大学時代の夢
森本 晃次
第1話 「夢」考
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和四年二月時点のものです。
皆さんの中で、夢というのを見たことがないという方はいないと思いますが、作者が夢という言葉を大きく分けると、
「寝て見る夢」
と、
「起きている時に見る夢」
の二つに分類できると思う。
寝て見る夢というのは、もちろん、睡眠中に、
「潜在意識が見せるもの」
という定義でいいのではないかと思うが、起きている時に見る夢というのは、決して潜在意識ではなく、顕在意識が見せるものだ。
このように、潜在意識と顕在意識という意味で考えれば、この二つの意味は分かりやすいのではないだろうか。
潜在意識というのは、いわゆる、
「無意識」
のことであり、その潜在意識が眠っている時に見せるのが、
「寝ている時に見ている夢」
であり、デジャブなどの現象である、
「科学的な証明が難しかったり、難しいといわれているものであったりする」
ということになるのだろう。
顕在意識というものは、
「自分の意志で、思考しているという意識があるもの」
と、いうのだという。
ここには、意志というものが存在していて、寝ていては決して感じることのできないものではないかと思えるのだ。
もっといえば。睡眠状態と、意識のある状態の違いは、
「顕在意識に支配されているか?」
ということか、あるいは、
「潜在意識に支配されているのか?」
ということの違いだと言ってもいいのではないだろうか。
そういえば、昔から、
「夢を食べる動物」
ということで、獏というものがいると子供の頃に教えられた。
獏というのは、実際にいるわけではなく、伝説上の生物で、ツチノコや、カッパに類ではないかと言えるのではないだろうか?
悪夢を見た時に、
「この夢を獏にあげます」
と唱えると、二度と同じ悪夢を見ないといわれている。
だが、冷静に考えてみるとおかしな気もする。
というのは、読者の皆さんで、
「果たして、同じ夢を見たことがそんなにありますか?」
ということである。
確かに悪夢であれば、何度か似たような夢を見るかも知れないが、どこか違っているのだ。そんな微妙に違った夢まで、獏が食べてくれるというのか? 逆に、
「獏が悪夢を食べたから、違う似たような悪夢を見たのではないか?」
と思う。
つまりは、潜在意識がそれほど奥が深いということで、獏がいくら食べたとしても、それはいたちごっこであり、まるで、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
という理論になってしまうのではないだろうか?
獏のように、
「夢を食べてくれると、俺にとって助かる」
という思いを持っている人がいて、その人が、獏の存在を思ったとすると、どうなるだろう?
その人だけではない。たくさんの人が思っているからこそ、獏という伝説の動物が生まれたのだ。
一人しか考えていないとすれば、誰も伝説として残したりはしない。その人だけで、簡潔してしまって、未来に残るものではないと感じる。
では、夢を食べてほしいとたくさんの人が思うほど、潜在意識というのは、時として、その人が思い出したくないというほどの夢が、そんなにたくさんあるということだろうか?
「夢に、いい夢と悪い夢、いわゆる悪夢があり、果たし絵どっちの夢の方が多いのだろう?」
当然、人の数だけ夢はある。しかも、一人の人が睡眠のたびに見ているかも知れないという夢である。しかも、一定の時代だけではなく、人類が夢を見ることができると認識してから、どれだけの時代が過ぎてきたというのか、それを考えれば、夢というのは、実に無数にあると言ってもいい。
それが、一つもかぶらずに、無数にあったというのであれば、それはそれで信じられない。
ということは、
「夢には同じものがいくつも存在している」
ということであり、それは、違う人が見る夢なのだから、同じものではないだろう。
ということになれば、一つの考え方として、
「夢の共有」
というのはありえないだろうか?
