第3話 人に合わせる性格

 高校時代に、自分の中でものぐさな性格と、無常という言葉から、ネガティブな発想に目覚めることになった須川が、何とか大学に入学できたことは、まわりの人に、ホッとした気持ちを味わわせたといってもいいかも知れない。

 本人は、とっくの昔に自分のことなど、まわりの人は見限っていたと思っていたが、意外とそうでもないようだった。

 大学生になったことが、自分でも信じられないという思いもあった。その思いが、何をするにおいても、

「ひょっとすると、それまでとまったく違った毎日になっているのではないか?」

 と考えるのであった。

 裏表についていろいろ考えていたが、ある時、

「裏の裏は表なんだ」

 ということに、ふと気づいた時、思わず、噴き出してしまった気がした。

 これだけいろいろ難しいことを考えてきたのに、

「そんな簡単なことにいまさら、なぜ気が付かなかったのか?」

 ということである。

「マイナスにマイナスを掛けると、すべてがプラスになる」

 ということである。

 これは、割り算でも同じことで、得意な算数レベルの問題である。そのことを考えると、加減方では、そうとは限らない。

「マイナス同士の差は、マイナスの小さい方が引かれるはずだとすると、プラスになる」

 ということである。

 だから、一概には割り切って証明することはできないが、裏表を乗除と考えるならば、この考えはすべてを満たしていることになる。

 そういう意味で、今までそんな簡単なことに気づかなかったというのは、

「乗除だけではなく、加減まで一緒に考えていたから、結論が得られなかったのだ」

 と考えると辻褄が合うだろう。

 そう思っていると、

「物事は、そんなに難しく考える必要はないんだ」

 と思うようになった。

 ものぐさだった頃のことを忘れたわけではないので、楽観的に考えることに、苦はなかった。

 それを思うと、

「もっと気楽に考えればいいんだ。歯車だって、潤滑油があることで、滑らかにそして、自然に動くことができるではないか。もっと言えば、遊びというニュートラルがどれだけ必要か?」

 ということではないのだろうか?

 そう思うと、まず自分に足りないことを考えてみると、これまた単純であるが、

「友達がいないこと」

 だったのだ。

 普通だったら、簡単に思いつくのだが、なぜ思いつかなかったのかというと、

「友達がいないことで、何が自分にとって損なのか?」

 という発想がなかったからだ。

 つまりは、

「損得勘定」

 という発想が、最初から自分に備わっていなかったのだ。

 そもそも。ものぐさな人間に損得勘定などあるわけもない。

「損得勘定は、悪だ」

 と思っていたからだ。

「では、何が悪なのか?」

 と言われても答えようがない。

 ものぐさなのだから、損と得というものを、見えない天秤に架けて、無意識に平衡感覚にしてしまっていたのだから、それも当然のことであろう。

 そのことを考えもせず、無意識になっているということから、いかに自分がものぐさだったかを思い知らされるのだったのだ。

 大学に入って、

「友達がほしい」

 と思ったことは、自分の中で、

「友達がいない」

 ということを飛び越して考えるということだったのだ。

 友達がいないということにいまさら気づくというのは、それだけ、友達というものに対して意識が薄かったということなのか、それとも、友達を作ることを怖がっていたのか。

 もし怖がっていたのだとすれば、そこには

「裏切られたくない」

 という思いが隠れているのであり、それが、先見の明であるかどうか、見定める必要はあるのかも知れない。

 そういう意味では、

「やみくもに友達を作るものではない」

 と考えるべきなのだろうが、実際にはそうではない。

 友達を作らないということは、友達がほしいからだという単純な思いだけではないように思ったからだ。

 しかし、実際に友達を作ろうとしてみると、これが意外と面白い。面白いというのは、

「面白いほどに、友達ができる」

 ということだった。

 それは、表面上のことだけなのかも知れないが、高校時代までのように、

「まわりは敵だらけだ」

 という意識からか、こちらから近づけば、必ず警戒されたにも関わらず、今度は近づけば、相手は喜んでくれる。

 それはそうだろう。自分から近づくこともなく相手から寄ってきてくれるのだ。特に、いざとなったら、何を話しかけていいのか分からないと思っている人にとっては、救いの神と言ってもいいだろう。

