第2話 人と同じでは嫌だ

 だが、ロボット開発は絶対に不可能なのではないと考える学者もいるだろう。

「そんな都合のいい神なんているものか。神だって、しょせん人間が創造したものなんだ」

 という考えであった。

「ニワトリが先か、タマゴが先か」

 という禅問答のようなmおのだが、

「人間は神が作ったと書いてある本を作ったのは人間だ」

 ということで、ニワトリとタマゴの発想とどこか似ているところがある。

 ニワトリとタマゴもそうであろう。

「タマゴはニワトリから生まれるが、生まれたタマゴが成長し、ニワトリになる」

 ということを考えれば、

「起源はどっちなんだ?」

 ということだ。

 昔の漫才の中に、

「地下鉄って、どこから入れたんだろうね?」

 というのがあったが、この発想も同じことではないだろうか。

 地下鉄だって、建設するのに、地下鉄を作ってから、穴を開ける。そして、どこからか入れることになるのだろうが、地下にしかない地下鉄が存在するとすえば、本当にどこから入れた? ということになるのだろう。

 もちろん、地価を先に作り、地下で地下鉄を製造したというのであれば、李佶は分からなくもないが、結局、製造するために施設や、資材だって入れなければいけない。それをどこから入れたのか? ということが問題なのだ。

 そんなことを考えていると、またしても、

「生物地球科学的環境」

 の発想に戻ってくることになる。

「この発想だって、同じことではないか?」

 ということになれば、何かこの世の中に起こっているすべてのことは、何かの力によって循環しているものだといってもいいのではないかと考えるのだった。

 ここに一人、ロボット開発を研究している学者がいた。

 彼は、元々、人間の脳の役割について研究していたが、それとロボット工学の考えが似通っていることから、いつの間にかロボット開発に、自分の研究が向いてきていることを分かっていた。

 ロボット開発を、そもそも、

「神への冒涜だ」

 という考えに近い方の人だったので、

「今やっている脳の研究は、決してロボット開発には役立たせる思いはない」

 と、自分の中で考えていた。

「ロボットなどという発想は元々、虚像であり、あくまでも、人間が人間のための都合で作ろうと思っているものなのだから、そんな傲慢なものを作る協力などできるわけもない」

 と思うようになっていた。

「ロボットなんて、幻影でしかない。人間の都合のいいように使って、壊れたら、使い捨て、どうせ今の家電などと同じ運命であり、そんな運命があらかじめ決まっている連中に対して、頭脳は高等なものにしようというのだから、傲慢という言葉だけで片付けられるものではないだろう」

 と思えるのだった。

「今の時代に入ってくると、昔からのロボットというのでは時代遅れだ。人間の形をした人間により近いもので、そうずれば、頭脳の人間に近くなるだろう」

 という研究だった。

 あくまでも人間至上主義。ロボット開発における根底にある基本は、この、

「人間至上主義なのではないだろうか」

「意外と人間至上主義の方が、形がハッキリとしていて、迷うこともないことから、ロボット開発には向いているのではないか?」

 と考えるのだった。

 そういう意味で考えれば、

「ロボット開発の限界は、この人間至上主義なのではないか?」

 ということであった。

 それも、人間至上主義だから、ロボット開月ができないという考えではなく、

「ロボット開発と、人間至上主義を結び付けて考えてしまい、それぞれに負の要素がある」

 という思いからの限界ではないかと思うのだった。

 つまり、この二つを別たないと、ロボット開発はできないのではなく、あくまでも、それぞれの考えを理解しつつ、必要な部分を補って考えるということが必要だということであろう。

 この博士は、美山博士といい、研究者の間でも、結構な異端児だと言われている。

 研究発表がいつも奇抜なのもその一つだが、大胆な行動を伴っているだけに、逆に恐ろしいと言われていた。

 それでも、美山博士を、皆が権威だというのは、いつもその道で一番の研究者から、一目置かれているところだった。

 しかも、彼はいつも臆することなく、自分の意見を口にする。

 本来であれば、公言してはいけないようなことでも、自分に自信があれば、いくらでも口にする方である。

 彼には、忖度などという言葉がどこにもないだろうと言われている。それだけ奇抜ではあるが、その奥には計算された頭脳が控えているので、大胆なわりには、その話の信憑性は結構あったりするのだった。

