第5話 サイボーグとアンドロイド

 またしても、沈黙があった後、教授が口を開いた。

「君たちは、アンドロイドと、サイボーグの違いが分かるかい?」

 と言われて、いきなりだったので、漠然とは皆分かっているが、

「なぜ、教授がそんなことを聞いたのか?」

 ということを含めて、余計なことを考えてしまったことにより、言葉に詰まってしまった。

「考えすぎだ:

 といってもいいだろう。

 すると、一人が口を開いた。彼はあまり忖度する方ではなく、空気を読まないという意味で、天真爛漫と言えばいいのか、ただ、研究所には、そんな人間が一人くらいはいないと、それこそ、一つの考えに凝り固まった世界になってしまうという懸念もあったくらいである。

「アンドロイドというのは、アンドロイドは人間そっくりの機械であり、サイボーグは人体の一部を機械に変えた存在なのでこれらはまったく逆のものです」

 と模範解答を示した。

「うん、その通りだね。ということは、端的にいえば、アンドロイドは機械ということになり、サイボーグは人間だということになる。つまり我々が作ろうとしている人造人間というのは、どちらのことになるのかな?」

 と聞かれて、

「私はずっとアンドロイドだと思っていました。だから、人間が、機会を作り、元々なかった頭脳を人工知能として埋め込もうとしているのだから、ロボット工学三原則も、フレーム問題も絡んでくるはずですよね?」

 と、もう一人の研究員が言った。

「そうなんだ。ただ、そうなると肉体はどうなるんだ? 機械の肉体でなければいけない。それが、もし、元は人間であるサイボーグだとすれば、身体には、適合性というものがあり、臓器移植などでも、下手をすれば、拒否反応を起こして、うまくいかない場合が多い。同じ人間であっても、それだけ慎重に行わなければいけないのだから、サイボーグとなると、もっと大変だ。それだけ人間のようにデリケートな適合性を示さないと、魂と肉体が拒否反応を起こしてしまうと、フランケンシュタインよりも、もっと深刻な問題になりかねないのではないかな?」

 と、教授はいうのだ。

「確かにそうですね」

 というと、教授がまた、たたみかけるように、

「魂は不変なものなのだから、それに遭う肉体も不変でなければいけない。人間は生まれる時に、魂と肉体が同時に生まれてくる。だが、サイボーグは死なないんだ。だから、肉体が永遠でなければいけない。だが、肉体が衰えていくのは仕方がないことであり、人間が最初にサイボーグを作ろうとした時、このことに気づかなかった。これが、サイボーグにおける、フランケンシュタイン症候群だといえるのではないかな?」

 と教授がいうと、誰もが黙り込んでしまった。

 さらに教授は、

「昔の特撮もので、地球で人間消失という事件が起こったが、それは、自分たちの星で不老不死になれるだけの科学力は発達したが、それと並行に行うべき、肉体の衰えを解消する開発が皆無だったことで、魂は人間から離れることはなくとも、身体だけが衰えて、最後には死んでしまい、魂が彷徨ってしまうという状況になったという。それで、地球には自分たちに似た若い肉体が溢れかえっているということで、自分たちの生命保存のために、地球人の若い肉体を欲しがったという、実に身勝手な宇宙人の話が出てきた。その話をあサイボーグの開発を考えていた時に、最初に引っかかった問題だったんだ」

 ちなみに博士は、最初はサイボーグの方の研究をしていたが、今の問題が解決できずに、アンドロイドの開発に移行した。こっちはこっちで大変だが、何とか、サイボーグを考えるよりも若干近道な気がして、そちらを研究することにしたのだ。そのことを研究員は話には聞いていたが、ハッキリと実感することはできなかったのだった。