 自分から動かなくても、まわりが動いてくれる。

 それが大学というところなのだろう。

 だが、次第に引っ込み思案になっている自分から動きたいと思うようになる。なぜなら、そういう人に限って、高校時代までは、

「自分は環境さえ整えば、友達なんかすぐにできるはずだ」

 と思っていて、しかも、それを自分から率先してできると思っていたのだ。

 それができないと気づくと、それまでの自分が、すべて否定されたような気分になり。そこから生まれるのが、

「負のスパイラル」

 である。

 大学入学というのは、それまで知らなかった。いや、知ろうとしなかった自分の性格を、まるで鏡を見ているかのように映し出された状態になるものなのかも知れない。

 だが、その大学というところは、そんな自分を救ってくれる人がたくさんいる場所でもある。

「大人になるということは、そういう仲間をたくさん作ることだ」

 と思うと、就職せずに大学に行ったのは正解だったと思うのだった。

 では就職していれば、どうだろうか?

 確かに、本当の自分を知り、負のスパイラルに落ち込むというのは、大学入学と同じことだが、社会においては、先輩というのも、

「昔の自分も先輩の愛の鞭を受けることで這い上がってきた」

 という精神論を盾に、力ずくで押し上げようとするだろう。

 そうなると、いい意味で神経の図太い人間には、バネになって力になるのであろうが、そうではない、一般の精神的にやっとこれから大人になろうとしている発展途上の人たちには、

「出る杭」

 として、

「打たれる」

 ということになるに違いない。

 それを思うと、入社から数か月で、かなりの人間が挫折して、退職していくかということが分かるというものだ。

 会社側もそれを見越して、たくさん受け入れる。つまり、ついてこれない人間に対しては、辞めていくことを辞さず、残った人間しか大切にしない。完全に捨て駒でしかないのだ。

 そういう意味では、須川の進学というのは、正解だったのかも知れない。臆病というのも、時と場合によっては、

「慎重だ」

 と見なされるのだ。

 だが、須川に友達ができたといっても、そのほとんどが、朝の挨拶を交わす程度のものだった。

 それでも、高校時代までには、そんな友達など一人もおらず、自分が、友達に飢えていたということを証明するものであるのは間違いないことだった。

 しかし、それは皆同じだったということに気づかなかったことにあった。それは自分だけではなく、まわりの人も同じだった。だから友達になれそうな人を拒む理由も勇気もあるはずがない。

「来るものは拒まず」

 という気持ちが態度にあって現れ、嫌いな人など一人もいないという感覚になるのだった。

 高校時代が、どうして皆あれほど警戒心が強かったのだろうか?

 一人がそうなら、皆そうなのだろう。だから、大学生になって一人が友達を作ろうとすると、皆右に倣えといって、同じ方向を向くかのように、友達の輪が膨れ上がっていくのだった。

 そんなまったく正反対の自覚が、高校生から大学生になったとたんに開けるというのだろうか? もし大学に入学できずに予備校に通うようになっても、予備校では、高校時代ほど暗いという人はいないと聞いている。

「意外と予備校仲間と一緒に、いろいろ出掛けたりもするんだよ。もちろん、受験が真剣になってくると、それどころではなくなるんだけどね。だからこそ、その短い時間を皆で共有して楽しむんだ。一度受験というものを経験したからなのか、それとも、受験という共通の壁にぶつかったという気持ちがあるからなんだろうかね? 大学生が友達を作るのと、明らかに違う絆があるんだよ」

 といっていた人がいたが、その人は決して、その絆が大学生よりも強いとは言わない。

 言わないでも分かるということなのか、言ってしまうと、その価値が失われてしまうという意識が強いからなのか、疑問に思う部分があったりするのだ。

 ただ、大学に入ってからの友達というのは、皆。受験を乗り越えて、一種の成功者ということなのだろうが、友達になる際に、そのことを意識して口にすることはない。まるで、触れてはいけないことのような感じではないか。

