まずは笑ってもらおうか。すべてはそれからだ。

冬寂ましろ

* * * * *


「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。


 こいつ。ウチらのネタで笑うなって、あんだけゆうたやん……。

 返した手のひらで、声の主めがけてぽすんと叩く。


「また増えてるやないかい!」


 詫びるように私達はおじぎする。


「「ありがとうございました!」」


 顔を上げると、まばらな客たちが渋い顔を私達へ向けていた。

 ……スベったどころやないな。冷え冷え急速冷凍や。

 照明が暗くなる。小声で相方に文句を言いながら、足早に舞台袖へ引っ込む。


「陽菜、自分のボケで笑いなや。しらけるやん」

「美帆は気にしいさんやなー」


 歩く先には暗幕で囲われただけの楽屋がある。何か言いたげな先輩芸人達を無視して、私は相方をパイプ椅子に座らせ、その隣に自分も座る。


「陽菜、ウチら百合漫才でやってくって決めたやん。『ひなみぽん』なんて大先輩から名前までもろて。ちゃんとやらんと」

「そやかてなー。美帆がおもろい反応すると、つい笑てまう。許したってなー」


 満開の花のように笑ってる相方に、私は軽く殺意を覚える。


「それに……なんや、あのネタ。アンシブルとかタキオン発生装置とか。シモキタの客にはわからへんで」

「青い文庫本の背がしゅっとしたせいで、ブックカバー買い直すハメになった人には、だいぶウケとるんやけどなー」

「えらいニッチや……。やっぱ私がネタ書くわ」

「んー。ウチが書いたネタを美帆がおもろく話すの、むっちゃ好きなんやけどなー」


 焦燥感が募る。ウケない。笑われない。そんなことを気にせず嬉しそうにしている相方……。

 頭が沸騰する。


「そんなん、あかんねんっ!」


 陽菜がヒッと小動物のように縮こまる。どうにもならない。わかっている。でも……。先輩漫才師のひとりが、ドスの効いた声で私を刺す。


「おい。客席まで聴こえるだろうが。そんな元気ならチケット配ってこい。ノルマ100枚に負けとくから」

「枚数増えてますよ、先輩」

「売れない芸人にはぴったりだろ?」


 先輩がチケットの束を私へ差し出す。自分のノルマを押し付けただけなのはわかっていた。


「こんなぎょーさんありがとさんです。ほな、もらいますわ。陽菜、いこか」


 先輩が人生論とか説教とかくだらないことを話す前に、私達は楽屋を逃げ出した。



 下北沢の劇場は4階にあって、その下にはスーパーがあった。そこでストロングな酒を買うと、道の真ん中でごきゅごきゅと飲み干す。心配している陽菜の手を無理に引いて、行き先を決めずに歩き出した。


「なー。美帆どないしたん?」

「売れたいんや」

「ハコでやらせてもらえるだけ、ええと思うんやけどなー」

「陽菜はええな。ゆるふわヘアーだし。どこのお嬢様や。芦屋か? 帝塚山か?」

「そう見えるん? 嬉しいわー」


 ああ、もう嫌や……。陽菜の手を離す。わあと奇声をあげながら路地裏を駆け出した。道の段差でコケて、植え込みの中へダイブする。枝が体のあちこちに当たって痛い。ヤケになって私は叫ぶ。


「売れたいんや! なんであかんねん! どあほーッ! 笑えーッ!」


 道行く人が振り返る。腕を振り上げると、握っていたチケットの束をぱっと空に散らした。追いかけてきた陽菜が、寝転んだままの私をのぞき込む。


「みっともないでー」

「なあ、陽菜。なんでウチら売れへんの?」

「そら、おもろないからやー」


 私はわーっと泣き出す。


「嫌やーっ、もうなんもかも嫌やーっ。なして大阪から東京まで来たんや。もう、ここで朽ち果てるわ」

「そないなこと言わんで。ほら、迷惑なるよー」

「知らんがな! もうどこも行かん!」

「……なら、うち来る?」



 陽菜の家は、モルタル作りの古ぼけたアパートだった。カンカンと鉄の階段を上がると、陽菜が薄い扉を開ける。六畳一間のそこには、カーテンレールにかけられた衣装と、濡れせんべいのような布団があるだけだった。