 ただ、他の人たちは、博士が、

「どうして、サイボーグから、アンドロイドへの研究に移行したんだろう? こちらの方が難しい気がするんだが」

 と言っていた。

「そうだよな。最初から土台があるものを変えるだけなのに、どうしてなんだろう?」

 と、研究員の中には、正面から真っすぐに考えることを信条としている人が一定数いるが、彼らの考えはそうであろう。

 いや、一般人の発想であっても同じなのかも知れない。それが、分かっていない人は逆に、

「一般人の一般人たるゆえんだ」

 と言われていることを理解できないのではないだろうか。

「研究員たるもの、一般人よりの優れた頭脳を持っていなければならない」

 という発想は、傲慢にさえならなければ、立派なものだ。

 傲慢に考えてしまう輩がいるから、逆に研究員は、高飛車で、自分のことを何様と考えているのか? ということになるのであろう。

 だが、研究員が謙虚でいなければいけないなどというわけではない、むしろ、気持ちは研究に対して、実直でならなければいけないだろう。それなのに、実直になっていることを自慢し、傲慢に考えてしまうことが、余計な思いを抱かせて、それがそのまま、まわりを不快にさせることで、巨大ブーメランにやられてしまうのだ。

 一般人の考え方も、

「立派な考え方だ」

 として認めることで、自分の考えが高貴なものだと考えられるようになるのが、理想だといえるのではないだろうか。

 研究員の仲にも、謙虚な人はいて、絶えず新人の時のような気持ちを忘れずに、精進している人もいる。

 彼らは、その分、自分に自信を持ち切れていない。

 これは一般人の考えに限りなく近いといってもいいだろう。

「一般人よりも、頭のいい、限りなく一般人に近い秀才だ」

 というべきだろうか。

 研究室には、傲慢であるが、石のように固い意識を持った人間と、自分にあまり自信が持てないが、一般人に近い秀才。その極端な連中が、バランスよくいてくれるところが、一番うまく機能するところではないだろうか。

 教授はその時にはすでに気づいていたが、誰にもそのことを話さなかった。彼らが、自分で気づいてくれるのを待っているということだ。

 研究員たるもの、何事も自分で気づかなければいけないものだ。少なくとも、ここにいる連中はそれくらいの能力は持っていると思っていた。

 そうでなければ、大学の研究室で、

「選ばれた人たち」

 として、研究などできるはずがないからだ。

 そのような研究員たちを抱えている教授は、自分の研究室に誇りを持っていた。だから、傲慢な連中も、いずれは、角が取れて、丸くなってくるだろうことを感じていた。だが、まだまだ頭が固いのはいかんともせず、その硬さに、本人たちが気づくかどうかだと思っているのだった。

 この場合の

「サイボーグから、アンドロイドへの研究に変わった」

 ということは、

「原作のあるものを脚本として起こすのか、それともアイデアしかないものを、一から作り上げていくか?」

 ということに近い気がしている。

「前者が、サイボーグで、後者がアンドロイドだ」

 というわけだ。

 普通に考えれば、

「元々原作があり、オリジナルではない分、楽ではないか?」

 と言われるであろう。

 しかし、脚本というものの本質を知っている人であれば、そんな安直な考えに至ることはないだろう。

 そこから一歩進んで先を見ることが、大切だということで、

「段階的展望」

 とでもいえばいいのか、まるで三段論法的というか、あるいは、

「わらしべ長者のような発想」

 というのか、そういう発想が生まれてきてしかるべきではないだろうか。

「脚本と小説というものの違いを考えれば分かることで」

 と、教授は説明をはじめた。

「脚本と小説の違いというのは、その主旨によるところが大きいんだけど、分かるかな?」

 と聞いてきた。

「小説というのが、本にして、それを読者が読むことで、物語が紡がれていくことで、脚本は、ドラマや映画にするための内容を書いておくものであって、それを見て、俳優が演技して、コンタクトを振るのが、監督というイメージでしょうか?」

