無情遊
田辺すみ
前編
峨眉山の月を追う、という。
コンクリートの岸壁から暗い海を見て立つその背中に、俺は突進した。
「リー!」
「懐くな、でかい図体で」
気怠げに振り向いた男に、態とらしくハグしようとして叩かれる。俺は一歩二歩と後退り、周囲の工場と倉庫群の暗い明かりに浮かび上がった、撫ぜ肩と痩せた首元、深く切れ込んだ目を眺めた。「7年だ」。口に出して泣きそうになる。
「そうだな。お前幾つになる?」
「21だよ、おっさん」
リーは
「いい度胸じゃねえか。さっさと返せ」
手を伸ばして催促される。俺はバックパックを前に抱えると、内ポケットから旧モデルの携帯電話を取り出した。これは俺のものではない。リーのものでもない。
「俺は警告した。余計なモン見てねえだろうな」
「通信・通話の記録は見てない。見たのは写真だけ」
若いあんたと、俺ばっかりだよ。震えそうになる声を叱咤して、携帯を差し出す。向こうが伸ばした傷だらけの指先が触れる前に、今度こそ掴んで引き寄せた。
俺がコウさんとリーに出会ったのは、まだ九か十の時だ。よくある話か知らないが、俺の実父はモラハラの激しいDV男だった。外面は好いが、家では母をなじり子共に手を上げる。母は別居し夜の職場を転々としたが、時々父親が金をせびりに来るのと、母の新しい恋人が上り込んでいるので、俺はどの家にいるのも苦痛だった。薄汚れて腹を空かせて街をふらついていた冬の日に、こちらもやはり路上で寝ていたらしいコウさんが、菓子パンを半分こにして分けてくれた。その直後、リーに見つかったコウさんは、野良猫ぶとんから蹴り出されたのである。
二人とも一応バーテンダーともキャバクラの黒服ともタトゥー屋の下働きとも分からない仕事をしていたが、どうもあまり『真っ当でない』ことには気付いていた。それでも二人は俺をアパートに連れてきてくれて、温かいものを食わせてくれた。日本語は俺が教えたし、リーは算数やナイフの使い方を教えてくれた。コウさんは、隣りでにこにこしているだけだった。
冷たい切っ先が、耳裏の血管の上にひたりと留まった。いつの間にか越した背が、やっと閉じ込めた懐から長い腕を器用に回して、ナイフを俺に突きつける。
「ガキの振りすんな、虫酸が走る」
リーの肩越しに、濁った十三夜月が遠いネオンの上に浮かんで見える。7年。二人が突然身をくらまして、連絡も取れなくなってから7年。俺はずっと探していた。
「……コウさんは」
ナイフに構わず俺はリーの耳元に尋ねた。リーの眉間の皺が一層深くなる。怒っているのか嗚咽を隠そうとしているのか、掠れた声が答えた。
「
もう何度も自分に言い聞かせてきたから、その一言に逆上こそしなかったが、俺はしがみついた腕がすり抜けそうに感じて力を込めた。喉が焼けつく。
「どうして、どうやって」
「
詳細を教えてもらえるとはハナから思っていない。日本へ戻ってきたことだって、リサ・ママにしぶとく
蒸し暑い夏の日の午後、開けっぱなしにされたコウさんの部屋で、俺は残された携帯電話を見つけた。蝉の声がわんわんと、耳鳴りのように響いていた。もとより物の少ない部屋だったが、何もかもそのままで、住民だけが忽然と居なくなってしまったのだ。コウさんが携帯を洗濯機脇の灰皿に放り込んでいることを知っていたのは、唯一その灰皿を使うリーと、俺だけだったに違いない。つまりコウさんは携帯電話をほとんど携帯していなかったし、リーの喫煙を嫌っていた。本当は通信・通話履歴など全部消去されている。そんなものより消せなかったのが、気まぐれに撮った数枚のリーと俺の写真だったとでもいうのだろうか。……いや、忘れただけだな。
「あいつ顔は綺麗だが、馬鹿だからな」
ナイフを収め蹴りを入れられて、俺はリーから離れた。手に移った体温がやっと実感をともなってくる。水底に揺れる海藻のように黒くまろぶ長髪に白磁の肌、青みを帯びた黒曜の瞳。コウは人魚の如く美しく、
リーはナイフを器用に使いこなすし、脅迫とデマカセが上手い男だが、コウさんは全く小細工のできない類いだった。バロメーターが振り切れてしまうと、綺麗な顔から表情が脱落するのですぐ分かる。あとは本当に痛みも躊躇いもなく機械みたいに殴り続けるだけだ。相手か自分がぶっ壊れるまで。
「見捨てたの」
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