今ここにあるものが全て、第九話


 屋上に吹く風はやっぱり自然の中とは全然違う。もっと埃っぽい、乱暴な感じだ。けれど私はそれも嫌いではなかった。

 黙々と無言でお弁当を食べる。今日は早起きをして自分と宗一とパパの分の大作お弁当を作った。かなり大変だったのでもうしばらくはしない予定だ。

 この重たい空気に耐えられないらしい亮たんが、そわそわとあぐらをかいた足を動かしていたがついに爆発した。

「おーい! なんなんだよこの空気は、この面子は!」

 集まった人々を見回して指を指していく。

 この面子。亮たん、加野先輩、私。藤間先輩、加野さん。

 今では尾びれがついてキャットファイトを起こした扱いの私と加野さんが任意で介しているのは異常なことだった。けれども後から来た藤間先輩が何の断りもなく加野さんをつれてきたのだから、私は何も悪くない。どう考えても藤間先輩と加野さんが悪い。だから私は亮たんの爆発を無視した。

「おまえがそんなに怒鳴ることないだろ、悪かったってば。唯ちゃんが屋上に来てみたいって言うし、ついでに沢木さんと仲直りできたらいいなと思ったから」

「てっめえの脳みそはお花畑かよ!」

 海外ドラマみたいな身振りの亮たんを止めるものは誰もいなかった。触らぬ神になんとやら、かもしれない。藤間先輩だけが苦笑をして後頭部を撫でている。加野さんは私がいると知っていたのかいないのか、ツンとしたままお弁当をつついている。

 いや、私がいると予想しないはずがない。それをわかっていて彼女はあえて来たのだ。目的がわからず気持ち悪い。私は座り直すふりをしながら、少しだけ輪から距離を取った。

 けれどもふと思い直す。これはチャンスではないか。場の大半が事情のわかっている人間で、キャットファイト(ではないけれど)当事者が揃っている。ずっと引っかかっていたきっかけの言葉。『あんたたち気持ち悪いのよ』そういえばどう気持ち悪いのか、それは周りにバレバレなのか問い質したいと思っていたのだ。今がこれ以上ないチャンスではないか。

 ただ、どう呼びかけていいかわからない。

「……ねえ、ちょっと、そこのあんた」

 ぎょっとした亮たんが口を挟みかけるが、藤間先輩と加野先輩に押さえられていた。加野さんは意外にも無視をせず、冷たい氷の視線を向けた。

「聞きたいことがあるんだけど、なんで私たちが気持ち悪いの?」

 氷の視線が、はあ? とでも言いたげに歪む。つくづく感じの悪い女だと思う。

「なんでって、高校生にもなって登下校まで一緒、あんな仲良くしてたら気持ち悪いと誰だって思うでしょ。むしろなんでわかんないのかこっちが聞きたい」

「私たちはただ仲が良いだけだよ。あんたの狭い常識の中だけで判断してほしくない。何も知らないくせに」

「別に知りたくもないし、気持ち悪いと思ったから気持ち悪いと言っただけのことでしょ。いつまで引きずってるわけ? 今のあんたのほうがよっぽどキモい」

 今の私のほうがよっぽど。

 その言葉はちょっとした衝撃だった。食い下がる私のほうが、と言えてしまうほどあれは軽い意味だったのか。私たちの本当の間柄が滲み出て、それをこの女が感じ取っていたわけではないのか。本当に? そうだとしたら私はなんて馬鹿なのだろう。売り言葉に買い言葉を真に受けただけのマヌケだ。私が唖然と口を開けていると、藤間先輩が加野さんを肘でちょいちょいと押している。

 考えてみればこの人はつい先日私を振った人で、なのに彼女をつれてやってくるなどとずいぶん太い神経をしているものだ。そのことに何も感じないわけではないけれど、私はもう大丈夫。