 と一人がいうと、

「そう、その通りなんだ。だから、それを一歩進めると、小説というのは、すべてが、本の中で完結してしまうので、読者は文字でしか理解できない。いかに読者に理解してもらえるかということを文章に込めるから、想像力が豊かになるというわけだね。でも脚本の場合はそうではない。あくまでも俳優がいて、監督がいる、脚本家というのは、一つの物語を作るうえでの、、設計書のようなものを書いているというところかな? だから、監督や、俳優のことも考えなければいけない。なるべく、監督しやすいように、場面設定なども、適度に書いたり、とにかく、脚本では主観を入れてしまうと、俳優や監督の仕事にまで制限を掛けてしまうところが難しいと言われるんだよね。だから、本というのは、直接的であり、脚本は間接的だといえるのではないだろうか? そうなると、どっちが難しいといえるのかな?」

 という教授に対して、先ほどの研究員は、

「ずっと小説の方が難しいと思っていたんですよ。何といっても、オリジナルであるからね。だから、脚本もオリジナルの方が、原作があるよりも難しいのではないかと思っていたんですが、今の話を聞いて、少し考えが変わってきましたね」

 というではないか。

 もう一人の今度は女性の研究員が、

「それは、でも私は前から感じていました。脚本というのは、本当に主観を入れないもので、そこは、俳優がいかに演技をしやすいか、監督の手腕がいかに生かせるか? というところまで考えられているのが、脚本だと思っていました。だから、何度も書き直しさせられたり、放送局の会議室で、会議が繰り返されているんだって理解をしていましたよ」

 というのだった。

 そして、また先ほどの研究員が口を開いた。

「なるほど、脚本だって、原作がある方が却って脚本として起こすのは難しいんだ。企画の段階では、脚本家のことを考えて企画を立てませんからね。あくまでも、脚本家が、自分で原作を解釈し、いかに、演技しやすい。そして、監督の実力が出せるような脚本を書くかというのが、技量になるでしょうね。ただ、何も知らない人から。原作があるんだから、オリジナルよりも簡単だと思われることが嫌なんでしょうね」

 と言った。

「そうなんだ、だから、アンドロイドとサイボーグにおいても、サイボーグの方が、元は人間なんだから、元はあるという意味だけで、開発をしやすいというのは、大きな勘違いであって、相性が大きな問題になってくる。先ほど話したように、移植だって、相性が合っていなければ、後からいろいろな不都合や拒否反応が出てくることで、却って、移植した人間を苦しめることになる。だから、ドナーとの相性を、これでもかとばかりに調べるんですよ。そのために、移植に対しても、慎重にならざる負えない。人は、移植に対して倫理的な面が大きくて、抵抗があると思っているかも知れない。確かに、それは間違いのないことであるが、もっと実質的なところで、慎重にならなければいけないところがあるんですよ、それが大きな問題だったりします」

 と、教授は話した。

「なるほど、そういうことなんですね? 自分たちが解釈したことと反対のことも、そちら側の目に立って考えないと、見なければいけないところを見逃してしまって、うまい選択ができない場合があるんでしょうね。特に慎重には慎重を重ねなければいけないような案件であれば、余計に、まわりから見る必要があるということですね」

 と言われた教授は、

「そう、その通りだ。だから私は実践的な研究を皆とやってきている中で、そのことを肌で分かってくれば、皆は一人前に近づいていって、今の私の立場くらいには、すぐに行けると思うんだよ。こういう研究は、右肩上がりの直線というよりも、その時々のタイミングで一気に上がる場合がある。そんな階段状のものを目の前に見ながら、進んでいくというのが、大切なことだと思うんだ」

 と言った。

「なるほど、よく分かりました。教授は本当に肝心なことしか言わないので、逆に、こちらも分かりやすいと思っていますよ」

 と、彼らはいうのだった。

 アンドロイドを研究していると、どうしても、引っかかってくるのが、ロボット工学三原則だったり、フレーム問題になるんだけど、そのあたりも、サイボーグという発想から考えてみると、分かってくるところもあるような気がするんだよ。今までは、ロボットというものを中心に考えてきたけど、足ボーグのように、元は人間で、人間の性質を残しながら、一番必要な部分を機会かするという発想だって昔からあったわけでね。そういう意味で、人造人間という言葉と改造人間という言葉が乱立して、よく分からない時代もあったと思うんだ。改造人間というと、人間の身体を基本にして、他の動物や昆虫の特徴を生かしたものにして、普段は人間の身体をしていて、人間の中に紛れ込む形で生活をしているけど、事が起こった時は、変身して従来の姿になるというものだね」

