に暮らしたいと言い出して、手元に残った子供が自分のもとからいなくなってしまったらと考えでもしたのだろうか。もしかしたら私たちの為になると思っていたのかもしれない。一緒に暮らせないのなら、いつまでも引きずらせずすっぱり縁を切ってしまったほうが苦しみは長引かないのではないかというような。
本当の考えがどこにあったにしろ、それは全くの逆効果だったとしか言えない。私は宗一がいないことに延々と泣き続けたし、泣くのをやめた後も父が辟易とするほど宗一の居場所や連絡先を尋ね続けたし、やがてそれすら諦めても私の宗一への情熱は冷めることがなかった。隠されれば隠されるほど暴きたくなるのと同じことで、遠ざけられれば遠ざけられるほど、私は宗一に会いたかった。彼を探し出すことが、幼い私の生きる目的であり人生の大半を占めていた。
転機が訪れたのは十五歳の夏。よく覚えている。あれは祝日の午後のことだ。
まだ陽の高い暑い午後に、父は仕事を早退して帰って来た。私はよく乾いた洗濯物をベランダから取り込んでいるところだった。驚く私をソファに座らせ、父は形容しがたい複雑な表情で私の目を見ないまま早口に告げた。
「ママが死んだそうだ」
「……え」
ママが? 死んだ?
急に空気が冷えた気がした。夏の日差しが消え、すっと足元のひび割れから冷気が流れ込んでくる。血の気が引く。
涙は出なかった。だってもう何年も会っていなかった人だ。記憶すら曖昧な私のママ。すごく優しかった。ママが大口を開けて笑うと大輪の花が咲いたようだった。笑って宗一と一緒に抱き寄せられると、何も怖いことなんてなかった。とても良い匂いがする。甘い花のような、バニラエッセンスのような、でも洗剤のようにさわやかな安心する匂い。パパの買ってきたお菓子をつまみ食いする白い指先で、そのおすそ分けをもらった。私と宗一が笑うと、ママも笑ってくれた。
記憶というよりその感覚がよみがえってきてきらきらと目の前をよぎる。世にも美しい光景。綺麗で暖かいものだ。眩しい、目が眩むと思ったその直後、死んだという言葉が胸の中に落ちてきてとうとう底が抜けた。恐ろしく冷たい何かが足元を浸す。輝いていたすべてはその真っ暗な闇の中へと消えていった。
そしてその夜、私と宗一は再会を果たすことになる。
葬儀は母の実家のある町で営まれた。遺影の母は私が知っているより少し老けていて、でもあの笑顔は変わっていないように思えた。身内だけの葬儀で、小さな会場には親族ばかりがいたはずだけれど、ほとんどが知らない人だった。その中で、母方の祖父母と並んで宗一は最前列に正座をしていた。こちらに背を向けたまま、制服のくたびれた白いシャツがまっすぐに伸びている。
その背中を見つけた途端、心臓が痛いほど収縮した。潰れてしまう、と思った。潰れてしまう。
もう何年も何年も会っていない。ママよりも長く会っていなくて、私の身長が何十センチも伸びて骨格だってずいぶん変わったように、宗一も記憶の中の宗一とは似ても似つかない形をしているのに、視界に入った瞬間すぐにわかった。宗一だ。近親者席に座っているからとかそういうことじゃない。理屈とか論理ではなく、その人の存在そのものが私に訴えかけていた。
息もまともに出来ず、体が震えた。視界が狭まり、心臓が急き立てるように激しく胸を叩く。ママ。宗一。ママ。宗一、宗一。
私の様子のおかしいことに父が気が付いて、労わるように背を撫でてくれる。
「大丈夫か」
そう顔を覗きこまれても、うまく返事ができなかった。宗一に駆け寄りたい気もしたし、泣き崩れたい気も、恐ろしくて逃げ出したい気もした。歯の根が鳴る。
