耽美主義の挑戦

森本 晃次

第1話 時代における主義

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年3月時点のものです。今回は、若干作者の考え方の偏った部分があるかも知れないということで、テロップとしての、「あくまでも、個人の意見です」という部分がありますので、ご了承ください。少しえっちな話もありますが、思春期の一場面ですので、こちらもご了承ください。


 人間には、いろいろな感性があったり、自分の中で、

「主義」

 というものを作ろうとする考え方があるようだ。

 主義というと、国家であったり、思想であったりと、団体のもののように感じられるが、そればかりではないだろう。

 確かに、世の中で一般的に言われる主義としては、民主主義、社会主義、それに引っかかる意味で、自由主義と共産主義という考え方がある。言葉としては、イデオロギーというのだろうが、学校で習う主義というのは、基本的に、団体や社会としての、国家や思想という形に変化するものであろう。

 もっとも、学校で習う主義という意味の言葉で、広義には、もっとたくさんある。

 軍国主義であったり、ファシズムなどの専制主義というのもある。専制君主という意味では、全体主義というもので、排他的民族主義ともいえるであろう。

 一般的に独裁者がいる国を、あたかも、ファシズムという言い方をするが、そうではない。ナチスのように、ユダヤ民族の撲滅であったり、イタリアにおける、かつての、ローマ帝国復活を考えるファシスト党というのも、排他的民族主義と言ってもいいだろう。

 特に、20世紀は、そんな主義が乱立した時代だった。

 帝政などの帝国が、欧州では乱立していて、そこに民族問題が絡んで、まわりの国がすべて、一触即発と言われた時代には、生き残るために、いろいろな国と同盟を結んでいた。そのため、条約の中に、

「同盟国が攻撃を受けたり、他の国と戦闘状態になれば、同盟国側に立って、同盟加盟国は宣戦布告をする」

 というものであった。

 だから、そんな同盟国がいくつも存在するのだから、一つの区に同士の戦争がいつの間にか、8か国、いや、10か国を巻き込む戦争になりかねないという意味での一触即発を占めているのだった。

 そんな状態から勃発したのが、第一次大戦であった。

 元々は、一つの事件から、宣戦布告に至ったことで、同盟国が、どんどん宣戦布告をすることで、あっという間に世界大戦へと発展した。

 しかし、この戦争は、ほとんどの人間が、数か月で終結するだろうと思っていたようだったが、そうもいかなかった。

 その理由は戦争のやり方が変化したからだった。

 相手の砲弾や、銃弾に当たらないように、戦場に塹壕というものを掘り巡らせて、少しずつ前進するというやり方であった。どちらも決め手に欠けるという戦術だったが、そのうちに、そんな塹壕を打ち破る兵器が開発されるようになる。

 それが、戦車であり、航空機であった。さらに、兵器として、毒ガスなどと言ったものができてきたことで、戦争は泥沼化してしまったのだ。

 数か月だと思われていた戦争が4年にも及び、未曽有の大災害を出したのだった。

 だが、世界情勢は、それで落ち着いてくれなかった。

 そもそもの問題は、戦勝国による。敗戦国である、ドイツに対しての、集団苛めともいえるような制裁であった。

 何と賠償金が、

「ドイツの国家予算の20年分」

 と言われた額である。

 何百年かかっても、賠償できる金額ではない。そんなひどい条約に対して、専門家は、

「この平和は、一時的なもので、20年もすれば、またしても、世界が戦火に塗れることだろう」

 と予言した人がいたが、まさに、ずばり的中したのであった。

 そこから、本当に20年で第二次大戦が起こることになるのだが、その要因にはいくつかのものがあった。

 まず、一つは前述のドイツに対しての莫大な賠償金の問題である。さらに、領土を減らされたりしたことで、貨幣価値は暴落し、ハイパーインフレが発生した。

 それにより、国内が混乱し、さらに、政府の政策の失敗から、ナチスドイツの台頭を許すことになり、彼らによる、ホロコーストが始まることになる。

 さらに問題だったのは、ロシア帝国の崩壊によって、労働者や、反戦ムードにて革命がおこり、世界初といわれる共産主義国ができあがった。

 共産主義というのは、民主主義、自由主義の限界に挑戦するもので、自由競争によって起こる、貧富の差や、失業問題などをいかに解決するかということで考えられた主義であった。

