深夜お散歩百合! 明けない夜に私達は歩き出す。覚めないようにと願いながら。

冬寂ましろ

☆★☆★☆



 扉を開けるときは、いつだってドキドキする。君だってそうでしょ? 開いたら夏の日差しが待ってるとか、おでかけ先でこれから起きる楽しいことを思いながら、扉を開くんだと思う。いまの私は、どっちかというと、寝ているお母さんに見つからないように、とか、音を立てて隣近所に迷惑にならないように、とか、そんなふうに怯えてた。それでも夜海よみさんが待っていると思ったら、こんな私だって少しだけドキドキしてたんだ。


 錆が浮くドアノブに手をかける。古いアパートの端がめくれているべニアの扉を、ゆっくりと慎重に開く。


 そこは夏の夜。広がる暗闇から雨が降っていた。


 ええ……。せっかくの散歩なのに、雨降ってるなんてがっかり。せっかく、まともな薄手のパーカーを引っ張り出してきたのに。

 でも、仕方がない。夜海さんといっしょに歩けるんだ。そっちのほうがずっと楽しい。

 私は気持ちを切り替えると、使い過ぎているビニール傘を手に取る。それからみんなが寝ていて見ることができない深夜1時の世界へと踏み出した。


 鉄の階段を音を立てないようにそっと降りる。アパートの角に植えられていた背の高いひまわりが、雨に打たれてうなだれている。それを白い街灯が感情なく照らしていた。私は静かに歩く。家々はみんな寝ている。三軒隣の元同級生がいる家も、やたら話しかけるおばちゃんがいる町工場も、みんな静かだ。私は少しだけ嬉しくなって、歩みを早める。踊り出したくなる。だって、誰も私を見ていないんだから。


 青いトタン壁の朽ちた倉庫がある角を曲がる。そこにいるはず……あ、いた。良かった。夜海さんは、傘を肩にかけながらスマホをいじっていた。青白い画面の明かりが、かけている黒縁メガネに反射している。