集まっていた親族たちは、私がママの娘であることをわかっていた。たぶんパパといたからだろう。母親の唐突な死にショックを受けていると思った親族たちが、私と父を気遣うために声をかけてきた。そうした空気に気が付いたらしい宗一の背が揺れる。私は彼の姿から目が離せないまま、まるで怖いものから視線をはずせないように縫いとめられたまま、その背がゆっくりと振り返るのを見た。
恐ろしく長い一瞬だった。周りの音も景色も何もかもが消えてしまって、引き伸ばされた時間の中、私と宗一の視線がぶつかる。宗一の目が見開かれていくのを、私は滲む視界でも確かに見た。
一佳。宗一のくちは小さくそう動いた。声が届かなくてもわかる。宗一は私を呼んだのだ。私を。私の名前を。呼ばれたと思った瞬間、私を押しとどめていた何かが決壊した。
「宗一……」
よろよろと足を進める。現実感のない、足元がふわふわと浮いたような感覚で、宗一が駆け寄ってくるのを見ていた。私の知っている宗一の面影がある。それでも別人のような変化だ。過去と今の両者がどこで結びついたのかはわからない。それは確かに疑いようもなく宗一で、私の感覚の何もかもが肯定していることでもあるのに、同時に知らない人を見て誰だろうと思っているような不思議な心地がした。それがますます現実感を希薄にする。
「一佳!」
普段は人懐こさを前面に出しているような顔立ちを、今はぐしゃぐしゃに歪めて泣いている宗一。聞いたことのない声で私の名を呼ぶ。
人々の注目を集めて駆け寄ってきた宗一は、そのままの勢いで抱き付いてきた。それは知らない男の体だったけれど、そのわずかな違和感も縋りつく熱にじわじわと溶けていった。額の押し付けられた肩口でぬるい涙の熱が染み込んでくる。
ああ、どれほどこれを望んでいただろう。会いたかった。必ず探し出して抱きしめたかった。ずっとそればかりを願って生きてきたのだ。
遠慮なく体重をかけられて、支えきれずに膝をつく。母親の葬儀会場の真ん中で、私と宗一は膝立ちできつく抱きしめ合ったまま大声を上げて泣いた。
私たちは唱えられる長いお経を隣に座って聞き、手をつないでママの体が煙となって空へ還っていくのを見た。何を話せばいいのかわからないまま、けれど話す必要も感じずにただただお互いが宗一であり一佳であることを噛み締めていた。
宗一の親権の話になったとき、大人たちは少しもめた。父はもちろん引き取りたがったし、それは祖父母も同様だった。ママと宗一は祖父母と暮らしていたわけじゃないけれど、ママは宗一をつれてたまに実家に帰ったりしていたらしい。なのに父に引き取られてしまえば、孫ともう会えないのではないかと祖父母は危惧したのだった。
親族たちの意見も真っ二つに割れた。親のもとにいるほうがいい。十年離れていた親より慣れ親しんだ祖父母のほうがいいだろう。牽制しあうような、どこかぴりぴりとした静かな話し合いだった。
宗一の話なのに宗一の意見を誰も聞かないんだな、と私は部屋の隅で思っていた。横にはぴったりと宗一が座っていて、私の手をゆるく握りながらどこか床の一点をぼんやりと見つめている。
私はどういう結果が出ようとも、この手をもう二度と離す気などなかった。この手のために生きてきたのだ。その執念はすでに私の体の一部となって私を動かす。他には何もいらない。私の人生は再び宗一に会うためにあったのだから。
宗一と触れ合っていると、自分の中の飢えて乾いた部分が急速に満たされていくのを感じる。ずっと会いたかった。ずっと。絶対にもう離れたりしない。
感情の抜け落ちた宗一の顔。そっと親指で手を撫でると、握る手に力がこもる。父が宗一と一佳は自分の子供だと主張している。