 と博士がいうと、

「そういう意味では、僕も昔のそういう特撮やアニメが好きだったので、今の先生と同じような発想になったりするんだけど、ロボットで合体や変身するというのが、結構主流だった時代があったけど、それも、今から思えば、合理性ということに関係しているのではないかと思えてきましたね。人間と同じサイズのサイボーグやアンドロイドというと、人間とロボットの間に挟まれていて、結構、その定義もしっかりしているように思うけど、巨大ロボットって曖昧な気がするんですよ」

 と研究員がいうと、

「それはそうだね、でm、それも理由があるような気がする。昔の特撮などでは、どうしても、実用化しにくかったり、その開発に対して、ネックがあったりすると、どうしても範囲や分類が曖昧になってくるんだろうね。だから巨大ロボットの合体や変身というのは、あくまでも、操るのは人間であって。ロボットが意思を持つという発想はなかっただろう?」

 と教授は言った。

「ええ、その通りなんですよ。今から思えば、どうして、人工知能を持った巨大ロボットがあまりいなかったのかって考えるんですけど、さっきお話に出てきた。フランケンシュタイン症候群という考えが、今も根強く残っているんじゃないかって感じるんですよね。だって、巨大ロボットに意思を持たれてしまうと、一旦反乱を起こされれば、抑えようがないですからね。もし、そうなると、ロボットがもし、人間に歯向かってくるようなことがあってはいけないということで、最初から自爆装置を身体に備えていて。それを押せば、ロボットは爆発するというような保険のようなものが必要になるでしょうね。もっともそれは巨大ロボットだけに限ったことではないと思うんですけどね」

 と研究員は言った。

「ロボット工学三原則には、人間のための三原則があって、それぞれに犯すことのできない優先順位がついている。それは、優先順位をつけておかないと、ロボットがその矛盾のために動けなくなるからなんだよね。こn場合の起爆装置を内蔵したまま、この世にロボットを送り出すというのは、最初から、フランケンシュタイン症候群ありきで、考えているということなんだ。さっきも言ったけど、フランケンシュタインというのは、実際にあった話ではなく、架空小説なんだよね、でも、これだけ長い間、誰もこの当たり前のことを前提として、フランケンシュタイン症候群に疑いを向けないということは、それだけその小説が、ショッキングな話として残ってるということで、誰もが疑う余地もないほどの鉄壁なものだったということなんだろうね」

 と、教授がいうと、

「ええ、まさしくその通りだと思います。フランケンシュタインというものが、今の世の中にもたらしたものとして、文明の発達というのは、いいことだけではなく、リスクを伴うということを示しているということであり、人間の発展への警鐘だといってもいいのではないでしょうかね。ちょっと格好つけすぎた話になってしまいましたけど、それだけ、ロボット工学三原則というのが、どれほど、ロボット工学へのしがらみになっているかということですよね。でも、それもひょっとすると、フレーム問題が解決すれば、おのずと、ロボット工学三原則の問題も解決できるような気がするんです」

 という研究員に対して、

「そうだね、私も同じことを考えていて、フレーム問題が解決すれば、ロボット工学三原則の問題も瓦解するだろうと思うし、ロボット工学三原則が、うまくロボットの中で機能すれば、フレーム問題も若干解決できる気がするんだ。なぜなら、どちらも人工知能が絡んでくるからね」

 と教授がいうと、

「僕は少し違った意見なんです。ロボット工学三原則というのは、そのすべてが優先順位によって形成されているので、途中で分割などできないことは分かるのですが、フレーム問題も、どこまで言っても無限なんです。それは広がる場合もそうなんだけど、狭まる場合にも言えることなんですよ。なぜなら、どんなに無限に割ったとしても、ゼロにはならないという発想からですね」