 自由主義というのは、自由競争という言葉と同意語であり、

「会社間における自由競争に、区には関与しない」

 ということで、

「安価な政府」

 と呼ばれたりもした。

 しかし、社会主義、ひいては共産主義というのは、その言葉の読んで字のごとしという言葉通り、

「政府が、経済に大いに関与して、産業の共有化を図り、主要産業は国営化し、給料も一律化したりすることによって、貧富の差を失くそう」

 という考え方であったが、そのために、国民生活に政府が大きく関与することで、国民に自由はなくなり、努力しても、自分の成果にできず、すべてを国家に吸収されてしまうことで、国民の士気高揚というものは、まったくないということになる。

 さらには、国家による統制が厳しいことが、国家による国民への締め付けとなって、独裁色が豊かになる。

 政府の考えに逆らう者は、粛清されたり、投獄は排除されることになる。そのために強制収容所に収監されたり、処刑されるということが当然のごとく発生することで、国際社会とは隔絶した政策になるのだった。

 ファシズムと似ているような考えであるが、基本的には似ているように見えるだけに。ライバル関係であり、そのために、抑止力とみられたりもした、

 特に、ソ連による共産主義の盾に、ドイツやイタリアのファシズムを利用しようという意味で、ファシズムの台頭を許した経緯もあることで、余計に、ファシズムが世界に影響を与えることになるのだ。

 さらに、世界恐慌は、

「持てる国、持たざる国」

 というハッキリした形によって、持てる国によって、自分たちだけのバリケードとして、

「同盟を結んでいる国同士て、関税を決めたりする、いわゆるブロック経済」

 というものを形成し、世界恐慌を乗りこえようと考えた。

 しかし、持たざる国もそれぞれに同盟を結び、軍事侵攻によって、事態の収拾に勤めようという考えに至るのだった。

 日本が、満州事変を起こし、満州に活路を見出したのは、ソ連の南下という問題への安全保障の問題と、もう一つは、人口問題にあった。

 当時の日本では、人口が増えすぎてしまい、日本本土だけでは、養えなくなり、日露戦争で得た満州を、自国n領土とすることで、移民を作り、人口問題と、満蒙における国境問題を解決しようという意図があったのだ。

 そのため、満州事変を画策することになったのだが、国際連盟で反対多数により、承認されないということを、日本政府はどこまで考えていたことだろう。

 国際連盟を脱退し、それにより、孤立した日本は、ドイツ、イタリアと結ぶという、ある意味暴挙に出たのだった。

 イギリス、フランス、アメリカに敵対視される状況になっても、そちらに舵を取ったのは、自給自足を考えてのことなのか、大陸への進出も、賛否両論ある中、ある意味仕方のないことであったのではないかと思えるが、どこまで日本が、政治的、外交的に考えていたことなのか、難しいところである。

 特に、シナ事変において、途中で和平交渉のチャンスがありながら、逃してしまったり、蒋介石の罠にはまり、奥地に進出することで、中国に権益を持っている、欧米諸国を刺激したということになるのだろう。

 結果経済制裁を受けて、誘い出されて戦争に突入した日本、その裏にアメリカの、欧州への戦争参加の口実という裏の目的があることを知らなかったというのは、何とも愚かと言えるのではないか? しかし、元々無謀な戦争というわけではなかった。日本軍が描いた形の戦争経過だったはずだが、慢心から、さらに戦争が拡大したことが、悲劇を生むことになるのだった。

 当時の日本は何主義と言えばいいだろうか? 軍国主義という言い方もできるでしょう。ある意味ではファシズムともいえるが、表に出ていることでいえば、ファシズムではない。ファシズムだというのであれば、日本人至上主義であり、他の民族は認めないというような政策を行うものであるが、日本が参戦した大義名分は、

「大東亜共栄圏の確立」

 だったのだ。

 というのは、当時の欧米による植民地政策によって、アジアの国々は、ほとんどが、欧米の植民地にされていた。

 それを日本が、各地に進出し、欧米の支配から脱却させ、日本を中心とした大東亜に、共栄圏を建設するというのが、戦争目的なのだ。

 だからこそ、満州国は、傀儡国家であったが、名目上は独立国である。そして、そのスローガンとして、

「五族共存、王道楽土」

 というものだったのだ。

「五族共存というのは、日本、満州、漢民族、朝鮮民族、蒙古民族という5つの民族が共存する、専制君主国としての、楽土を築く」

 ということである。

 満州という土地は、元々、中華民国の前の王朝であった、清王朝の発祥の地である。

 そこで、清王朝復活という意味で、満州国を、かつての皇帝であった、愛新覚羅溥儀を擁立することによって、清王朝復活という形を作ったのだ。

 つまり、満州は日本の植民地ではなく、あくまでも、独立国家であるということなのである。

 そういう意味で、日本というのは、あくまでも、

「アジアを白人から解放するための戦争をしている」

 という建前なので、日本民族だけの繁栄ということではないのだった。

 もっとも、この考え方は的を得ていることだろう。北部のソ連からの脅威と、欧米からの脅威を日本だけでは、補えるものではない。アジアが結束しないといけないという理論は的を得ているだろう。