長引いた話し合いに決着を付けたのは私の存在だった。私と宗一が出会い頭に号泣して抱きしめあったのがかなり効いたらしい。両親が離婚してから十年近く私たちが一度も会っていないということを知らない親族も多く、その事実を明かされた彼らは途端に私たちに同情的になった。一緒に暮らさせてやるべきだという意見が大勢になり、父は祖父母に少なくともお盆やママの命日には必ず孫をつれていくという約束をすることで、ようやく宗一の処遇は決まった。宗一は震える手で痛いほど私の手を握り締めた。
それから私たちは失われた十年間を取り戻すことに必死になった。
数日後、学校から帰ってきたら宗一の細々とした荷物が家に運び込まれていた。
ママと宗一が暮らしていた部屋はまだ片付けられている最中で、ママの遺品はママの親族が、宗一の引越しはパパが主に担当しているらしい。
父は今まで使っていた部屋を宗一のために空けて、使っていなかった和室に移った。基本的に寝るだけだからどこでもいいと父は笑ったけれど、宗一はごめんなさいと肩身の狭そうな顔をした。
宗一の荷物は古いベッドと布団、小さな本棚、服と制服が詰まったダンボールがふたつ、教科書類の入ったダンボールがひとつ、それから小説と漫画とCDが少しずつ入った小さなダンボールがひとつ。たったそれだけだった。
夕焼けの眩しい光が射し込み白い壁を赤く照らしている。マンションの前は大きな道路で、この七階の部屋にも車の行き交う音が途切れず響いていた。風や海の音にもどこか似ている。そのせいか室内の静寂がぽっかりと浮かび上がっていた。宗一のものとなった部屋で少ない荷物を解きながら、私たちはぽつぽつと話をした。
思えばこれが再会してから初めてまともに交わした会話だ。何もかも、全てを話して聞かせてほしかったから、かえって何を尋ねればいいのかわからずに戸惑ってしまう。頭に浮かぶのは当たり障りのない質問ばかりで、私は観念してそういう話から始めることにした。
「宗一も……こっちの学校通うの?」
口にしてから、宗一と本人に呼びかけていることを意識してしまう。何年ぶりだろう。まるで知らない男の子を呼んでいるような気もする。
宗一はうん、と小さく小さく呟いてからこちらを見た。声が出ることを確かめているような仕草だった。
「一佳と同じ」
「すぐそばにあるから、朝ゆっくりできるよ」
「いいね。俺が通ってた学校はちょっと距離があって、毎朝バスで行ってたんだ」
「誰か友達と行ってた? それともひとりだった?」
「途中のバス停からいつも友達が乗り込んできてた」
「……その子にはお別れを言ってきた?」
「うん。餞別とか言って漫画を全巻くれたし、双子の姉がいるって教えたらうらやましがってた」
「どうして?」
「そいつ一人っ子なんだ」
「そっか。宗一さみしいね、友達と別れてひとりで知らない土地に来て」
「そうだね。でも大丈夫だよ。連絡はいつでも取れるし、俺ずっと一佳に会いたかった」
「……うん」
「ずっとだよ」
私もだよ。その一言が、今にも泣いてしまいそうで言えなかった。
独り言のトーンで交わされた言葉の数々は、そのどこか淡白な響きとは裏腹に十年分のあらゆる思いと受容を含んでいたと思う。
私は本棚に小説と漫画とCDを並べ、宗一はクローゼットに冬用のコートと制服をかけて、その下に適当に服や靴下を並べた。
生活は遠慮がちに進んだ。少しずつ少しずつ、探るのではなく労わるように話をして触れ合う毎日。
けれど私はまだ宗一がママとどういう日々を営んできたのか聞くことができなかった。