 それはきっと、そのことを理由に友達になったということを認めたくないのだろう。それよりも、大学生で友達になるのは、もっと自然に、

「友達になりたいと思ったからであり、他意のないことだ」

 ということを証明したいからなのかも知れない。

 それを思うと、

「本当に大学生になってからの友達というのは、どこまでの絆なのか分からない」

 と感じる。

 それだけに、友達のいうことは、必要以上に信じようと思うようになった気がするのであった。

 というのも、相手のいうことを聞いてあげないと、せっかく友達になってくれたのに、すぐに失ってしまうような気がするからだった。

「あれだけたくさんの友達が一気にできたのだから、一人くらい失ったからといって、どうってことはない」

 と普通なら感じることだろう。

 しかし、実際にはそうではない。

「一人が二人になり、いつの間にか自分のまわりから一気に人がいなくなってしまったとしても、今までの自分だったら気づかないだろう」

 と感じるからだった。

 油断というのとは少し違っているのかも知れないが。それよりも、

「一人くらい」

 という思いが、気が付かないうちに、感覚をマヒさせてしまい、後になって後悔することになると、取り返しがつかないことになるというのを、今から自覚しているのかも知れない。

「夢で見たような気がする」

 と、須川は感じた。

 友達を一気に失うという妄想に駆られていたのは、夢に見たからだった。

「怖い夢というのは、目が覚めるにしたがって、意識が戻ってきたとしても、忘れることはないらしい」

 という自覚があるからだった。

 友達を失うことが怖いのか、それとも、入学前の心境に戻り、もう一度再スタートさせたとしても、そこにあるタイムラグはどうすることもできず、

「時を戻すことはできない」

 ということを、思い知るに違いないと感じるのだった。

 そんなことを思っていると、結局友達を一人でも失うことが怖くて、いつの間にか、

「まわりに合わせてしまう」

 という性格が身についてしまった。

 自分がものぐさで、次第に考えることを辞めてしまうという性格が、いつの間にかしみついてしまったようで、まわりに合わせるのが一番いいと感じるようになった。

 その理由は、ひと言、

「楽だから」

 である。

 楽をするということがどういうことなのか、一度ものぐさになると分かってくる。それは、逃げることを怖いと感じなくなるからだった。

 怖いと少しでも思えば、人間は無意識に、怖いことから逃げようとする。しかし、その逃げようとすることが、

「逃げることだ」

 というのは、何とも皮肉なことである。

 当然、自分が逃げることが怖がることをするというのだと考えると、身動きが取れなくなる。本当はそれが一番怖いことのはずだったのに、それを知ってしまうと、結局楽な方に身を任せてしまうのだ。

 身動きが取れなくなるということが一番怖いということを、考えなしに感じたことをそのまま信じたはずなので、今度は、余計なことを考えないようにしようと思ったことが招いた考えなのかも知れない。

 それが言い訳になって、言い訳することが、一番の近道になるのだ。何に対しての近道なのかが分からないこともあって、またしても、楽な方に流れてしまう。

 納得することが自分のモットーだということを理解しているはずなのに、考えと行動が合致しないというジレンマが、

「まわりに合わせる」

 ということに繋がったのだろう。

「あの人が言ったから」

 といってしまえば、それが自分の考えでないことの言い訳として通用するとでも思ったのか、そう考えてしまうのだ。

 考えれば考えるほど、

「負のスパイラル」

 に嵌ってしまう。

 だが、このスパイラルというのは、本来は螺旋階段という意味である。負のスパイラルはというのは、ずっと下を向いて進んでいる螺旋階段ということだ。しかし、スパイラル自身を、

