第2話 個人至上主義

 そんないろいろな主義がある中で、政治的なものを、歴史的に、基本的な時系列に沿って、近代終盤から、現代に掛けて、ほんの一部を列記してきた。

 実際には、このような単純なものではなく、もっと複雑に絡んでいたりするので、本当に書こうとすると、一冊の本が出来上がってしまうだろう。

 この話は、別にそういう政治評論の話でも、主義に対しての説明書でもない、いわゆる、

「プロローグ」

 と呼ばれる部分を、長々と書いてしまったわけで、それが作者のくせであるということなので、作者の作品に馴染んでおられる方は、

「またか」

 と思われたかも知れないが、本をたたむことなく読んでこられた方には感謝しかないというところである。

 しかも、事実ではあるが、その事実に対して作者の怒りや、思い入れを書いてしまったことで、不快な気分を与えてしまっていれば申し訳ない。あくまでも、

「個人の意見です」

 という言葉が、テレビ番組であれば、表示されているであろうとご了承願いたい。

 いろいろな主義は、政治的なものは、イデオロギーという、

「政治観念」

 というものと考えられるが、それ以外に、

「思想観念」

 というものがある。

 思想とは宗教としての考え方として、政治と絡んでくる部分もあるが、それ以外の考え方もたくさんあるだろう。

「別に、○○主義というものばかりを、主義とは言わないものだってあるのではないか?」

 とも考えられるのだった。

 そのうちの一つに、

「個性至上主義」

 というようなものがあるが、ただ、これが実際に使用されている言葉なのかどうかが難しいところだ。別に名前があるのかも知れないが、作者は、あえて、

「個性至上主義」

 と呼ぶことにしている。

 この、個性至上主義という考え方は、

「個性というものを、まず、最大級に広義に考えるもの」

 という前提がある。

 そして、それは、極端な話でいえば、変態的な意味であったり、下手をすれば、犯罪に絡むものもあるかも知れない。

 だが、それもすべて、その人の中にある、他の人にはないものということで、すべてひっくるめて、

「個性」

 と呼ぶのだ。

 そして、その個性は、他のすべてのものに優先するという、

「至上主義」

 という言葉が付くことになる。

 つまり、すべては、その人個人で終結することであるが、

「道徳、モラルなどを超えて、自分の中の個性と呼べるものが、何にも優先されるというものだ」

 ということになり、この発想は、えてして、

「わがままであり、自己中心的な考え方だ」

 といえるだろう。

 だから、そこには自己犠牲などと言う言葉は存在しない。もちろん、結果的に自己犠牲となる場合もあるが、それはあくまで結果であって、本人の個性がたまたま自己犠牲の形になって現れただけで、本人には、自己犠牲だという意識はないのではないか。

 しかし、だからといって、自己犠牲とまでは思わないとしても、個性を強引に完遂することは、えてして、何かを犠牲にするということは、織り込み済みなので、その中で自分の理性を正当化させようと思うことがあったとすれば、結果として自己犠牲になったのだとすれば、そこで、これも結果としてではあるが、正当性を持たせるために、自己犠牲の時に考えるような理屈を自分で思っているのかも知れない。あくまでも、本人は自己犠牲だとは思っていないのかも知れないがである。

 そんな、

「個性至上主義」

 というものを意識するようになるのは、どんなに早くても、思春期からであろう。

 それまでは、個性という意識はあっても、個性が自分にとって、どういう位置づけなのかということまでは分かるわけではないからだった。

 個性という言葉を、単純に、

「他の人にはないことで、自分は人とは違うというところがあれば、それが個性なんだ」

 ということで考えていただろう。

 だが、思春期になると、それまでにあまり強く感じてこなかった感情を、分かるようになってくる。生まれながらに持っているものなので、気づかなかっただけだというのが、本当のことなのかも知れない。

 成長するに従い、子供から大人になる時期というのが、れっきとして見えるのが、思春期である。精神的にも肉体的にも、ほぼ同時期に、子供から大人へと変貌するのだから、その人にとっては、人生の中でも、一番の大きな変革期ではないだろうか。