 と、研究員は言った。

「無限という言葉は、曖昧だけど、たくさんの意味のことを示していて、多角化しているといってもいいかも知れない。元々フレーム問題というのは、次の瞬間に広がる可能性が無限にあるものであって、その無限をどうすれば有限にできるかということを考えた時、数多い中のものをいくつかのオアターンに分けてしまえばいいのではないか? という発想があったと言われているんだけど、これは、すぐに違うということが分かる、もちろん、数学的な発想がなければできないことなんだけど、数学の計算で、無限のものは何で割っても無限にしかならないと言われているから、無限をどのように計算しても、無限は無限でしかないということなんだよね。これは逆に小さい無限というのもありで、一つのものをずっと割り続けると、いつになれば、ゼロになるかという発想に似ていて、どんなに何度も割ったとしても、ゼロにはならないんだよね。限りなくゼロに近づけることはできるけど、無限にゼロになることはないんだ。それと逆の発想で、ゼロで割るという、ゼロ除算という考え方があるんだけど、これは数学的には、やってはいけない計算方法と言われているんだよ。というのは、割った答えというのがあったとして、その数にゼロを掛けたものが、元の割られる数になるということなんだけど、ゼロには何を掛けても、ゼロにしかならないだろう? ということは、ゼロ割るゼロということになって、割る数と割られる数が同じ場合は基本的に答えは一でしかないんだ。そうすると、割り算とそれを証明するための掛け算が矛盾を起こすことになる。だから。ゼロ除算はやってはいけない計算方法だということになるんだよ。これだけのことを考えても数学や算数の不思議、あるいは、ゼロや無限というものの不思議ということを考えると、究極の考え方として。ゼロと無限というのは、まったく正反対のように思えるけど、本当は同じものではないか? と俺は考えているんだけど、違うだろうか?」

 と教授が長々と話した。

 研究員は、皆その話を何とか理解しながら聞いていたが、

「なるほど、今先生が話してくれた内容は、きっと、一気に話をしないといけないことだったと思うんですよね。最初と最後がきっちりと理屈に合うような考え方は、幾通りもあったとしても、導き出す結果が一つであろうが、無限であろうが、一緒だと思う。そこに先ほどの究極の考え方としての、ゼロと無限が同じではないかということを結び付けると、世界が循環しているということを身に染みて感じるような気がする。生物地球科学的環境であったり、食物連鎖の関係も、すべては循環することから、無限が有限になるんだと思うんです。そして無限が有限になった時点で。無限もゼロに変わるのではないかと思うんですが、そう考えると、無限とゼロというのは、同一次元では存在しえないものだともいえるのではないでしょうか?」

 と研究員がいうと、

「なるほど、その発想はありだと思うよ。俺が一つ今思い浮かんだのは、薄い紙をどんどん積み重ねていくと、厚みが増して、高さが形成されていくではないか。だけど、その薄さがそのまま枚数を掛けても、その暑さには決してならない。その間には空気が入ったりするからではないかと思うんだけど、それ以外にも何か我々の知らないものが介在していて、無意識にその矛盾を分かっていて、分からないような考えになるのではないかと思うんだよね」

 と教授は言ったのだ。

 この時の、無限というものと、ゼロというものの究極の発想が、いずれ循環に巡ってくるようになると、サイボーグやアンドロイドにも影響してくるものがあるのではないかと考えるようになった。

「元々人間から移植したサイボーグというものも、人工知能を搭載したアンドロイドというものも、どちらも、循環が不可欠なものではないかと思う。知能や遺伝子は、色褪せることのないものだと思うんだけど、でも、肉体というものは、衰えてくる。形あるものは必ず壊れるという諸行無常の言葉があるからね。その時、衰えた肉体をどうすればいいのか? ということになるのだろうが、昔の特撮を考えた人は、それを地球人の若い肉体に目を付けたという話だったりするんだよね。しかも、同じような話が別の特撮で、別の脚本家が書いた作品だったりするから興味深い。きっと、皆一度は、肉体と精神、いわゆる魂というものを分離して考えた時、いかにうまく発想するかということがカギになるのではないかと思うんだよね」

