5-5
「景は大きな勘違いをしてるよ」
「勘違い?」
「そう。あるいは、幻想と言い換えてもいいかもしれないな」
和希はまるで痛々しいものを見るような憐みのこもった冷ややかな目をこちらに向ける。
「おかしいと思わなかった? 生徒が一人死んだっていうのに、警察がほとんど学校に来てない。目撃者であり、白坂先輩と近しい関係にあった僕たちですら、簡単な取り調べを数回受けただけだ」
確かに少し違和感があった。警察の姿を学校で見かけたのは最初の数日程度で、それ以降は僕たちへの取り調べもなくなった。現場である部室棟もすぐに解放され、すでに文演部の部室すら使えるようになっている。
まるで捜査の必要がないと断じられているような雰囲気だった。端から自殺と決めつけて、それで済ませようとしている。そんな風に感じる杜撰さがあった。
そもそもきちんと調べられていれば、僕はとっくに捕まっているだろう。実際、和希に看破されてしまう程度だ。日本の警察はそこまで無能ではない。
「警察は早々に自殺と断定して、捜査を打ち切ってしまったんだ。というのも、どうやら彼女の両親が間違いなく自殺だと主張して、事を荒立てないように懇願した」
やはりちゃんとした捜査はなされていなかったらしい。それが僕にとって幸運なことだったのかどうかはわからなかった。
「学校側はなるべく早く事態を治めたいし、警察側としても、学校での捜査は色々とややこしくて面倒なんだ。校内は監視カメラもなければ外部の目もなく、意外に人目につかない場所も多い。しかも、子ども相手に気を遣わなくちゃいけないから、むやみやたらに学校中をひっくり返して捜査をするというわけにもいかない。そんな三者の意見が合致して、誰も念入りな捜査を望まなかった。だから、状況だけを見て自殺だということで終わらせてしまったんだ」
誰も彼女の死を暴こうとしなかった。すぐに忘れてしまおうとした。そんな中で僕と和希はパンドラの箱を開けようと無遠慮に彼女の周囲を踏み荒らし、その結果、こうして和希だけが真実へと辿り着いた。
「僕は先輩の家に行ったんだ」
少しだけ遠い目で空中を見つめながら、噛み締めるようにゆっくりと言葉を吐き出す。
「彼女の両親はもう何も考えたくないと、すべてを諦めたような様子だった。勝手に死んでいった二人の子どものことなんか忘れて、平穏に暮らそうとしていた。だから突然訪ねてきた僕にいい顔はしなかったし、かなり無理を言って部屋を見せてもらった」
娘を立て続けに二人も亡くし、しかもその両方が自ら命を絶ってしまった。彼女の両親はさぞ疲弊しているに違いない。そうやって逃避したくなるのも無理はなかった。
しかし、家を直接訪ねるというのは、実に和希らしいアプローチだと思った。誰の懐にも自然と入っていけてしまう彼だからこそ、固く閉ざされたその門をくぐることができたのだろう。僕には決してできない芸当だと感心してしまう。
「おかげで、あの人のことがようやくわかったよ」
「わかった……?」
まるで僕たちが彼女のことを何も知らなかったとでも言いたげだった。
「僕たちはずっと勘違いしてたんだ」
こちらの意図を読んだかのようなことを言う。そして、彼が〝わかった〟という彼女の本質を語り始めた。
「あの人はごく普通の女の子だった」
それは確かに僕が考えもしなかったことだった。
「ちょっと浮世離れしたふりが得意なだけの、普通の女の子だったんだ。姉の死に傷ついて、自分の創作に苦しんで、この世界に生きづらさを感じていた」
「まさか。先輩はずっと嘘を吐いていたって言うの?」
「ああ、そうさ。言うなれば、ずっと『白坂奈衣』を演じ続けていただけなんだ。本当はただ死んでしまいたいほど苦しくて、それを誤魔化すために嘘を吐き続けた。あの人は誰よりも演技が上手かったってことさ」
「先輩は小説を書くのを辞めたんだと思ってた。でも違った。書かないんじゃなく、書けなかったんだ。部屋には書きかけの小説や書き溜めた構想が溢れていて、その数はあまりに膨大だった。きっと彼女はそのどれも完成させることができなかったんだと思う」
もしも本当に彼女が小説を書けなくなっていたんだとしたら、タイミングからしても、その原因は一つしか考えられない。
姉の死。自分の小説によって、姉が絶望し、自ら命を絶った。そのことに責任と感じて、自分が小説を書く意味を見失い、書けなくなっていた。
和希はそう言いたいようだった。
「物語を創ることに疲れていたんだと思う。だから先輩は『本作り』に没頭した。小説と違って、不格好で曖昧なほど愛おしいそれが好きだった」
今までゆらゆらと歪んで見えていた白坂奈衣という人間の姿が、彼の考察によって、確かな存在へと変わっていく。しかし、それはあまりに平凡でつまらない、ありきたりな人間の姿だった。
そこには彼女の求めていた美しい死も、僕が憧れた純粋な死も存在しない。
姉の死に憧れ、自分も死に希望を抱く儚げな少女。
そんな風にして、姉を亡くした苦しみを物語のように仕立て上げることで、現実から目を逸らしていただけだった。
「でも、そんなのはあまりに……」
あまりに退屈なシナリオじゃないか。そんな物語は誰も求めない。
「現実なんてそんなものなんだよ。フィクションみたいに劇的なことは起きないし、舞台映えする突飛な登場人物も存在しない。あるのは笑えないくらい悲しい出来事と、それによって崩れていくどうしようもない現実だけ」
白坂奈衣は平凡な少女だった。つらく理不尽な現実に苦しみ、その苦しみから逃れるために自ら命を絶つという、ひどくありふれた死に方を選んだ。