「負のスパイラル」

 という言い方をするということは、

「負の「負の螺旋階段」」

 と言っているのと同じではないかと思うのだった。

 つまり、

「マイナスにマイナスを掛けると、プラスになる」

 という発想から、

「負のスパイラルというのは、上昇の螺旋階段ではないか?」

 という屁理屈に至ってしまうのも、都合よく考えるからだった。

 当然、どんなに楽天的な考え方をする人であっても、ここまで考える人はそんなにいないだろう。

 それを思うと、考えすぎて、一周してしまったことで、元の位置に戻ってくるという現象を感じるのだった。

「まわりに合わせる」

 ということが、楽だからそうしたということであって、別にそれが悪いことではないだろう。

 そう思ったからこそ、まわりに合わせる自分でいたのだろうが、一つ言えることは、

「それが本当の自分ではなく、偽りの自分だ」

 ということを思わせることで、言い訳をしてしまう隙を作ってしまうのだった。

 そして、まわりに合わせてしまうことの一番のデメリットというのが、

「自分がなんでもできてしまう」

 という風に感じてしまうということだった。

 人に合わせていると楽しいし、言い訳ができてしまう。そして、その言い訳を正当化もできてしまう。何しろ、

「螺旋階段が上昇していくからだ」

 と考えていたからではないだろうか。

 もちろん、それは屁理屈であり、本当にそう考えていたのか、後になってからだから感じることであった。

 人に合わせていると、楽だというだけではない。楽しいのだ。

「楽と書いて、楽しい」

 とも言うではないか。

 同じ字を書くのだ。楽が楽しいのか、楽しいから楽なのか、これも、

「ニワトリが先か、タマゴが先か?」

 というような、禅問答をしているようだ。

 そもそも、

「楽が楽しいのか? 楽しいから楽なのか?」

 という議論は、ナンセンスだといってもいい。

 確かに、どちらも正しいことではあるが、どちらもある意味では正反対だといえるだろう。

 楽をしようと最初から考えるのは、ものぐさな人間なのか、それとも、要領よく立ち回ろうとするからなのかで、最初の入りの幅は広い、しかし、後者の場合は、楽しもうとする場合は、最初から努力によって楽しめる環境を作っておかなければ、楽をすることはできないといえるだろう。最終的には同じところに来るのだろうが、最初が違えばそのプロセスも違うであるから、一概には比較できないということだ。だからこそ、ナンセンスであり、それこそ、禅問答だといえるのだろう。

 だが、人に合わせるということは、楽かも知れないが、果たして楽しいといえるだろうか?

 人に合わせている間は、自分が主導権を握ることはできない。集団の中にいると、自分が輪の中心にいないと気が済まない人、そして、集合写真などを撮る時に、必ず端の方にいて、目立たないようにしようと思っている人のどちらかではないかと最初、須川は思った。

 だが、自分には、人の中心になるだけの技量がないことが分かった。人の中心になるというのは楽なものだと、高校時代までは思っていた。

 会社の社長だって、人から持ち上げられて、それでいて高い給料がもらえて、それによって、家政婦さんなどを雇ったり、大きな家に住んで、気楽に生きられると思っていた。責任があるものだと思っていなかったし、皆が社長を目指すのだから、

「結局皆楽したいんだ」

 と思っていた。

 だが、一番の見落としは、社長というのは、従業員に対して責任があるということである。

 会社の事業が失敗すれば、借金に塗れてしまったりするではないか。時には自分が悪いわけではないのに、従業員が行ったミスや犯罪も、自分の責任として、世間に謝罪をしたり、下手をすれば、辞任に追い込まれたりすることだってあるではないか。

 そのことを徐々に分かってくると、

「出世に何のメリットがあるのだ?」

 と考えるようになった。

 大学を卒業してから、社会人になってから、出世の理不尽さについても知るようになる。昔からドラマなどで、

「出世のために、まわりを蹴落としたりしていたのを見ると、どんだけ出世というものがいいものなのか?」

 と考えていたが、

「出世なんて、給料は見た目は上がっていくのだが、それでも、課長以上には、残業手当は一切支給されない。しかも、部署によって忙しさにばらつきがあり、下手をすれば、一人に仕事が集中してしまうこともある。自分がその一人になることもあるだろうし、なんといっても、出世をすれば、それに比例して責任が重大になるのだ」