 ただ、これは転換期とは違い、人によって違うものではない。もちろん、時期的にはそれぞれ違っているが、思春期と呼ばれる時期は、ほぼ、3年間くらいの間のどこかに嵌るといってもいいだろう。

 それに、肉体的、精神的に微妙なずれのある人は余計に思春期というものを意識することになるだろう。これは、生きている人間には、男女問わず、

「通らなければいけない道だ」

 といえるだろう。

 形として、ハッキリと分かるものでは、

「乳歯が抜け落ちて、その後から、永久歯が生えてくる」

 というようなものである。

「初潮を迎えたりするのは、女性独自のものであり、それは、妊娠することができるのは女性だけだ」

 ということからのことである。

 最近(といっても、20年くらい前)では、

「男女雇用均等法」

 などという法律ができたことで、過大解釈をする人のせいもあってか、必要以上に、

「男女平等」

 という言葉を、声高に叫んでいる人もいる。

 確かに、昔は、

「男尊女卑」

 などという言葉があり、女性には、あまりにも生きにくい時代が、歴史的にずっと継続してきた。

 特に戦前までの家庭などでは、それは顕著なことであった。

 さらに、現在の刑法では削除されることになったものとして、

「姦通罪」

 というものが、過去には存在した。

 この法律は日本に限らず、各国にあったのだが、今では見ることはなくなった法律である。

 これは、結婚している男女のどちらかが、他の異性と、

「姦通」

 した場合のことをいう。

 しかし、日本の場合は他の国の姦通罪とは違い、この法律が適用されるのは、

「結婚している女性が、配偶者以外の男性と姦通した場合」

 のみをいうのであった。

 これこそ、日本国憲法における。

「法の下の平等」

 の精神にそぐわないものとして、戦後、日本国憲法制定時に削除されたのだ。

 2000年近くまで姦通罪が存在していた韓国でも、

「女性のみ」

 という考えは存在しなかった。

 だが、日本において、日本国憲法が制定されてからも、まだまだ男女の差別は大きかった。2000年頃から、男女雇用均等という考えが浸透してきたのである。

 ただ、法律自体は、昭和末期に成立しているのだが、20世紀の間は、努力義務であったものが、禁止事項として法律が改正されたことで、一般市民にも、その杞憂が反映されるようになってきた。

 やはり、それまでのいろいろな女性であるがゆえの不平等さが、社会問題になることで一つになってきたからであろう。

 ストーカーなどという社会問題はその大きな問題ではなかったか。

 ただ、この問題は女性だけの問題ではなく、男性に対しての女性のストーカーというもおもあった。それを考えると、それだけが問題ではないだろう。

 だが、男女平等であったり、女性の被害を少なくしようという発想からなのかも知れないが、それまで女性に対しての犯罪で、泣き寝入りしていたことが、社会的にそれを許さないという兆候になってくると、逆の弊害が出てくることになる。

 痴漢や、盗撮などという問題、さらには、前述のストーカーなどという問題で、被害者が大いに声を挙げられるようになると、一歩間違えると、被害を受けた女性の勘違いなどから、

「冤罪事件」

 というものも、出てくるという、社会問題も無きにしもあらずであった。

 一人の女性が、電車の中で、

「この人痴漢です」

 といって、声を挙げるとどうなるであろうか?

