第2話 無常の表裏
大学時代のことだった。
須川正樹は、一年生の頃、
「まずは、友達をたくさん作ること」
と目指していた。
小学生じゃあるまいし、
「友達百人できるかな?」
などという歌詞が思い出される。
高校生の頃までは。友達がほとんどおらず、いなかったというよりも、自分から近づいていかなかったというのか、友達になりたいような人がいなかったのだ。特に高校時代は、開放的な連中は、校則を破るような連中ばかりで、自分がその輪の中に入ってしまうと、
「俺の人生が終わっちゃうんじゃないか?」
というほどまで考えていたのだ。
最低でも、どこかの大学に引っかかるくらいのことがないと困るということまで考えていて、中には、
「受験さえすれば、どんなに成績が悪くても、合格できる」
と言われるほどの大学にまで行きたいとは思わないが、せめて三流と言われる程度の大学にまで引っかかってくれればいいという程度のレベルの低い進学を目指していたのだ。
だからと言って、本当に三流でいいなどと思っていない。
そもそも、どのレベルが三流大学なのかという、疑問を持っていて、大学にレベルをつけるということが理不尽であると思いながらも、
「せめて、二流でもいいから」
という、考えるたびに、矛盾だらけの発想が頭に浮かぶのだった。
だから、受験勉強をすることが、そのまま孤独であると思っていた。
孤独をたぶん、自分も含めてであるが、皆嫌だと思っている。しかし、孤独に打ち勝ってこその受験戦争だという、誰が言ったのか、責任者を言及したいという思いを持ちながらも、
「なぁなぁでは受験に打ち勝つことなどできるはずがない」
と、断言できるほどに考えていたのだ。
受験というものを、
「大人になるための、登竜門」
という感覚で思っている人がどれだけいるだろう?
須川は、少なくともそう思っていた。
そうでも思わないと、本当であれば、親友であったり、人生を歩んでいくうえで、貴重な同年代の仲間であるはずのクラスメイトを、友達としてではなく、受験生としては、ライバルとして見なければいけないことへの、納得のいく理由付けになるわけではない。
何とか自分の中で、受験生としての立ち位置で、まわりの人をライバル視しなければいけないその理由をどう、納得できるように解釈できるのかということを考えなければいけないのかということになるのだ。
もちろん、皆同じ大学を目指しているわけではない。
しかし、中学から高校受験をした時、ある程度、中学生の時点で、同じレベルの人たちが集まってきているはずなので、レベルはそれほど違ってはいないだろう。
だが、高校受験において優秀な成績、進学校と言われるところを目指していた人が入学した高校は、実際に、レベルの高い学校なのだろう。
それだけに、中学時代までは、絶えず成績優秀で、上を見ても人がいないので、下を見下げることしかしてこなかった人間が、高校に入れば、今度は皆自分よりもレベルが上か、ほぼ同等の連中になるのだ。トップ集団が襟すがれて集まってきたのだから、最初こそ、
「トップ集団の仲間入りだ」
と喜んだのだが、実際に自分がその中でどれほどのレベルなのかということを思い知った瞬間、愕然としてしまうのは、当然のことであろう。
幸い、そこまで中学時代に成績優秀だったわけではないか、一般的な、
「中の上」
といったくらいのところにいたのだから、一般的な高校に入学した。
その頃には、勉強にも興味はなく、クラブ活動をしているわけでもなかった。要するに、何に対しても無関心で、やる気のない生徒だったということである。
高校二年生になったら、大学受験が控えているということも分かっていたし、
「就職はせず。とりあえず、進学しよう」
と思っていた。
その理由は、
「まだ、楽をしたいから」
というもので、そもそも、楽をするということがどういうことなのか分かってもいなかった。
大学にいくと、楽しいキャンパスライフが待っているということを頭に描いていて、描いてはいるくせに、具体的には何も分かっていなかったのだった。
本当に、何もすることが浮かんでくることもなく、それこそ、
「つれづれなるままに」
そんな感じの生活しか思い浮かばなかった。
「そういうのを、ものぐさというのだ」
ということだと理解し、ものぐさというものを調べてみたが、
「物が臭い」
というところから来ているということ。
ものぐさの言葉の意味は、面倒くさがりであったり、無精であるということなのであるが、
「臭い物」
というものが、本当に匂いがきついという言葉だけではなく、
「怪しいもの」
というような意味で使われることから、病気で体調が悪かったりした時に、身体を動かすのが億劫に感じたりすることで、面倒くさく感じたり、無精になってしまうことから来ているということであった。
だが、面白いもので、無精だ、面倒くさいと自認している人間が、その言葉について知ら寝ることをいとわないというのだ。
要するに、
「自分に興味のあることなのか、ないことなのか」
で分かれるということだ。
興味のあることには、必要以上な努力を惜しまないが、興味のないことであれば、本来ならしなければいけないことにまで、全く手を付けない。
それをものぐさと言えるかどうかであるが、厳密には違うのではないだろうか。
しかし、興味のあることに尽力を惜しまないというよりも、しなければいけないことをしないことの方が目立ってしまえば、それはものぐさだと言ってもいいのではないだろうか?
