無限と矛盾~知恵ある悪魔の創造~

森本 晃次

第1話 フランケンシュタインの発想

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和三年十二月時点のものです。今回は、約五十年くらい前に流行ったある特撮番組に、倣った発想をしていますが、それは敬意を表しているということであるということを、ご配慮いただきたいと思う所存であります。


「ロボット開発、あるいは、タイムマシンの開発など、世の中には、これから、どんどんいろいろなものが発明されていくに違いない」

 などと、近未来に希望を託した時期は、今は昔、そんな時代があったのかということすら、記憶から忘れられそうである。

 タイムマシンのように、

「パラドックスを解決しない限り、先に進むことができない」

 とでもいうような発想で、ロボット開発の方も、

「フランケンシュタイン症候群をどうにかしないと、開発が進まない」

 と言われている。

 どちらも、近未来には、開発されるであろうという確信があるからなのか、それとも、最初から難しいということが分かっているから、小説やマンガになりやすいということからなのか、題材として挙げられる数は、ハンパではない。

 タイムマシンが小説に多く、ロボット関係がアニメだったり、マンガに多いというのは、勝手な思い込みであろうか。それは、マンガ家が題材にするのに、ロボットものが題材になりやすいと思っているのだろう。

 タイムマシンよりも、ロボットものの方が、

「勧善懲悪を描きやすい」

 という発想からきているのかも知れないが、それはきっと、

「ロボットものには、相手、つまり敵がいる」

 という発想からであろう。

「正義の戦士と、悪のロボットが戦う」

 この構図は、ロボットものの物語には、定番中の定番だといってもいいだろう。

 もちろん、ロボットVSロボットであってもいいのだが、とにかく、悪の方はロボットだと相場が決まっているようだ。

 特にロボットというのは、生身の人間などと違って資源さえあれば、量産できるし、

「死ぬ」

 という概念がないので、壊されても、ショックはないのだろう。

「だが、本当にロボットには、死という概念がないのだろうか?」

 あくまでも、生身の人間や動物のように、いや、動物の中でも、高等動物だけが、痛みを感じるのではないかと思うのだが、それは人間の勝手な思い込みなのだろうか。

 昆虫などのように、刺激を加えても痛がったり、反射的に避けようとしたりする素振りがないので、

「痛みなんか感じないんだろうな」

 と思うと、傷つけても、殺しても、何んら悪いという気がしない、

「本当に痛みや苦しみを感じていないのだろうか?」

 それは人間が分からないだけで、実際には痛みを感じているのかも知れない。

 何と言っても、昆虫は鳴き声もほとんど発することもなく、痛みも感じていないように見える。同じ生き物だという意識すらないくらいである。

 本当は、昆虫には昆虫の間でコミュニケーションを取れるような特殊な音色で、理解しあっているのかも知れない。

 そして、その時に苦しみを同類に聞かせているのかも知れない。

 同類は、その仲間の断末魔の声を聴いて、

「人間というのは、何と恐ろしい生き物なのか?:

 と思っているのだろう。

 いや、人間に限らない他の動物からも、迫害されていて、人間もその中の一つだという目で見ているのだろう。

「人間も、他の動物も、同じなんだ」

 という意識でいるのだろう。

 昆虫から見れば、他の動物、下手をすれば、植物と同じに見えているのだろう。ひょっとすると、自分たちこそ、高等動物であり、それを認めたくないと思っている他の動物から迫害を受けていると思っているのだとすれば、滑稽な気がする。

 痛がったり、苦しんだりしていると、助けてあげたいのは、人情というものだ。

 だが、相手が動物だったらどうだろう?

