永遠にいないママさようなら、第八話
突然の申し出に驚いていたパパも、結局休みの日に車を出してくれた。
ママのお墓は、ママの実家から一時間ほどの距離にある。実家までは車で二時間だ。それほどの時間の運転がどのくらい疲れるものなのか私にはわからないけれど、パパが子供のわがままを許す苦笑をしたとき、胸がちくりとしたものだ。やっぱり私と宗一のふたりで、電車で行けばよかったかなと思ったけれど、ママのお墓参りに行くのにパパを置いていくのは、子供っぽい言い方になるけれど仲間はずれのようで嫌だった。
私たちの町を出て高速道路に乗る。途中パーキングエリアで休憩をして、お菓子や飲み物を買ってもらって、それを分け合ったり奪い合ったりする私たちを見て微笑むパパに気がついたとき、私は今まであまりにもパパがいて当然の存在だと思いすぎていたのではないかと思った。ママの喪失の存在感があまりに大きくて、ここにいるパパが小さくなっていたのではないかと。
ものの見え方が少し変わったのかもしれない。今まで宗一しか見ていなかったけれど、藤間先輩を見ることで、加野先輩と亮たんを見ることで、そして加野さんを見ることで私の視界は少しだけ広がった。良いこと、なのだろう。この胸の痛みさえ無視できれば。まるで宗一を椅子から追い落とすような気分でさえなければ。
高速道路を下りて、郊外から田舎道へと車は進んでいく。もうママのお墓はすぐだ。
今までもママのお墓には何度か訪れている。けれど今日は心持ちがそれまでと全く違う。今まではお盆におじいちゃんやおばあちゃんに会いに来て、ついでに親戚もいてわいわいと訪れる場所だった。ママに会いに来るというより、親戚の集まりに顔を出しに来た感じのほうが強くて、たぶんママの死と向き合うことをしていない。今日は違う。私はママの死を、永遠の不在を思い知りに来たのだから。
広がる畑と濃く連なる山々。車内の空気ですら濃いような圧倒されるほどの自然の中でママは眠っている。
車がゆっくりと減速して、小さな駐車場に止まる。コンクリートはひび割れてそこから雑草がのびのびと生えている。周囲も背丈ほどの草や花がこれでもかと生えていて小さな森のようだった。
山の麓の小さな霊園。駐車場の向かいにある小さな事務所でバケツと柄杓を借り、水を汲む。意外にも霊園は無人ではなく、ちらほらと人の姿が見えた。少し早いお盆なのだろうか。それとも私たちのように気まぐれなのか。
ママのお墓には他にもママの家系の人たちが眠っている。会ったことのない曽祖父。その弟などなど。
私たちは無言でお墓に水をかけ、タオルでごしごし吹いた。私はいまだ、ここにママが眠っていることの実感を得られないでいる。だってただの石だ。石が積んであって、そこにママの旧姓が掘ってあって、誰々が埋葬されていると記された石版が立っているだけ。石灯籠に蜘蛛の巣が張っているのを、パパが汚れたタオルでさっと払った。
近々誰かが来たということはないらしく、花もお供え物もない石の上に仏花を差し、ママが好きだったというピンクの薔薇を二輪だけ足した。あとはおまんじゅうだとか果物、お菓子、ペットボトルのお茶。いろんなものを供えてロウソクに火をつけて、線香も立てる。独特の香りが漂って、私たちは無言のまま手を合わせた。
ゆっくりとママに語りかけてみる。ママ。そこにいるの? ゆっくり眠れている? どうして宗一を手放さなかったの?