「狭いとこやけど、くつろいでやー」


 そう言って陽菜は笑う。勝手にお嬢様だと思っていたけれど、ここはお金がない若者の部屋だった。私は恥じ入るという言葉の意味を、初めて思い知った。


「ごめん、陽菜……」

「ええてー。ウチは美帆の相方やでー」


 布団の上に陽菜が座ると足を延ばし、自分のふとももをぺちぺちと叩く。


「もう寝よかー。寝たらなんもかも解決やー」

「衣装が皺なるで」

「んー。そこは『なんで膝枕やねん』って突っ込むところやないのー?」

「そんな元気ないわ」


 横になって頭を陽菜のふとももに預ける。あんまり柔らかくないなと思っていたら、私の頭を陽菜が優しく撫で出した。気持ちええな……。まぶたが重くなってきた。遠ざかる意識の中で、ふと思う。


 なんで陽菜はこんな私の相方をしてくれるんやろ……。



 新聞配達のバイクの音で目が覚めた。陽菜はそのままの恰好で、壁に寄りかかりながらすやすやと寝ていた。

 あかん。漏れそうや……。

 陽菜を起こさないように立ち上がると、足で先を探りながら暗闇の中を玄関へ向かう。きっと近くにトイレがあるはず。ほら、この扉を開けたら……。

 そこはそよ風が吹く草原だった。


「ぬあ?」


 私は振り向く。真っ暗な陽菜の部屋がちゃんとある。


「どないなってん……」


 私が立ち尽くしていたら、後ろから陽菜の声がした。


「おはよーさん。もう起きたん?」

「なんなん? これ?」


 あくびをしながら陽菜が言う。


「おトイレさんやでー」

「こんな爽快すぎる便所がどこにあるんかい。いつからこうなってん?」

「んー。いつからというか……」


 陽菜が私の横を通り過ぎ、草原へと歩く。ふいに振り向くと、いつもと変わらない笑顔で私に言った。


「ウチ、この世界の人間やないねん」

「はい?」

「気づいたらここにおったん。草原に出た扉を開けたらあの部屋で……。びっくりした?」

「まあ……。陽菜のようわからんところはわかったわ」


 私も草原へ一歩踏み出す。素足にひんやりとした感触が伝わった。後ろ手で扉を閉じ、陽菜のところへ向かうと……。


「あー! あかんて美帆。扉が消えてまうー」

「なんやて! ああ……ほんまや……」

「やーん。いままで扉全開でトイレしてたから、わからんかったわー」

「ひとり暮らしはこれやから……」


 私と陽菜は、草原のど真ん中で呆然と立っていた。


「とりあえず漏らすん?」

「ひっこんでもうたわ」



 仕方なしに草原の中をふたりで歩いていた。小言を言い続ける私に、陽菜はずっとニコニコとしていた。


「あんなぁ。陽菜はどうして……」

「ほらー、なんとかなるやんー」


 歩く先に影が見えた。それが私達へ近づいてくる。

 牛……に近い生き物だと思った。背中から細い手足が力なく生えていて、下に向かうほどしっかりとしていた。そのうちのいくつかの足が地面に降りていて、よたよたと歩く原動力になっている。馬のように長い顔は、頭から垂らした布で覆われていた。


「美帆ー、紹介するわ。こちら山田さんやー」

「やま……違うやろ!」

「すみません、山田です」

「……えらい流暢な日本語やな。陽菜の知り合いなんか?」

「そやでー。この世界にウチがいたとき、助けてもろてたんー」


 山田さんは私に頭を下げながら言う。


「あなたと違う姿で申し訳ない限りです。驚かれましたよね?」

「まあ……」

「無理もありません。立ち話もなんですし、私達の家にでもいかがですか?」

「ええけど……」


 山田さんがのそりと歩き出した。横で「久しぶりやね、山田さん」と陽菜が声をかける。……なんやねん。陽菜の隣は私やないんかい。ふてくされながらしばらく歩くと、宇宙船の残骸のようなものが見えてきた。その割れた亀裂から中に入る。光が差す薄闇の奥に、山田さんと同じ生き物が何百も身を寄せ合っていた。山田さんは悲しげに言う。