視界から静かに色が消え、ぼんやりとした頭を虚しさが支配していく。
救世主に見えていた彼女は、単なるハッタリの上手い似非教祖だった。
それに騙されて彼女を崇拝し、その信仰心をこじらせ、挙句の果てに僕は神聖な彼女の死を汚すことで生の実感を得ようとした。
でもそのすべてが虚構だったのだ。言うなれば、『白坂奈衣』と『西村景』という二人の登場人物が織りなす、どうしようもなく滑稽な物語だった。
「これで終わりじゃない。最後にもう一つあるんだ。僕はこれを見て、先輩は自殺ではないと確信した」
そう言って、和希は何かをポケットから取り出して僕の目の前に差し出す。
「これは、血……?」
小さいビニール袋に、赤黒い液体が入っている。ジュースの類にしては色が黒ずんでいて、入れ方もずいぶん雑だった。まさかとは思ったが、その中身は古くなった人間の血にしか見えない生々しさがあった。
「その通り。もちろん本物ではないけどね。片栗粉と絵具でできた簡単な血糊さ」
彼は机の上に置いたその小袋に向かって、勢いよくカッターを突き立てた。袋は弾けるように裂けて、中の液体がこぼれ出していく。
「あの日、彼女が持っていた鞄を見せてもらったんだ。その中にこれが入っていてね。あんまりこれから死のうという人が持っているものじゃないと思った。むしろ、これから死ぬふりをする人が持っているものだから」
そこまで言われて、彼の言わんとしていることを理解する。
「つまり、あの日も先輩はいつもと同じように死のうとしてたということ?」
あの日だけ特別だったわけではなく、いつも通りだった、
シナリオの中で、死のうとしていた。登場人物の一人である『白坂奈衣』として。
逆に言えば、白坂奈衣は決して死のうとはしていなかった。
「ここからは僕の勝手な想像で、先輩が本当はどういうつもりだったのかということは、今となってはもうわからないけど」
そんな風に前置きをして、和希は白坂奈衣の物語を語る。
「先輩は死にたいほど苦しくても、決して死ぬつもりはなかったんだと思う。それどころか、前向きに生きようとしていた。でも生きている限り、彼女は姉の幻影に苦しめられ続ける。だから、それを振り払うために、創作を辞めようとした」
彼女は和希に「これが最後の作品だ」と言った。それは僕たちの想像した死ではなく、創作を辞めるという意味で、あくまでも〝最期〟ではなく〝最後〟だった。
「創作者としての自分を殺して、普通に生きていこうとしたのかもしれない」
僕はふと、以前彼女が語っていたことを思い出す。
創作に取り憑かれた人間は、創作にしか生きられない。それなのに、創作というのはあまりに不安定で、自分自身を捧げるには頼りないものだ。ふとしたときに創作する力を失えば、自分を失うことに繋がってしまう。だから、生きるために創作に縋ることは、実はひどく矛盾している、と彼女は語っていた。
――創作は作品のために行われるべきで、それができなければ、辞めてしまう方がいい。
あのときの彼女の言葉は、きっと自分に向けられたものだったのだろう。
「先輩はすべてを壊してしまいたかったのか」
僕らが追いかけたシナリオはそんな自暴自棄の産物だった。
創作者としての『白坂奈衣』を殺すための物語だった。
彼女は自分のことを見ないで欲しいと願った。見られることで存在し続ける『白坂奈衣』を殺したかったのだ。
だから、僕たちの抱く感情を否定しようとした。
住野詩織は、『白坂奈衣』に嫉妬することで、自分を諦める理由を作っていた。
桜川和希は、『白坂奈衣』に羨望を抱くことで、自分の理想を押し付けていた。
友利成弥は、『白坂奈衣』を忌避することで、玲衣の死を悼むふりをしていた。
そして、西村景は、『白坂奈衣』に崇拝することで、自分を肯定しようとした。
「きっと僕たちが彼女を苦しめていたんだ。『白坂奈衣』の役から降りることをできなくさせてしまっていた。ある意味で、彼女のシナリオはそんな僕たちを救いあげるためのものでもあったのかもしれない」
――君を救うつもりが、不幸になる理由を与えただけだったね。
ふと、彼女の最期の言葉を思い出す。
「……そうか。僕はちゃんと彼女を殺したのか」
彼女の死を汚すどころか、生を汚してしまっていた。
「少しだけ、死にたいと思う気持ちがわかった気がする」
懺悔とも違う、やるせなさのようなものを感じていた。
「絶対に死なせないよ。もう物語に蛇足はいらない」
そう、その通りだ。ここがこの物語の引き際だろう。
「やっぱり僕なんかよりも、和希の方がよっぽど探偵役が似合うね」
今だけは色んなことを誤魔化したくて、そんな軽口を叩く。
「僕はこんな役、二度とごめんだよ」
和希は心底嫌そうな顔をして首を振った。
「それにしても、僕たちはどうしてすぐに不幸なふりをしたくなるんだろう」
高望みして、自分にはもっといい物語があると期待してしまう。そんなことに何の意味もないのに。
「幸せに慣れすぎちゃってるのかもしれない。だから不幸が輝いて見えてしまう」
ちょうど太陽が沈んで、空がその青色を深くしていた。一つだけぽつんと一番星が光っていたけれど、本当はもっと数えきれないほどの多くの星が存在していることに僕たちは気付くことができない。
でもそんな星空とは違う。僕たちの物語に散りばめられた伏線は、きっと目を凝らせば見えるはずだから。
平凡な少女のありふれた死に方 紙野 七 @exoticpenguin
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