 今日も綺麗……。うっかり見惚れてしまう。胸にまでかかる星のない夜空のような黒髪、白いほっそりとした腕、白いTシャツと、ダメージデニムのかっこ良さ……。

 そんな夜海さんが、私は大好きだ。あんな場所で出会ってしまったけれど、こうして深夜の散歩を何度もしてもらえて、胸がぎゅっとなるほど嬉しくなる。

 私はまっすぐ見ることができないまま、夜海さんに声をかける。


 「遅れて、すみません……」


 夜海さんは私に気づくと、手を小さく振ってくれた。振られるその手に私は触れたい。


 「謝らなくていいよ。そんなに待ってないから。千代ちゃんのほうこそ、これからお散歩しても平気?」

 「はい……平気です」

 「そっか。ふふ、わかった」


 夜海さんが私に微笑んでくれる。それだけで私はふわりと宙に舞い上がる。私はますます夜海さんを見られなくなって、雨に濡れた黒いアスファルトをじっと見つめていた。


 「千代ちゃん、今日はどこ行く?」

 「……まだ、その。決めてなくて」

 「いいよ。じゃ、足に行先を決めてもらおう」


 顔を上げると、にししと夜海さんが笑っていた。


 「じゃ、行こっか。真夜中のお散歩へ」


 真っ暗な道の先を、夜海さんは小さく指差す。

 細い長い指。白くてきれいな手。

 繋ぎたい。

 この人と手を繋ぎたい。

 今日こそできたら……。私はそんな思いを秘めて前を向く。寂し気な街灯の灯りが、濡れる街を点々と照らしていた。それを道標にしながら、私達は同じ歩幅で歩き出した。



◇◆◇


 ヘッドライトが雨粒を照らして通り過ぎていく。深夜なのに車が騒がしい大通りをふたりで歩いていた。


 隣に夜海さんがいる。それだけで嬉しい。安心する。私はあふれる気持ちを我慢していた。そうしなきゃ、何か余計なことを喋ってしまいそうだった。

 傘に当たる楽しげな雨音が、そんな私を茶化しているように聞こえた。


 ふいに夜海さんが話しかけてきた。


 「最近どう?」

 「え……なんですか、それ」

 「だってさ、トークのネタがなくて。引きこもり同士って、何を話せばいいのかな?」

 「別に無理しなくても……」

 「ええーっ。もったいない。女子高生とまともに喋れるなんて、私の人生の中ではレア中のレアなんだよ」

 「元ですけどね」

 「そんなこと言ったら、私だって元だけど」


 なんとなくおかしくなって、私達は少し笑う。

 ……夜海さんの学生時代って、どんなんだったんだろう。


 「あ、ほら。川に出た」


 角を曲がったところで、夜海さんが傘を持ったまま指差す。その先には、コンクリートの薄板で隔たれた大きな川が見えた。川の上には高速道路が走り、圧迫されて狭苦しい。

 そばまで行くと、細い手すりをつかんで川のほうをのぞき込む。そこには黒くてどろりとしたものが流れていた。わずかな明かりがそのうねりを映している。

 離れたほうがいい……。不安に思った私はゆっくり手すりから手を放した。君だって、あんなものを見たら、そうすると思う。飛び込む自分を想像しちゃうから。


 「行くよ、千代ちゃん」

 「はい」

 「なんか見えた?」

 「いえ、何も……」


 夜海さんを不安にさせたくなかったから、私は思ったことを伝えなかった。


 私達は川沿いの道をゆっくり歩いていく。差した傘を肩にかけて、ふたりで並んで歩いていく。静まり返って誰一人出会わない。家々は扉を閉ざし、眠りについている。コンビニの白い明かりも寂しく見える。オレンジ色の暗い街灯だけが、私達の行先を示していた。


 「千代ちゃんは、怖くない?」

 「ちょっと怖い……けど、わくわくしてます」

 「私もそうかな。みんなが寝てる間に、いたずらしに回ってるみたい」

 「この世界で起きているのは、もう私達しかいないんです」

 「ふふ、詩人さんだね。きっと千代ちゃんは将来、作家さんに……」


 口に出してから気づいた夜海さんが、言葉を続けず、あいまいに笑った。私達に未来の話は禁句だった。


 「千代ちゃん、少し休もうっか」


 ああ、もう駅なんだ。高架下にある石川町の小さな駅は、狭い入口のシャッターを下ろし、「今日はもうおしまい。また明日」って、言ってるようだった。その入口は少し高い位置にあって、私の目の前には数段の階段がある。夜海さんは傘をたたむと、デニムのポケットからハンカチを取り出し、階段のところに置いてくれた。