 だから、まわりから異端児とは言われるが、嫌われることはない。皆が皆、彼に敬意を表しているということだろう。

 しかも、博士の研究には、それなりの信憑性もある。立証するにしても、臨床実験をしているようで、どちらの方向から見ても、その信憑性を裏付けている。そこに、揺るぎない自信が満ち溢れているのか、まわりが圧倒されて、反論ができないかのように、金縛りに遭ってしまうのだった。

 美山博士は、まだ、四十歳を少し超えたくらいだ。この年で博士というのもすごいが、逆にいえば、

「この年で博士になれなければ、ずっと教授のままでしかないといえるのではないだろうか」

 ということも言えるのだ。

 元々美山博士は、ロボットう工学に興味があったわけではなかった。

 どちらかというと、生物学的な研究を多くやっていて、特に、前述の、

「下等動物と、高等動物の境目」

 というものを、人間が、意識できるかできないかという感覚から、人間の都合で考えるというような研究をしていた。

 それによって、何ができるかということは分からないが、本人が気になっている点でもあり、ロボット工学を専攻している人と話をした時、大いに共感を受けたことが、彼をいつの間にか、

「ロボット工学の権威」

 と言われるようにするのだから、

「世の中、何が起こるか分からない」

 と言えるのではないだろうか。

 博士も、ロボット工学の研究に際して、

「フレーム問題」

 というのが、限界として立ち塞がっているということは分かっていたが、そのフレーム問題というものが、今のところ、解決不可能と言われるほどの問題になっているということを考えると。必要以上に考えないようにした。

「どうせ無理なものは無理なんだよな」

 と、普段から考えていることではないことであれば、結構スルーして考えるものだったのだ。

 しかも、ロボット工学には、フレーム問題とは別に、

「ロボット工学三原則」

 というものが存在し、微妙に、フレーム問題とも絡んできていることから、すぐに解釈できるものではないという思いと、それぞれをいかに化学反応させる考えを持っているかということが大切だったのだ。

 フレーム問題とロボット工学三原則というものをいかに化学反応させるかということを考えると、博士は従来の自分の性格が一番よく、

「大胆な考えこそが、絡み合った糸をほぐすのに、一番いいのではないか?」

 と思えるようになったのだった。

 美山博士は、ロボットというよりも、アンドロイドのようなものを考えていた。いわゆる、

「人造人間」

 である、

 フランケンシュタインのようなものに近いのだが、さらに、人工知能を搭載したものである、

 昔の特撮などでは、その不完全な知能のために、心を持った人造人間がロボットの身体を持っているがゆえに、精神的に苦しむという話があった。

 だが、博士はそれらもすべて受け入れた形のアンドロイドを製作しようと思ったのだ。

 そこで一番の問題は、

「心を持つというのが、どういうことなのか?」

 ということであった。

 心というのは知能とは違うものである。

 だから、ここで考えるのが、フレーム問題と、ロボット工学三原則の絡みであった。

 フレーム問題は、たぶん、考えれば考えるほど、泥沼に嵌りこんでしまうだろう。

 ということになると、フレーム問題を解決する最短の考え方は、

「いかに、人工知能を人間に近づけることができるか?」

 ということである。

 目の前の無限の可能性を人間の頭で考えようとするから難しいのだ。人間は無意識に判断できる。ということであれば、人間のように、

「無意識に判断ができる人工知能」

 というものを作ればいいのだ。

 何も人間に近づける必要はないが、人間と同じ構造を持った人工知能を作ればいい。そこで博士が考えたのが、

「人間の脳の移植」

 であった。

 もちろん、生きた人間の頭脳を移植することなどできるはずもない、死んだ人間の頭脳を、移植すればいいことだ。

 当然、法律上は許されるわけはないのだが、それを極秘にやろうというのが、博士の考え方だった。

 博士としては、

「臓器移植というのは、今にも命が危なく、その臓器があれば、生き返ることができるという人のために、移植する人が生前に、死後贈与にサインした人が行う移植のことである」

