Polar Night
「だから言ったじゃん、君は制服じゃ暑いよって」
「だって、こんな事、させられるとは」
「はは、聞こえない」
夏の夜明けは早い。白みだした空の向こう側で、朝焼けを映し出す太陽が見え隠れしている。段々と明るく染まりゆく街に、後ろで先輩が「綺麗」と小さく呟いた。
「線路も見える。あそこ通るなら、こんな高い場所に駅なんか建てなくていいのにね」
急勾配の坂道を自転車で登り続ける僕は、息も絶え絶えに「そうですね」と吐き捨てるのが精一杯だった。二人分の体重を乗せたペダルを強く踏みしめる。落とされないよう、腰に回された腕に力が入るのが分かる。否が応にも高鳴る鼓動に、運動量と暑さという言い訳が揃っている事に安堵する。
「あ、見えてきた。もう少しだよ。頑張って」
先輩が背中を軽く叩く。汗にまみれてシャツが濡れていないかとか、そういうくだらない事を考え、恥ずかしさやら罪悪感やらほんの少しの些細な嬉しさやら、そういうものを袖を捲った腕に込める。汗で滑らないようハンドルを強く握り、それに比例するようにペダルを漕ぐ足にも必死に体重を乗せる。
そうやってようやく駅の前に到着して、僕は自転車を止めた。息を切らしてうな垂れる僕に、先輩は「お疲れ様」と労いの言葉をかける。
「こんなに必死になってるところ初めて見たかも。汗だくだよ」
俯いた顔をゆっくりと上げる。酸欠で霞む視界に、僕と同じく学校指定の制服に身を包んだ先輩の姿が映る。
「助かった。ありがと」
そう言って微笑む彼女に何を返すべきか分からず、まだ息が整わないからと自分に嘘をつきながら「はい」になり切れなかった「はあ」を漏らす。
自転車を建物の陰に停め、先輩の後に付いて行くようにして小さな駅に入る。先輩が券売機に向かうのを横目に、僕は傍にあったベンチに腰を下ろす。蒸れたシャツが気持ち悪くて、襟元を掴んでばたつかせた。
「夏でも朝方はちょっと寒いね。一枚羽織るもの持ってくればよかった」
「後ろに乗って何もせず風に当てられ続けてればそうでしょう」
嫌味ったらしい言葉に先輩は少し笑って、僕の隣に腰をかけた。「荷物は何も無いんですか」「ほとんど先に送っちゃったから」。そんな、意味も無いような会話の後、僕らの間に居心地の悪い沈黙が流れる。部室での無言の時間はむしろ居心地が良いのに、それとは真逆だった。もっとも、そんな事を思っているのは僕だけなのだろけど。
改札の向こうに、夕方とも朝とも思えるような橙色が広がっている。その下に無機質な線路が敷かれていて、隙間から薄い緑の雑草が短く生え揃っている。改札口を一枚隔てただけのあそこはもう別世界だ。彼女はもうすぐ、あの線路をなぞって空の向こう側にいくのだろう。ずっとずっと遠くにいくのだろう。
静かな風が吹く。雑草が優しく揺れる。熱の籠った体に丁度いい冷たさだった。それに先輩の繊細な髪がなびく。
「世界に二人だけみたい」
先輩はまた小さく呟いて、長い髪を耳にかける。
言いたい事も訊ねたい事も、きっとたくさんあるはずだった。でも、何を言ってもなぜか不正解のような気がして、僕はどうするべきか分からずにいる。
何か言うべきなのだと思った。でも、言葉を必要としているのは僕だけなのだとも思った。先輩にとって、今この瞬間に必要な言葉なんて何もないのだろう。全ては僕のエゴでしかない。そう思ってしまえば、この沈黙に理由ができたみたいで少し楽になった。
「君も一緒に来る?」
「……はい?」
「このまま二人で、どこかずっと遠くに逃げようか」
いたずらっぽく笑う先輩に、僕は何も言えなかった。否定の言葉を吐き出したくなかった。「いいですね」と笑って、二人で手を取ってここじゃないどこかに行きたかった。「逃げようか」という彼女の言葉を、本気にしたかった。
先輩が携帯を取り出し、時間を確認してベンチから立ち上がる。改札に向かう背中を僕も追いかける。遠くから、電車がこちらに向かってくる音が聞こえる。
「じゃあね」
「はい」
「また」とは言わなかった。言えなかった。自分への呪いになると思ったから。先輩は僕の言葉に微笑んで、切符を改札に通す。扉が開き、一歩前へ出る。もう僕がいる世界とは違う場所に立っている。
風を切る音、鉄の音。電車が迫ってくるのが分かる。先輩はゆっくりと振り向き、口を開いて小さくこう零した。
「それでいいの?」
いいわけがない。言い残した事も伝え損ねた事も、いくつだってあるのに。
僕はここに残る。彼女はずっと遠くに行く。思い出だけを変わらぬよう手元に残しておく。きっともう、夏が終わる。
「……また会えますか」
言葉にした瞬間に理解した。後悔した。多分、これが一番の不正解だと。彼女が最後に残した優しさを無下にしてしまったと。他の何でもよかった。でも、これだけは誰も救われない言葉だった。
先輩は少し俯き、優しい目をする。全てを見通しているかのように遠くを見る。「君ならそう言うと思ったよ」。言葉にしなくとも、なぜかそう言ったような気がした。
先輩は口を開き、短い言葉を発する。その瞬間に轟音を鳴らした電車が停車する。スカートが翻り、髪がふわりと宙を浮く。「先輩ならそう言うと思いました」。言葉にならなくても僕はそういう顔をしていただろうし、先輩もそれを感じ取ってくれただろう。彼女はやっぱり、少し遠くを見ながら微笑んだ。
「じゃあね」
「はい、また」
先輩は振り返って、開いた電車の扉をくぐる。小さな音を鳴らし扉が閉まる。先輩はこちらに向かって手を振る。少し迷って、僕も手を振った。先輩の表情は変わらないままだった。僕もそうであってくれればいいなと、胸の内で願うばかりだった。
ペダルを踏む足に二人分の体重はない。ただ向かい風を受けながら坂道を下っていく。
空はもう夏模様の青空を塗り広げていて、街も騒がしく、暑くなりつつある。なのに、僕の周囲は夏と呼ぶにはあまりにも静か過ぎて、世界に一人だけみたいだと、小さく呟いた。
見下ろした線路を、長い電車が走っていく。段々と遠くなって、そして、青の向こうへと消えて行く。
向かい風は強い。なんだか少し肌寒いような気がして、捲っていた袖元を元に戻した。
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