 犬や猫のようなペットになるような愛玩動物であれば、

「可愛そう、助けてあげよう」

 ということになるだろう。

 しかし、それ以外の動物、特に人間から見て醜い動物、昆虫であったり、特に害虫などは、自分で気持ち悪くなければ、自分でつぶしてしまおうと思うだろう。蚊のように、まわりに来るだけで鬱陶しかったり、刺されると痒いというのが分かっているから、反射的に潰してしまうに違いない。

 何と言っても、存在しているだけで、ゾッとしたりする虫などは、差仲裁であったり、殺戮する道具を開発し、殺そうとするに違いない。

「同じ命なのに」

 と、動物に同情的になれるのは、どれくらいまでであろうか。人によって違うだろうが、「気持ち悪い」

 と思う人もいれば、

「可愛い」

 と言って、ペットとして飼う人もいる。

 爬虫類などは特にそうであろう。

 普通の人だったら、ヘビやトカゲなど、見ているだけで、寒気がしてくるというのが普通なのかも知れないが、中にはペットとして飼う人もいる。

「散歩もいらないし、買いやすい」

 という人もいる。

 やはり、ヘビなどは、その筐体から、まず、手足がないということ、そして、ヌメヌメした身体、そして、何よりも毒を持っている種類がいるということである、

 気持ち悪さもそうだが、やはり、毒ヘビのイメージがあることから、ヘビを飼うのを気持ち悪いと思うのだろう。

 コブラや、マムシ、アオダイショウなどというと、どうしても、?まれると、血清を急いで摂取しないと、命に係わるということが分かっているからだ。

 だが、ペットとしてのヘビはおとなしく、身体に巻き付いてくるのが可愛いといって飼う人がいる。

 コブラや、マムシなどが巻き付いてくると、窒息してしまいかねないが、小さなヘビであれば、

「可愛い」

 というレベルなのである。

 ヘビを飼う人も結構いて、特に女の子に多いという。可愛いというのと、ヘビを飼うというのが、トレンドになっていると考える人もいるのだろう。

 トカゲなどもペットとして飼う人もいる。中にはイグアナを飼っている人もいるくらいだが、爬虫類ともなると、なかなか難しいところもある。

 肉食だったら、餌をどうするか?

 という問題もあるし、

 もちろん、近所の人に黙って飼わなければいけないなどというストレスのたまることもある。

 そんなペットであれば、かわいいという人と、気持ち悪いという人で完全に真っ二つに意見が分かれるであろう。

 ひょっとすると、ペットが可愛いという理由で、もし、ペットが近所の子供を驚かせたなどと言って、親が怒鳴り込んできた場合、飼い主がどのような態度をとるかによって、

「ご近所トラブル」

 になりかねない。

 ペットを飼ってもいいところに引っ越すのか、それとも、ペットをペットショップに預ける形にして、飼い主を探してもらうか。

 ただ、この場合は、ペットの血統書などの証明書が必要になるだろうが、それがもしなかった場合は、ペットの殺処分などということも視野に入れなければいけない。

 確かにペットに罪はない。人間だって、

「生まれてくることは自分では選べない」

 ではないか。

 ペットの運命は、飼い主がどんな人間かということで決まってくる。人間の場合は、

「どんな親から生まれてくるか?」

 というのと、同じではないだろうか。

 ペットというのは、

「見ているだけで癒される」

 という感情になるもので、犬や猫などは、目を合わせると、それだけで、心が通じ合えるかというような感覚になったりする。

 特に人間同士の関係に疑問を持っていたり、人付き合いの苦手な人は、ペットに癒しや寂しさを紛らわせる思いを抱いたりするものだ。

 それだけ、意思疎通ができていると思っていなければ、成立するものではないだろう。

 それを思うと、

「ペットとの関係は、人間関係よりも大切だ」

 と思っている人も多いことだろう。

 人間関係はあくまでも表向きの顔であり、世間体や会社内における忖度や仕事においての自分の立場を表すという意味だけの関係だと思っている人が多く、その分、本来の自分の感情や気持ちの拠りどころは、本当であれば、友達や恋人に求めるのであろうが、そういう人がいない場合は、ペットにそれを求める。それが癒しというものだろう。

 また、

「ペットがいるんだから、友達や恋人など必要ない」

 と思っている人も多い。

 人間に求めるものがペットで補えるのであれば、ペットの方がいいと思っているのだろう。

 よく聞く言葉として、

「イヌはウソをつかない」

 という人がいる。

 確かに、人間は、簡単に友達であろうと裏切ったりするもので、

「同じ人間同士なのに」

 と思っていると、余計に裏切られたりした場合に、そのショックも大きいのだろう。

 一度そんなことがあると、人間不信に陥り、ペットに走るのだ。そういう意味で、ペットの存在はその人にとっての死活問題であり、友達は同僚は生活の上で仕方なくいるという程度にしか思っていないのだろう、