ママの死は交通事故によるものだけど、葬儀のときに感じた親族たちのしかめられた顔やひそめられた声のどこか薄ら寒くなるような空気が、決してママを悼んでいるだけではないと察していたからだ。耳に届く断片的な言葉のかけらからは、たしかに鈍い悪意のようなものが感じられた。
そのことに私は焼け付くほどの怒りを覚えたけれど、同時にうっすらとママはきっと良い人間ではなかったのだと思ってもいた。そのやりきれなさは宗一のくたびれたシャツや、無頓着な髪型から受ける印象によって補強されたし、宗一の引越し荷物を見たときにとうとう確信へと変わった。彼の荷物は寂しさを感じるくらい少なく、そこから取り出される物はどれも使い古されていて、十代の男の子の持ち物がたったこれだけだなんて私の価値観ではとてもじゃないけれど信じられなかった。
私が多忙な父のもとでそれでも不自由なく生活している間、宗一はどんな時間を過ごしたのだろう。何よりも聞きたいことのはずなのに、簡単にはくちに出せなくて、私たちは一定の距離から近づけずにいた。
低い塀を目の前に、乗り越える勇気が出ずに辺りをうろうろしているだけの日々がしばらく続いた。
宗一の転校手続きが済むまで、彼はぼんやりと家の中で過ごしていた。朝は私と同じように起きて、パパと三人で朝ご飯を食べる。それからパパと私を見送って、あとはひとりで勉強をしたり、私が貸した漫画や本を読んだり、スマホのパンフレットを眺めたりしている、と穏やかに話す。
どことなくつかみ所のない宗一に、私はもどかしさを覚えていたけれど、最後の一歩がどうしても踏み出せないままでいた。伸ばそうとした手をいつも途中で引っ込めてしまう。
けれど宗一のほうは何にも頓着しないみたいに、私の手が伸ばされようと伸ばされまいとどちらでもいいのだというように静かに目を伏せていた。ただ私の行く場所にはどこにでもついて行きたがって、そのことが唯一私に対する宗一の執着を感じさせる態度だった。その執着を感じると私はひどく安心して満たされた気持ちになるので、特に意味もないのに必要以上に家の中や近所のコンビニやスーパー、本屋などをうろちょろとした。雛鳥を連れて歩く親鳥はこんな気持ちなのだろうか。
あるとき、学校から帰るのがいつもより遅くなった日があった。放課後、授業で使う資料作りを先生に頼まれたせいだ。
友達数人と手分けをして机に大量のプリントを並べ、一枚ずつ重ねては右上の角をホチキスで留める。それだけの作業ではあったけれど、おしゃべりしながらやっていたせいかずいぶんと時間がかかった。全て終わったとき、時計の針は五時に近かった。傾き始めた太陽の眩しい光が廊下に白く落ちている。
アスファルトから熱気がのぼる暑い夏の夕方だった。額を流れる汗を拭いながら、いつものように家路につく。
自宅マンションが見えてきた頃、私は異変に気が付いた。誰かがマンションの玄関から飛び出してきて、迷いなくこちらに向かって走ってくるのだ。一瞬ぎょっとしたけれど、すぐにそれが宗一であることがわかってほっとする。でもどうしたのだろう、何かあったのだろうか――ママの死からさほど時の経っていないこともあって、嫌な予感に胸がつまる。
「どうしたの……」
今にも泣き出しそうな必死な顔で駆けてきた宗一は、私の言葉を遮る勢いでそのまま抱き付いてきた。まるであの日の再来のようだ。涙の熱こそ感じなかったものの、ぎゅうぎゅうと締め付けてくる力はあの時と変わらない。
「宗一……何かあったの?」
恐る恐る彼の背を撫でながら訊ねる。まさか父に何かあったんじゃないかという恐怖で心臓がざわざわとした。けれど宗一はゆっくりと私から離れて「違うんだ」そう呟いた。
「なに?」
「ごめん、違うんだ……でも、一佳が帰ってこなくて俺……」