同じ時代に、同じ夢を見ているとすれば、それは奇跡なのだろうが、
「実は、別の時代の人間と同じ夢を見て、その夢を共有しているのではないか?」
ということである。
それが、片方の人は死んでいても関係ない。死んでいても、魂は残っているというではないか。
つまり、
「死んだ人間だって、夢を見る」
ということで、死んだ人間が、生きている人間と共存できるとすれば、それは夢の中でしかないということになる。
そう考えると、
「初めて見るはずなのに、以前どこかで見たことがあるような?」
というデジャブも説明がつくかも知れない。
「前世で見た」
ということで説明をつけようという人もいるが、同じ世界にいた別人であったとしても、それはありえないことではない。
死んでしまえば、魂だけになるのだから、この世においても肉体は、関係ない。だから、輪廻転生で生まれ変わったとすれば、命あるものであれば、何に生まれ変わっても、別に問題ないのではないか?
天界という発想に、肉体世界から、幽界に入り、そこから上の、霊界であったり。神界であったりするのは。神の世界と考えられるので、人間に生まれ変わることができるのは、幽界に入った、言い方は悪いが、
「その他大勢」
と言ってもいい、幽界の人間だけだ。
しかも、地獄に落ちたものは、人間に生まれ変わることはできない。幽界に入った人も、そこで、記憶を失うくらいいたことで、生まれ変わった時、前世を忘れているという理屈であった。
ただ、地獄にいく人間がいることを考えると、輪廻転生だけでは、この世という世界の人間というのは、減っているということになる。全員が、幽界に行かなければ、確実に人間の数は減っていくのだ。これに関しては、どう説明されているのか、資料がないので分からないが、実に興味深いところだ。
人間界は輪廻転生だけではなく、他に生まれる何かがあるということか?
しかし、逆に地獄に行った人間は動物に生まれ変わるとすると、動物が増え続けることになる。自然界のバランスが崩れはしないか?
動物が、人間に生まれ変わるというツールでもない限り、この説は成り立たない。ここについても、資料がないので。想像するしかないが、果たして。どうなるのだろうか?
前述の、
「夢の共有」
であるが、このことは、以前に読んだ小説の中に書いてあったことだ。
考えてみれば、夢の共有などという発想は、結構ありがちなことであるが、夢を共有するということを、非科学的に考えて、あくまでも小説のネタとして書いていると、ある意味、バリエーションを利かせることができて、発想も膨らんでくるものなのだろう。
だからこそ、いろいろな小説に対しての発想が生まれてきて、そのために、科学的な発想が出てくる芽を摘み取っているのではないかと思うのだ。
だが、前述の私の話のように、確かに天界などという世界の発想を持ち出したところから見て、
「これのどこが科学的だと言えるんだ?」
と言われるかも知れないが、夢というものを、誰かと共有するという発想でいけば、よほど辻褄が合っているのではないだろうか?
科学的に考えるということはそういうことだと思うのだ。
辻褄が合う。つまり、納得がいくということだ。納得がいかないことであれば、誰に何を言っても信ぴょう性がない。
「人を説得するのに、自分が納得のいくものでなければ、うまく説得などできるはずがない」
と言われるが、まさにその通りである。
何か、人に素晴らしさを伝えるのに、自分がどう素晴らしいと感じたかということを言わないと、伝わるわけはないということと同じである。
「夢の共有」
だって同じこと、まずは、自分が信じることで、
「夢の共有はありえることだ」
と信じることで、そこから、どうすれば納得できるかを考えることになるはずだ。
自分が納得さえできれば、そこから生まれてくるものは必ずあるはず。それが、人を説得、いや、その人が、自分で納得したと思えるように導いてあげることが、一番の近道なのだ。
ただ。これが実際に一番難しい。自分で納得するだけでも大変なのに、その人が自分と同じプロセスで納得できるはずもない。だから、自分の経験を話しても同じなのだ。
「相手が納得できるように、導いてあげる」
という考えでなければダメだ。
そのためには、
「君なら、できるはずだ」
ということを示さなければいけない。
それをどうすればいいのか。それは、相手にも、
