居場所は理由がないとつくれなかった

 時々、学校に向かう電車とは違う路線の電車に乗る事がある。特に意味はない。むしろ意味があってはいけないのだとさえ思っている。ぼうっとしながら、ふと気が付いた時に目に留まった駅に降りる。そういう事を繰り返す。

 その日もなんとなく知らない路線に乗り、気付くと三時間近くが経過していた。車窓からは陽の光を乱反射させる青い海が見える。そろそろ降りてみるかとシートを立ち上がった。

 屋根もないような、古くて小さな駅だった。空を見上げると、眩しい程の群青色が視界を染め上げる。潮風に晒されて少し錆び付いた駅名標には、「正しさ」とだけ書かれている。不思議な駅だった。

 駅を離れ、太陽の照り付ける下を行き先も考えずに歩いてみる。少し歩いて、ふと気が付いた。僕はこの街を知っている。いや、知っているどころではない。普段僕が当たり前に過ごしている街だった。

 通学に使っている路線とは違う電車に乗ったのは覚えている。学校がある方とは違う方向に電車が発車したのも覚えている。つまり、ここは確かに僕の地元とは違う街だ。なのに、あの建物も、公園も、木も、道も、全てが僕が毎日のように見慣れているものだった。

 いつも通りに訪れる朝、いつも通りの街となれば、僕が取る行動も自然と同じものになってしまう。僕の足は無意識に学校へと向かっていた。

 やっぱり学校も僕が通っているものと同じもので、制服も完璧に同じだったから校内に入っても何も言われなかった。生徒の顔なんて一々覚えていないから確証はないけど、結局すれ違うこの人達も同じ顔をした人間なのだろう。

「僕」とすれ違わないか少しキョロキョロしながら廊下を進み、部室の前に辿り着く。僕がよく見知った、少し黄ばんで薄汚れたカーテンが閉め切ってある。鍵は開いていたから扉を開け、カーテンをくぐった。

 だけどそこはもう、部室として機能していなかった。使われていない机や椅子、棚や廃材がこれでもかと詰まっていて、ただ数ある教室のうちの一つを物置として使っていただけだった。

 見覚えのあるような先生にすれ違いざま声をかけ、この部室と部活の事について訊ねてみる。聞けば、少し前までは二人の部員がいたらしいが、その二人が突然退部し、部員がいなくなったと同時に廃部になったらしい。部室として使わないのであれば、という事で体よく物置になったわけだ。

 せっかく学校をサボってここまできたのに、同じ顔の揃った同じ教室で同じ授業を受ける気にもなれない。僕はバレないように、そっと学校を抜け出した。ここの生徒ではないのにコソコソしなくてはいけないなんて、何とも歯痒い話だ。

 街を当てもなく歩き続けていると、一つだけ、僕の地元と違う点がある事に気が付く。どうやらこの街、海に囲まれているらしいのだ。電車を降りたあの駅からも綺麗な海がよく見えた。

 せっかくだからと海を目指してみたが、これがどうにも僕の知っている街の領域を抜けられない。海を見たければ、結局あの駅に戻れという事らしい。

 元来た道を再び辿って駅へと辿り着く。駅には一つだけ、木製のベンチがある。そこに一人の男子学生が座っていた。彼はそこから、彼方まで広がる青い水平線を眺めている。

「やあ」

 よく知ったその顔に声をかけてみる。いや、ある意味では誰よりも知らないという言い方もできるのだろう。そいつは僕の顔を見て、つまらなさそうな表情を隠さなかった。

「ここで何をしてるの?」

「待ち合わせ」

「もう授業は始まってるだろ?」

「分からないかな。サボりだよ。君と同じで」

「そうか」

 本当は僕もベンチに座って綺麗な海を眺めたかったのだが、そいつがいるせいで座る事ができなかった。他の誰が座っていても僕は隣に座ったけど、世界でたった一人、こいつの隣にだけは座りたくなかったのだ。

「誰と待ち合わせを?」

「思い当たる節があればそれが正解だよ」

「なるほど。よく分かった」

「分かってくれたなら早く消えてくれないか。邪魔なんだよ」

「そんな風に言われると余計に邪魔したくなるな。それは君が一番分かるだろ?」

 僕が少し挑発気味に言うと、彼は苛立って舌打ちをした。やがてその場所にはさざ波の音だけが反響する。僕はふと気になった事を訊ねてみた。

「どうして部活を辞めたんだ?」

「僕は僕のそういう所が嫌いなんだ。分かってるくせに答えを言わせようとする性格が」

「それもよく分かる。でも今回ばかりは聞いておかなくちゃいけない。君は」

 その時だった。「ごめんごめん」と走りながら、先輩がこちらへと走ってきた。息を切らしながら、汗ばむ首元を手で拭っている。

「そこで先生に見つかっちゃって、……あれ?」

 先輩はこちらに目を向け、僕と彼を交互に見比べた。眉をひそめ、状況が理解できないままに間違い探しをするみたいな顔をする。

「あえて君が嫌がる言い方をすれば、『もう意味が無いから』かな」

 彼はそう言いながらゆっくりと立ち上がる。先輩に「行きましょうか」と声をかけると、先輩は「え? 本物?」と更に困惑した様子で言った。そして二人は何の躊躇もなく、当たり前のように手を繋ぐ。

 彼はそのままこちらを振り向き、僕の顔を一瞥して口を開いた。

「君が何を言おうと、これが『正しさ』なんだよ」

「なら僕は、僕の『間違い』を信じるだけだ」

「いつまでそんなものに縋っていられるんだろうね。君は永遠に僕にはなれないのに」

 そうだろうなと、次は僕が苛立つ番だった。

 彼が前を向くと同時に、今度は先輩がこちらを振り向く。彼女は僕の顔を見て微笑み、控えめに手を振った。少し迷い、僕も愛想笑いをして小さく頭を下げる。その微笑みは、彼女が僕に向ける事など永遠にない種類の笑みだった。

 溜め息を一つ吐く。どう足掻いたって僕が「間違い」で彼が「正しさ」なら、僕は彼のようになりたかったのだろう。なら僕は、あの先輩の笑みを後生大事に抱えて生きていくだけだ。そうやって全てが終わった後も、彼女を思い出すだけだ。ただ、それだけなのに。

 駅名標を見ると、変わらず「正しさ」とだけある。たったこれだけの事が「正しさ」なんて馬鹿げている。これから先、夏の茹だるような暑さに、海と空の青さに、彼女のいない「間違い」の人生に、僕の知らない先輩の微笑みしか思い出せないなんて。

 次の電車をアナウンスする音声が流れる。そう言えば、もう一つだけ「正しい」ものがあったと思い出した。それだけは純粋に羨ましく思い、「間違い」の僕には存在しない事を少し残念に思う。僕はホームに立ち、次の「間違い」行きの電車を待った。

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