ただ、それも人それぞれで、自分が違うと言っているとすれば、それを、
「ものぐさだ」
と言って、避難できるだろうか?
もちろん、誰にも迷惑が掛かっていないということが前提なのかも知れないが、極端な話、世の中に失望して、生きていくことに価値も興味も失ってしまった人が、誰にも頼ることなく、食事をすることさえ億劫になって、そのまま衰弱して死んでいったとして、
「なんて、ものぐさなんだ」
と言って非難できるだろうか?
「誰にも迷惑をかけていない」
といえるかも知れないが、死んでしまった後始末を必ず誰かがしなければいけないわけで、ただ、それも承知で死んでいったとすれば、ある意味、
「潔い」
といえるのかも知れない。
あるいは
「これこそ、ものぐさの境地であり、死ぬことを怖がることもなく、人知れず死んでいったのだ。もし、その人が死んで、悲しむ人が誰もいなければ、最高の断捨離だったのではないだろうか?」
ということで、潔さと言えるようにも思える。
もちろん、人それぞれの考え方なので、何とも言えないが、人それぞれというのであれば、
「この場合の死んだ人間を、とやかく言える人間が果たしてこの世に存在しているだろうか?」
といえるだろう。
そうなると、
「人を非難などできるわけはない」
という究極の考えに至ってしまうのは、いいことなのか悪いことなのか?
そもそも、人の善悪を他人が判断できるものなのだろうか?
そんな須川が何とか大学に入学すると、三流とまではいかないが、自分では二流と思っているところに滑り込むことができた。そもそも受験勉強など真面目にもやっていなかったので、大学に入学できたとしても、正直、嬉しくはなかった。
それは、あくまでも、達成感が足りないという意味だけで、入学できなければ、働かないといけなくなり、それはそれで嫌だったのだ。
ただ、達成感がないと、
「バラ色のキャンパスライフ」
などというものは、まったくの絵空事でしかなく、入学した意味がどこにあるのかという、最初からマイナス意義しかないということになるだろう。
「負のスパイラルは負しか生まない」
と自分で認識していることもあって、自分にとっての最高潮が、
「現状維持だ」
と思っている。
ここからいい方に進むとすれば、それは運しかないだろう。運よく上昇気流が吹いていれば上に上がっていくし、吹いていなければ、落ちていくだけだ。自然任せの人生、まるで、風まかせであり、格好よく聞こえるが、要するに逃げているだけである。
これが、人生終わりくらいになると、本当に潔いといえると思うが、まだまだ人生これからだと、どうにでもなるというものだ。
ただ、これは、最初から、
「最高潮は、プラマイゼロだ」
と思っている人間だから言えることで、
「大学入学が、人生の岐路であり、ここからが上昇するだけだ」
と思っている人にとっては、人生の終わり、あるいは、定年間近の人が考えたとすれば、
「何が潔いといえるのか?」
ということである。
この年齢を目指して、どんどん上に上がろうと思っていたのだから、今から見上げたとしても、はるか遠く、そして高いところにいるはずではないか。見上げても見ることもできないほどの天井、それこそが、生きがいというものではないか。
だが、須川は、人生の終わりはそれでいいと思っている。一つの理由として、
「人間の欲には限りがない」
という考えだった。
上を見れば見るほど、上がっていけば行くほど、さらにそこに先があることを知って、愕然とし、その時点で人生に失望するのは嫌だという考え方だ。
最初から、そんなものは存在しないと思っていると、気が楽ではないか。
「どこまで行っても先は見えない。追うだけ無駄だといえるのではないか?」
ということである。
それに、よくいうことわざで、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
というではないか。
元々は。慢心を戒める言葉として使われるのだが、目指せば目指すほど、先が見えないという、
「無常」
を表しているといってもいいのではないか。
つまり。一つの戒めの言葉には、その裏が潜んでいて、まったく逆から見れば、まったく違ったものが見えてくるのではないかという考えも成り立つというものだ。
無常というのも、その一つで、歴史や古文の授業で習った、
「平家物語」
諸行無常という考えがあるが、これは、
「形あるものは、必ず滅びる」
というものだ。
これはある意味、無常ではあるが、逆に考えれば。
「滅んでしまえば、生前どのような栄華を誇った人間であっても、最後には平等に土に返るだけだ」
ということである。
宗教というと、死んだ後の世界に、この世で満たされなかった思いを託すという意味のものであるのが、本来のものであるはずなのに、滅んでしまうと土に返るだけという考えは、肉体に対してのことであるのに、まるで魂も一緒であるかのように勘違いされるであろう解釈は、宗教というものに対して。矛盾しているということになるのではないだろうか?
