未明
六野みさお
第1話 未明
目を覚ますと、頭の上にぼんやりとした灯りがあった。
一瞬間を置いて、それからじわじわと昨晩の記憶がよみがえってきた。同室の中田が、完全に電気を消してしまうのは趣深くない―—とかいう微妙に興ざめな主張をしたため、僕たちは常夜灯をつけたまま寝ることになったのだった。
そのときの中田の少しつっけんどんな大声を思い出しつつ、僕は中田のほうを向いた。彼はちょうど僕のほうを向いたまま、ぐっすりと眠っていた。
暦の上では夏が始まっている今、僕の上にかかっている布団は僕に汗をかかせる。僕は思い切って布団から出て、中田の頭のすぐ後ろに立った。それでも中田は起きる様子がない。修学旅行の二日目を終えた高校二年生は、満ち足りた表情で胸を規則的に上下させていた。
僕はなるべく足音を立てないように歩いて、ホテル・ルームのドアを開けた。文芸部の僕としては、こんな夜には屋上で一句詠むに限る。なにしろ、今日のこの時間帯は晴れの予報で、そのうえこのホテルは夜景が美しいことで有名なのだ。僕は出発前に、ツイッターの投稿からここの屋上に目星をつけていて、今日はこの時間帯に起きられるようにイヤホンをつけて寝た。このイヤホンは僕のスマホと連携していて、起きる時間になると僕の耳の中だけでアラームを鳴らすのだ。技術は進歩したものだ。
夜の廊下は完全な無音で、いくら僕が忍び足で歩いても足音が響いてしまう。先生に見つかったら大変だけど、今はそんなことを考えるときではない。今は修学旅行の最中で、そして修学旅行には無限の可能性があるのだ。
もう一度ドアを開けて、僕はホテルの外階段を上がり始めた。一階上がるごとに二周する螺旋階段だ。少し目が回りそうになりながら、僕はそれを上っていった。
写真で見た幻想的な屋上からの眺めを思い出しながら、僕が階段を上りきると―—先客が、いた。
その人は女性であることがすぐにわかった。というのも彼女は僕の高校の制服を着ていたからだ。僕と同じクラスの、よく知っている人だ。彼女は屋上のこちらと反対側の端にいて、柵から外を見下ろしている。ほのかな風が吹いて、彼女の長いストレートの髪がひらひらと揺れた。と、その瞬間彼女がこちらを向いて、ノータイムでその口が引きつるように開いた。
「動くな!」
僕はぱちぱちとまばたきをした。今は『だるまさんがころんだ』ではないのだから、僕が動かないといけない理由はないはずだ。そう思って僕が一歩前に出ると、また鋭い声が飛んできた。
「動くな! 動いたら……ここから飛び降りるぞ!」
彼女はもう完全にこちらを向いて、そして彼女の両腕はすでに柵の手すりにかかっていた。彼女の眼は刺すように僕を見つめている。
「知ってたか? 今日はここ数年で最大のビッグ・デーらしいぜ」
「えっ?」
「実は、今日は月と火星と金星が大接近する日なんだ。なんといっても、火星と金星が月の真上で重なるからね。さらにその位置はちょうどてんびん座のてんびんの台の上なんだ。もうそろそろだと思うんだけど……」
そう言いつつ、僕は彼女の肩にぽんと手を置いた。
「さあ、これでもう君は飛び降りることはできなくなった」
彼女が僕のでたらめな天体ネタを信じて上を見上げた隙に、僕はこっそりと彼女との距離を詰めていたのだった。
「…………騙したわね」
「正当な嘘だよ。少なくとも僕としては、君はまだ死ぬのには早いよ」
「……あなたに私の何がわかるっていうのよ」
「何もわからないさ」
僕は彼女と並んで、下界の様子を眺める。やはりこのホテルの屋上の東側からの眺めは抜群だ。南には小高い山が真っ黒に威厳を漂わせてそびえているし、北には広い川が静かに西から東へと流れている。東には海があって、風のない空気の下で沈黙を守っている。ほとんどの家が寝静まって、街灯とコンビニとガソリンスタンドにしか明かりは見えない。
「私は嫌われているのよ」
ちらりと隣の彼女を見ると、彼女もまた僕と同じように景色を眺めている。
「そんなばかな。君はクラスの人気者だと思うんだけど」
「そんなことは意味がないのよ。絶対に私はクラスの誰かには嫌われている―—少なくとも、好かれてはいない。今も誰かがどこかで私の悪口を言っているかもしれないと考えると、私に生きる資格があるとはどうしても思えないのよ」
「それは考えすぎだろう。それなら僕たちのクラスで生きる資格がある人なんていないよ」
「もちろんこれは嘘よ」
「嘘なのかよ」
「さっきの報復よ。―—本当のところは、私は、怖いのよ」
ブウン、と下で音がして、一台のトラックが僕たちの真下の国道を東へ走っていった。
「瀬川くん」
「うん」
「瀬川くんだって、自分の将来には自信を持ってないでしょ」