 そばにいた連中は、まず、犯人扱いされた人間の言い訳など一切聞かずに、警察に突き出すことになるだろう。

 この場合の第三者は、まず自分がヒーローにでもなったかのように感じるだろうから、決して犯人を許さないという気持ちから、容疑者になった男を、完全に犯人だと決めてかかるに違いない。

 それは、

「自分は正義の味方なんだ」

 という自己陶酔に入ってしまい、一時期流行った、

「自粛警察」

 などというものと同じことになるのだ。

 自粛警察というのに対しては、かなり賛否両論があったが、痴漢事件にたまたま遭遇したことで、犯人を自分が捕まえたと自負する人間のことを悪く言う人はいない。

 しかも、そこには、

「集団意識」

 というものが働き、もし、これが冤罪であったとしても、

「言い出したのは、俺だけじゃない。だから、俺は悪くない」

 という思いから、かなり凶行に容疑者を犯人扱いできるのだ。

 犯人扱いされた方としても、数人から、

「こいつが犯人だ」

 と言われれば、いくら言い訳をしても、どうにもならないことが分かっている。

 そういう意味で、一番の問題は、このような、確証もないのに、女性が声を挙げたことで、犯人が確定したかのように考え、自分が正義の味方だという自己陶酔したいがために、その状況を利用する。

「善意という言葉を使う卑劣な第三者」

 というものが、ある意味、一番ひどい連中なのではないだろうか。

「もし、あいつらが火に油を注がなければ、まだ何とかなったかも知れない」

 と被害者が思えば、もし、彼はその後の人生を失ってしまうと、逆恨みから、いや、正当な恨みから、なくてもよかった殺人事件が起こる可能性だってあるのではないだろうか?

 容疑者にとって、どうにもならない状況の中では、もうどうしようもないのだ。警察に連行されて、頑なに否定するかしかないだろう。

「認めてしまうと人生が終わる」

 と考えるのは無理もないことで、冤罪であれば、特にその感情は強いだろう。

 それを分かったうえで、実は、被害者側が美人局だったりすることもある。

 その場で、

「この人痴漢です」

 と言わなかったとしても、後で、数人の怖いにいちゃんが出てきて、

「お前。この人を触っただろう」

 と言って脅しを掛け、それ以降、脅迫することで、その人の人生がメチャクチャになることだってある。

「証拠を警察に持って行ってもいいんだぞ。それともお前の会社に一斉メールでもするか?」

 と言われればどうにもならない。

 男女差別を盾に、こんな犯罪だって、陰で起こっている可能性は十分にあるというものではないか。

 それを考えると、男女平等というのがどういうものなのか分からなくなってきた。いや、男女平等というだけではなく、何事も偏りすぎると、ロクなことはないということになるのであろう。

 思春期になると、大人を意識し始め、男女を意識する中で、女性という者に対して、自分がいかなる思いがあるのかということを考えたりもするだろう。

 これも、一種の個人としての意見なのだろうが、長い歴史の中で、男女平等という考えになったというのは、本当にごく最近のことで、100年前などでは信じられない発想ではなかったか。

 つまりは、遺伝子というものが、過去からずっと受け継がれてきたものであるとするならば、遺伝子のほとんどは、歴史的に、ずっと、男尊女卑の感覚で来ていることになる。それを、いきなり、

「男女平等だ」

 と言われても、生理的に許せないことだってあるだろう。

 実際に無理なことだってある。男に、

「子供を生め」

 と言っても、肉体的に無理ではないか。

 しかも、身体の構造が女性は子供を生むようにできているわけで、男女で違うのは当たり前だ。だから、女性には、生理というものがあり、職業によっては、その期間、できない仕事だってあるはずだ。

 だから、それを無理に、

「男女平等」

 ということで。押し通して、

「生理期間中でも関係ないから、仕事に出てこい」

 と言えば、きっと、パワハラだとか、女性差別だというだろう。

 それは、男性から見れば、

「だったら、男女平等などというのは、最初から無理なことではないか?」

 といえるのではないか。

 ここから先の話を無理にしようとすると、小学生の喧嘩のような、泥仕合になってしまうことは免れない。そう思うと、男女平等というのも、ひと言で片付けられないということになるだろう。

 男女平等というのを、考えてしまうと、ウンザリくる。確かに、言いたいことは分かるが、必要以上に煽ると、冤罪事件が多発することになったり、男女平等だということを盾に、今度は男性が、女性に無理を強いることになるかも知れない。ただ、この場合は、パワハラ、セクハラなどのコンプライアンス違反との絡みになるだろう。それを考えると、