「あなた方に出会えて良かった。もうすぐ私達は滅びますから」


 陽菜が「またまたぁ」と場末のスナックのママのような声を出す。

 足元で何かが動いていた。うめくような声で泣いている黒い塊だった。よく見ると濡れた黒い目がひとつだけある。その周りは無数の小さな足がうごめいている。そんなのがそこら中にいる。見つけて卒倒しなかった自分を褒めたい。


「泣蟲です。ずっと泣いているだけの無害な生き物です。お気になさらずに」

「気になるわ!」


 あきらめたように頭を垂れている生き物。しくしく泣いている黒い塊たち。重い空気が廃墟の中に充満する。


「辛気臭いっちゅーねん! 陽菜、どかんと笑かすで!」


 ちょうどいいガレキの上にふたりで立つ。


「どもー、『ひなみぽん』です!」

「よろしゅーおねがいしますー」


 誰も見ない。私は息を吸い込み、大きく叫んだ。


「わー! 笑えー!!」

「んー。笑えとゆうて笑うたら苦労ないんとちゃう?」


 そのとき、笑い声が聴こえた。ウ、ウケとる……。でも、誰に?


「あはは。なんですか、それ」


 機械をたくさんつけたジャケットを着たお坊ちゃんが、亀裂の近くで笑っていた。


「誰や」

「ええと……僕は、想鐘理乃と言います。あなたたちも次元渡航者ですよね?」

「次元? なんやそれ」

「え?」


 これまでのいきさつをかくかくしかじかと話す。


「なるほど、元の世界に戻れなくなったんですね」

「助けてもらえる?」

「うーん。複数の時空間は完全には重ならないアウリッツの不交叉原理というのがあって……」

「アウ?」

「あ、いえ。簡単に言えば完全に同じ世界には戻れないんです」


 陽菜が「あかんやんー。来月のお家賃払うてないわー」とのんびり言う横で、私は腹を抱えて笑い出した。


「ええな。おもろいわ。いろんな世界があって、そこには人間がぎょーさんおるんやろ? これって笑かせ放題ちゃうか?」

「そうですけど……。不思議ですね。戻れなくなった人はだいたい落ち込むのに」

「ウチら漫才師やで。メソメソしてたら客がしらけるわ」

「そうですか……。それなら」


 理乃が山田さんの近くに行き、顔にかかっている布を外した。そこには人の目と同じものがあった。


「どうです? 本能を消して行儀良くした僕達の成れの果てさん」

「生物が黙って滅ぶのは正しい姿です」

「笑って抗いましょうよ。彼女たちみたいに」

「しかし……」


 私は芸人らしく、空気を読まないツッコミを入れる。


「正しい姿っちゅーのもたいへんやな。あんまり意固地やと早死にするで」


 ぷっと噴き出した山田さんに、陽菜が「笑てるの初めて見たわ。案外ハンサムやな」とボケる。くすくすという多くの笑いが、重い空気を軽くしていった。


「ありがとさんや。やっぱり美帆は誰でも笑わせるヒーローなんやなー」

「そない言われたら、こそばゆいわ」


 私は照れ隠しに理乃へ大きな声で言う。


「はよ連れて行かんかい。お客さんがウチらを待ってるんやで!」

「わかりました。では……」


 理乃は屈むと、もぞもぞと動いている泣蟲を手にする。


「こうひっくり返して、こちょこちょとくすぐるとですね……」


 光があふれる。陽菜が「スターボウや!」と嬉しがる。山田さんが私達に頭を下げているのを見たら、ふっと意識が飛んだ。



 目を開けたら高速道路を走る車の中にいた。車窓には斬新な形をしたビルが、折り重なるようにして流れている。

 理乃は前の席にいた。そこにはハンドルはなく、運転している様子はなかった。


「理乃、ここどこや。えらい未来やな」

「ようこそ。2323年の月面都市東京へ……たぶん」

「たぶんってなんや?」

「僕が知ってる世界じゃないんです。だって、ほら。ここ月面なのに空があるんです。きっと、へうえ星系にあるドーム都市用の技術ですが……。ここにはまだないはずのものです」