「自分と同じなんだけど、同じ方法をとる必要などない」
ということを教えなければいけない。
もちろん、教えると言っても、強制ではいけない。間違っている間違っていないという問題を解決するのも、人それぞれ、決まった答えを見つけ出すのに、何も一つの方法である必要はないということを、教える必要がある。
「それが算数であり。数学ではない」
ということだ。
数学のように、公式に当てはめることで答えを見つけるというのは、理論から考えると間違ってはいない考えではあるが、あくまでも、考え方の問題である。算数は、答えを導き出すにはどうすればいいのかを、考える学問だ。そして、その問いに対して、
「どうすれば答えを求めることができるのか?」
ということを、かつての数学者が導き出しものだ。
彼らだって思ったはずだ。
「数列は、規則正しく作られていて、神秘も数字によって解明できるはずだ」
ということをである。
数学というものを教えるよりも、算数のように、公式なしで生徒に解かせることを小学校でやったのだから、なぜ。公式を導かせるような教育をしようとしないのか、一足飛びに過去の偉人が発見した公式に当てはめて数学として勉強させる。それは、本当の勉強だといえるのだろうか。
中学に入って、公式を習う前に、公式を自分なりに見つけて、数学の先生に自慢げに話したが、
「これは昔の数学者が公式として発表している」
と言われ、
「そうなんですね:
とショックを受けていると、
「お前のその発想は大切にしていけよ。過去の偉人だって、そこから公式を発見したんだ。お前にできないはずはない」
と、言われたのが今でも印象に残っている。
数学になって、とたんに勉強が嫌いになった。それは数学だけのはずだったのだが、少しの間、
「数学ショック」
というものが自分の中にあり、数学が嫌いになったせいで、数科目嫌いな科目が増えたせいで、勉強自体が嫌いになった。
しかし、好きだった科目もあった。歴史や地理のような科目は好きだった。特に歴史だったのだが、作者は、歴史も数学のようなものだと思っているにも関わらず、なぜ、歴史が好きだったのかを考えてみた。
歴史というのは時系列で、時刻という規則正しいものの羅列で出来上がっているものだ。しかし、それはあくまでも一本の線であり、歴史にはいろいろな側面がある。学校で習うのはその一部であり、研究すればするほど、その側面には、いろいろなものが含まれているわけだ。
中にはそれが伏線となり、歴史で習った出来事に結びついてくる。歴史のいわゆる、表舞台から少し離れたとしても、わき道を通って、再度表舞台に戻ってきて、必ず、繋がるものだと信じている。そうでなければ、今自分たちが生きていることの証明にはならないからだ。
さらに、歴史の事件の中で、何かクーデターなどを起こそうとする人たちは、今自分たちが起こそうとしていう事件が、すぐに歴史に影響を及ぼすというようなことは考えていないのではないだろうか。
だから、自分たちはどうなってもいいから、
「俺たちがやったことが、正しいことなのかどうか、俺には分からない。しかし、必ず歴史が答えを出してくれる」
と考えて、クーデターを起こしているのだ。
彼らだって、歴史がそんなに甘いものだということを認識しているわけではないようだ。歴史というものが、その後の時代にもたらすものがあるというのは、それだけ、時間というものが、規則正しく、しかも、前だけを見て、刻まれていくからだと認識しているということなのだろう。
もし、歴史に心があるとすれば、人間をどのように見ているだろう?ある意味。神様がいるとすれば、それは、歴史というものなのではないだろうか。
「時をつかさどる神」
というものがあってもいいはずだ。
実際に、
「時間の神」
として、ギリシャ神話の中で、
「クロノス」という神が存在している。
このクロノスというのは、
「時を神格化させたものだ」
という。
他では聞かないので、ギリシャ神話のみの考え方なのだろう。やはり、それだけ時というものを真剣に考えるのが難しいということなのか、時や歴史を人間の世界の話に結びつけるには抽象的でなくてはいけなく、神としてしまうのは、違うのだという発想もあるのかも知れない。
そのあたりはハッキリとは分からないが、それだけ、発想として難しいものだといえるのではないだろうか?