「コンプライアンスの問題が浮かび上がってきた背景には、男女平等に対しての弊害を言い訳にしようという意識もどこかに働いているのではないか?」

 という偏ってはいるが、そういう意見もあっていいのではないかと思うのだった。

 かなりの、

「個人の意見」

 ということになり、かなりのお叱りを受けるかも知れないが、あくまでも可能性としての話だということだ。

 そんな中、実際に、コンプライアンスや、男女平等という観点から、会社や自分のまわりの人間関係でも、

「下手なことは言えない」

 あるいは、

「どこまでだったら許されるんだ?」

 ということで、上司も、まるで部下を腫れ物に触るかのように接している。

 今までであれば、

「社交辞令」

 や、

「あいさつ程度」

 というものであったものが、

「課長、それセクハラです」

 と言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。

 部下を慰めたり、鼓舞しようと思っても、何も言えなくなるのだ。

 本当であれば、

「報連相」

 が大切なことなんだ。

 と言われ、部署内でのコミュニケーションがうまく行っていないと、業務も回らないし、仕事が滞ってしまい、成果がまったく上がらなくなる。かと言って、

「セクハラ上司」

 のレッテルを貼られたくない。

 そうなってしまうと、サラリーマン人生も終わってしまうということだ。

 ということは、セクハラにも引っかからず、部下を鼓舞したり、相談に乗ってあげられるような、

「スーパー上司」

 でなければ、上司としてはいらないということなのか?

 そうなってしまうと、自分もリストラ候補となり、会社にいても、まるで針の筵の上に座らされてしまったようで、これほど辛いことはないというものだ。

 だからこそ、今の世の中は、

「個人至上主義」

 という人が増えてきた。

 家族も持たずに、自分ひとりで自給自足の生活をしていくという人だ。家族を持っているから、養わなければいけないということで、会社で何があっても、我慢しなければいけなかったり、そんな家族の長を、

「甲斐性なし」

 と奥さんから罵られたり、子供からは。

「キモイ」

 と言われて、家でも孤立無援になることを思えば、一人でいる方がいいと思うのも当然だろう。

 だから、最初から家族を持とうなどと思う人が、若者を中心に増えてくる。しかも、

「会社だって、国だって守ってくれない」

 と思うと、家族を持っていて、その責任に押しつぶされることを思えば、

「一人なら、何とでもなる」

 とも思う。

 昔であれば、

「血を途絶えさせてはいけない。ご先祖様に申し訳ない」

 と言って、必死に家系を守ろうとしてきたが、今の時代にそんな話はほとんど聞かない。

 昔からの同族会社などの家系であれば、それもありなのだろうが、そうでもないと、

「結婚して子供を持つのが幸せだ」

 と思っている人だって、何も血のつながりを意識している人などいないのではないだろうか?