私の腕に触れている宗一の手が震えていて、はっとする。
私の帰りが遅いから宗一は怖くなったのだ。私が父に何かあったのではと恐ろしくなったように、宗一も私に何かあったのではとひとり部屋の中で不安に思っていたに違いない。
痛みを堪えるような宗一の表情は儚く弱々しく、私はその姿に幼い頃の彼を見た。再会してから初めて、宗一という人間の本質に触れた気がした。つかみ所のなかった宗一をやっとつかまえたという確かな手ごたえ。
心が震えた。宗一が帰ってきた。私の手の中に帰ってきたのだ。いとおしいと思った。それは母性にも似ていたかもしれない。私が守ってあげなければ、という歓喜にも似た感情が激流のように身の内を走る。これからは私が宗一を守ってあげよう。そうしなきゃいけないんだ。宗一を取り戻すという人生の目的が叶った今、それが新たな目的になった。目の前の宗一が私にはすでに、別れた当時の五才の子供に見えていた。
家に戻ってからも、宗一はひどく怯えていた。私が無事であることを確認したのにまだ安心できないのか、ほとんど縋りつくようにして触れてくる。
私はふと何か思い違いをしているかもしれない、と思った。宗一はママの死と私を重ねたわけではないのではないか。もっと別の恐怖を感じているのではないか。
私は着替えも出来ないまま、ベッドに腰を下ろした。宗一は隣に座るなりすぐにその膝に顔を埋め、腰に両腕を絡ませてくる。もう今朝までの一歩分の距離の遠慮はどこにもなくなっていて、まるで母親に泣きつく小さな子供のようだ。胸の中が軋む。切ないまでのいとおしさで私は彼の髪を撫でた。私は薄々、これはママとの生活に起因しているのだと気付いていた。今ならば聞ける。宗一がどんな思いをしてきたのか。ママは一体どんな人だったのか。どんな生活を送ってきたのか。
「ママはどんな人だったの?」
夕焼けの滲む部屋は遠い海のような音を含んで沈んでいた。囁くように聞くと、膝の上の宗一は少し顔を動かしてから静かに答えた。
「……母さんは明るい人だったよ、奔放で、元気で……でもきっとまともな人ではなかった」
宗一はゆっくり起き上がると、私の手を取って深く俯いた。手を強く握り返す。そうしていないと、何故か宗一がいなくなってしまうのではないかと不安で仕方なかった。
「一佳は母さんといつまで会っていた?」
「離婚してから二年くらい。パパが連絡を仲介してくれてたけど、そのくらいから何も言ってこなくなったから」
「うん……一応言っておくけど、父さんが連絡を止めてたわけじゃないよ。母さんはその頃から家を空けてることが多くて。忙しかったんだ」
「どうして?」
「恋人が出来たんだよ。俺も何度か会ったことがあるけど」
「恋人……?」
たしかに、いてもおかしくなかった。だってママは離婚して独身だったわけだし、そもそも離婚の原因が父以外の誰かと付き合っていたからなのだ。だから何も驚くことはなかったけれど、ただそれだけの理由でママが私と会わなくなったのかと思うと言葉が出なかった。じわじわと不安が心臓に絡みついてくる。
「仕事もしてたしさ。昼間は仕事、夜は恋人と会っていて家にいなかった。その間俺はひとりで母さんの帰りを待ってた」
「それって……七歳くらいのときだよね」
「そうだよ。誰もいない静かな部屋でさ、七歳の子供が毎日ひとりで飯食ってひとりで眠るんだ。よく児童相談所の人間が来なかったと思うよ」
自嘲する響きの声が震えている。
ざわめく胸の内を吐き出すように私は聞いた。ママはその人と結婚したの? だからそれからずっと私に連絡がなかったの? 宗一は、いつまでひとりだったの?