 ということだ。

 まるで相撲の世界の番付を思わせた。

「三役と呼ばれる、関脇、小結以下は、勝ち越せば昇進、負け越せば、今の地位の陥落なのだが、大関になると、2場所連続で負け越せば、陥落となり、横綱に至っては、どんなに負け越しても陥落はしないが、勝てなくなると、あとは引退しか道は残されていないのだ」

 ということである。大関になるにも横綱になるにも、ただ勝ち越しただけではダメだ。ある程度の実績が数場所続き、評議委員会が承認することで、推挙され、それを受けるという形になるのだ。一般社会とは少し違うが、責任が重くなるという意味で、比較対象になりうるものであろう。

 大学に入学してすぐの頃などは、そんなこと分かるはずもない。当時は、大学に入学すると、それまでどんなに勤勉に勉強していた人間も、大学という甘い環境に嵌ってしまい、その沼から抜けられなくなるという話を聞いていた。

 須川のように、

「勉強をしたいからというよりも、楽をしたいから」

 という理由で入学したようなやつは、本当に遊ぶことしか考えないのかも知れない。

 それはまわりが感じるよりも何よりも、自分で分かっていたのだった。

「親は、お前を遊ばせるために大学にやったんじゃない」

 あるいは、

「同い年の子で、就職した子は、今頃社会の荒波に揉まれて、必死に大人になろうと努力しているんだよ」

 などと言われて、説教する大人もいるが、そんなことを言われれば言われるほど反発してしまい、

「そんな、誰にでも言えるようなことを、あたかも正義感ぶっていうんじゃないよ」

 と心の中で思っている大学生もいることだろう。

「大学生にだって、その中の社会で一生懸命に生きているんだ」

 と思っている人もいる。

 確かにそうだろう。大学時代の友達は、社会に出てから、大人になってからの宝になるという人だってたくさんいる。何よりも、大人がそういうのだ。

「大学というところは、確かに勉強も大切だけど、どれだけいい友達を作ることができるかということが大切なんだ。その友達が一生の財産になるんだからね」

 といってくれる人もいる。

 同じ大人で、こうも大学生を見る目が違うんだ。

 皮肉をいう人の中には、いろいろな事情で、自分が大学にいけなかった人もいるだろう。家庭の事情という人もいれば、自分が大学に入れるだけの学力がなく、浪人を続けた挙句、大学進学をあきらめた人だっているかも知れない。 そんな人たちが大学生を羨ましく見ているのは当たり前のことで、そんな彼らにとって、

「自分の嫌いな大学生って、どういう学生なんだい?」

 と言われることもあるだろう。

 そこで、よく言われるのが、

「四年間を無為無作為に過ごす人」

 という答えが多いことだろう。

 せっかく大学に行ったのだから、大学でしか手に入れることのできないものを持っていてくれないと、自分たちいけなかった人間から見れば、却って惨めにさせられると感じていることだろう。

 大学でしか手に入れることのできないものというのは、たくさんある。勉強もその一つで、特に、大学でお勉強というのは、特別なのだ。高校生までの受験を前提とした、詰込み教育は、マークシートで回答するようなテンプレートに収められたようなものではないだろうか。

 しかし、大学では、考察するということ、思考を巡らせるということ、発想を豊かにするということ、それぞれに似ているように思えるが、それぞれが孤立して意識しないと成立しないものだ。

 そのことを学ぶのも大学生の特権である。逆に、

「社会に出てから実践的な勉強をできるようになるための準備の勉強をするところではないか?」

 と言っても過言ではないだろう。

 そういう意味で、高校を卒業してから社会に出た人も、毎日が勉強であり、内容は違っても、勉強することに変わりはない。

 今の須川には分かる気がする。

「昆虫の完全変態と不完全変態との違いのようだ」

 と言えるのではないだろうか。

 幼虫からさなぎとなって成虫になるのを栄養を受けながらじっと待って、成虫になる完全変態と、幼虫からいきなりさなぎを経ずに成虫になる不完全変態、実際には違うかも知れないが、

「さなぎは大学生なのかも知れない」

 と感じるのだった。

 そして、もう一つは、

「人生終生勉強だ」

 というよく自分のモットーとして、使う人が多いこの言葉であった。

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