この章のテーマである。夢というものも、時間という概念がない。見ている夢は、事例列で進んでいるわけではなく、子供の頃の夢を見ていたかと思うと、いきなり現代になったり、また過去に戻ったり、いや、過去に存在していた人たちが生まれ変わって、今の自分と共存しているかのような感覚に襲われることだってある。
元々が潜在意識が見せるものなのだから、当たり前のことであり、夢というものがいかに神秘的であるかということからも、ある意味、時間の神秘性と、共有できるところ、共有が許されないところ、それぞれあり、その境界線になっているところが、結界のように。
「決して、それぞれ犯してはならない領域が存在しているのかも知れない」
と感じるのであった。
数学は嫌いだったが、算数が好きだったおかげで、数学ショックはしばらくの間で収まった。好きな科目を深堀りできたこともあり、ある意味、貴重な時間だったと言ってもいいかも知れない。
夢というものを考えた時、確かにまったく同じ夢は見ることはないのだが、酷似の夢は結構見たりする。それは、夢に入る前の心境などが、微妙に影響しているのだとすれば、当然のことであり、同じ潜在意識でも、同じ夢を見ることができないという発想は、
「一度書いた小説を、同じ発想でもう一度書こうとしても、まったく違ったシチュエーションの作品になったりするのではないか?」
と思うのだ。
結末は酷似してくるのだろうが、書いている自分が集中しているので、それぞれの集中の間に時間という溝が存在しているのであるから、同じ作品になるということの方が恐ろしい。
だからこそ、夢でも同じことであって、同じ心境であっても、実際には違っている。
「見た夢を思い出せる時と、思い出せない時がある」
という発想もそこから来ているのではないだろうか。
思い出せる夢というのは、圧倒的に怖い夢が多い。そういう意味で楽しい夢を見たという記憶がないと思っているので、だからこそ、
「楽しい夢は忘れてしまうのだ」
と感じるのだ。
そうでないと、忘れてしまっているのに、その夢がどんな夢だったのか? ということ、そして、忘れてしまっている夢があるということも、おぼろげではあるが、理解しているということは、
「楽しい夢を見ると、ほとんど覚えていない」
という結論に結びつく理由になるというのも、おかしな話のように思う。
自分が見る夢を、
「潜在意識として、無意識に見るということは、見ているのではなく、見さされているのではないか?」
と考えるのは、少し乱暴なのかも知れない。
「では、怖い夢というのは、自分にとってどんな夢なのか?」
というのを思い出してみた。
一番多かった、怖いと思った夢は、
「もう一人の自分」
が出てくる夢であった。
もう一人の自分が出てきた瞬間に、
「これは怖い夢であり、だからこそ、きっと忘れないだろう」
と感じたことまで、目が覚めても覚えているのだ。
もっとたくさんのことを考えたに違いないと思うが、なぜかいつも覚えているのはまったく同じところであり、
「同じ夢を見るということはありえない」
という考えに矛盾しているのかも知れない。
しかし、逆に、
「覚えているのが、たまたままったく同じところというだけで、他の部分は似ても似つかないシチュエーションだったのかも知れない」
しかし、夢は夢の世界として繋がっていて、以前に見た同じ夢の部分を潜在意識が記憶していて、その部分を、影絵の仕掛けのような感覚で見せるのだとすれば、ここでの矛盾に対しての回答、あるいは、納得させる考えに至るのではないかと感じるのだった。
もう一人の自分が出てくる夢は、そのほとんどが追いかけてくる夢であり、逃げているので後ろは見えないが、気が付けば、追手は消えている。追いかける方も、
「夢を見ているもうひとりの自分に見つかってはいけない」
というルールが存在していて、数秒以上意識されてしまうと、一度消えなければいけない運命にあるのではないだろうか。
しかし、その数秒が消えてしまうと、また現れる。だから恐怖を感じるのだ。
そもそも、
「夢というのは、目が覚める数秒の間に見るものだ」
というではないか。
その数秒の間に、戻ってこれなかったため、目が覚めてしまい、戻ってこれなかったもう一人の自分は、目が覚めるまでの中途半端な夢うつつの状態の時に現れ。あたかも、
「夢を覚えている」
という感覚に陥らせたのかも知れない。
それが夢という世界と、現実の世界を結んでいるという錯覚なのか妄想なのかが混乱した状態で頭の中に残っているので。余計に鮮明に、
「夢を覚えている」
と感じたのかも知れない。
また、夢というものの中に、予知夢と呼ばれるものがある。実際にこれから起きるものを見るという意味で、正夢と呼ばれるものだったりもする。
中には、あまりにもリアルな夢で、本当に過去にあったことのように感じてしまう夢もあったりするが、基本的に夢というものには、リアリティはないものだと思っている。
過去にあった出来事を夢に見て、それだけにリアリティがあることであっても、目から覚めてしまうと、忘れてしまったり、覚えていても、肝心なとことは消えてなくなってしまっていて、自分の意識とは程遠いものだったりするのではないだろうか。それを思うと、夢というものに、色や匂いというものがなく、ただ、白黒映像を見ていたかのような錯覚に陥ったりもする。
だが、白黒映像というのも、意外とリアリティがあるので、それでもないような気がすることから、却って夢の神秘性がリアリティを感じさせるくらいであった。
そう考えていると、人間が感じている色や匂いというものも、本当にリアルなものなのだろうか?