 私の隣で陽菜がのんびり言う。


「えらいハイカラさんなんやなー」


 そんな陽菜へ反発するように理乃がつぶやく。


「僕はこんな世界は嫌いです」


 鋭い音がした。あらゆる窓に警告らしいテロップが流れる。


「理乃、これあかんとちゃう?」

「止まれ、だそうです」

「なんや、スピード違反か。迷惑なやっちゃな」

「そうですか? もっと迷惑なのが来ましたよ」


 後ろを振り向く。禍々しいトゲをたくさんつけた車が追いかけてくる。


「なんや、あれ……」

「やっぱり。次元渡航者が苦労して集めた技術を素直に渡すわけがないんです」

「どういうことなん?」

「こういうことです!」


 理乃がダッシュボードを叩く。ハンドルがにょきっと出る。それをつかむと、理乃はぐいっと回した。とたんに車がくるくるとスピンする。逆方向へ車を向けた瞬間、一気に加速した。追い抜いたトゲトゲ車が、あわてて同じことをしようとしてひっくり返る。


「まだ来るでー」


 陽菜が指さしたほうを見る。合流する道からトゲトゲ車が何十台もやってきた。赤い光を向け、何かを叫んでいる。

 バンという音が響いた。たくさんのトゲがロケットのように飛んだ。ハンドルを器用にさばきながら、理乃は落ちてくるトゲを巧みに避ける。

 車が本線から外れる。道路沿いに大きなビルが口を開けていた。ショッピングモールだろうか。店っぽいものが見える。迷わずそこに車を突っ込ませる。


「理乃! 何してん!」

「逃げます! ここを抜けて宇宙へ!」


 逃げ惑う客たちを抜け、リンゴの形をした屋台を引き倒す。たくさんの飴が飛び散る中、ショーウィンドウにぶつかり、ガラスを粉々に砕く。笑う恵比寿さんの看板をひっかけ、さらに車を加速させる。

 追いかけてきたトゲトゲ車は、散らかした破片で滑り、ひっくり返り、何台も店先に突っ込んでいった。私は拳を上げて叫ぶ。


「ざまぁみさらせ!」

「美帆ー、前ー!」


 そこには空しかなかった。


「しっかりつかまってください!」


 理乃が一気に車を加速させる。

 飛んだ。飛んでいく。そして、膜状の空を突き抜けた。

 その先は宇宙だった。青い地球が遠くに見え、ニキビのようなドームをたくさんたたえた月との間に、きらめく糸が何万本も繋がっていた。


「ええ眺めや……」


 一瞬ふわりとしたあと、車がじわりと落ちていく。理乃が青ざめて言う。


「ガス欠……」

「アホか。笑いが古典すぎや」

「あがれーっ!」


 めいっぱいハンドルを引く理乃を見て、私もいっしょにハンドルを引っ張る。


「あ。取れてもうた」

「笑えませんよ!」

「なに言うとんの。ドタバタは笑いの基本や!」


 車はドーム型都市の中へ落ちていく。みるみる地面が近づいてくる。公園の木々をなぎ倒し、車はひっくり返った。地面を滑りながら噴水に激突する。すぐに車内のあちこちからエアバックが飛び出した。

 噴水の水が顔にかかる。ぷわって言いながら、私達はどうにか車から抜け出した。


「ふう。ええ着地やったわ。そやろ、陽菜」

「んー。これやったら金メダル取れるんとちゃうんかな、美帆」

「もう、なんてことを……」


 ガチャリ。黒い制服を来た何百人もの人たちが、私達を取り囲み、一斉に黒い棒状の物を突きつけた。それが銃だということはわかる。殺す気まんまんなのも。この時代でも通じて欲しいと願いながら手を上げると、ぐいとさらに銃を突きつけられた。