 「ほら、座りなよ」


 私も傘をたたみ、階段の脇に傘を置く。夜海さんがすぐそばに座ると、心配そうに言う。


 「汗、垂れてる。平気?」

 「少し蒸し暑いから仕方ないです」

 「タオルとかある?」

 「ないですけど、これぐらいなら……」

 「もしかして部活、スポーツ系だった?」

 「……陸上やってました。走るのは好きでした」

 「どうりで。汗、かき慣れてる気がした」

 「そんなのあるんですか?」

 「私はずっと本を読んでたから。汗かくの苦手なんだ」


 夜海さんの高校時代の姿を思い浮かべる。文学少女という言葉で連想される絵が、次々と頭の中を駆け巡る。それは図書室で、放課後の教室で、木陰のベンチで……。

 もう見ることができない夜海さんの姿に嫉妬する。


 「夜海さん、モテました?」

 「ぜんぜん。コミ障だったし。友達もいなくて。ぼっち飯を極めたぐらいだよ」

 「コイバナでもします?」

 「え、言ったでしょ? それでもする?」

 「私も言いますから。友達から聞いてたのばっかりですけど」

 「楽しいことなんか、なかったら無理」

 「ですよね」

 「あ、なにそれ。ちょっとムッとする」

 「あはは」

 「恋はしたよ。でも、無理だったんだよね……」


 遠くを見る夜海さんを見ながら、私は急に冷えていく。

 私達には未来も過去もない。今しかない。


 後悔していた。聞かないほうが良かった。でも……、それでも聞いてみたかった。


 しばらく私達は座っていた。雨音だけが聞こえていた。遠くで車の走る音が混じっている。

 私の汗がぽたりと落ちたとき、夜海さんがお尻をはたきながら立ち上がった。


 「さて、と。千代ちゃんは、どうしたい?」

 「ええと……」

 「元町の商店街を歩くのもいいけど、お店は閉まってるからなんもないし……」


 帰りたくはなかった。夜海さんといっしょにいたい。でも、いまは夜海さんと話すことに自信がない。

 うつむいたままでいたら、夜海さんは明るい声で私にたずねた。


 「そういや、近くに神社があったよね。行ってみよっか?」



◇◆◇


 横浜元町の裏側を歩く。小ぶりになった雨が、幅の狭い石畳の道を濡らす。街灯がそれをきらきらと光らせている。古びた洋菓子屋さんに降りたブラインドを見ながら、ケーキやクッキーが並び、幸せがあふれているときのことをそっと想う。


 朱塗りの鳥居が見えてきた。導かれるように角を曲がる。小高い場所の上に小さな神社が建っていた。あの上に行かなくちゃいけない。灰色の石段が見えてきたとき、すぐそばに花火の残骸が落ちているのに気づいた。原色の紙が焦げて、わずかな水たまりに沈んでいる。


 「花火か……。もう夏休みなんだよね。千代ちゃんとこは?」

 「はい、たぶんもう……」

 「じゃ、千代ちゃんも夏休みだ」


 傘をくるりと回しながら、夜海さんが暗い石段を上がっていく。私はその後ろ姿を追いかけていく。


 「も、って。夜海さんは学生じゃないし」

 「私は人生の夏休み中だから」

 「え、ずるい」

 「ずるくないよ。大人の特権だし。千代ちゃんも、がんばって休みなよ」

 「休みなんか……」


 私に休みなんかない。心も体も休まらない。だから……。

 黒い影が私を蝕む。あの日の思いが蘇る。私はふと言葉を漏らしてしまう。


 「どうして私は生きなきゃいけないんですか……」


 怒りも焦りも純粋な想いも、みんなまぜこぜになった言葉だった。口に出して後悔はしたけれど、私はそれを止められなかった。


 前を向くと夜海さんは立ち止まって、私を見ながら寂しそうに笑っていた。


 「そうだね。そうだな……。いまはそんなことを考えないほうがいいんだよ、きっと」


 石段を上る。心の中がぐちゃぐちゃする。考えたくない。でも家に帰ったら考えてしまう……。


 いちばん上まで石段をのぼりきった。私を待ってた夜海さんが「ほら」と指差した。それに促されるように振り返る。

 ああ、ちょっとすごいかも。

 横浜の街並みが見えた。いろいろな色や形をした家が、神社に向かって嵐の海みたく押し寄せているようだった。でこぼことした波頭の縁を、信号や街灯、まだ夜更かししている家の灯りが、ぼんやりと照らしていた。

 夜海さんがぽつりと言う。


 「きれいだね。雨の日もなかなかなやるな」


 そうやって遠くを見つめる夜海さんのほうがきれいだった。触れたい。手を繋ぎたくなる……。そっと手を伸ばす。


 「千代ちゃん、平気?」


 あわてて手をパーカーのポケットに入れてごまかした。


 「はい……。まだ平気です」

 「眠くなったら帰るからね」

 「まだ、私は……。夜海さんこそ眠くならないんですか?」

 「やっぱり眠れなくてさ。薬を変えてもだめかな」

 「そう、ですか……」

 「なんかこう……なんだろう。寝ると怒られるような気がして。もう誰からも怒られないのにね」


 私は振り返る。真っ暗で輪郭がぼやっとしている神社の社殿がじわりと見えた。


 「夜海さんが眠れることを神様にお願いします。きっと届きます」

 「ふふ、そうだね。そうだといいな」


 私は小さく柏手を打つ。夜海さんが寝られますように、って神様にお願いした。それだけお願いをした。手を繋ぐのは自分で叶えたかったから。



◇◆◇


 真夜中の中華街は、ずっとにぎやかだ。極彩色のネオンサインがついているお店もいくつかあるし、道の上には中華なぼんぼりがおだやかに灯っている。

 しとやかな雨の中、傘を差した人とすれ違う。その目が気になる。私を怖がらせる。


 酔っ払いが軒先で寝ていた。ワイシャツがはだけたサラリーマンぽい男の人が、大きな中華屋さんのシャッターに寄りかかって、おだやかな表情で寝ていた。私はそれを複雑な思いで見つめていた。死んでしまうんじゃないか、暴れるんじゃないか、この人の家族だって……。