それを思うと、やはり無常には、表裏それぞれの面があるといってもいいのではないだろうか?
だが、須川という男、それほど、ネガティブに考えるタイプではなかったはずだ。
というよりも、ここまで、被虐的になり、投げやりでもなかったと思う。まるで、人生に失望した人間であるかのようなこの性格は、いったい、いつから育まれたものだったあのだろうか?
「ひょっとすると、前世での記憶が潜在意識として残っているから、潜在意識や夢というものを意識するようになったのだろうか?」
と考えてみた。
夢というものや、妄想には興味があった。元々、須川は、
「何もないところから、何かを作るのが好きな性格だ」
と自分で思っていた。
人が作ったものを利用したり、それで何かを達成したなどと考えることを、罪悪だとすら思っていた。
考え方にかなり偏りがあるのは分かっている。しかし、個性のない考え方からは、何も生まれないと思うのだった。
そう、ここでも、まず頭に浮かぶことは、
「何かが生まれる」
ということである。
「生み出すことがすべてであり、生み出されなければ、極端に言えば、生きている意味はないとまで言えるのではないだろうか?」
とまで考えていた。
だから、今の生活をしている限り、自分が興味のある、唯一の生きがいと言える。
「生み出すこと」
というのを得ることができず、その結果、ネガティブな発想にしかならないのだ。
だが、それも、
「無常というものに、表裏がある」
という考え方が生まれてから、だいぶ変わってきた気がするのだ。
ネガティブになればなるほど、その反動が生まれてくるのを、ある時期から感じていた。自分が、何かから逃れようとする、
「逃げ」
という発想を抱いているからではないかと思ったが、そうでもないようだ。
実際に、ポジティブに考えることを楽しいと思うようになり、それが、
「無常における表裏の存在」
であるということに気づいたからだろう。
だからといって、すべてを楽天的に考えてしまうと、その反動が計り知れないことも分かっている。
だから、
「夢で、楽しい夢を見た時覚えていない」
という理由付けに、
「覚えていたとして、それが頭から離れないと、反動が起こった時に、耐えることができなくなるからではないか?」
と思うからであった。
生きていくうえで、無常ということから離れることはできない。だからと言って、無常ばかりを気にしていては、先に進むこともできない。
無常の表裏の発見は、そのジレンマに一石を投じることで、納得したうえで動くことができるという証明になるだろう。
「自分が納得するということは、自分で証明してみせる」
ということであり、証明は、何も自分がしなくてもいい。
導くことだけでもいいという考え方であった。
高校時代に、無常を教える学問があるというのも、どうかと思うが、それを自分なりに理解して、無常を受け止めたうえで、その表裏性を証明することが大切なのだろう。
たぶん、ほとんどの人は、無常の何たるかすら分かりはしないだろう。だからこそ、歴史というものが嫌いなのであり、歴史をただの暗記物として考えることで、覚えられないことを、どのように解釈するかが本当は問題なのに、それにも蓋をするのであった。
覚えられないのは、その時代を輪切りにして、平面ですべてを理解しようとするからだ。何かの事件があれば、その前後、つまりは、きっかけがあり、そして結果がある。結果というのはあくまでも現在であり、それ以降というのは、その影響ということである。
これは社会人になると。自然と分かってくるのに、なぜ学生という一番柔軟な頭が理解できないのか。それが、
「無知の、無知たるゆえん」
ということなのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「夢にも裏表があるのではないか?」
と思うようになった。それは怖い夢を見ながら、その間に楽しい夢がこっそり挟まっていたり、逆に楽しい夢の中に楽しい夢が挟まっていたりという、いわゆる、
「能と狂言のような関係」
つまり、真面目なものの間に、おふざけを追加して、観客の気持ちや場を盛り上げるという他に、芸術のふくらみを横に感じさせるような感覚に影響していると感じるものであったり、
「抹茶とお茶菓子」
のように、苦いお茶に対して、
「お茶の美味しさを引き立て、見た目の美しさや季節感、おもてなしの気持ちを伝える役割がある」
と言われている。
それぞれ、裏表があれば、見た目や雰囲気だけではなく、
「相手を納得させられる理由」
も存在するということで、実に大切なものだといえるのではないだろうか。
夢の裏表を考える時に、夢自体の裏表なのか、夢を見る人間の裏表なのかということを考える必要もあるだろう。
夢自体の裏表というと、前述のような、楽しい夢の間に、いきなり怖い夢が入ってくるような、
「夢の途中で、どんでん返しが起こる」
というような場面である。
この場合、夢が一つであるかどうか? つまり、繋がった夢なのかどうかということも大きくかかわる。どちらにしても、潜在意識が関わってくるからである。
それとは別に、
「夢を見る人間の裏表」
というのは、どういうものなのだろうか?