 では、死にかけている人を救うわけではないが、

「長い目で見て、人類の将来に役立てるために使用するというのと、どこが違うというのだろう?」

 という考えであった。

 その思いが、博士にはある。

 だから、死んだ人の頭脳を、そっくりいただこうというのだ。

 さすがに、脳の移植というのはないので、死んだら何の役にも立たない。

「絶対に役に立たないか?」

 といえば、そんなことはない。

 他にもいろいろな研究に使えるのだが、目に見えた利用方法ではない。

 それを思えば、人造人間の頭脳として、その人の脳は生き続けられるのだから、ある意味、素晴らしいと言えないだろうか。

 ただ、なかなか臓器移植に難色を示す人はたくさんいるが、

「死んでからの自分も、今までのようにまったく役に立たないのか?」

 という、生前に、誰の役にも立っていないということをm気にしている人がいるのも事実のようだ。

 博士はそんな人にひそかに脳の提供を促していた。

 実際に、そのうちの一人の脳の確保に成功した。

「さっそく、人造人間の脳の役目をしてもらおう」

 ということで、脳の移植を行ったのだが、相手が人間ではないことで、拒否反応を起こすことはなかった。

 脳も、新しい、

「人造人間の脳」

 として、新たな命をもらい、それを自分の身体に、生として与えることで、活性化されてきた。

 ただ、問題は、

「脳の中に残った記憶」

 であった。

 これが、もしよみがえって、その人の過去を思い出すことで、自分が本当は人間であったということで、余計な悩みを持ちはしないかということが大いなる懸念だった。

 だが、幸いなことに、その危惧はまったくないようで、数年経ったが、アンドロイドは、余計な記憶を思い出して、余計なストレスを持つことはなかった。

 博士のことを自分の創造主だと信じ、今のところ、博士以外の人との接触は、アンドロイド専属の教育係のみであった。

 実はこの教育係も、アンドロイドで、他の世界とは隔絶されたところでしか行動しないので、フレーム問題も関係ない。それでも膨大なデータが教育係としての頭脳に叩き込まれ、何とか動いていた、

 これも、博士のアンドロイド開発の第一歩だった。

「実に限られた範囲でしか動かないアンドロイドであれば、

「無限の可能性をできる限り狭めたところで利用するようにすればいい。まずは、それができるかどうかから始まらず、いきなり普通のロボットを作ろうとするから、フレーム問題にぶつかるんだ」

 ということであった。

 だから、この教育係ロボットに行きつくまでにもかなりの紆余曲折があったのだ。

 最初は、計算ロボットから始めた。電卓だけの機能しかない知能に、身体をくっつけたような感じである。それを少しずつ増やしていき。やっとここまでできたのだ。

 ここまでできたうえで、博士は、自分の理論が間違っていないということを感じると、

「このあたりで少し飛躍した考えを持たなければ、先には進めない」

 と考えた。

 それが、

「人間の脳をそのまま移植」

 という、大胆な発想であった。

 他の人には絶対に知られてはいけない、超極秘の研究であった。

 この教育係ロボットの秘密も、超レベルの極秘事項だったが、脳全体の移植ともなると、さらに、超超極秘事項だったのだ。

 まずはフレーム問題に説明材料としての実験を行ってみた。

「燃料の入った箱を、洞窟の中から持ってこい」

 という命令なのだが、その下には、

「燃料を持ち上げれば、爆弾が爆発すr」

 という仕掛けがあり、アンドロイドは、その仕掛けを知っているという理屈だった。

 フレーム問題から考えれば、ロボットは命令を受けて、その状況を目の前にして、思考回路が停止してしまったということであるが、それはあらゆる可能性を考えてしまって、動けなくなったのだ。

 今回は、さすがに本当に爆弾を使うわけにはいかない。せっかくたった一個しかない貴重な脳を、爆破に巻き込むわけにはいかない。実験段階で、脳を爆破してしまうなど、本末転倒もいいところである。

 結果からいうと、実験は成功だった。

 アンドロイドは、起爆装置のスイッチが入らないように、最初に持ち上げた燃料を間に身体を乗せて、起爆装置に栓をした。その時、テープを手に持っていて、身体を話す瞬間にテープで止めることができたのだ。

