テセウスの船

「変わったね」

 たったその一言に、まるで世界がひっくり返るように大きく揺さぶられる。続けて彼女が発した「知らない街みたい」という言葉に安堵を感じて尚、心臓は強い余韻を残したまま暴れ続けていた。

「学校はまだあるの?」

「あると言えばあります」

「なにそれ」

「数年前に改修工事をしたんです。あれを元のままの学校と呼べるかは分かりません」

「テセウスの船だ」

 僕らの立つ橋からは変わった街並みと、それから青空を映し出す水平線が見える。春先の冷たい空気が吹くと、先輩の髪が風向きをなぞってなびく。同時に、先輩の着ている制服のスカートもはためいた。

「制服もそうですよ」

「なにが?」

「デザインが変わったっぽいです。先輩が着てるそれはもう使われてません」

「じゃあ売れば高くなるじゃん。ラッキー」

 先輩はさしたる興味も無さそうに、弱く吹く風に心地よさそうな欠伸をした。長い永い冬眠から目覚めたように、深い欠伸を。先輩が眠りに就いたのはもう十年も前なのかと、その年月をふと思う。

 約十年前、世界中でウイルスによる未曽有のパンデミックが起きた。ワクチン接種に翻弄される傍ら、ウイルスに感染していない人間を冷凍保存し、後世に託そうという動きもあった。そしてその被験者として、当時まだ高校生だった彼女が選ばれた。世間は彼女を、まるで何かの英雄のように崇めた。

 僕には彼女が選ばれた理由も、それがどれだけ大層な事なのかも分からなかった。だから必死に勉強した。何も分からなかったから。分かりたかったし、彼女を救いたかった。その為に有る限りの時間を全て費やした。彼女の為だったはずの人生が、この世で必死に生きる自分の為と理解した時、僕はようやく大人になったのだと思う。

「なんか寒いね。四月とは思えない」

「気温は年々低くなってます。制服が変わったのもそのせいじゃないですかね」

「時代遅れってわけか。はやし立てるだけはやし立てて、あとはほったらかし」

 先輩は心底うんざりしたように溜め息を吐いた。僕はスーツの上から来ていたコートを脱ぎ、それを先輩の肩にかける。先輩は一瞬だけ驚いたような顔を見せた後、少しにやりと笑って「へえ」と言った。

「君がこんな事できるようになったなんて思わなかった」

「先輩とは違ってもう大人ですから」

「年上なのに後輩って変だね。君が私に対して敬語なのも」

 実を言えば、ほんの僅かにだけ迷いがあったのは確かだ。僕の中で先輩は変わらず先輩で、変わらずただの後輩でしかない僕がこんな事をできるはずもなかった。

 あまりに寒いものだから、自販機で何かホットの飲み物を買いに行こうと僕が提案した。その道中、先輩は僕自身の事について訊ねてくれた。

「じゃあ今はサラリーマンか。偉くなったね」

「偉かったらサラリーマンなんかしてないです。もっと胸張って言える職業に就いてますよ」

「どうせ君は何になっても満足しないでしょ」

 そうかもしれない。僕が満足を得られるものは、過去に置いてきたあの時間だけだ。これからどんな行く末が待っていても、僕はそれに幸福を感じたりしないのだろう。

 あるいは、もっと必死になって勉強していれば、僕は彼女を助けられたかもしれない。それで、どんな形であれ今とは違う、正当性を持った彼女との時間をもっと過ごせていたのかもしれない。そうできなかった事を悔やむ日もある。進行形でゴミ箱に捨てているような今この瞬間に、先輩がいてくれたかもしれないのに。そうなれば僕は満足だっただろうか。答えはもう分からない。

 先輩が財布から取り出した旧硬貨は使えなかったから、僕が彼女のミルクティーを買った。仮に硬貨が使えたとしても僕はそうしただろう。

「先輩はこれからどうなるんですか」

「別に普通だよ。また高校に通い直すだけ」

 人気のない道沿いで、自販機に寄りかかって彼女は言った。僕は少し熱いブラックコーヒーの缶を握りながら「そうですか」と言った。

「そっか、部室ももうないのか。じゃあもう本当に、君の先輩じゃなくなったね」

 先輩はそう言って、何でもないようにペットボトルに口を付ける。

 もう彼女は「先輩」でなくなって、僕も「後輩」ではなくなって。本当にそうなのだろうか。あの部屋だけが、僕らの存在証明だったのだろうか。なら、今僕と彼女が共にいるのはどうしてだろう。一体何が、僕らを繋ぎ止めてくれているのだろう。

「いいじゃないですか、別に。このままでも」

 変わらないものなんてない。たったそれだけの単純な事実が僕を永遠に苦しめる。でも、それに気付かないふりをして生きていく事はできる。だって、十年前の僕はそうやって生きていたはずだから。

「前と変わらず、僕は先輩を『先輩』って呼びますよ。僕にとっての先輩は、これまでもこれからも、先輩だけだから」

 先輩は百五十ミリリットルのペットボトルを傾け、温くなったミルクティーをゆっくりと飲み下した。そして口を離した後で、更にゆったりとした速度で言葉を紡ぐ。

「君は『前』って言うんだ。私にとってはつい昨日の事でも。もう君は過去形にしちゃってる。そこからもう間違ってる」

 彼女の瞳はどこか遠くを見つめていた。彼女が何を考えているのか、その表情からは読み取れない。以前の僕なら分かっただろうか。

「私は前を向いて、君のいない場所を歩く。だから君も前を向いて生きなきゃ。私のいない場所で生きないと」

「僕が生きる場所は先輩のいる場所だけです」

「年下の女子高生に言ってて恥ずかしくないの?」

「でも先輩じゃないですか」

 そう言うと、先輩は小さく溜め息を吐いた。暖かくなった口内から白息が昇り、澄んだ青空へと霞んで消えて行く。

「君はもう変わった。以前の君なら簡単にコートを着せたり飲み物を奢ったりもしなかった。いい事だよ。成長したんだ。だからこそ、私の知ってる君とは何もかもが違い過ぎる。中身も、見た目も、色々」

「じゃあ」

 じゃあ、この変わらない貴女への想いはなんなんですか。そう言いたかった。口を噤んだのはどうしてだろう。自分でも分からない。意味が無いと直感していたからだろうか。十年前の僕なら、そんな事しなかっただろうか。

 中身も見た目も、何もかもが変わって。僕は先輩の知ってる「僕」ではなくなって、変わらない先輩だけが先輩で在り続けていて。

 果たして、僕は「僕」なのだろうか。あの頃と変わらず、先輩を妄信し続けていた僕のままでいられているのだろうか。

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