第8話 大団円

「記憶を失っているというのを、よく医者は分かったものだ」

 と感じたが、実は須川は、自分で気づいていないところで一度、目を覚ましたようなのだ。

 その時に、医者に対して、いかにも記憶喪失であるかのような言動があり、その時に医者は、

「この患者は、記憶喪失」

 と診断したようだった。

 この時目を覚ました時の言動もおかしなものだったようで、確かに聞かれたことをすぐに思い出すことはできなかった。

 本人も記憶喪失の自覚はあるようで、もし医者に言われなくても、自分が記憶を失っていることくらいは分かっただろう。

「そんなに重たいものなんですか?」

 と聞くと、医者は、

「そこまで悲観的に考えることはないと思います。この程度であれば、少し時間はかかるかも知れませんが、ある程度までに記憶がよみがえってくると思います。記憶喪失としては軽いほうだと認識していますので、須川さんもあまり悲観的に考えないでください。潜在意識の方で、蘇ろうとする記憶を止めてしまうことになるかも知れませんからね」

 というのだった。

 それから、しばらくは、友達が訪ねてきてくれた。

「記憶喪失なんだって? 俺のことは憶えているかい?」

 と言われて、

「ああ、何となくだけど、おぼろげには憶えているんだ」

 というと、

「おお、そうか、それならよかった」

 と安心して帰っていく。

 それを見ていると、

「俺って何なんだ?」

 と考えるようになった。

 見舞いに来てくれるのはありがたいが、皆、まったく同じことしか言わない。そして、

「俺のことを覚えているか?」

 と言われて、

「おぼろげに」

 と答えると、安心して帰っていくのだった。

 何を安心しているというのか、須川には理解できなかった。それに、皆判で押したようなリアクション、そして質問。そして最後に帰っていく時の態度、もうウンザリであった。

「こんなことなら、お見舞いになんか来なくていいぞ」

 と言いたいが、そうもいかない。

「こんなにも、入院がきついとは」

 と思っていたが、そう感じたからなのか、見舞いに来る人もほとんどいなくなった。

「一周したのかな?」

 と、考えてみれば、友達として記憶していた連中は、皆来たような気がしたからだった。

 そんな状態を考えていると、

「退院まで、あと二週間くらいですね」

 と医者から言われた。

 あと一週間ほどで、足の骨もくっついて、そこから先、一週間くらい、リハビリが必要だということであった。頭のこともあるので、大事を取る方がいいということは、先生から言われてはいたからだ。

「二週間くらいであれば、苦痛もないだろう」

 と思っていたが、実際に退院時期を聞かされてから、二週間というのを考えると、思ったよりも長く感じるもののように思えた。

 最初の一週間は思ったよりも、早く感じたが、そこから先が少し長く感じられた。ちょうどその頃から、それまで感じることのなかった。

「寂しい」

 という感覚が襲ってきたのだった。

 寂しいという感情が出てきた頃だっただろうか、急に夢を見たのだ。

 その日の夢は最初出てきたのは、由香子だった。この日は、夢を数段階見たのだ。違う夢を同じ夢の中で見たような気がしたのだが、普通はそんなことは考えられないと思ったので、

「一度、ぼんやりと目を覚ますという状態が、数回続いたのではないか?」

 と感じたほどだった。

 そんな不思議な夢の始まりは、由香子だった。

 最後に曖昧な形で別れたという意識の中で、再度ばったりと出会って、会話が弾み、また付き合い始めるようになったのだ。由香子には、以前に付き合ったことがあったという思いがないのか、まるで、初対面の相手と接しているかのようだった。

 もちろん、お姉ちゃんの知り合いだったという意識もないようで、

「男女の普通の付き合いというのは、こういうことを言うんだろうか?」

 と感じたほどだった。

 その記憶を、記憶喪失のはずの、須川にだけあったというのは、おかしなものだった。しかも、この状態を夢だと認識しているのだった。夢というと、普通は目が覚めた瞬間に初めて、

「夢だったんだ」

 と認識するのが当然のことだったはずなのに、なぜ、夢の途中から、いや、最初からこれが夢だったということが分かっていたのか、とにかく、最初から最後まで、

「これは夢だ」

 という認識があったのだ。

 由香子と、しばらく付き合う夢を見た後、今度は、自分が大学を卒業した後の夢だった。就職も決まって、大学も卒業できることが分かっている時期だったので、きっと未来の夢であることは認識していた。

 しかし、自分は大学の図書室にいて、卒業のための勉強をしていた。

「何かおかしい」

 という意識があった。

 しかし、その意識の中で、友達が図書室の外を歩いているのを見た。

 スーツにネクタイ。就職活動の帰りなのだろうか?

 友達が図書室に入ってきて、

「お前まだ大学生をやってるのか?」

 と聞くではないか。

「えっ? お前は就活中なんだろう?」

 と聞くと、

「いやいや、俺はもう新入社員で、大変な時なんだ。大学生は気楽でよかったよ」

 と、本気でまだ学生をしている自分を羨ましがっているようだ。

 実際に、学生時代には、就職してからの辛さを考えると、このままずっと大学生活が続いてほしいなどと真剣考えていた時期があったのを覚えている。それも、結構長い期間だったように思う。

 だが、自分は確かに卒業したはずなのだ。それなのに、この夢は何を暗示しているというのか?

 そんなことを考えていると、また別の夢だった。時系列から行くと一番古いはずの夢を最後に見るというのは、皮肉なことだった。

 出てきたのは。聡子だった。

 その夢は、聡子に対して、

「愛している」

 という感情の最後だった、あの元カレによって、自分が審査されたあの時の場面だったのだ。

 夢の中だからなのか、その時の男の顔を覚えていないからなのか、顔が逆光になっていて、確認することができなかった。声だけが聞こえるというシチュエーションに。ゾッとするものを感じたのだった。

 急に怒りがこみあげてきた。

 今まで、夢を見た中で、感情がこみあげてきたことがあっただろうか?

