あるいは、祈りがあるとすれば

 人々はそれを、「祈りの少女」と呼ぶ。ガラスに覆われた彼女には、祈る暇すら与えられなかったというのに。

 この世界は長い時間軸の中で、幾度か生まれ変わりを果たすという。つまり、僕らの時間軸の始まりを原始時代と呼んだりする。前の世界の事、次の世界の事を知る人間はいない。それはそうだろう、人間は平等に死ぬ。

 でも、彼女は違う。彼女は唯一、「前の世界」の生き残りだ。世界が終わるその瞬間、彼女は半径にして一メートル程の爆心地の中心にいた。詳しい事は分からないけど、空間と時間の捻じれが起こした歪は、幸か不幸か彼女を生かした。


 終末前夜の街中には誰もいない。大切な人と過ごすとか、そういう事を考える人間がほとんど。そして、明日がこないという事実は人に自棄を起こす力すらくれないのだ。理由はどうであれ、人類は皆引きこもってしまっている。

 山頂から見える星空は、世界の終わりというにはあまりに綺麗だった。腕時計を確認すると、時刻は午後十一時五十五分。あと五分で世界は終わる、らしい。誰も確実な事など言えない。もし明日が来たとしたら、世界は立ち直って再び廻る事ができるのだろうか。

 隣の少女を見る。少女は立方体のガラスの中で手を組み、琥珀のように形を取られたまま動かない。その姿はなるほど、確かに「祈る少女」だ。

 組まれた左手首にはシンプルな腕時計が付けられている。短針と秒針は頂上で重なり合う一秒前で止まっていて、どの世界になっても人類は時計を編み出すのだなと、どうでもいい事を思った。

 少女の立つ場所は、地形の関係で少し高い位置にある。そして彼女は、「何か」を見上げていたかのように空を仰いでいる。つまり、ただ彼女の傍や隣から見ただけでは彼女の顔を知る事ができない。少し大きな脚立か何かを持ってきて、立方体の上から覗くようにして、ようやく彼女の表情を知る事ができる。

 けれど、ただのモニュメントにそこまでしようとする人間はいない。つまり、この少女の顔を知る人間はいないのだ。終末の直前、彼女が何を見上げ、何を祈ったのか。人類はそれを知らないまま、また終わりを迎えようとしている。

 僕は今日、彼女の顔を知ろうと思う。その為にここへ来た。


〝六千六百九十一杼の一〟という数字を聞いてどう思う、なんて質問をされたら、僕は「そもそもそんな単位知らない」と答えるだろう。

 世界の終わりが与えた空間と時間の歪は、彼女を生かした。それと同時に、どうしようもない呪いも付与した。それが「六千六百九十一杼分の一の時間で生きる」という事だ。

 少女は世界の終わる瞬間、つまり午後十一時五十九分の姿のまま、その時間の中で生き続けている。「ゆっくり」と表現するにはあまりにも遠く、「永遠」と表現する方がまだ近いのでは、とすら思ってしまう。

 彼女の生きる「六千六百九十一杼分の一」の世界では、世界が終わってからまだ〇・一秒程しか経っていないのだという。瞬き一つするにも早すぎる時間だ。瞬きをしようと瞼の筋肉が動き始め、閉じ切る。その僅かな瞬間にこの世界は始まり、そして今、終わろうとしている。

 だから彼女の持つ腕時計も、どれだけ眺めていたって秒針が動く事はない。その秒針が一つ動くのにも、計り知れない時間がかかる。僕らには、その瞬間を見届ける事すらできない。

 ともかく、少女自身を含め、ガラスで囲まれた半径一メートルの中は想像を絶するようなゆったりとした速度で時間が進んでいるというのだ。世界が四十六億年のサイクルだとして、彼女が瞬きを終えるのは二つ三つ後の世界。彼女が周囲を見渡して「あれ」と異変に気付くのは、……想像もしたくない。

 人類にとって少女は、あくまでも一つのモニュメントだった。少なからず四十六億年の間無傷で生きている事、唯一無二の絶対的な「生者」。人類は平和の象徴として少女を崇め奉り、「祈りの少女」と呼んだ。

 けれど、僕にはそう思えないのだ。ただの学校の制服に身を包んだ彼女は、どこにでもいるような、普遍的な少女以外には何者にも見えない。


 ここ周辺は普段、厳重な警備によって管理されている。ましてや、少女を囲うガラスを取り外そうだなんて、正気の沙汰じゃない。でも、今日だけはそれができる。世界の終わりの日に得体の知れない少女の警備をする余裕は人類に無い。

 今日だけだった。彼女の表情を伺い知れる、最初で最後のチャンスだった。僕は何よりも彼女を選んだのだ。終末を迎えるその瞬間、彼女を知る事さえできれば、それ以外は何もいらなかった。

 近くの倉庫に脚立があるのを知っていたから、それを使った。ゆっくりと登り切り、腕を伸ばせば手が一番上に届く高さまできた。

 立方体の屋根に当たる部分を取り外すと、厚さ十センチほどのガラスに手をかけられるようになる。そうすればあとは腕力で登るだけだ。

 足場十センチに足を乗せ、ガラスの中を見下ろす。そしてその中に、「祈りの少女」はいる。


 少女は、微笑んでいた。


 それは、世界に現存する何よりも優しい微笑みだった。

 言ってしまえば、僕はその微笑みに一目惚れしたのだと思う。言葉にできない、言葉になんてしたくない。「世界の終わり」なんてものがどうでもよくなるくらい、どうしようもなく、彼女は綺麗だった。

 だからだろう、僕はそれ以外の事に注意が散漫になってしまった。足を滑らせ、背中からガラスの中へと落ちてしまう。

 その瞬間、僕は夜空を見上げていた事になる。時刻は午後十一時五十九分五十九秒。僕の瞳は、世界が終わるその瞬間を捉えていて。

 そしてそれはきっと、彼女が見届けたものと同じだったのだ。


「祈りの少女」というネーミングが嫌いだった。彼女はどこまでも普通の少女だ。そう叫びたかった。

 僕は一つ、どうでもいい決心をしていた。もしも、彼女と言葉を交わす日が訪れるなら、その時は「祈り」だなんて言葉は使わないようにしようと。彼女「だけ」を呼び止めるような言葉を、彼女が振り向いてくれるような言葉だけを使っていようと。

 彼女は僕の一つ前の世界を生きた少女。僕の先人だ。だったら、それにぴったりの言葉があるじゃないか。そうだ、それがいい。もしも彼女を呼ぶ言葉があるとすれば、それはきっと——。


 カチッ。

 秒針が、一つ進む。

「……なに笑ってるの」

 彼女が、声を発する。

 彼女が、瞬きをしている。

 僕は彼女と少しの間、数千億年目を合わせた後で、ようやく口を開いた。

「どうして笑ったのか、僕にも理由が分かりましたよ」

 世界の終わるその景色が、笑ってしまうくらいに美しかったから。なんて、言葉にするのは野暮なのだろう。彼女は首を傾げていた。

「……ここどこ? このガラスなに?」

 彼女は不思議そうに言って、周囲を見渡した。ガラスの外では多分、この瞬間にも世界が終わっては、また生まれているに違いない。

 僕らはその時々で、またセンスのない名前を付けられては崇め奉られているのだろうか。流れる六千六百九十一杼分の一の時間で、僕と彼女は確かに生きていた。

 彼女を呼ぶ、その為の言葉がある。

 僕は口を開き、どうしても言いたかったそのたった二文字を音にする。

 そうして、永遠みたいに果てしない時間をかけ、ようやく僕は彼女を呼び終えるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る