そもそも、
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
という話があるではないか。
潜在意識の裏表というと、パッと思いつくのは、
「二重人格」
ということであろう。
そして、具体的な話として頭に浮かぶこととして、ほぼ同時くらいに、
「ジキル博士とハイド氏」
の話を思い出すのではないだろうか?
この話は、ジキル博士の開発した薬が、自分の中の潜在的にあるもう一つの性格を表に出すというだけのものだったのだが、それが飲みすぎが影響したのか、それとも、裏に潜んでいるもう一つの、「悪」の部分の、眠っていた性格が覚醒したことから歯止めが利かなくなってしまったことから来る悲劇なのか。
元々、作者のスティーブンソンは、ジキル博士が自分の中に、悪が潜んでいることを分かっていて、
「完全なる善意をもってすれば、完全なる悪意を消し去ることができる」
という信念を持っていた。
そこで開発した薬を誰で人体実験を行うかということを考えていたが、まわりから反対されたことで、自分で人体実験をすることを考えたのだ。凶悪化したジキルはハイドとなって、屈辱の目に遭わせた人たちを手にかけ、女を蹂躙していき、自分のものにするという快感を知った。
そして薬なしでハイドになる自分が、凶悪であることを知らなかったが、やがて知ることになるというお話である。(ネタバレになるのでここまで)
この話ではいったい何が言いたいのか?
聖書における、
「バベルの塔」
の話のように、
「神のような能力を人間が持とうとするというのは、悲劇しか生まない」
という、宗教的な側面なのか。
それとも、
「悪と善はしょせん違うもので、悪を懲らしめる善という勧善懲悪は、理想でしかないのではないか?」
という倫理的で、モラルの発想なのか。
または、人間が自分の中にある無意識なる潜在意識を薬の力を使って、表に出そうすることが、科学への冒涜になるという、これから発展されてくるであろう科学に対しての警鐘なのだろうか?
そのどれらも、説得力があり、そのすべてを作者が意図したものなのかまでは分からないが、少なくとの読者にそれを考えさせる力を持った作品であるということは間違いのない事実なのである。
夢による裏表であったり、ジキル博士とハイド氏のような物語における裏表の存在であったり、いろいろ考えられるか、少なくとも、この二つに関しては、潜在意識というものが働いているといえるだろう。
また、裏表という意味で、
「長所と短所」
というものがある。
これも、
「善と悪」
というようなものと似ているが、ここでいう
「ジキルとハイド」
の影響として考えられることとして、この長所と短所を考えた時のように、
「紙一重である」
という考えも成り立つのではないだろうか?
「長所と短所は、紙一重である」
という言葉もあるが、それはあくまで、
「表と裏はくっついている」
という発想から来るのではないだろうか?
この考え方が、
「鏡の見え方」
というものに影響しているのではないかと思われる。
というのは、鏡の見え方として、
「左右は対称に見えるものだが、上下は対称には見えず、上下はひっくり返ることはない」
というのは、誰もが認識していることであろう。
しかし、
「左右が対称になるのに、どうして上下が対称にならないのか?」
ということに、疑問を持つ人は結構少ないのではないだろうか?
子供の頃から、
「鏡というのはこういうものだ」
と教えられたものであるから、鏡の特徴を、
「左右が対称に見える」
ということをまるで不思議なことのように捉え。上下が普通に映っていることを当たり前だと考えていた。
しかし、左右対称が当たり前だと考えるならば、どうして上下が逆さにならないことを疑問に思わないのか。実におかしな考え方だといえるだろう。
左右対称というのは、当然のごとくのように説明されているが、上下に対してはハッキリとした理由は科学で証明されていない。
「左右対称と一緒に考えればいいだけど、それは自分の視線を鏡に映っていないもの。つまり、前を向いているが、背中を見ていると考えれば理解できるのではないか?」
という説があるが、それがどうも一番しっくりくるような気がする。
鏡というものが、過去からずっと神秘的に考えられているのは、左右が対称であるということよりも、ひょっとすると、上下がさかさまにならないことの方を神秘的だと考えているからなのかも知れないといえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「裏表という発想が、背中合わせだという考え方であったり、長所と短所のように、紙一重だと思うのは、鏡というものを媒体として見ているか、神秘的なものとして見ているのか?」
ということに尽きるのではないだろうか。
それを無常を一緒に考えて、裏表を見ることに、夢が関わっているような気もしてきた。
ちなみに、これは、
「無常であり、無情ではない」
そこに、情けは存在しない。
そのことを考える必要というものがあるのではないだろうか? あくまでも、自然の摂理に近い考えなのである。
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