 夜海さんが酔っ払いを見つめながら言う。


 「なんか幸せそうだね」


 私はびっくりした。酔いつぶれた人をそんなふうに思えるだなんて。私は少しあわてて言う。


 「それって幸せ、じゃないと思います」

 「どうして?」

 「それは……。きっと苦しんでるから」

 「そっか。なら、どうしたら幸せになれるんだろうね」


 夜海さんが力なく笑う。幸せなんて……。私は焦燥感を感じて、頭の奥が痛くなる。私と夜海さんにとっては、それは……。


 「千代ちゃん、こっち行っていい?」


 夜海さんが見つめたほうには、人ひとりが通り抜けるのが精一杯な狭い路地があった。家の屋根が折り重なるように路地を覆っている。軒先にはたくさんの植木鉢から草木が伸びて、わずかな光でそこにいることを主張している。暗い路地の先には、ぼんやりとした明かりが見えた。


 私はうなずく。夜海さんが前を歩いていく。真っ暗な路地を探るように歩いていく。夜海さんが小さな声で言う。


 「なんか異世界に引きずり込まれそうだね」


 夜海さんをつかもうとしていた手をそっと下ろす。それから私は絞り出すように言う。


 「そのときは夜海さんの手をつかんで引き止めます」


 振り向かずに夜海さんが言う。


 「ふふ、そっか。そうなればいいね」


 暗い路地裏を私達は歩いていく。ちょっと怖い。夜海さんの後ろについていく。閉店してるのに、すごくいい匂いがする刀削麺のお店、人が住んでそうな普通の家、換気扇から油が垂れた店の裏を、静かに通り過ぎる。


 抜けた。

 少し広い道に出た。とたんにほっとする。

 そこは異世界ではなく、ぼんぼりがほのかに灯ったいつもの道だった。


 「あ、雨あがったね」


 夜海さんが空に手をかざす。もう濡れないことを確かめると、そっと傘を閉じた。


 「千代ちゃん。もう3時過ぎたけど、どうする?」

 「まだ……歩きたいです」

 「そっか。じゃ、ついでだから海を見ていこうよ」


 私を見ながら夜海さんが微笑む。それはどこか現実離れしていて、この世界には居場所がない笑顔だった。



◇◆◇


 風に潮の香りがしていた。静かな波の音がかすかに聞こえる。黒い夜の中に、ベイブリッジの連なる灯りや、遠くのビルたちの輝きが溶け込んでいた。

 たたんだ傘をぶらぶらとさせながら、私達は山下公園を歩いていた。かすかな灯りが照らす水たまりを飛び跳ね、薄闇に咲き誇る夏薔薇を見ながら、私達は歩いていく。大きな木のそばを過ぎたとき、夜海さんが明るく言った。


 「せっかくだから芝生の上に寝ようよ。ごろんとさ」

 「濡れますよ」

 「汗かいてビタビタだから、もうどうでもいいかなって」


 笑いながら夜海さんは芝生の上に寝転んだ。仰向けになると、左手でぱんぱんと隣の場所を叩く。私は仕方なしにそばに寝る。ほら、やっぱり背中が濡れる。冷たいし。あ、でも……、ちょっと気持ちいい。私も夜海さんといっしょで、どうでもよくなってしまったのかもしれない。