「あっ、そういえば、悲しいことがあった時、夢に見て、寂しさを感じたんだっけ」

 この思いとは、ペットで飼っていた犬が死んだ時だった。

 いつも自分になついていて、最後は、須川が中学生の時のことだったが、悲しそうな声で鳴いていたのを思い出した。

 あの、

「くぅーん」

 という鳴き声は耳から離れず、思い出しただけで涙が出てきそうだった。

 だが、今までに死に目というと、おばあちゃんの死に目にも遭っていたはずだったのに、おばあちゃんのことを夢に見ずに、犬の臨終の方が夢に出てくるのだ。

 確かに、血の繋がりや、同じ人間という意味でいけば、意識が深いはずであり。しかも、おばあちゃんから、あんなに大事にされていたという意識もあったのに、夢に出てくるのは犬のことだった。

「何か、思い残していたことでもあったのだろうか?」

 と思い出してみるが、思い出せるものではなかった。

 それが何だったのかも分からず、犬の方が意識が強いということを考えると、急に寂しく感じられた。

 その理屈が分からないまま、気が付けば、そろそろ、夢から覚めようとしていた。

 そして、夢から覚めようとしている時、再度思い出したのが、

「あれ? 俺って記憶喪失なんじゃなかったかな?」

 という思いだった。

「記憶喪失なのに、夢だけは見るんだ」

 という思いが頭を巡った。

 記憶喪失の人間が、夢を見るかどうかが不思議だったが、実際には夢を見るようだった。

 そして、今回の夢の最後に、一瞬だけ感じたことがあった。

「今度のこの夢というのは、自分が記憶喪失になっているというより、自分だけが記憶を持っていて、他の皆が記憶を失っているのだ」

 という夢だった。

 段階を追って見た夢の最後には皆記憶喪失になっていた。

 由香子も、つかさも記憶喪失。

 聡子も、元カレも記憶喪失だったのだ。そしてもう一人、誰か思い出せなかったが、自分に深く関わりのある人間だった。

 記憶を失って困る相手であることに間違いはなく、ただ、

「そのまま記憶喪失でいてほしいな」

 とも思っていたのだ。

「記憶を失ってくれていることがここまで楽だったなんて」

 という思いが頭を巡った。

 そして、大学を卒業できていないことを一番知られたくない相手、しかし、知ってもらっていないと、切実な意味で、自分が困る。そんな相手だった。

 大学の図書館が夢に出てきたのは、

「いつも、ここで勉強していたので、特に夕方から日暮れにかけては、閉館時間ということもあり、帰宅するのに、身体が重かったのを思い出した」

 と思っていた。

 そんな時、自分が誰かと、

「夢を共有しているのではないか?」

 と感じていた。

 果たして、この夢を共有しているのは誰であろうか?

 由香子なのか、つかさなのか、それとも、憎きとまで思っている聡子なのだろうか?

 以前感じたことがあった感覚として、

「夢を共有しているとすれば、きっと怖い夢に違いない」

 というものだった。

 それというのは、夢を覚えているという時は、

「怖い夢を見ている時だ」

 と感じた時だからだった。

 今回、複数の夢を、一つの夢の中で見るということは、夢を共有しているからではないかとも思えた。ただ、今回の夢が、そんなに怖い夢だとは思えない。その中で一番恐怖に感じたのは、

「大学時代に、卒業できるかどうか」

 ということだった。

 就職活動よりも、卒業の方が、結構自分の中で厳しいという意識があった。

 その意識が、大学時代の思い出とともに、まるで走馬灯のような形で蘇ってきた。

「本当に、走馬灯のようになるんだ」

 と感じたほどだった。

 さらに、感じたこととして、その時自分にとって夢に出てきてほしくない人物。それがキーだったのだ。

「記憶を失っている中で、一番よく見るというのが、どうやら家族の夢らしいんだ」

 と、医者が言っていた。

「どういうことですか?」

 と聞くと、

「家族の夢を見ると、その中で記憶喪失になっている家族がいると、その人とのわだかまりを感じることで見る夢だというんだ」

 と言っていたのを思い出した。

 自分が今回見た夢で、記憶喪失になっていたのは、父親だった。

「ということは、俺にわだかまりが残っているとすれば、親父なんだ」

 と感じた。

 正月に友達の家に行って、皆が泊っていくということになったのに、自分だけが帰らされるという屈辱。あれこそ、自分の中でのトラウマであり、どうあっても、許容できることではなかった。

「あの時の思いが大学時代になっても、わだかまりとして残っていて、意地でも親に迷惑をかけないようにしないといけない」

 という思いが強かったのだ。

 大学時代にいろいろな感情が渦巻いていた中で、最後は卒業という問題に直面した時、その思い出が頭の中を巡った時、意識が楽になったものだった。

 その思いが、一つの夢の中に複数の夢を織り交ぜた。それは、

「夢の中で、さらに夢を見る」

 という入れ子のような夢だったのではないだろうか?

 今までは見たことのなかった夢だったが、そんな夢を見ることができるようにあったのも、きっとそれだけの時間が経過したからではないだろうか。

 大学を卒業したのが、確か、まだ昭和だっただろうか。社会人になって少ししてから、平成に変わったと思ったので、すでに、今は令和という時代。

 途中には、バブルが弾けたり、2000年問題があったり、世界的な伝染病の流行があったりと、慌ただしかったが、須川にとって思い出すのは、昭和の末期、大学を卒業するあの頃のことだったのだ……。


                 (  完  )

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大学時代の夢 森本 晃次 @kakku

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