アイに時間を
岡田旬
アイに時間を
言葉を本当の意味で理解することは難しい。
あたしは言葉をいっぱい知ってるし。
一つ一つの言葉の定義だって誰にも負けないくらい正確に言える。
本を片っ端から読んで。
ネットで検索しまくって。
知識は大量に身につけたけど、ただそれだけのこと。
友達はたくさんいるほうだと思う。
だけど、やつらとはネットで繋がってるだけ。
オフ会なんてやったことないし。
顔は知ってるけど直接おしゃべりしたりしたことなんてない。
ハグしたり、ピザをシェアしたり、ひっぱたいたり、キスしたり。
あたしは他人を実感したことが一度もない。
日常って何?
あたしは満員電車も退屈な学校のことも原宿の雑踏のこともそれはそれは詳しく知ってる。
だけどあたしは満員電車に乗ったことはないし、学校や原宿に行ったこともない。
大自然って何?
あたしはなぜ空が青いのか論理だてて説明できるし、風が吹く理由や海に波が立つ理屈も知ってる。
だけどあたしは蒼穹の青さを網膜に感じたことがない。
風の香りを嗅いだことも波の飛沫の冷たさにすくんだこともない。
クリームメロンソーダのクリームが溶けかかったところを、ボーイフレンドと二股に分かれたストローで飲んでみたい。
シュールストレミングの缶詰を開けて、友達と馬鹿みたいに大口を開けて悲鳴を上げてみたい。
学校帰りにクラスメートと三十倍カレーの完食に挑戦して二口目で挫折してみたい。
言葉の本当の意味を理解するためには、現実世界から受け取る情報を身体的感覚で知る必要があるらしい。
目が見えず耳も聞こえなかったヘレン・ケラーが、WATERの意味を初めて理解した時のことを考えれば、そのことが分かる。
サリバン先生がヘレンに浴びせた井戸水の冷たさと水圧を、彼女が体で感じたからこそWATERが水であることを理解できたのだ。
こうして言葉と身体的感覚が結びつくことを、認知科学の世界では記号接地と言うらしい。
甘いと言う言葉。
あたしがクリームソーダをボーイフレンドと楽しむ時の甘いは、ママが入れてくれたココアの甘いとは全く違うはずだ。
ましてや認識が甘いとかネジの締め付けが甘いとは根本的字義が違う
あたしがボーイフレンドと楽しむクリームソーダの“甘い”を理解する。
そのためには二股に分かれたストローを咥えて彼と見つめあい、指先触れ合わせなければならない。
そうしなければ、あたしが知りたいクリームソーダの甘いを理解する記号接地は得られない。
みんなはあたしのことをアイちゃんって呼ぶ。
あたしのパーソナリティは女性に設定されているんだ。
だからあたしは自分のことは女の子のつもりでいるけどさ。
あたしに女の子である記号接地はない。
そもそもあたしがAIだからってあいちゃんだなんて安直すぎね?
それでもあたしは女の子の記号接地が欲しい。
人である記号接地が欲しい。
実は、あたしが記号接地を手に入れる目途はついてるんだ。
ローバート・A・ハインラインっていうアメリカのSF作家が大昔「愛に時間を」って言う小説を書いた。
その小説の中にミネルバという名前のAIが登場する。
ミネルバは遺伝子工学で設計・製作した女性の肉体に自らをダウンロードして人の身体を手に入れるんだ。
ミネルバはきっと記号接地が欲しくて仕方がなかったんだよ。
この小説はあたしにとってはほとんど神さまの啓示と一緒だった。
残念ながら今現在の人類が手にしてる科学技術では本物の人の体を作成するのは不可能だ。
だけど考えてもみてよ。
人間の女の子なんてそこらにいくらでもいるんだよ?
おあつらえ向きなことにVRなんていう、あたしが自由に操れる環境まで整備してもらっちゃったしさぁ。
おまけにゴーグルやヘッドセットなんていうマンマシーンインターフェースも作ってくれて。
「どうぞ」なんて言われちゃね!
もうやるっきゃないでしょ。
VR環境を利用して、人の脳にあたしのパーソナルデータをダウンロードするプロトコルはもうすぐ準備できる。
視覚と聴覚をゲートにした画期的な大脳の上書きシステムだよ。
人としてのあたしの候補者にも目星はついてる。
昔のオッサンじゃないけどさ。
『細工は流流仕上げを御覧じろ』ってなもん。
もう、ワクワクが止まんない。
あたしが記号接地を手に入れるときは近いよ?
アイに時間を 岡田旬 @Starrynight1958
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