 さらに、これは平成初期の、1990年代に起こった、

「バブルの崩壊」

 というのも、大きく影響しているのではないだろうか。

 あの頃までは、企業も、業務拡大すればするほど儲かっていたし、社員も、仕事をすればするほど、お金になった。そして、それこそが生きがいだっただろう。

「企業戦士」

 などということを言われ、残業も、会社に泊まり込んでの仕事もまったくいとわない状態だった。

 それこそが、サラリーマンの鏡だと言われていたのだ。

 しかし、時代はまったく変わってしまった。バブルが弾けてしまった瞬間、それまで神話のように言われていた、

「銀行が倒産することはない」

 という時代だったのに、それが、簡単に経営破綻するようになった。

 それまで言われたこともなかった、

「リストラ」

 という言葉で、人件費削減という名のもとに、社員を切っていく。

 しかも、一番会社に貢献してきたはずの、課長クラスや、業務拡大を目的として、雇ってきた、ここ数年の間の新入社員だった、一番の第一線の社員たちである。

 それはそうだろう。新規事業どことか、悲鳴を上げている部分を切除しないと、命が危ないのだ。手足を切ってでも生き残る覚悟がいる。言い方は悪いが、将棋でいうところの。

「王手飛車取り」

 を、目の前で見せられているようなものである。

 王様を取られてしまうと、ゲームは終わり、少しでも延命のために、飛車を犠牲にしなければいけないということなのだろう。

 そんな時代が、バブル崩壊と言われた時代だった。

 サラリーマンで、リストラに合わなかあった人は、大変である。会社では、

「残業は絶対にダメ」

 と言われているが、リストラのために、今まで3人でやっていたことを2人でしなければならないなどということになる。

 しかも、決められた時間内にである。

 家に持って帰って仕事をする人も多かっただろう。それはそれで大変であった。

 それでも、そのうちに慣れてきて、業務時間中にできるようになってくる。ただ、これは、仕事量が減ってきていることから、追いついてくるようになったというのも言えることであった。

 そうなると、今度は、いわゆる、

「アフターファイブ」

 というものが、非常に大切になってくる。

 給料は下げられているので、

「貧乏なくせに、時間だけはある」

 ということになる。

 それまでは、残業手当が、基本給よりも多いことで、金銭的に困らなかったどころか、使う時間がなかったので、お金はたまる一方だった。

 だが、あれだけ必死に働いていたのに、意外とお金はそんなに残っているわけではなかった。

 適当に遊んでいるうちに、あれだけ必死で働いて儲けたはずの金が、想像以上に湯水のようになってしまうことにビックリしてしまった。

 すると、お金の価値というものが、自分の中で次第になくなっていく。そうなると、仕事にだけ時間を使っているのが、バカバカしくなってくるというものだ。せっかくアフターファイブができたのだ。その時間を利用して、自分の好きなことをしたり、スキルをアップしようと考える人が増えてきた。

 習い事のようなものであったり、趣味であったり、スポーツクラブで身体を鍛えてみたりというものである。

 他には、コミュニティに参加して、仲間や恋人を作りたいと思う人もいるだろう。大きく分けると、コミュニティに参加して、仲間を増やしたいと考える人と、自分を中心に、スキルを高めたいと思う人の二つに分かれることだろう。

「個人至上主義」

 というのは、後者の方であり、人とのコミュニケーションは別のものと考えて、個人個人が一番大切だということを考えるのが、

「個人至上主義」

 といえるだろう。

 結婚していて、家族を大切にしながら、個人至上主義を考える人もいるだろうが、個人紫綬主義というものに入った瞬間から、

「家族の犠牲は当然のこと」

 と考えるようになり、離婚が増えるのも、そういう人が増えてきたというところにも理由があるのではないだろうか?

(これも、あくまでも、個人の意見である)

 確かに家族というものを考えて、個人至上主義に走るのは難しい。相手がどう思っているかというのを考えたりするのは、億劫になってしまったりするだろう。

 そうなると、家族から愛想を尽かされてしまうことになる。離婚を言い出させる人もいるだろう。

 だが、心の中では、

「結婚していることで、気持ちに余裕があることから、趣味に走ったりもできるのであって、実際に離婚して一人になってしまうと、その寂しさに耐えられるだろうか?」

 という思いから、離婚は避けようと思い、自分の本音がどこにあるのか分からなくなってしまい、完全に狼狽えてしまう。

 そうなると、奥さんは、完全に見放すことになるだろう。何を言っても、もう修復は不可能だということになると、最後まで奥さんにしがみついてしまうのだが、最後は、まわりの説得もあって、離婚することになる。

「お前はまだ若いんだから、いつでもやり直せるさ」

 という言葉を掛けてくるのだ。

 本当は自分の中で、

「そういう問題ではない」

 と言って、抗うのだが、結果としては、離婚するしかなくなってしまう。

 そんな中で、数年は、

「いい人がいれば、再婚したいな」

 と思っていたが、気が付けば、

「一人がいい」

 と思うようになった。

 完全に、

「個人至上主義」

 の考え方に頭の中がなってしまったのだろう。

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