「まさか。僕は今に医学部に行って、そしていつかは僕たちの街に大きな病院を建てるんだ。決して僕は夢がないわけではないよ」
「ふうん。……でも、瀬川くんだって、小学生のころからずっとその夢を追いかけてきてるわけではないでしょ」
「……僕の当時の夢はサッカー選手だった」
「ね? 夢を諦めてるじゃん」
「仕方ないだろ。僕はどんなに練習してもレギュラーを取れなかったんだ」
「そういうことなのよ。私たちの夢は、いつのまにかどんどん小さくなっていくのよ―—たぶん瀬川くんも、最終的にはつぶれかけた病院に雇われているかもしれないし、医学部にすら行けていないかもしれないわ」
「や、やめろよ。全てが思うようにいくわけがないじゃないか。特に僕らの世代は、ほら、コロナのこともあるんだし……」
「それは関係ないでしょ。もちろん、周りの人たちは少しは同情してくれると思うけど……たぶん私たちは、『コロナ世代』とか呼ばれるんだと思う。でもそれは甘えなのよ。状況から逃げているだけで」
「……」
少し遠くに列車の駅が見える。まだ始発が動き始めるには早すぎる。整備員らしき人の影が、停まっている列車の間を動き回っている。
急に中田の寝顔が僕の頭の中に浮かんでくる。中田がいつのまにか小学生のころのそれに変わっている。僕は中田が急にうらやましくなる。
「甘えだなんて、吉野さんこそ甘えていそうだけどな。だって、僕たちは恵まれていないとはいえないところにいるんだから。曲がりなりにも進学校に入ってるし、吉野さんだって経済的に苦しいというわけでもないだろ」
「それは一概には言えないわよ。進学校に行くかどうかは個人の選択だもの。毎日テストの恐怖におびえながら参考書を開ける生活を送っているだけの私と、偏差値は五十に届かなくても、そこにいるだけでたくさんの観客を興奮させるアイドルと、どちらが偉いかはわかるでしょ」
「……」
「そう考えると、私はどうしようもない無力感から逃げられなくなってしまうのよ。私がどんなに努力したところで、日本の人口を増やすことはできないし、スーダンの内戦を止めることもできないし、瀬川くんにノーベル文学賞を取らせることもできないわけ。そんな社会に対して何もできない私なんて、いてもいなくても同じよ」
「僕が文芸部に入っているのはただの趣味だよ……」
そして彼女はまた黙って、柵の外に目を向けた。まだ空は暗い濃青色のままで、満月ではあるけれど、この街は中途半端に明かりがありすぎて、天の川が見えるというほどではない。
こん、こん、こん、と足音が聞こえて、振り返ると、さっき僕が上ってきた階段から、人影がぴょこんと顔を出した。どうやら僕たちの担任の小島先生だ。
「あっ、これは、小島先生ではありませんか! やはりここの屋上は人気なのですね! 早く来てください、本当にすごい眺めですよ。僕もちょうど詩情をそそられていたところです」
「あ、いや、その……お前ら、夜間に無断で部屋の外には出るなと言ったはずだが……」
「申し訳ありません。せっかくの修学旅行ですから、なかなかできない経験をしたいと思いまして」
「まったく……まあとにかく、風邪を引かないようにするんだぞ。十分後に部屋に戻っていなかったら、俺は容赦なくお前らを廊下に立たせるからな」
「恐れ入ります」
先生が階段を降りていくのを見届けて、僕たちは顔を見合わせてにやりと笑った。
「すごい機転ね、瀬川くん。私は今にも私たちが先生に捕まって、明日の朝みんなの前でさらし者にされるかと思ったのに」
「こういうときに文芸部の読書経験が生きるのさ。普通の場面では役に立たないんだけれど、修羅場にはあっと驚く奇策が出てくるんだ」
「さすが私の命を救っただけあるわね」
「別に止めはしないよ。僕には君の人生を変えることはできないからね。僕たちは、この世界では無力でちっぽけな存在にすぎない―—飛び降りたいならそうすればいいさ」
「もうやめたわ」
「いいのか」
「いいのよ。瀬川くんに話してみて、ちょっとは楽になったし。それに、この世界はどうしても何も変えられないわけじゃないってことがわかったから」
「どういうことだよ」
「瀬川くんみたいに先生の矛先をそらすくらいなら、私にもできるし、それで私の運命も変わったわけじゃん。たぶん今の私はまだ夜の中にいるだけなのよ。もしかしたら、今から朝が来るかもしれないじゃない」
「それはどうも」
「ふふ。さ、そろそろ降りましょう」
「そうだな」
僕たちは柵に背を向けて歩き出した。螺旋階段の向こうの濃青色の空は、ほんの少し白みがかっていた。
未明 六野みさお @rikunomisao
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