当然、答えはない。ママがそこにいる実感もない。
「ねえパパ、本当にママここにいるの?」
「ああ、お骨があるよ」
「見れないかな」
「ん!?」
飲んでいたコーヒーを吹き出しかねない顔でパパは目を見開いた。
「見れないかって、骨をか?」
「うん」
骨をか……? と繰り返し困惑しきりで顎を撫でるパパ。宗一も意図が理解できないといった表情で、けれど静観を貫いている。
「どうして見たいんだ?」
しばらく唸っていたパパがきちんと私に向き直って真剣に言った。なんだかしばらくぶりにパパの顔を見た気がして、私の心は自然と誠実になっていった。話をしなければいけないんだ。誰とだって、きっと。
「あのね、私いまだにママが死んだってよくわかってないの。お葬式だって私にとっては宗一に再会したことのほうが大きくて、誰が引き取るかとかそんな話し合いばかり印象にあって、ママの葬儀って気がしないの。ママって本当に死んだのかなって最近になって疑問に思うようになった。だって私の中にも宗一の中にもママはいるんだもん。すごく大きな存在なんだもん。私はきっとね、ママが死んだ、もういないってことをちゃんと心でわからないとだめなんだと思う。こうやってお墓に来てみても全然実感わかないの。だから骨を見たらさすがに生きてないって、死んでるってわかるんじゃないかなって思って。だめかな、まずいかな」
「いや、だめってことはないと思うが……ともかく一佳の気持ちはわかったよ。そうかあ、パパたちはおまえたちにずいぶん残酷なことをしてきたからなあ……」
パパは最後途方に暮れたように口にして、両手で顔をこすった。何かの虫がひっきりなしに鳴いていてパパの何らかの感情を慰撫しているようにも思えた。
風が吹く。さあ、と周辺の高い草が揺れていく。目に見えない波のように風は草を順番になめらかに倒しては音を鳴らす。
その音が止んだとき。パパがひとつ短く息をついた。
「よし。お骨、見せてやる」
「いいの!?」
「内緒だぞ。おじいちゃんおばあちゃんに絶対言うなよ」
ママの実家の祖父母のことだ。確かにこんなこと頼めないふたりだ。
「ありがとう、パパ」
「とりあえずママ以外の人たちに謝っとけ」
私は慌てて手を合わせて顔も知らない親族の方々に眠りを覚ますようなことをしてごめんなさいと真剣に謝罪した。
パパはお供え物もお花も線香もお水も全てよけて、その下の石をふん、と力を入れて手をかけた。気にしたこともなかったが、確かにその部分だけ両端に切れ目が入っていて取れそうな感じがする。この中にお骨が収められているのか――私は急に緊張してくるのを感じた。どのくらい重いのかはわからないが、慌てて宗一も手伝いに加わっている。
避けられた石の下、お墓の地下とでも言うべき場所に、いくつもの骨壷が並んでいた。その中でも飛び抜けて新しい、真白くてつるつるとした骨壷が手前にある。これがきっとママ――そう思っているうちにパパがそれを取り出す。
「ほら、これだ」
すべすべとした小さなつぼ。柔らかい白さはどこかママを連想させてどきりとする。撫でてみたところでとても冷たい。本当にこれがママなのだろうか?
ごくりと息を呑みこんでから、そっと蓋に手をかける。開けた瞬間、ママが逃げていってしまうような気がしてならなかったから。パパと宗一も息を止めるような緊張感が漂っている。もしかしたりふたりとも同じようなことを思っているのかもしれない。
ゆっくりと蓋を開けた。
つぼの中には少し黄色がかった濁った白い骨がつまっていた。ただ、それだけだった。
「これ、ママ?」
「そうだよ。葬式の記憶はほとんどないのか」
「あんまりない。でもママが焼却炉に入っていくのはよく覚えてる」
そっか、それでこんなふうになったのか。
ぽつりと呟いた言葉は、風がさらっていった。
しばらく三人で黙ってお骨を見つめていたけれど、パパが終わりと言うように軽く手を叩いた。
「ほら、満足したか? もうママを戻してやろう」
「待って、もうちょっと待って、ママと宗一と三人で話したいことがあるんだ。悪いんだけどパパ、席をはずしてもらっても……」
いいかな、と言外に娘必殺上目遣いで伝えると、パパは寂しげな表情をした。
「パパには内緒の話か」
「うん、内緒」
「なんでだよー、さびしいよパパは……」
そう言いながらも缶コーヒーを飲み干して、パパは立ち上がった。
「車にいるから話が終わったら呼べ」
「うん、ごめんね、ありがとう」
軽く手をあげて立ち去っていくパパ。だから宗一とふたりで来ようかとも思ったのだけれど、行き先を告げずに来るにはここは遠すぎるし、告げてパパを置いていくのは今以上に仲間はずれみたいなのでかわいそうで出来なかった。
ただちょっと、少しだけ話をしたいだけなのだ。ママにも聞いてほしいだけなのだ。私と宗一の愛のことを。私たち家族の愛のことを。
「話って何?」
訝しんでいるような、心配しているような微妙な顔をした宗一が骨壷と私、そして去っていくパパの背中を見比べている。