俯いたままの宗一の顔が見えない。
「母さんは一度も再婚しなかったよ。でも恋人は何度か変わった。何人目かの男はよく家に来て、俺をかわいがってくれたけど、母さんとド派手な喧嘩をしてそれっきり。俺は母さんに恋人がいないわずかな時期以外は、ずっとひとりでその帰りを待ってた。思うにさ、母さんは俺も一佳も愛してたけど、大事ではなかったんだよ」
「どういう意味……?」
「そのままだよ。家にあまりいなかっただけで、俺にはちゃんと優しかった。一佳も覚えてるだろ、離婚する前のこと。あんなに幸せな時間はなかった。母さんは俺たちを愛してた。でも自分自身より大事なものは、母さんにはなかったんじゃないか。だから平気で小さなガキを置き去りにした挙句、勝手に死んでしまう……」
「宗一」
私は掴まれた手をほどいて宗一の頭を抱きしめた。宗一は泣いていた。
ずっとずっとひとりだったのだ。小さく暗い部屋の中でひとり、愛する母親の帰りを待ち続けた。
怒りや悲しみ、憤りがごちゃまぜになって噴出してきてどうしようもなく、宗一をきつくかき抱く。背中に両腕が回されて痛いほど力が込められた。
なぜママは宗一を手元に置いたのだろう。いらなくなったのならどうして私のもとに返してくれなかったの。
そして宗一は、まだその小さく暗い部屋にひとり取り残されているのだ。出られないでいる。これはママの呪いだ。ママは死んでからも宗一を手放そうとしない。
「俺はずっとあの部屋の中で一佳のことを考えてた。母さんはいない、いつ帰ってくるのかわからない、もしかしたらこのままもう二度と帰ってこないかもしれない。怖くて怖くて仕方ないときも、俺には一佳がいると思った。きっとまたいつか一緒に暮らせるようになって、俺はもうひとりじゃなくなるんだ。今この瞬間も一佳がどこかにいて、きっと俺のことを考えてるはずだって」
蹲って泣きじゃくる子供の宗一が私には見えていた。今まで感じたことのない激情が渦巻いて、何もわからなくなる。きつく目をつむる。怒りなのか憎しみなのか、愛なのか憐憫なのかもわからない。ただただ私は宗一を守りたかった。この十年という年月から、ママの呪いから。ひとりぼっちの子供を救い出したかったのだ。
宗一はきっと、私とパパを見送ってひとりになるのが恐ろしかったに違いない。私の帰りの遅いことがどれほど宗一を苦しめたのか、私にはたぶん想像がつかないことだ。
「ごめん、ごめんね宗一」
「……一佳がもう帰ってこなかったらどうしようかと思った……」
「帰ってくるよ。どこにいたって絶対に帰る。宗一をひとりにしないし、見捨てたりなんかしない。私だってずっと宗一に会いたかった。そのことだけ考えてた。今頃どこにいて何してるんだろうって、宛先も知らないのに手紙も書いたしメールも打ったよ」
頬を伝う涙が熱い。
悲しくて悲しくてどうしようもなかったけれど、私は確かに幸せを感じてもいた。求め続けた宗一は傷だらけだったけれど、ここに、私の腕の中に間違いなく帰ってきた。私は宗一を救える。守れる。ママの呪いを解いてあげることができるはずだ。だって私たちは求め合っているのだから。これほどまでに、お互いが必要なのだから。
ひとしきり泣いたあと、宗一はそっと身を離した。泣き濡れた目は赤く腫れぼったい。
「ごめん、制服汚した……」
鎖骨と胸元の間辺りに軽く触れられて、見下ろすとシャツがずいぶんと濡れて色が変わっていた。宗一の泣いた跡だ。
「いいよ。洗えばいいだけだし」
「うん」
けれど宗一は濡れた部分を撫でるのをやめなかった。まだ何か言いたいことがあるようで、ぼんやりと言葉を探している。私は治まりきらない激情を持て余しながら彼の言葉を待った。彼の指先、それから中途半端に長い髪を眺める。
「あのさ、一佳」
「なに?」
「俺、一佳が好きだよ。もうずっと一緒にいられると思って、いいんだよね?」