というのも、
「起きているからこそ、味覚、聴覚などのような五感が働くというのだろうか?」
と考えるからである。
触覚など、身体に触れるものであれば、それは、夢を見ているような時でも感じるものであり、夢の中で、ひょっとすると、いきなり痛みを感じた時、夢の中のストーリーをコントロールできたのかも知れない。起きてから、痛かったことなど覚えていないから何ともいえないが、夢の中の潜在意識という能力はそれくらいの蘇生力のようなものを持っていて、
「原状復帰」
という、本能のようなものを持ち合わせているのかも知れない。
それは一種の超能力のようなもので、潜在意識を超越した、
「超意識」
と呼ばれるようなもので、その定義として、
「あなたが身体に宿って経験し感じようとした事を、「完了」しようとすることだ」
と言われているようだ。
そういう意味で、夢の世界が特殊だというのは、高度な潜在意識であったり、超意識は、夢の世界にしか存在せず。起きている時には、
「触れることのできない神聖なもの」
として、自分の中に君臨しているのかも知れない。
そう考えると、夢を誰かと共有しているなどという考えは、夢の世界に対しての冒涜なのではないかとさえ思えてきた。
夢を見るということは、この世のリアリティに比べると、かなり都合よくできている世界にいるのではないかと考えられるが、それを覚えていないということは、意識レベルが、現実世界では、耐えられないほど、自由ではあるが、それ以上に、厳しい世界が夢の世界なのではないかとも思えたのだ。
「現実世界は、考察したことを行動に起こせば、行動に起こしたようにしか作用しない」
というのは、当たり前のこととして認識されているだろう。
しかし、夢の世界というのはそうではない。意識したことが、その認識レベルの高さゆえ、感じて行動したことは、感覚の範囲でしか起こりえないのではないのだろうか。
だから、発生しないようなことを想像することも、妄想することもない。そもそも、妄想、想像の世界のリアル化したものが、夢の世界だからである。
つまり、夢の世界に、妄想、想像などという概念は存在しない。存在するとすれば、超意識を持った、もう一段階上の世界なのではないだろうか。
その世界というのは、もはやこの世の世界ではない。神や仏の領域として、いわゆる、
「あの世」
でなければいけないのではないだろうか?
作者はそんなことを、考えながら先に道を作っていくと、そんな結論を導いた。
いや、厳密にいえば、
「結論を導くための、途中の段階の結論」
といえるだろう。
どれほどの段階が控えているのかは分からないが、その間に死というものが絡んでいるのではないかとも思う。
そうなると、
「夢というのは、魂だけになっても見るものなのか?」
とも考えたが、そもそも、夢が死後の世界を彷彿させるものだと考えると、ある程度の納得がいくものなのかも知れない。
とにかく、あくまでも、本当に言われている定説が他にあるのかも知れないが、作者の中での夢という感覚を考えた時、このような結論になるのであった。
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