 アンドロイドの性能は、人間の数百倍の精密さで、ほとんどの誤差は生じない。アンドロイドはそれも承知しているので、要するにやり方さえ間違えなければ、何ら問題がないということだった。

 アンドロイドは、実にスムーズに動いた。もっとも、少しでもぎこちなかったりタイミングを外せば、ドカンと行くということを頭脳に叩き込んでいた。

 それよりも、自分の性能が数百倍も優れていると覚えさせているので、、スムーズに動くのも当たり前だ。

 ただ、動力はあくまでも、アンドロイドに移植した人間の脳の命令がなければ動かないようになっている。

 つまり、このアンドロイドは、直観のような肝心なところの意識や意思だけ、移植前の人間の脳が働くのだ。それ以降の動きはすべて、ロボットが動いてくれる。それも、人間の脳がコントロール装置のようになって、人間の各臓器を動かしたり、手足を動かすという感覚と同じなのだ。

「すべてをロボットにさせようとするから無理なのであって、最初の一歩だけを人間にさせさえすれば、可能なのだ」

 ということを証明した。

 あとは、その脳をいくつかに分散したり、コピーできれば、量産できると思っている。美山博士の研究はそのあたりまで来ていたのだ。

 単独でのアンドロイド作成は成功した。もちろん、研究に携わった人間しかこのことは知らない。

 まったく裏切りがないとは思っていないが、資料の保管に関しても十分なものであるし、そのために、ボディガードもしっかりとつけている。

 以前、国家プロジェクトの一部を担う仕事をした時、セキュリティや、機密保護のことは結構勉強した。もちろん、いずれ自分が国家機密にも負けないような発明や発見をした時のためを考えてのことだったが、今それが役に立っている。

 そういう意味では、博士は優秀な科学者であるとともに、先見の明のある人だといえるだろう。

 もっとも、それくらいの先見の明がなければ、いろいろな発明発見に至るだけの発想が出てくるはずもないといっても過言ではないだろう。

 その頃はまだ、一介の研究員でしかなかったが、野望という意味では、他の連中よりもあっただろう。他の連中が気にもならないことを気にしてみたり、逆に他の連中が興味津々のことに対して、

「そんなのは、しばらくすれば、自然にどこからか発表されることに違いないんだ。そんな今さらなものを見て何になるというんだ。どうせなら、今のうちに、新たな発見がそこに潜んでいないかというのを見ておいた方がいい。何のために、このプロジェクトに参加したんだ」

 と嘯いていた。

 他の連中は、

「いやいや、先駆者の人たちの行動や、考え方を見習って、これからの自分に役立てる方がいいんじゃないか?」

 と言っていたが、

「それが何になるというんだ? しょせん、人まねじゃないか。自分独自の考え方を持っていれば、今何をしなければいけないかということは、自然と見えてくる。それはその考えに従って行動しているんだ」

 と言っていたのだ。

「それが、ひいては、皆がマネしようとしている。先駆者たちの立ち振る舞いであったり、考え方であることは、分かっていたことだ。逆にそれができないのなら、最初から開発者としての道を歩もうなんて、傲慢でしかないんじゃないか?」

 と思っていた。

 確かにそうである。

 誰にだって、自分のやり方はあるが、結局、同じものを目指して、頂点に立つ人は、それぞれに共通したとろこがあるはずだ。要するに、そのことを理解できるかできないかということが、成功するかしないかの分かれ道だと、博士は若い頃から、そう思っていたのだった。