 雨上がりの雲がうっすらと夜空を動いている。輝きたくてうずうずしている星々を、ちらりと見せていた。


 そんな夜空をふたりでずっと眺めていた。

 何も話さず、じっとそうしていた。


 動いている雲を見つめているふり。

 何も考えないふり。

 知らないふり。


 夜海さんのそばにいたかったから、そういうふりをしていた。本当は手を握りたくて仕方がなかった。

 握ったら、この関係が変わってしまう。

 握らなかったら、この関係は終わってしまう。

 私はずっと怯えていた。


 いまの気持ちのように渦巻く夜空を見つめながら、夜海さんがぽつりと言う。


 「友達はいなかったけれど、恋人はいたんだよね……」


 手を握りたい。


 「その子、女の子なんだ」


 手を握りたい。握らないとだめだ。


 「結局別れるしかなくてさ。ふっきろうと思って東京へ出てきたのに、なんにもうまく行かなくて。私が悪いんだ、私ががんばらなきゃと思ったら、自分がダメになっちゃった」


 握らないと、夜海さんは……。


 「あの子を見返してやろうとか、私が立派になったらまた振り向いてもらえるんじゃないかとか、いろいろ思ってた。だから、がんばろうとしてたんだけどね。知ってた? 休職って私には罰なんだ。独房の中で反省しろ、って言われたみたいに思ったよ」


 あと少し。あとちょっと手を伸ばせば……。


 「なんか、なんかね……。死にたいというより、消えてなくなりたい、のかな……」


 勇気を出して、私! いまこの手をつかまなかったら、一生後悔するんだから!


 触れた。

 とても冷たい手。必死にたぐりよせる。とまどうように抵抗される。気にせず指を絡ませる。


 繋げた。

 手を繋げた。

 もう離さない。ずっと離さない。

 夜海さんを消えさせない。夜海さんを死なせはしない。

 私はこの手を引く。暗い夜道を抜け出すときのように。


 「千代ちゃん、話、聞いてた?」

 「聞いてました」

 「手を繋ごうとしなかったのは私だよ。ずっと千代ちゃんがそうしたかったの知ってたのに。だって私は女の子を好きになる女の人なんだから……」

 「わかってます。だからって、手を離さないでください」

 「それってさ……。いや……うーん。なんて返事すればいいのか、ちょっとむずかしいな」

 「返事なんかいいです。こうして夜中に散歩して、手を繋ぐことができたら、それでいいです。お願いです……。お願いなんです!」

 「じゃ、私も千代ちゃんを死なせない。それでいいの? それだと、つらくならない?」

 「そのときは私の手を引いてください。それだけでいいです」

 「そっか……。ふふ、わかった」


 それからずっと雨上がりの夜空をふたりで見つめていた。


 なんだか夜が惜しい。

 でも、もうすぐ朝を迎える。


 少しずつ空が色を取り戻す。淡い紫色が雲の向こうから染みだしていく。じわじわと色を塗り替え、水色から橙色へゆっくりと変わってく。

 きれいなスカーフのような色の空が私達の上に広がっていた。そんな正しい色の向こうに、星の光は霞んでしまい、月も隠れてしまった。


 「夜が明けたら、お散歩はおしまい」


 そう言うと夜海さんは体を起こした。私も同じようにした。手を繋いだまま、ふたりで朝焼けの向こうを見つめていた。


 私達は自殺幇助サイトで知り合った。

 初めて会ったあの日、練炭を目の前にして「逃げよっか」と夜海さんが言ってくれたら、私はこうして生きている。


 だから散歩を終えて、別れるときの挨拶はいつもこうだった。


 「また明日、ちゃんと生きて会おうね、千代ちゃん」

 「はい、夜海さんも」



◇◆◇


 音を立ててないようにしてアパートの扉をそっと開く。良かった。母はまだ起きていない。狭い玄関で靴を脱ぐ。部屋には、少し開いたカーテンから朝の光が一筋差し込んでいた。

 たくさんの空き缶。食い散らかした弁当のプラスチック。散乱しているゴミのなかで、トドのように寝ている母。

 光はそれを照らして、私に見たくないものを突きつける。


 空き缶を避けながら窓辺まで歩いていく。


 母は変わってしまった。お酒をたくさん飲んで、そして暴れ出す。今日は下の世話をしなくて済んだ。顔を殴られず助かった。そんなことだけが私の喜びになっていた。


 助けを求めた大人達からは「ご家族の愛がいちばんです」と笑顔を貰った。自分が関わりたくないときは、こんな顔になるんだと、私はなんだか少しウケてた。


 人に迷惑をかける母が嫌いだった。それを臭いものを見るようにしている大人たちも大嫌いだった。だって「なんでお母さんを助けないの? しっかりなさい」って、すぐに言うから。近くの同級生も、おばちゃんも、みんな……。誰も本当のことをわかってくれない。私を責め立ててばかりいる。そんな人たちが私は怖くなった。