「うん……うん、ずっと一緒だよ。宗一はもうひとりにはならないよ」
「よかった……俺には一佳がいるから平気だってずっと思ってたんだ。きっといつかこうして一緒にいてくれるって」
「大丈夫だよ、もう大丈夫」
私は宗一の濡れた頬を指で拭って、張り付く前髪をよける。するとその手を抑えるように掴まれた。同時に、視線をそらしたまま「ねえ」と硬い声で宗一はくちを開く。
「……ねえ、キスしてもいい」
努めて作られた平坦な声音。けれどそう問われても、私はどうしてかあまり驚かなかった。すでに宗一の愛情を知っていたからかもしれない。宗一は疑いようもなく私が好きなのだと、私が宗一を求め続けたのと同じくらいか、それよりももっと強く必要としているのだと理屈ではなく理解してしまったから。
「……いいよ」
躊躇いはなかった。この行為が何を意味するのかわからなかったわけではないのに。
私が答えると、宗一は伺うような上目遣いで視線を寄越したあと、躊躇わずに顔を寄せてきた。加減がわからず、まっすぐ近づいてきたくちびるがほんのわずかに触れるだけのキスだった。心臓が高鳴り、閉じたまぶたが震える。
宗一の離れていく気配に目を開ける。さっき掴まれた手はそのままで、高ぶる熱が伝わってくる。
次は言葉はなかった。何も言わずともお互いの目が雄弁にものを語っていた。宗一の目の奥では何かほの暗い、ひどく熱い飢えや苦しみのようなものが揺れている。
私たちはひとつひとつくちびるを重ねるたび遠慮をなくしていった。
押し付けられ、くちびるを軽く食み、離れていく。その繰り返しの中で、頭の芯がぼうっとしていく。冷房は効いているのにひどく暑い気がした。
身を乗り出してきた宗一にすっかり押し倒されたのは、夕焼けの残り火が天井を這う頃だ。明るさを失いつつある室内で、私は仰向けに宗一を見上げながらさすがに戸惑いを隠せなかった。こういう体勢になったからには、これから何が起こるかは明白だ。けれどあまりにも唐突だった。今朝までどころか、さっき帰宅するまではこんな展開を予想すらしていなかったのに。心の準備もなにもない。
宗一は私の戸惑いを受け取りながら、懇願するような目をしていた。愛情を失った子供の目だ。捨てられてひとりぼっちの子犬の目。見捨てないでほしいと全身で訴えかけている。見捨てないでほしい、受け入れてほしい、ひとりにしないでほしい。声もないまま切実に訴える宗一を、ずるいと思った。そう言われて私が宗一を振り払えるはずがない。血の繋がりからではなく、初めてだという理由から来る恐怖や緊張を、私は諦めて受け入れることにした。
私たちの間にある愛情は、恋と言い換えられるのだろうか。ふと思う。これが血の繋がりのある人間同士がする行為ではないことはきちんと知っている。ではなぜ宗一はそういう意味で私に触れようとしているのだろう。なぜ私はそれを受け入れているのだろう。
けれど宗一を救えるのは私しかいなかった。だから何でも差し出せると思った。なんだって、ひとつ残らず。唇だろうと体だろうと、重ねれば宗一を救い守れるのなら惜しむことなど何もない。ママの代わりに私がたくさん与えるのだ。愛を、時間を、安らぎを。ママが私を捨て宗一を捨て失われた愛情は、きっとここに生まれるだろう。
恐ろしくはなかった。禁忌を犯している自覚はあったけれど、欠け落ちた心と愛を築き上げている自覚がそれを取るに足らないものとしていた。男女の恋と愛の行く末がセックスであるという知識で私たちはその果てへ行こうとしたのだ。恋や愛の果てまでたどり着けば、私たちはもうきっとあんなに寂しい思いをしなくて済むはずだから。
こうして私と弟の宗一は、運命のように強い流れで正しく道を踏み外した。
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