「あはは……。どないしよ、陽菜」

「そやなー。いまこそ芸人魂を見せるときやで。光速を超えるダブルボケでエスケープや」

「はあ?」

「ほら、ボケてなー」

「ええと……。この銃の先っぽから旗がでるんかい」

「万国旗かいな! ちゃうわ貸してみ。これは重力子放射線射出装置や」

「重力子放射なんたらかんたら……舌嚙むわ! ちゃうねん、これは……」


 徐々にボケのスピードが早まる。風がぶわっと巻き起こる。


「あかんて、美帆ー。まだ光速の半分や」

「まだエスケープせんのかい!」


 理乃はけたけたと嬉しそうに笑っていた。


「こんな世界でもふたりがいるなら、悪くはないですね」


 いつのまにかやってきた泣蟲の大群が、私達へ飛び込んできた。手に当たると、うっかりくすぐってしまった。それからしゅぽっとみんなで消えた。



 気づくと、蒸し暑い地下鉄の駅にいた。耳慣れた関西弁が聴こえる。ここは……。


「心斎橋やないか!」


 私の驚きをよそに、陽菜が沈んだように答える。


「そやでー。昭和20年3月13日。もうじき上は焼夷弾の雨あられや」

「なんでそんなこと知っとるん?」


 階段から多くの客がばたばたと降りてきた。「あわてんでください。地下鉄は動かしますから」と駅員達が叫んでいた。理乃は焦る人たちの中で冷静に言う。


「多くの人が目撃した事件があると、どうしても似通った時空間が多くなるんです。いま私達は『私達が過去に存在すると認識していた世界』にいます」


 人があふれるホームに轟音を響かせて古い電車がやってきた。扉が開くと「梅田までや! 早よ乗って!」と車掌が叫んでいる。その只中に子供が立っていた。何度も大人たちに突き飛ばされている。その子は我慢しながら、じわじわと泣き出していた。