 そういう意味でペットの存在は、次第に人間社会に根付いていったのだろう。

 江戸時代に、徳川綱吉という将軍が、

「生類憐みの令」

 という悪法を発行したことがあった。

「生き物を大切にしなさい。もし、犬を殺めたり、傷つけたりすれば、断罪である」

 というような法律であったが、基本的には悪いものではない、

 ただし問題は、どんな動物でも、大切にしなければいけないということになってしまうと、大切にしなければいけない優先順位をどこに持っていくかということが問題になってくるのだ。

 というのも、

「生物地球科学的循環」

 という言葉があるが、基本的に、生物というものは、

「弱肉強食」

 の世界であり、その法則は、永遠のものである。

 草食動物が草を食べ、肉食動物が、他の動物を食べる、そして、人間が食べるというような、

「食物連鎖」

 というものが起こるのだが、

「形あるものは必ず滅びる」

 という言葉が示すものとして、

「諸行無常」

 というものがあるが、生物が滅びる。

 つまり、生物が死んだり、草が枯れたり、動物の食後の排泄物などから、有機物が生まれ、それが分解されることで、肥料となり、植物の栄養となる。

 このような連鎖を、

「生物地球科学的循環」

 と呼ぶのだ、

 それによって、うまく回っていくので、それらのどれかのバランスを故意に崩してしまうと、食物連鎖がうまくいかなくなる。

 つまり、ある種の生物が異常発生してしまったり、本来は、もっといなければいけない動物が絶滅の危機にあったりすると、食物連鎖は、崩壊する。餌になるはずのものが存在しないと、それらの動物も生きられない。死ぬ動物が減ると、肥料がなくなり、植物も育たない。

 バランスというのは、どれか一つが崩れると、その関係のあるすべてに影響するものであり、そこには、優先順位は、本来は存在しないのだ。

 そういう意味で、

「故意に何かの命や形あるものを壊したりした場合は、必ずどこかにしわ寄せがいく」

 という意味で、殺人であったり、器物破損などには法律があり、破ると罰せられる。

 人間以外の生物についても、

「動物愛護法であったり、世界的には、ワシントン条約のようなもので、ペットや、絶滅危惧種などは守られている。しかも、絶滅危惧種の保護は、明らかに食物連鎖や、生物地球科学環境に大きな影響があり、勧善懲悪とは少し違った感覚になるのである」

 と言えるのではないだろうか。

 そういう意味で、

「生類憐みの令」

 というのは、人間以外の動物が人間よりも優先されるということであり、果たしてそれが、生物地球科学環境に逆らっていないかということが問題である。

 あくまでも、この法律が、

「勧善懲悪と、自分に後継ぎができないということで、占ってもらった結果、前世での殺生が、災いしているということを言われたということでの、あくまでも、自分の都合だけによる法律だということが問題なのだ」

 何しろ、動物を傷つけた者は、死罪になったりという、あきらかに戒めだけで片付けられるものではないのだ。

 ただ、それでも、これは、

「将軍が戌年だから、余計にイヌを保護する」

 ということであり、その時点で、いかに自己中心的な法律であるかということが分かるというものだ。

 そんな身勝手な法律により、江戸市民は震えあがり、犬を捨てる人が増えて、幕府が犬の収容所を作ると言った、本末転倒なことにもなったのだ。

 徳川綱吉という人間は、

「犬公方」

 と呼ばれ、民衆から嘲笑を受けていたのだろうが、実際には、

「政治家としては、優秀な人」

 という話であり、この一つの法律だけで、

「とんでもない悪法を発行した将軍」

 として、語り継がれているのは、気の毒なことだろう。

 そんな時代もあったが、結局は動物よりも、人間が大切だというのは、人間であれば当たり前のことであり、それ以上でもそれ以下でもないということであろう。

 それで生態系が守られ、うまくいっているということは、

「同種のものが同じ種族を第一優先とする」

 という考えは、他の動物であれば、本能であり、人間も、その本能通りに動いているということなのだろう、

 だが、人間には他の動物にはない、

「考える力」

 があるという。

 感じる力は他の動物にもあるのかも知れないが、あくまでも、人間の目から見た感覚であり、どこまで信憑性があるのか分からないが、思考能力があるのは人間だけだといういう考えは、それなりにあり得ることだと誰もが信じて疑わないことであろう。