 さらに、陸軍軍人である、石原莞爾という人物の書いた、

「世界最終戦争論」

 という本にも書かれている通り、

「世界は、アジアやユーラシア、ヨーロッパなどの大陸の覇者が、戦争を行い、最後には残った二つの国で争って勝った国が治めるようになるが、その時、世界に戦争はなくなり、恒久平和が訪れる」

 という考えで。石原莞爾は、最終戦争は、日本とアメリカで行われると考えていたのだった。

 だから、満州事変を起こし、満州に権益を作ることで、ソ連をけん制し、日本の人口問題の解決を行った。

 しかし、やり方が強引で、軍の専行主導を許してしまったことで、目論見は外れ、まんまとアメリカに誘導される形で、欧米への開戦ということになってしまったのだ。

 無謀な戦争であったが、軍としては、

「緒戦で圧倒的な勝利を収め、その余勢をかって、和平に持ち込むしか勝ち目はない」

 と、アメリカの工業力を考えて、分かっていたはずの戦争だったものを、最初に勝ちすぎたために、引き下がることができなくなってしまった。

 戦争を始めるために、世論をあまりにも扇動し、戦争機運を高めてしまったことで、

「勝っているのに、なぜ戦争をやめなければいけないのか?」

 と国民は思うことだろう。

 国民は、かつての戦争の講和条約において、ことごとく、辛酸を舐めさせられたことを思うと、簡単には、引き下がないに違いない。

 日清戦争の際の、ドイツ、フランス、ロシアによる三国干渉によって、遼東半島を返還させられたこと、さらには、日露戦争においての、ポーツマス条約で、賠償金を得られないという屈辱から起こった、日比谷公会堂焼き討ち事件という思いが頭をよぎったはずである。

 だから、完膚なきまでにやっつけてしまわないといけないという思いがあるのではないだろうか。

 考えてみれば、日清、日露戦争とも、完全勝利ではなかったはずだ。北京にも、モスクワにも兵を進めたわけではない。あくまでも、立場がよくなったところで、講和に持ち込んだのだといえるだろう。

 しかし、弱小と言われた明治日本が、当時の眠れる獅子と言われた清国に、さらには、世界最大と言われる陸軍国であるロシアに、勝つためには、そうするしかなかったのだ。

 昭和になっても、相手が、米英蘭では、当然に勝ち目があるわけもない。特に米国に対しては無謀であり、机上演習でも、完全に日本の負けであり、まったく勝ち目のない戦争だったのだ。

 日本は、最終的に敗戦国となり、占領軍によって武装解除、さらには、

「押しつけの民主主義」

 による、

「平和主義国家」

 になったのだ。

 日本は、戦後のハイパーインフレなどの混乱を乗り切り、朝鮮戦争における、戦争特需によって、復興を成し遂げることになったのだ。

 アジアの国々も、その後、次々に独立していき、日本の目指した、

「アジアの開放」

 が行われることになったのは、ある意味皮肉なことであったのだろう。

 そのあと巻き起こったのは、それまでの民族主義という考え方ではなく、社会や国家の主義というものによる世界の体制であった。

 つまり、アメリカや西欧諸国による、民主主義陣営と、ソ連を中心とした社会主義陣営の戦いである。

 それまでの戦争と大きく違うのは、アメリカとソ連との間で、

「核の脅威」

 というものが、全面に出てきたことだった。

 大戦後の世界の構図が、民主主義国と、社会主義による内政干渉などによって、社会主義国家の建設が、いろいろな地域で増えていった。

 大きな問題として、分割占領が行われた、ドイツと朝鮮半島の問題であった。

 ドイツでは、

「ベルリンの壁」

 が建設され、朝鮮半島においては、

「38度線を境に、北は社会主義国、南は民主主義国として、それぞれ、ソ連をアメリカが介入する国家に分裂し、そこで、北が、朝鮮半島統一をもくろんで、戦争を仕掛けてきた。これが、朝鮮戦争である」