 膝を抱えて、窓辺に座る。明るい太陽の光が私を照らす。

 でも、この光は私にはいらない。


 また夜はやってくる。私達の上から降りかかり、嫌なものから優しく隠してくれる。私はそれを心待ちにしていた。

 暴れる母におびえて寝られなくなり、高校にも行けなくなり、誰にも助けてもらえなくても、私にはそんな夜があった。


 抱えた膝に頬をつけながら、私は心の想いをそっと漏らす。


 「また明日……夜海さんに会えたらいいな……」



◇◆◇


 私と夜海さんはずっとこうしていた。あの頃の私達は、暗闇の中をずっと歩いていた。お互いの手を握り合い、お互いが闇の底へ落ちないようにしていた。手を離したら、それで終わりだと思っていた。


 夜海さんのことを君に聞かれたとき、うまく話せなかったから、こうして手紙にして書いてる。長いけど読んでくれたらいいなって思ってる。

 高校に行けなくなったのは私のせいだし、君のせいじゃないから。『また、いっしょに競技場のトラックで走りたい』って言ってくれたのは嬉しかったよ。でも、それはもうむずかしいかな。

 私には、母がどうとか、助けてくれない悔しさとかは、どうでもよかった。ただ、夜海さんの消えてしまいそうな手を繋いでいたかった。


 君は『普通じゃない。こんなところから抜け出さないとダメだ』って怒ってくれたけれど、でも、たぶん正しい君にはわからないんだ。わかってもらったら、きっと私の心が苦しくなる。こんな暗闇を君に教えてしまったことに、私は自分を許せなくなる。だから、どうかわからないままでいて欲しいな。わがままで、ごめんね。


 あれから、いろいろあったんだ。

 母が外で大暴れし、警察が病院へ母を連れていき、そのまま措置入院になったこと。

 頼れる大人がいなくて、夜海さんに電話してしまったこと。

 夜海さんがいろいろな手続きを終えたあと、「腹くくるか…」と私を連れて長野の実家に帰り、両親に土下座して私と暮らすことを認めてもらったこと。


 手を繋いだ日から、私と夜海さんは少しだけ強くなった。

 私は夜海さんのために、夜海さんは私のために、ちょっとだけ強くなった。

 そうできないのが、ふたりとも嫌だったから。


 いま暮らしている長野のほうは星空がきれいなんだ。冬は寒いけど、夏はとてもいいとこだよ。こないだの夜も、家の縁側で寝そべりながら、夜海さんとこんなことを話してた。


 「千代ちゃん、また空見てるの?」

 「こっちは星明かりが濃くて、見ていると不思議な感じがするんです」

 「ふふ、私にとっては、ここに千代ちゃんがいるのが不思議かな」

 「初めて手を繋いだ日の夜空も好きです。ずっと覚えてます」

 「……あのね。あの日、助かったのは私なんだから。思い出すと泣きたくなるし……。ああ、もう。ごめんね。私のほうが年上なのに」

 「泣いていいです。きっと天の川のベールを神様がかけて隠してくれます。それぐらいは気を利かしてくれます」

 「もう……。千代ちゃんはいつも詩人さんなんだから」

 「だから、たくさん泣きましょうよ。私達、こうして生きてるんですから」

 「そうだね……。うん……」


 満天の星空の下、私と夜海さんはそっと寄り添って生きている。生きていく方法をふたりで見つけられた。ふたりだから見つけられた。それは夜道の先にあるほんのりとした灯りなんだったと思う。

 もし、いまに疲れたら、遊びに来て欲しいな。君が暗闇へ落ちる前に、いっしょに夜を散歩できたらいいなって、ずっと思ってる。


<了>

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深夜お散歩百合! 明けない夜に私達は歩き出す。覚めないようにと願いながら。 冬寂ましろ @toujakumasiro

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