 人間以外の動物に対して、人間はそれぞれに種族を定めたり、分類することで、莫大な種類の動物の、さらに種族などをうまく切り分けている。

 例えば、犬という種類の動物がいて、その中に、柴犬やマルチーズ、セントバーナードと言った種族がいるというような感じである。

 生物学的に、ものすごい種類わけがされているだろう。

「○○目○○科○○属」

 などという形である。(もっとたくさんあるのだが、とりあえずこれくらいを示しておく)

 そんな中で、下等生物などという呼ばれる生物がいる。その対比となる明確な言葉はないが、あるとすれば、高等動物ということになるのであろうか。

 元々、下等動物というものの定義としては、

「単細胞で、構造が単純な動物」

 ということにあるのであろう。

 それが、動物界でも、下等、高等と分けることによって、知能の問題が絡んでくるのだろう。

 普通に考えると、昆虫やプランクトンなどは、下等動物であり、高等動物というと、哺乳類、爬虫類、両生類などと思われるようだが、実際にはもっと上の方で区切られていて、

「爬虫類、両生類などは下等動物で、哺乳類は、高等動物だ」

 と言われるようである。

 ここで、考えた下等動物、高等動物の境目というのは、

「人間が見て、リアクションを感じられるものを、高等動物。リアクションを感じられないものを下等動物」

 と定義したに過ぎなかった。

 つまりは、その動物を傷つけたり、殺したりした時に、リアクションが感じられるものであり、人間であれば、悲鳴を挙げたり、武器を向けた時に震えだしたりする行動のことをいう。

 動物であっても、殺した時に、身体が反応して、悲鳴のような叫び声を出したりするものは、高等動物だという考えである。

 それはあくまでも、こちらが示した行動に、相手が反応しているという感情であり、それを見て、

「可愛そうだ」

 という感情が生まれるか生まれないかということだ。

 昆虫などは、リアクションを示さない。殺しても、悲鳴を挙げたりすることはない。せめて、相手を潰そうとして手を出そうとした時に、少しでも逃げようとする反応があるくらいだ。

 しかし、相手が虫であったりすると、どんな反応をしても、

「可愛そうだ」

 とは思わない。

 むしろ、

「気持ち悪い」

 ということで、早く殺してほしいと思うのが、人間の本能ではないだろうか。

 虫に対しては、一切の容赦がないのは人間の感情で、それは、一切殺すことに悪気がないからであろう。

 犬や猫のように、死ぬ時のリアクションを痛いほど感じ、ペットの犬などは死期が近づいた時、寂しさからか、何とも言えないような寂しい声を挙げるという。そんなペットの死は、下手をすると、同じ人間でも、肉親ではない人が死ぬよりもよほどペットが死んだ方が悲しいというのは、ほとんどの人がそうであろう。

 だから、以前ペットを飼っていた人が、もう飼わなくなった理由の多くに、

「ペットは死んじゃうからな。その死に立ち会うというのは、実に悲しいものだ」

 という。

 癒しを犬だけに求めていた人は、その犬が死んでしまうと、しばらくは放心状態になってしまうだろう。まるで、自分の子供が死んでしまったかのように感じて、もう、どうしようもないくらいに落ち込んでしまい、寂しさで感覚がマヒしてしまうくらいになってしまうのではないだろうか。

「もう、次を飼うなんて考えられない」

 というのは、犬というものを相手にしていたわけではなく、自分の身内というよりも、むしろ分身と思えるものが死んでしまった感覚である。それが犬だったというだけのことであるが、逆に人間ではないだけに、