 というものだった。

 その後、アメリカの暗部の中央アメリカにおいて、

「キューバによる社会主義革命」

 が起こったことで、アメリカとソ連が一触即発の、

「キューバ危機」

 が起こり、その事件が、

「全面核戦争の脅威」

 が現実となったのだ。

 sもそも、

「核は持っているだけで、相手に手を出させることのできない抑止力になる」

 というものであった。

 つまり、偶発的な事件から、核のボタンを押すということになり、核爆弾の応酬となり、世界は、放射能に汚染され、人が住めるところがなくなるのではないかという恐怖であった。

 そこから、アメリカとソ連とで、直接対決はありえなくなった。朝鮮戦争でもそうであったが、その後に起こったベトナム戦争でも、結果的にそれぞれの体制の大国は裏にいて、

アメリカとソ連の、

「代理戦争」

 ということになるのだった。

 ベトナム戦争は反戦ムードのせいで、アメリカが撤退することになり、起こされた南ベトナムが、攻め込まれるという、アメリカが見捨てたという状態になった。アメリカという国はいつも同じことを繰り返す。中国内線しかり、アフガニスタン問題しかり、イラク戦争しかり、

 つまりは、アメリカの勝手な正義の下で、いいように扱われた国が見擦れられて、崩壊することになるというのを、何度繰り返せばいいのだろう?

 これが、

「世界の警察」

 というものを名乗る国家だといえるのだろうか?

 世界が、

「冷戦」

 と言われていたそんな時代であった。

 そんな時代における主義もいろいろ変わってきた。現在では、ソ連の崩壊とともに、あれだけあった社会主義国は、数か国に減ってしまった。

 当然、冷戦というものはなくなったが、それに代わるものとして、組織が国家に対抗するという、テロ組織が台頭してくることになる。

 ゲリラ戦を仕掛けてきたり、自爆テロなどと、以前からの過激派や、パルチザンのようなものが暗躍する時代である、そういう意味で、昔から今も脈々と続いているもので、

「宗教主義」

 とでもいうのか、

「信仰至上主義」

 とでも言えばいいのか、戦争や紛争の原因となるものは、古来から宗教がつきものであったりするではないか。

 信仰や、崇拝するものに対しては命も惜しまない。命を犠牲にしてでも、守り通すという考えだ。

 死んだ後のことを神様は保証してくれるとでもいうのだろうか?

 キリスト教などの代表的な宗教には戒律というものがあり、そこに明記されている、

「人を殺めてはいけない」

 という言葉は、一体どういうことなのだろう。

 キリシタンで有名な、細川ガラシャ(たま)は、夫である忠興のために、石田三成から人質にされることを嫌って、自らの命を絶ったという。しかし、キリシタンは、

「自殺は許されない」

 ということで、配下のものに、自分を殺させることで、目的を達成した。

 しかし、これはどうなのだろう?

 自らの手で人を、あるいは自分を殺さなければそれでいいというのか? 配下の人間に自分を殺させるというのは、人を巻き込むということである。

 配下の者が、キリシタンではないので、自分を殺させてもいいということなのだろうか?

 もしそうであるとするならば、発想が貧困な気がする。あくまでも、解釈によるものであり、教えに対して、考えが甘いといえるのではないだろうか?

 そもそも、なぜ自殺がいけないと言っているのか分かってのことなのだろうか? 人を殺すのも、自分を殺すのも、人に銘じて、誰かを殺させるのも、人の命を奪うという意味で、どこに隔たりがあるというのか、考えさせられてしまうではないか。

 古来からの戦争の歴史において、宗教がらみがどれほどあることか。

 それを考えると、虚しさというか、諸行無常を感じさせる。盛者必衰であり、物事には限りがある。

 では、宗教における、

「あの世。神の国」

 というのは、限りのない世界なのだろうか?

