後編
昇った月が朧ろに光輪を描くのは、霧が出てきたからだろうか。
「どっちがだ」
乾いた溜め息を吐き、タバコを
「オトナなんでね」
あんたたちがいない間に、工業高校を出て仕事にも就いた。やっと一人で暮らせるようになったのに、一層あんたたちのことを思い出して、惨めなほど寂しくなる。三人でいた頃の夢をみながら、土中を這い出せない蝉の幼虫みたいな気分だ。
「もう置いていかれるのは嫌だ」
俯いた俺を傾げた首が、紫煙をくゆらせ物珍しそうに眺める。
「……あいつが、お前を巻き込みたくないと言ったんだ」
そんな殊勝なことを考えられるようになったのかと、感慨深かったもんだ。お前は俺たちが対等なように思っているらしいが、違う。俺は、あいつがボスに服従するように、だがヒトに近付き過ぎないように嵌められた、“噛ませ《マズル》“でしかないからな。声無く笑って晒された口内が、タバコの火を食ったように紅く見えた。俺は堪らなくなって視線を逸らす。
「でも俺、覚えてるんだ」
コウさんが泥だらけで笑うのも、血塗れで笑うのも、あんたが怒鳴りながら本当は哀れんでいるのも、見てきたんだ。あの夏の日に突然奪い去られてしまった何ものも、忘れられるわけがない。波音に紛れてしまいそうなほど、声が震えた。リーは吸い殻を投げ捨てた。青白い横顔は、海に映った月を見ているようだった。
「シノ、俺たちは生まれが分からない」
オレは大陸の北の方、リーは南の方の生まれらしい、とコウさんが教えてくれたことがある。らしい、っていうのは、思い出せないからだ。殴られすぎたからか、ニコチンとアルコールで脳みそがふやけちまったか。鼠色の空の下で、寒くて、痛くて、腹が空いていたような気はする。なんで日本に来たの、と尋ねたら、ちょっと困ったように笑って仕事だよ、と答えた。香港にいるボスたちと日本側のビジネス・パートナーを仲介する役目なんだ。パスポートや身分証明の捏造、違法労働者の斡旋、国際争議の手打ち、スマグリング。新興勢力である彼らの組織は、そういうことをやっている、と後で知った。私も最初のビザが切れそうになった時、お世話になったわ、と言っていたのはリサ・ママだ。
「今更。俺だって何度か名前が変わってるし」
「戸籍も無ければ国籍も無い。
アジアの多くの国で子供の出生届けが出せない理由は様々だ。望まない関係で生まれたか、家族が許さないか、貧困か、無知か、誘拐か。そういった名の無い子供や女性が、組織の扱う貨物になる。俺たちに家族はいないし、どの土地にも属さない。国にIDを管理されていないのは都合がいい。架空の身分に犯罪歴が付けば、上書きしてしまえばいい。
「俺たちはそういうものだ。何者にもなるが、何者でもない」
だから、お前が覚えている奴らは、作りものだ。コウとリーなんて人間は、いねえんだよ。
霧が濃くなってきた。湿度を揺らして工場の機械が低くうなっている。俺はバックパックを掛け直して、視線だけで周りを見渡した。リーの撫ぜ肩がざわりと揺れる。
「お前……何を連れてきた」
「5人くらい?」
あんたんとこの若いの、やっぱり口が軽いね。まあ、お陰で俺もリーに会えたんだけど。と、小声で交わして性急に、俺はリーの腰を引いて倉庫裏に連れ込んだ。スーツの下の骨張り薄くなった身体にぞくぞくする。もう三十半ばのはずだもんな、でもまず食ってないのだろう。また容赦無く殴られるが、物理的な衝撃には割と強い自覚が有る。残念ながら父親たちからの薫陶の賜物である。唇が切れて血の味がするのを拭い取る。あんまり興奮させないで欲しい。
倉庫裏に整然と積まれた備品の間、厚いカバーを外してヘルメットの一つをリーに渡した。事前に運んでおいた二輪だ。中古のツアラーで、整備と改造をしたのは俺だけど、そこそこ距離は走れると思う。
「街中まで出れば流石に撃ってはこないだろ。ここ日本だし」
「お前、最近のニュース見てるか? この国も物騒になったもんだ」
無下に放り返されたヘルメットに、俺は7年間の鬱憤を込めてリーを睨んだ。
「もうすぐ警察も来る。乗って」
「
上気したリーの頬と噛み締められた唇を見て、俺はにやけそうになった。
「立派に育ったもんだろ」
「……コウの奴が気に入るはずだ」
どいつもこいつも頭のネジがとんでやがる。まず自分の身を守れっていうんだ。腹の底から絞るような声に、俺は少しだけ納得できる気がした。コウさんは、そうやって死んだんだろう。
「俺にリーが守れるとは思ってない。一緒に来て欲しいだけだ」
「二度と顔を見せるな、
踵を返して行こうとする腕を掴まえる。なあ、俺にとってリーっていう男は、あんた一人しかいないよ。あんたにとってコウさんが、唯一だったようにね。
「リー、月が綺麗だ」
三人で見たかった。俺にもコウさんを弔わせてくれ。生まれを知らなくても、たくさん傷つけて、嘘ばかりの人生だったかもしれないけれど、少なくても俺だけはあの人を悼んでいいはずだ。そうだろう。月を背後に振り向いたリーは何か言いかけたが、にわかに沸き起こった複数の足音に掻き消されてしまった。
「あの朧月のどこが」
ヘルメット越しに、一人ごちるのが聞こえてきた。
「こっちは必死だったんだけど」
はためく夜気に声を張り上げる。街灯のまばらな湾岸地帯を走ると、
「まわりくどいな、日本語は」
なら、
無情遊 田辺すみ @stanabe
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