「犬の世界の自分」

 とでもいうような存在に、さらなる同一感覚を持っているのかも知れない。

 そんな犬を大切にするのが人間なのだが、

「自分にはまったくかかわりのない」

 と思っているものに対しては、

「いくら同じ命のあるものだ」

 と言われても、ここまで極端に悲しむことはない。

 自分が勝っている犬でなければ、同じ犬であっても、

「その犬が、死のうが生きようが、自分にはまったく関係ない」

 ということで、悲しいとは思わないだろう。

 これが、昆虫などになれば、なおさらのことで、昆虫に至っては、種類によって、

「こんな連中は、存在しているだけ罪だ」

 と思えてくる。

 害虫と呼ばれるものであったり、

「百害あって一利なし」

 とでもいうような、蚊などの昆虫は、殺しても、かわいそうだなどという感情は一切持たないだろう。

 そう考えると、

「生類憐みの令」

 として、すべての動物を大切にするなどということは、土台無理なことであり、そうなると、動物一つ一つに細かい法律を定める必要があるだろう。

 そうなると、莫大な量になってしまい、見つかっている動物だけでも、制定するのに、果たしてどれだけ必要かということになる。

 しかも、それらんp動物が、人間とどのようなかかわりになるかというそれぞれのパターンも洗い出す必要があることから、

「永遠に無理だろう」

 と考えられる。

 これは、実はロボット開発における、

「フレーム問題」

 というものに、影響を及ぼすものであって、無限というものをいかに考えるかという主題となるのだろう。

 ロボット開発におけるフレーム問題とは、実は、タイムマシンにおける、

「パラドックス」

 という問題にも絡んでくるものであった。

 ロボット開月においても、タイムマシンにおいても、あるいは、万物においても言えることなのかも知れないが、

「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」

 というものである。

 基本的には、前後の状況から、その瞬間に繋がりがあるので、予見することは可能であるが、その前の瞬間を知らずに、いきなりその瞬間に飛び出すとするのが、タイムマシンの発想であり、ロボット開発においては、その無限の可能性に対して、いかに対応できるかということが問題であった。

 ロボットに関しては、次の瞬間に何が起こるのかという無限の可能性を、理解することができない。

 なぜなら、人間は、無意識のうちに、その判断ができているからであった。

 つまり、その理屈も分からずに、人間は本能からなのか、遺伝子による学習能力に著しく長けているからなのか、判断ができるのだが、その人間が作るロボットに、それ以上先の判断を委ねるということは、神でもない限りできるわけはないのだ。

 もし、人間を作ったのが神であるとすれば、きっと神は、人間にその能力を与えていることになるのだろう。

 しかし、それを別の、いわゆる人間が作り出すものに対して、与えてはいけないという判断からか、無意識に人間はできてしまうのだろう。

 できることを人間が無意識なのは、

「作り出すものに対して、人間が考察することができないようにするためにしていることではないか」

 と思うと、意識できていれば、人間は、

「与えることができる」

 ということになる。

 つまり、神は人間に、神と同じ能力、人間を作ったようなことを、させてはいけないということになるだろう。

 という考えに至るとすれば、

「ロボット開発というのは、神に対しての冒涜だ」

 と言えるのではないだろうか。

 ロボット開発というのは、それだけ、

「禁断のもの」

 であり、かつて、ロボット開発の基礎になる考え方として、いきなり、フランケンシュタインのような警鐘ものが出てくるというのも、実に皮肉なことである。

 そのせい(おかげ?)で、ロボット開発には、

「ロボット工学三原則」

 というような法則が必要であり、あたかも、

「その三原則が、優先順位を重要としている」

 という考えに至るのも、皮肉なことだった。

「フレーム問題」

 という言葉は、無限の可能性というものを、いくつかのパターンに分けてしまい、そのパターンで判断させるようにすればいいという考えから、

「絵画におけるフレーム」

 のようなものということなのだが、考えてみれば、無限のものを何で割っても、無限にしかならないという数学の法則を考えれば、フレーム問題というものが、不可能であることは、容易に分かるというものであろう。

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