 考えれば考えるほど、答えは出てこない。宗教ほど、死後の世界に救いを求めるものもなく、そのくせ、死というものを恐れていないと言いながら、真剣に向き合っているように見える。

 それなのに、どうして、死後の世界においてを代償に、自爆テロであったり、テロ行為を繰り返させるのだろうか? 自己犠牲が、美しいとでも言っているかのようで、誰かのために、犠牲になることをいとわない。そして、その誰かというのは、神ではなく、同じ人間なのだ。

 テロで死んだ人間は、いくら聖戦を戦っているとはいえ、侵略に対しての自己防衛以外のことだってある。下手をすれば、自分たちを助けようと思っている人まで、殺してしまっているかも知れない。

 今の宗教団体を見ていると、教祖が独裁のために、信者の心を利用して、自分に神と同等の力があるわけでもないのに、あたかもあるかのように欺いて、自分の私利私欲のために利用しようとしている極悪で、変態な、教祖を名乗る人が宗教団体の数だけいるということである。

 教祖になった人が、まわりから祀り上げられ、力もないのに、表に出されている傀儡の教祖だっていることだろう。

「団体の数だけ教祖がいて、神同等の力があるのであれば、それこそ、この世に戦争も紛争もない理想郷が出来上がるはずだ」

 それはできないのではなく、しないのだ。

「薬の開発に携わる人が、決して不老不死の薬を作ることをしないのは、そんなものができてしまうと、商売にならないからだ」

 と言っているのと同じことである。

 世の中には、実際に登録されている宗教団体であったり、非公式なものを含めると

どれだけあるのだろうか?

 そもそも考えてみれば、憲法で、政教分離の原則があることで、

「信仰の自由」

 が許されているのである。

 しかし、今の日本はどうであろう?

 政府与党の政党の母体が、宗教団体ではないか? ということである。

 この議論は、日本国憲法ができた時からあった。

 憲法では、

「いかなる宗教も政治利用してはならない」

 とされているのに、どうしてこんなことが許されるのか、ありえないことに思える。

 そもそも、国家が国教というものを持っていて、その国境に基づく政治結社があるのとは、訳が違うのである。

 つまりは、

「憲法違反」

 なのである。

 つまりは、日本が軍隊を持つのと同レベルの発想であり、その軍隊が、専守防衛ではなく、侵略戦争を起こすのを許すようなものだ。

 それなのに、なぜ、母体が宗教団体の政党が存在し、さらには、それが与党だというのだ。

 元々は野党だったものが、その宗教団体の票がほしいというだけの理由で、過半数突破のために、手を結んだというだけの、薄氷のような結びつきで、元々の与党が強ければ、こんな宗教政党など、鼻息で吹き飛ばされるレベルである。

 そういう意味で、

「日本というのは、何と訳が分からない国なんだ」

 ということになる。

 しかも、国家元首を選ぶのが、直接選挙ではないというのはどういうことなのか?

 これが本当の民主主義といえるのか?

 衆議院選挙において、与党が過半数に達すれば、与党がそのまま責任政党を引き継ぎ、政府となる。そして、その政府から、責任政党の議員と、政党に加盟している全国から選抜された人の投票によってソーリが選ばれるのだ。

 だから、

「自分に疑惑があれば、ソーリどころか、国会議員も辞める」

 などということを言っておいて、都合が悪くなると、一人に責任を押し付けて、自殺に追い込み、それを勝手に解決済みということで、責任逃れをし、さらに、最後に都合が悪くなると、

「病気になった」

 と言って、病院に逃げ込むことを、2回もやった、

「国家反逆罪に当たるような男」

 が、ソーリとしてのさばることになるのだ。

 しかも、自分が追求を受けた場合に助けてもらえる可能性の高い検察官が定年になるからと言って、保身のために、法律まで変えようとしたとんでもないソーリである。

 もっとも、この時の検事は、掛けマージャンをしたことで、自分から辞めなければならなかったという茶番付きであった。

 このソーリには、茶番がつきものだった。

 伝染病が世界的に流行った時、有名アーチストとコラボの動画をアップしたりしたが、それは無許可であり、国民のひんしゅくを買ったり、さらに、国民の税金を使って、マスク不足の時、使い道のないような意味のないマスクを国民に配って、自分の実績にしようとしたようだが、何とソーリ退任後、そのマスクが余ってしまって、今は保管料だけで、かなりの額がかかっているという、茶番のおまけつきだった。さらに、そのマスクは、自分の、

「お友達会社」

 にやらせて、いくらの

「中抜きをやったのか?」

 ということが、問題にもなっていた。

 何しろ、誰も聞いたことのない会社で、地元の人も名前も知らないような会社だったというではないか。当然のごとく、不良品の山だったことは言うまでもない。

 ここまで、日本の国は腐ってしまったのであろうか?

「亡国とどこに導こうとしたのか?」

 政治不信が募るのも当たり前といえるだろう。

 もっとも、このソーリは、宗教政党ではなかったということだけは、追記しておこう。

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