 だから、博士を慕ってくる人たちは、どこか皆似たところがある。

 それはある程度までに経験と実績を積んだ人でないと分からないことだろう。

 だが、そんな彼らでも、そこまでは誰でも行けるのだ。そこから先に行けるかどうかは、

「持って生まれた考え方という素質」

 によるのではないだろうか。

「天才は生まれながらにして、天才であるが、努力でつかみ取ることのできる才能は、秀才という」

 ということであるが、まさにその通り。もって生まれたものが、最後にはモノをいうのではないかということである。

 博士は、その時の研究を自分のものにしていた。他言はしないが、自分の研究に役立てた。

 これは、別にいけないことではない。逆にそれくらいの意識がないと、

「自分で新しいものを発明などできっこないのだ」

 と言えるのではないだろうか。

 当時としては、画期的だが、今では当たり前のようになっている研究だ、

「もし、自分が研究するのであれば、何年経っても、自分の研究がいくら誰かにマネされたとしても、色褪せることのないものであってほしい」

 と思っている。

 これは、実際にできるかどうか、自分でも分からないものだ、

「形あるものは滅びる」

 という諸行無常の理があるわけだからである。

 博士はそんな思いを抱きながら、研究を続けた。

 研究室に戻ってからは、その時の経験と思いを一つの武器に研究をしてきた。継続というものがいかに大切であるかということを自分なりに感じながら、最初は自分の思いを、

「自惚れではない」

 と思っていたが、その思いがどんどん謙虚になってくると、

「自分が自信をもつための、糧になるものだ」

 と感じてきた。

 だが、

「自惚れなのかも知れない」

 という疑問を感じるようになると、紆余曲折の考えを抱きながら、結局は、

「自惚れなどではない」

 という結論に至る。

 これは、最初に自惚れではないと感じた時の感覚とはまったく違うもので、一周回って、戻ってきたことである。紆余曲折には、左右両極端な思いが自分の中で形成され、限界ではないと思っていたことが、自分の中での限界になった。

 この限界は自分で作ったものではない。

「自分には限界がないと思っていたのに、限界を後で現実として思い知らされてしまった」

 ということは、往々にしてあるだろう。

「それが自分のこれからの成長のためになる」

 ということの証明であれば、そこから、さらに成長はできるというもので、逆に、

「自分に限界がないと自覚しながら、紆余曲折を繰り返しているうちに、限界というものを自分で見つけたのだ」

 ということであれば、その限界は間違ってはいない。

 その限界を自分の武器にして、目の前のことに立ち向かっていけるということが自分で分かってくると、その先に見えるものは、ハッキリとしてくる。

 この前者との違いは大きなもので、それを見つけるきっかけになった、

「自惚れ」

 というのは、

「イコール自信だ」

 と言ってもいいのではないだろうか。

 自分の自信というものは、ひょっとすると、限界を自ら見つけることよりも、自覚することの方が難しいのかも知れない。

 つまり、

「自分に自信を持つということは、自分で自分の限界を知るということよりも難しいということではないか」

 と感じるのだった。

 どんなこと、分野からでも、そのことは見つけることができる。博士は、自分の研究からは、経験と探求心が、その気持ちを支えていたのだと思っている。

 探求心という前向きなもの、そして経験がそれを裏付けしてくれる。

 つまり、言い方を変えると、

「探求心が底辺にあり、そこから経験というものを上乗せしていくことで、どんどんと容量が増えてくる。探求心というものは、最初から最後まで同じレベル、つまり、最大であるとすれば、きれいな形の箱が出来上がる。それが、自分の限界であり、能力だとするならば、自分の力は、さらに前向きになっていくことだろう」

 と考え、

「前向きな心こそ、限界を超えることができるかも知れない新境地に至るものではないか?」

 と考えるのであった。

 博士にとって、これから先の研究が、正しいのか間違っているのか、今はそのことを考える必要はないと思った。

 なぜなら、最終的に完成するまでに、その答えは勝手に見つかるものだと思っているからで、それが見つからなければ、その研究はまだまだ先があるということで、研究する価値は十分にあることだと思っている。

 博士には、

「フレーム問題と、ロボット工学三原則」

 という大きな壁がすること、そして、この二つの問題は、それぞれにけん制しあって、その先に見えてくるものを、いかに解決していくべきなのかを考えるのであった。

「量産できるサイボーグ」

 というものを作ろうとしているところは、世界の各地にたくさんあるだろう。

 その中で、自分たちが目指している研究が、

「他と同じなのかも知れない」

 と少しでも考えたとすれば、それは、二番煎じであり、パイオニアではないに違いない。

 そのことは、博士には分かっている。

「二番煎じ」

 というものを極端に嫌い、自分というものが、いかに大事だということを研究するのが自分だと思っているからだ、

「人と同じでは嫌だ」

 ということは、博士が、これまで生きてきた中で、一番長く持ち続けている信念なのではないだろうか。

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