「ほら唯ちゃん、くちも感じも悪いよ」

「うるさいなあ、いいでしょ。キモいものはキモいの」

「藤間先輩、私が嫌いなんですか?」

 なぜ加野さんをわざわざ連れてきたのかわからない。わからないと通り越して嫌がらせかと思うほどだ。

「きっ、嫌いじゃないよ! そんなつもりで唯ちゃんと来たわけじゃないんだよ、ほんとだよ」

「どんなつもりなんだよ、俺の胃のほうが先に溶けそうだわ」

 亮たんが胃を押さえてげんなりと崩折れている。食欲もわかないのか、いつも一瞬でなくなるパンも今日はひとつもくちをつけられていない。

「ほら、唯ちゃん」

「やめてよ、急かさないで」

 藤間先輩と加野さんはなんだかイチャイチャと言い合っているので、本当にこの人たちがなぜここにいるのかわからないが、私としては気になっていたことが聞けて解決したのでひとまずは良かった。あとはなんだか嫌な気分を無視してご飯を食べ切ることだけだ。

 そうしてあまり気分の良くない中ご飯を食べていると、藤間先輩の優しい声がした。

「ほら」

 もちろんそれは私にかけられたものではない。加野さんへのものだ。本当に一体何なんだとうんざりしていると、加野さんがそのお綺麗な顔を苦虫でも噛んだみたいに歪めて、なにか言いたさそうにしている。また罵られでもするのかと食事を中断し加野さんを見ていると、そっぽを向いたままの加野さんが小さく何かを呟いた。小さすぎて聞こえない。

「は? なに?」

「……だからっ、ごめんって言ってんの!」

「……ん?」

 今度は聞こえた。聞こえたけれど、意味を飲み込めなかった。なに、なに、と混乱していると、亮たんが突然すごい勢いで肩を組んでくる。飛びついてきたものだから痛い。

「ちょっと痛い、なに」

「ほらっ、唯ちゃんがごめんって言ってくれてんだぞ! おまえも謝れ! 喧嘩両成敗!!」

「……やっぱり? やっぱりあの人ごめんって言った?」

「言っただろ、おまえの耳どうなってんだよ! ほら早くしろ!」

 とにかく急かしてくるりょうりんはがくがくと組んだ肩を揺らしてくる。

 ごめん。謝られた。それは当然、あの日のことだろう。ひどい罵り合いをして、平手打ちをしあった。それを加野さんは謝っている。

 そのことが事実として浸透するのにずいぶん時間がかかった。ごめん。ごめん。それが馴染むと今度はこちらも焦り始めた。これはタイミングがずれるとまたこじれそうなやつだ。亮たんが急かすとおり、早ければ早いほうがいい。

 この瞬間ばかりは怒りも憎しみもプライドもなにもなくて、頭が真っ白になっていた。

「なによ、せっかく人が謝ってやってんのに返事もないの? 私は別に本当はあんたのことなんかどうでもいいんだから」

「いやっ、ごめん、マジごめん。そもそも手出したの私が先だし!」

 なんでこんなに謝っているのか自分でも頭の隅で疑問に思っていたけれど、ものを考える余裕もなく、とにもかくにも譲歩した加野さんに応えなきゃという焦りと使命感が私を動かしていた。

 加野さんはまたそっぽを向いて機嫌の悪そうにしていたけれど、明らかに先程までとは空気が違っていた。けれどそれ以上に空気が変わったのは藤間先輩と亮たんだ。亮たんは私の頭をぐしゃぐしゃに撫でて「やればできるじゃねえか! さすが! 偉い!」などと褒めまくり、藤間先輩は普段以上にニコニコと頬を染めて「これで仲直りだね、唯ちゃんも沢木さんもえらいよ、ちゃんと謝れて」と完全に子供扱いだ。今の今までノータッチだった加野先輩だけが「バカじゃねえの……」とぽつりと落とすようにこぼしたのを私は聞き逃さなかった。全くそのとおりと思ったけれど、少しだけすっきりしたのを確かに感じているのだった。

 