 ……まるで私みたいやないか。


 人をかき分け、その子供をしっかりと抱き締めた。


「安心しい。お姉ちゃんがおるから」

「うん……」

「泣いたらあかん。なんか楽しいこと考えような」

「アチャコの真似して」

「ええと、こうか。無茶苦茶でござりますなぁ」

「なんやそれ、知らんわ」

「厳しいなあ」


 子供がにまりと笑った。陽菜が私の後ろでぽつりと言う。


「これ、自分やー」

「え……。ほんまや。似とる。どういうことや?」


 ジリジリと駅のベルが鳴る。


「まあ、ええわ。この子を電車に乗せんと」

「ウチ、乗らへんかった」

「ほんまか? なら、なんで助かったんや?」


 陽菜が自分の足元によじ登ろうとしていた泣蟲を捕まえて、私に見せる。


「これや」

「それで違う世界に行ったんか?」

「そやで。それでまた美帆に会えたんやー」


 いまにも扉が締まりそうな電車と、泣きそうな顔をして私を見つめる大人の陽菜を見比べる。

 ……そないなこと、もう決まっとる。私は声を張り上げた。


「詰めてくれはりますか! この子だけでも乗せたってや!」


 親切な人が押しあって、どうにか子供ひとりは乗せられる隙間を作ってくれた。幼い陽菜を抱えて、その隙間に押し込む。


「もうお姉ちゃんと会えへんの?」

「どっかでまた会えるわ」

「そないな嘘、笑われへんで」


 そう言って飛び降りた。


「なにするん!」


 その瞬間に電車の扉が閉まった。すぐに重い音を立てながら電車はトンネルの奥へ走っていく。


「またお姉ちゃんに会えたほうがええわ。笑かしてくれるもん」


 陽菜が幼い陽菜に泣蟲を渡す。


「わかとるよな、自分ー」

「うん、わかるで、自分ー」

「ひっくり返してくすぐるだけやー」

「わかたわー」


 幼い陽菜はすぐにそうした。いくつもの光が集まっていく。


「あんじょうきばりやー、自分!」


 しゅぽっと消える。私はそのあとをただ見つめていた。


「こうやって美帆が最初にウチを見つけてくれたんやでー」

「ええのんか、陽菜。電車乗ったら、もっとええ世界やったかもしれへんで」

「アホか。美帆の隣はウチしかおらんのや。わかってのんかー」


 泣きながらそう言う陽菜の頭を、「そないか」とそっけなく言いながら、ぽんぽんと叩いてやった。

 理乃がぽつりと言う。


「厳密には違う陽菜さんですが……」

「あんなー。嫌なことはわかっとるよ。何万人いようと、自分は自分なんやからー」

「そう……ですね……」


 炎が迫る。煙と焼けた匂いが階段から駅の中へと入ってくる。


「さあ、美帆ー。次行くでー。大勢笑わせるんやろー?」

「そうやで。ほな行こか!」


 足元で動いていた泣蟲をつかむと、あやすように抱いてくすぐってやった。

 それからたくさんの世界へ駆け出した。


 あきらめた人ばかりがいる深夜の駅前で漫才をした。誰も聞いてはくれなかった。

 火炎瓶が飛び交う街頭で漫才をした。爆風だけが相槌を打った。

 仮想空間が発達した世界で漫才をした。エゴサしたら玄人向けとつぶやかれていた。


「あかん、地球はダメや。宇宙へ飛び出すで!」

「ええやんー。ついてくで!」


 テレパスばっかりの世界で漫才をした。ひとりが笑いかけたら、ちゃんと聞けと100万人が叱った。

 重量井戸の底で漫才をした。平たい生き物はぴくりとも動かなかった。

 砂漠だらけの星で漫才をした。怒ったサンドワームに追いかけられた。


「ぜんぜんや……」

「美帆ー、あきらめるんか?」

「まさか。とことんやったるわ。みんなどっかんどっかん笑わせたる!」

「それでこそ、ウチの相方やー」


 そんな私達に応えるように理乃が言った。


「次元をひとつ高くしてみましょう。高いところから探したら、笑ってもらえる世界が見つかるかもしれません。それには、この泣蟲のこうして食べて……」

「嫌や、そんなんぜったい嫌や!」


 陽菜が口に泣蟲を含むと、私にキスをした。触れる唇のやわらかさといっしょに、足がじたばたする動きを感じる。嫌がっても陽菜が離してくれない。口移しされたそれを、仕方なくごくんと飲み込んだ。


 次元を越える。4次元。5次元。そして11次元。宇宙のひもで縄跳びしながら、私達はあらゆる世界を同時に探した。そしてわかった。望むような世界はなかった。それでもたくさんの人が大笑いしてくれる世界をずっと探し続けた……。



 闇の中にふわふわと浮かんでいた。寝ころんだ理乃が、あきれたように声を上げる。


「ここまで来ちゃいましたね……」

「これが世界の終焉なん?」

「そう、おしまいです。あの光が消えたら終わりなんです」


 理乃が手を小さな光へと向ける。身体に染みていた泣蟲が、その手の上に姿を現す。


「さあ、君が最後だよ。生まれたところへお帰り」


 ふよふよと理乃から離れていく泣蟲を見ながら、私はたずねる。


「あそこから生まれたん?」

「泣蟲の本体はダークマターで、僕達とエントロピーは逆ですから」

「エン?」

「ほら、世界が終わりますよ」


 暗闇に浮かんでいたわずかな光が消えていく。


「もう誰もおらんのやな」

「そうですね。人類どころか、何もかもがないですが」


 結局私は……。やるせない気持ちで、ひとりごとのように言う。


「私な、土曜日は誰もいない部屋で、よしもと新喜劇をテレビで見ながら泣いてたん」

「なんですか、それ」

「親が忙しくてな。寂しゅうて仕方なかったんや。なして笑かされているのに、泣かなあかんねん。それからや。みんなを笑かしたいと思ったんのは……」


 ふっと理乃が笑う。


「いますよ。観客がまだここに」


 陽菜が私の手をつかむ。


「美帆の相方もここにおるでー」


 うっかり泣きそうになった顔をごしごしと拭う。


「そやな……。そやそや。私にはもう最高の相方と最高の観客がおったわ」

「やっと気付いたんかー。遅いわー」

「ごめんな、陽菜。ありがとうな。ここまで付き合ってもろて」

「こちらこそやー」


 私は大きな声で明るく叫んだ。


「ほな、ウチら『ひなみぽん』の最後の漫才、ぱーっとやらしてもらいますわ!」


 私と陽菜は笑い合う。理乃がぱちぱちと嬉しそうに拍手してくれた。


「美帆、ネタはどないするー?」

「そないなもん、もう決まっとる」


 私はいつものように手を腰まで上げた。


「電球、切れてるんかい!」


 ビシッと暗黒の時空に突っ込みを入れる。その先がパリパリと割れ、光があふれだした。ビッグバン。新しい世界が創られていく。

 私達は包まれる光の中でおじぎをした。


「「ありがとうございました!」」



 ふよふよしている感じがしていた。横で赤ちゃんがほぎゃほぎゃとやたら泣いている。


 なに泣いてんねん。笑わんかい!


 とても小さな手で隣へツッコミを入れる。きゃっきゃっと喜ぶ陽菜の声がした。それを見ていた人たちがうれしそうに笑っていた。

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まずは笑ってもらおうか。すべてはそれからだ。 冬寂ましろ @toujakumasiro

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