エピローグ
「みたいな感じの本だけど、どう?」
「……なんていうか、難しいですね」
「世界がどうなろうと変わらない二人の関係ってあるもんだよ。素敵な話だと思わない?」
先輩はそう言いながら、手元の文庫本に栞を挟んだ。やはり本の表紙に文字はない。彼女の瞳のように、全てを呑み込むような黒が広がっているばかりだ。
「読みたかったら貸すよ?」
「いいんですか」
「うん。卒業までには返してね」
「もちろん」
本を受け取りながら、彼女の発した「卒業」という後味の悪い言葉を心の内で反芻する。彼女はあとどのくらいここにいられるだろう。僕はあとどのくらい彼女といられるだろう。僕はあとどのくらい、彼女と言葉を交わせるだろう。
「それで、答えは決まった?」
「何の話ですか」
「私が何にでもなれるなら、君は何になって欲しいかって話」
「それならさっきも言いましたよ」
「つまらないなあ」
そう言いながら先輩は腕をうんと伸ばした。大きな欠伸をし、瞳が涙で潤んでいく。その様子を見ていた僕はふと思って、こんな言葉を口にしてみた。
「じゃあ、僕ならどうです?」
「……どういう意味?」
先輩は不思議そうに眉をひそめる。少し細まった大きな眼から、表面張力を破り一滴の涙が頬を伝っていく。
「もし僕が何にでもなれるなら、先輩は何になって欲しいですか」
開いた窓から、生暖かい春風が優しく吹き込む。このまま机に突っ伏して深い眠りに就いたら、きっと幸せだろうと思う。
「難しい話だね」
「でしょう?」
「ちょっと考える時間ちょうだい」
そう言って悩ましい表情をしながら、先輩は頬を伝った涙をそっと拭った。そう言えば先輩が泣いているところを見た事が無いと、どうでもいい事を考えた。
「やっぱりお金? でもそれだと先輩としての威厳が」と悩む彼女の様子を眺めながら思う。例えどれだけ心地の良い風が吹こうと、どれだけ眠りを誘う春の気温だろうと、やっぱり駄目なのだ。この部室という場所で、彼女という存在がいるからこそ、僕はそう感じられる。たったこれだけの事を、僕は幸せと呼びたい。
先輩が思案している間、僕は彼女から受け取った本を流し読みしていた。読んでいるうちに思ったのはやっぱり、この本のタイトルは何なのかという事だった。でもそれと同時に、僕の中にとある言葉が浮かんだのも事実だった。もしこの物語にタイトルを付けるとしたらこれ以外にはあり得ない、というような。だからきっと、僕が思い続ける限りこの本のタイトルはそれなのだろう。
「……うんやっぱりそうだよね」
先輩が何やら決めた様子を見せたので、僕は本を閉じた。窓から差す日を返し、黒い表紙が鈍く光っている。
「決めました?」
「考えたけど、やっぱり君と同じになりそう」
「同じって言うと、つまり」
「うん。君は君のままでいてくれたら、それでいいよ」
先輩はやっぱり、いつものように憂い目で微笑んで言った。彼女のこの表情を見る度、瞳を見る度、僕は大切な何かを忘れているような気がして、ほんの少しだけ、焦る。
「どこに行こうと何になろうと、どうせ私は私だし、結局君は君なんだと思う。この部屋とか私達の関係とか、そういう変わらないものだけを大切にするのも案外悪くないよ」
どこかで似たようなものを見た気がした。遠く離れた星々を駆け巡ったって、世界が終わってまた新しい世界が始まったって、どんな扉をいくつも開けたって、その先に変わらない彼女だけがいる。そういう確信があった。
「……じゃあ、結局」
「うん。このまま何も変わらない事。それがお互いに望む結末なんだろうね」
先輩のその、世界の真理そのものみたいな微笑みに、僕は「そうですね」と笑った。それ以外はいらなかった。
彼女を呼べる事だけが大切だった。彼女をこの眼に映す事だけが完璧だった。こうやって先輩と言葉を交わす日々、それだけが僕にとっての全てだった。
「……だから僕は、先輩がいる場所の事を世界と呼ぶんです」
風が強く吹く。開いていた窓から木々が揺れて擦れる音が聞こえる。
手元にあった文庫本のページが勢いよく捲られる。どこに行こうと何になろうと変わらない、たった一つの〝それ〟だけを綴った物語がある。
僕は目を細める。狭まる視界の中、先輩の髪が風向きをなぞってなびくのが分かる。先輩はこちらを見たまま、ゆっくりと口を開く。
「私は私のまま、君は君のまま。だから結局、この物語の——」
それが、最後だった。そこで僕は目覚めた。
「おはよう」
顔を上げる。何ら変わらない先輩がそこに居る。
「……おはよう、ございます」
「夢心地、みたいな顔してる。どんな夢見たの?」
「……あんまり覚えてないです。なんか、先輩がいた気がします」
目を開けた時、「ここがどちらなのか」を考える事から全て始まる。でもどこの世界にいたって違いは何も無い。「どちらだろうと自分は自分だし、先輩は先輩だ」と、どっちにしろ思うのだろう。だから、ここがどちらかなんて考えるだけ無駄と知っている。
消えゆく残夢の中で声がする。言葉が反響する。続きは聞けなかった。でも、彼女が何を言いたかったのか、僕には分かる気がする。
「……なに笑ってるの?」
僕は「なんでもないです」と、両腕を伸ばしながら言った。欠伸を噛み殺す。涙で視界が潤んでいく。
「先輩だなって思っただけですよ」
「何それ」
「ただの独り言です」
「そうだよ。私は先輩だよ」
「何ですかそれ」
先輩の言葉に少し笑う。狭まった目元から、一滴の涙が頬を伝う。
「先輩に一つ、訊いてみたい事があるんですけど」
「なに?」
頬を伝った涙を拭いながら、鞄から一冊の本を取り出す。表紙も背表紙も真っ黒な文庫本。先輩から借りた本だ。いつ借りたんだっけ。つい最近のような気がするし、ずっとずっと前のような気もする。
「あ、もう読み終わったんだ。面白かった?」
「はい、とても。ありがとうございました」
「そっか。よかった」
静かな部室、開いた窓から吹き抜けるそよ風、充満する緑の匂い、晩春の空気。
「訊きたい事って、その本の事で?」
「はい。もしこの本にタイトルを付けるなら、先輩はどんなタイトルを付けるかなって」
机をいくつか挟んだ先、近くも遠からずな距離。先輩はいつものように、こちらを見て微笑んでいる。
「タイトルって、そんなの一つに決まってるじゃん」
そうだ、先輩の言う通りだ。結局、この物語の結末は、タイトルは、きっと。
「君も分かってるんじゃない? 多分、私と同じ答えだと思う」
世界がどうなろうと変わらない二人の関係が、そこにはある。僕は、いつも。
「僕もそう思います。きっと、この物語のタイトルは——」
『先輩と僕』
いつも、それを見ている。
先輩と僕 @maitakemaitakem
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