「そもそも藤間はふたりに謝らせるために唯ちゃん連れてきたわけ?」

 やっと食欲の戻ったらしい亮たんはくちにしているパンを藤間先輩に向けた。

「うん、まあ……沢木さんは良い人だから唯ちゃんさえ謝れればうまくいくと俺は思って」

「ちょっとひどい! 彼女よりあの女を褒めるの?」

「だって唯ちゃん、女子にはきついじゃん」

 言い返せなくなった加野さんが唸る。

「いつまでもキャットファイトがどうとか言わせときたくないでしょ。まあどうせそのうち消える噂だろうけど、仲直りすればこれ以上炎上しなくて済むかなと思ってさ。それに唯ちゃん、女子にきついから友達全然いないじゃん。沢木さんとなら意外と良い友達になれるじゃないかって」

「はあ!? 無理!!」

 私と加野さんの声がぴたりと重なった。目を合わせ、互いの顔が歪んでいるのを確認してさらに苦々しくなる。こんな女と友達なんて無理にきまっている。藤間先輩は何を考えているんだろう。変に図太いところもあれば、お花畑みたいなところもある。やっぱりちょっと変な人だ。好きだな、と思ったけれど、恋愛のような胸苦しい感情ではなかったことに我ながらひどく安心した。

 

 宗一と一緒に帰宅して、着替えてから宗一の部屋へ赴く。そしてクローゼットに入っている棚のひとつ、折り畳まれた綺麗な花柄のハンカチに向き合ってふたりで座った。今日はクッキーをひとつ、棚に置く。お供え物だ。

 実は、ハンカチの中には小さな骨がひとつ入っている。もちろんママのものだ。お墓参りにいったあの日、パパを呼ぶ前、骨壷からどこのものかもわからない小さな骨のかけらを失敬したのだった。それをこうしてママによく似合うハンカチを選んで買って、包んでいる。宗一の部屋にお供えしているのは、私の部屋よりずっと物が少なくて棚のひとつくらい余裕で空くからだった。そこを私と宗一とママのおしゃべりの場にしている。

「今日嫌いな女子に謝るはめになったんだよお、ママ。すごいしんどかったけど、なんかちょっとすっきりもした」

「え、加野さん?」

 クッキーをかじりながら宗一が目を見開く。

「うん、そう。お昼にさ、藤間先輩が加野さんつれてきて。加野さんがごめんって言うもんだから私も謝らざるを得ないじゃん? もうめっちゃくちゃだよ」

「でもよかったじゃん、いつまでもギスギスしてたらストレスになるよ。母さんは俺たちがけんかしてんの嫌ですぐなんとかしようとしてたもんな」

「そっかあ、ママはそうだよね。ねえママ、一佳偉かったと思う?」

「俺は思うよ。母さんも思うんじゃない?」

「そうかな。そっか。じゃあ、いいや」

 えへへ、と笑みが溢れる。

 私と宗一にはもう体の関係はない。ただ仲良く登下校したり、漫画を読んだり、授業中にこっそりメッセージを送って遊んだりしているだけだ。そしてちょくちょくこうしてママと一緒におしゃべりをする。

 もうどこにも行けないと思っていた。行き止まりにたどり着いてしまって、なのにその道は何度繰り返そうとも同じ結果を呼ぶ道だったのだ。どうしようもないと思った。一時期は死んでもいいと思ってさえいた。けれど、そこは終点ではなかったのだ。人生が続く限り、きっと終点はない。

 過ぎたこと、起こったことをなかったことにはできない。私と宗一はもしかしたらいつまでも囚人の鎖をつけて生きるのかもしれない。それでも、まだ何も終わってはいなかったというだけで前を向ける気がする。自家中毒の呪いもゆっくりと解けていっている。私と宗一はきっとどこにでもいるような仲の良い姉弟に戻っていける。

 私はママのハンカチにそっと手を重ねた。どこかでママが微笑んだ気がして、私はずっとずっと欲しかった愛を感じた。愛情の果てなんかない。今ここにある愛が全てだ。ねえ、ママ。そうでしょう?

 だって人生はこれからも続いていくんだから。


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わたしとあなたの果て 朔こまこ @komako-saku

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