 と教授は続けて話していた。

「なるほど、じゃあ、アンドロイドを作る時、肉体を決して衰えることのないものにしないといけないということでしょうかね? ただそれを考えると、まるで、無限という発想をまたほじくり返したような気がしてくるんだけど、それとは同じことなのか、違っているのか、考え方が別れるともうんですよ」

 と、研究員が言った。

 そこで、教授が博士になってから考えるようになったのは、前述の、

「人間の若い肉体をアンドロイドたサイボーグに移植数という技術」

 であった。

 その頃には、アンドロイドだけではなく、サイボーグも実用化されるようになった。その基礎を築いたのは、ほかならぬ美山博士だったのだが、この発想でも、究極の問題として、

「永遠に壊れない、滅びない肉体というものをどうすればいいか?」

 という問題が残ることになった。

 そこで博士は少し違った発想をすることになった。それは、

「人間の寿命を少しでも長くしていこう」

 という考えであった。

 実はこの着想は、博士が活躍している時には、すでにタイムマシンというものも開発されていて、

「過去に行って自分が過去に及ぼしたことが未来において、影響しない」

 ということが、パラレルワールドによって証明されたのだが、さらに進んで、未来において、影響してほしいものだけ影響させるということができるようになった。

 その前提となる発想は、いくら過去が変わっても、生命が生き抜くための、循環というものは、過去を変えたくらいでは変わらないということも考えられるようになったからだ。

 もちろん、一定の法則に基づかなければいけないもので、それが、

「循環を壊すことのないようにすること。つまりは、循環が、最大級の何にも勝るという優先順位だということだ」

 ということであった。

 それらを考えることで、過去において未来のために、及ぼした発想というのが、

「人間の寿命を長くする」

 ということであった。

 今現在の令和三年と言われるこの時代では、数十年前から言われている深刻な問題としての、

「少子高齢化」

 という問題があり、

「真剣に、子供が生まれず、寿命が延びていくと、若者でそれだけの年寄りを育てることになるのか?」

 という問題に直面しているわけで、それを今必死で解決しようとしているわけだが、そnことで、元に戻ってしまうと、今度は未来にて、ロボットの肉体を形成するための、人間の肉体が不足するということになる。

 あれはいつの時代だったか。、サイボーグ化ということが、真剣に語られるようになり、社会問題となった。

 つまり、寿命を延ばして、サイボーグなどに移植することで、ほとんど、サイボーグ依存型になり、人間が生きられない状態を阻止しなければいけないということで、過去に戻って、その頃から徐々に当時の人間に分からないように、寿命を延ばすことを考えた。

 しかし、それが当時の人間を苦しめることになるわけだが、未来の人間も切羽詰まっているのである。

 だから、寿命を延ばした後の善後策として、人間のサイボーグ化というのが奨励されるようになった。

 つまりサイボーグになってしまえば、半分不老不死のようなものだし、人間が増えても、それほど困ることはない。何しろサイボーグには燃料さえあれば、大丈夫だった。

 その燃料も空気から摂取するものなので、無限に存在していることになる。だから、時代が進むと、空気も有料になるという時代が訪れるのだ。

 サイボーグ化に成功すれば。人間の肉体も保証される。確かに以前は、薬もワクチンもなかったので、身体が老いとともに、衰えていった。それは肉体の衰えに、精神がついていかなかったからで、

「死なない」

 ということになれば、肉体が衰えるということもなくなってきた。

 そして希望者だけがサイボーグ化してくると、その死なないという発想が以前の究極の目標になってきたことで、この世の中がある意味、目指すものが分かってきたのだった。

 そのことから、今度は、

「機械が人間を管理する」

 という時代が訪れた。

 人間には徐々に自由がなくなり、昔の時代に戻りつつあった。しかし、そうしなければ、人類の未来はない。究極の選択を迫られる状態が目の前まで来ていたのだった。

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