また風が吹いていく。ざあ。一気に草花をなぎ倒す。ざあ。ずっと聞いていたくなる音の中、私は鼻の奥がつんとして喉がしまる感覚に苦しんでいた。泣いてしまいそうだった。
呪いはママのものじゃない。私と宗一のものだ。きっかけはママだったとしても、今こここで私たちを縛るものは間違いなく自縄自縛の自家製のものだった。それがわかってしまったのだ。抱き合ったって、私は宗一を裏切ったのだから。思い知ってしまったのだから。そして一度くしゃくしゃになった紙は二度ともとには戻らないように、私たちもどこにも帰れない。
「あのね、宗一」
「うん?」
「もうやめよう」
「……何を?」
骨壷を撫でる。ママが笑っている。小さな私たちを迎え入れるため。でもそれは思い出の中にしかなくて、二度と再現されない光景。
「もうエッチするの、やめよう。わかるでしょう、そんなことしたって私は宗一を裏切ったよ」
「でも戻ってきた」
「そういうことじゃないんだよ。それは宗一が私を縛るために許したにすぎない。私たちはママの呪いを解きあってるんじゃなくて、呪いあっているんだよ。縛り合ってるんだよ。どこにも、行けないんだよ……」
宗一は何も言わなかった。お墓の縁に座ったまま、まるでさっきのパパみたいに両手で顔を覆う。
「宗一、わかって……」
「……そんなに一佳は俺から離れたいんだ。本当はまだ藤間先輩が好きなんじゃないの。俺を見捨てないって言ったのに。絶対に見捨てないって言ったのに」
地の底から助けを叫ぶ子供の声。これを聞くと私の胸は痛いほど締め付けられる。宗一を抱きしめたくなる。見捨てないと叫びたくなる。でも違う、そういうことじゃないんだ、セックスしなくたって私は宗一を見捨てたりしない。しないことが見捨てることじゃない。それをわかってほしい。
「ねえお願い宗一、聞いて。私は宗一を見捨てないよ。でもそれはエッチしないことと違うんだよ」
「………」
「宗一は私を失わないよ。もちろん私も宗一を失わない。見捨てない。何回死んで何回生まれ変わって、いつの時代、どんなところにいても絶対絶対宗一の家族になる。絶対に。それは今みたいに双子かもしれないし、ただのきょうだいかもしれない。夫婦かもしれない、親子かもしれない。とにかく必ず絶対私は宗一の家族に生まれる。何度だって絶対。だから……もう、やめようよ?」
頬が熱かった。山を渡り冷えた風が熱を持った頬を撫で、髪を撫でた。みっともなく鼻水までたらして、私は壊れた水道みたいに泣いているのだった。
宗一も先程と同じ顔を覆ったまま、けれど肩を震わせていた。きっと泣いている。抱きしめたかった。でもきっとここが我慢のしどころなのだと思う。私と宗一がもう呪いあったりしないために。
私はママの骨壷に向かっても語りかけた。
「ママのばか。どうして、どうして宗一を置いて死んだの。見捨てるくらいなら私のところに早く返してくれればよかったのに。離婚してからもちゃんと、ときどきでいいから、会わせてくれれば、よかったのに」
後半はもう言葉にならなくて、なんとかして言ってやると根性で絞り出している状態だった。
私たちの育った環境は決して不幸のどん底ではなかったはずだ。けれど幸福とも言い難いものだった。何をどんなに後悔しても、やり直せても、私と宗一は抱き合う。必ず。けれど最終的にここへ来れたのなら、最低と言わずに済むのではないだろうか。
わからない、未来のことは。けれど何度生まれ変わったって宗一の家族になる私の決心は変わらない。絶対に、絶対に、今度こそは間違った道しかない人生なんかじゃない、明るい希望に満ちた場所へ向かえる家族に生まれる。それだけは誓う。
「宗一も、なにか言いたいこと、ないの」
しゃくりあげながら聞くと、宗一はゆっくりと顔をあげた。やっぱりその顔はぐしゃぐしゃに濡れて赤く染まっていた。
「……一佳の裏切り者。ばか、ばか。絶対見捨てないって言ったのに、浮気しやがって。本当は許してなんかないからな。俺を置いてどこかへ行ったりして。ばかじゃないのか。母さんもばかだ。俺を放置して男にばっかりかまけて、じゃあなんで俺を引き取ったんだよ。そんなに男が好きなら俺を一佳と一緒にしておいてくれればよかったんだ。そのうえ勝手に死にやがって。俺を置いて。まただ。いつもいつも俺を置いていく……なんでだよ。ばか、ふたりともばかだ」
「ごめんね……愛してるよ、それはいつだって変わりないよ」
「………」
「ママのことも愛してる。許してないけど愛してるよ」
「……わかってる。全部わかってる。一佳も母さんも俺を愛してること。変な母さんだったけど俺は愛されてた。俺も同じ、許してないけど愛してる……」
宗一が膝をついて骨壷を抱いた。覆いかぶさるようにして泣き続ける。
風が草花を揺らしてゆく音と虫たちの鳴き声、そして私たちの涙。ママの声はどこにもない。記憶の中で笑ってばかりだ。一佳! 宗一! おかえり! 両腕を広げたママが私たちを抱きしめる。
ママは、死んだ。永遠にここにいない。
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