きっと白雪姫へのキスも叶わなくて

 これから語るのは、悪夢のような話だ。

 僕はその時期に丁度、かいつまんで言えば社会に潰されそうになっていた。満員電車で鼻先につく誰かのナフタレンの香りとか、靴の先にへばりついたガムとか、街中に流れる流行りのラブソングとか。そういうものに一々全てを否定されたような気がしていた。呼吸すら、瞬きすら、死ぬ事すら。全てが億劫に思えて仕方なかった。

 そんな時だった。僕は営業先のとある高校へと売り込みに向かった。また頭を下げる結果にならなければ御の字だと、そんな事を考えていた。

 学校というのは、ただそれだけで胸を締め付けてしまう空気で満ちている。廊下に差し込む茜色の夕焼け、どこか遠くから聞こえる生徒の喧騒、誰もいない放課後の教室の非現実感。そういうものはどこの学校でも共通らしく、僕はこの高校の出身でもないのに、言い様の無い架空のノスタルジーに苛まれてしまった。

 最初は、お互いにお互いだと認知しなかった。

 その手の担当を呼ぶからと言われ、応接間に通され、やがてしばらくしてそれらしき人が入ってくる。まだ若い女性で少し驚いた。

 どのくらいだっただろう、軽く見積もっても一時間は「赤の他人」だった。ただこちら側の仕事について説明して、お互いにメリットがあると嘘をついて、それでも譲れない部分は責任を擦り付けて。でも、社会というのはそういうものだ。そういう社会だから、僕はこんな生き物になった。

 年齢が近そうだからという理由だけで、ほんの僅かに話しやすかった。それは向こうにしても同じだったらしく、その時間は笑いすら起こる空間だった。

 ふと、名刺交換を忘れていたのを向こうが提言してきた。こんな事、社会人としてはまずあるまじき失態だから、お互いに「これはここだけの秘密で」みたいな意味合いの目配せをして、話の最後に形だけの名刺交換をした。

「え」

「あ」

 僕らの声は、そんな風に重なった。どっちが僕の言葉でどっちが彼女の言葉だったか、もう思い出せない。ともかく、そんな形でやっと僕らは気が付いたのだ。

「……先輩?」

 社会人になってから、何度も口にした単語だった。でも、僕にとってその単語が意味するところはたった一人だけだった。「お前の為に」と言い訳をして自分勝手な正義感を振り回す人間が先輩だなんて、僕は思いたくなかったから。

 例えば、完璧な愛の形とか、世界で一番美しいものの正体とか、まだ名前の付いていない感情に名前を付けるとか。そういう、答えの無いものを一々探し続けていた、あの「彼女」こそが僕にとっての先輩だった。何も無い部室で、そういう事にただただ無意味に時間を浪費して、「こんな事してる場合じゃないのにね」って笑い合って、でも、この瞬間こそがいつか僕らを救ってくれるはずなんだと漠然と予感して。いや、そう思っていたのは僕だけかもしれないけど。

 ともかく、僕をどこか遠くに連れて行ってくれるような、「ここじゃないどこか」の名前を知っているような。例え知っていなくても、この人にさえ付いて行けばどこにだって行けるのだと無条件に妄信してしまうような。そんな先輩だった。

「この前、生徒に『先生の夢は何だったんですか』って訊かれちゃってさ。あの質問、結構心にダメージくるよね」

「なんて答えたんです?」

「『忘れちゃった』って笑ってごまかした。いや、忘れたのは本当だけど。こんな私にも、夢くらいあったはずなのにね」

 その再会から数か月が経ち、僕らは頻繁にやり取りをするようになった。今日の夕飯がいかにズボラであるかという説明から、帰り道に落ちていた面白いもの選手権とか、どうでもよすぎる事を報告し合った。でも、多分僕は理解していた。どうでもよくない事は社会に必須だけど人生の上では捨て去りたいもので、どうでもいい事こそが人生には必要なのに社会の上では真っ先に捨て去らなければならないもので。だから、人生に必要なものが不揃いだった僕には、先輩とのやり取りがどうしても必要だった。

 それは高校時代から同じだった。いつだって先輩は、どんな形であれ僕を救ってくれた。彼女の背中を追いかけて、気付けば僕は知らない場所にいて。例え戻らないといけないと分かっても、何か大切なものを得たような気がした。

「大人になって何もかも忘れるなんて、誰も教えてくれませんでした。大人も時間も教えてくれなかったし、道徳の授業でも習わなかった」

「私だってそうだよ。『このまま生きてもいいんですか』って言われて、答えに迷って、結局『自分次第だよ』なんて答えて。いつの間にか嫌な大人になったもんだね」

 その日は珍しく僕らのスケジュールが合い、定時ギリギリで帰って適当な居酒屋に入り込む事に成功した。僕が少し遅れて到着する頃、先輩は既に出来上がっていた。

「面白い生徒がいてさ。いや、あれは生徒〝達〟って言った方がいいのか」

 先輩は酔うと饒舌になるらしい。それは大人になった今だからこそ分かった事だ。少し呂律の回らない口調で、自分の教え子について語ってくれた。

「いつも、二人でどこかに行くの。ある日は海だったり、ある日は隣の県だったり。私は単純に気になって『どうしてそんな事するの?』って素で訊いた事があってさ。そしたら、何て答えたと思う?」

 艶やかな目で僕を見つめる。僕は「何ですか」という意味の視線を先輩に送った。

「『ここじゃ報われないからです』だって。このままいつまでもここにいても、自分達はどこにも行けないからって。それでつい、『大人になっても変わらないよ』って言ったら、『じゃあどうして生きるんですか』って言われて。何も言えなかったな」

 僕はその話を聞いて、僕と似ていると少し思った。あるいは、今でもそうなのかもしれない。いつか報われると信じて、いつか救われると信じて、ただひたすらに時間を食い散らかして。本当はどこかに逃げ出したいのに。何もなくていいから何もしないで生きていたいだけなのに。夏の香りで胸を満たしたいだけなのに。

「いつか報われるとか、夢は叶うとか、生きててよかったって、心から思える日がくるとか。そんなの詭弁だって、私が全部分かってるのに。神様なんていないから、いつかは何もなくなるから。本当は全部全部投げ出して、どこか遠いところで二人で生きるといいよって。そう言いたいのに」

「……言えばいいじゃないですか」

「無理だよ。大人だもん」

 先輩は呆気なく、そう言った。

 僕は未だ、あの頃の生き写しのままだ。現実も理想も人生も嘘も世界も誰も彼も。全てを捨て去りたかった。そんな、子供じみたままの僕でいたいだけなのに。それすらも叶わないなんて、じゃあ、どうして生きてるんだろう。

「大人になんかならなくていいんです」

 ぽつりと、僕は言った。言わなくてもいい事を、あるいは、言わなければよかった事を。先輩は何も言わず、耳を傾けていた。

「僕らはまだ、間に合います」

 そう言うと、先輩はまた舌の回らない口で「なにそれ」と困ったように笑った。でも、僕は気付いていた。彼女の目が、しっかりと前を見据えている事に。とっくに酔いなど醒めている事に。そして、現実ではなくてどこか遠い場所を見つめる彼女が、もういない事に。

「大人になると、責任とか自分とか。そういうものが増えていく。ただ、目の前にある事から目を逸らせばいいだけなのに、それもできなくなる。昔はずっとずっと、そうやって生きてたはずなのに。昔みたいに『逃げちゃおっか』なんて、簡単に言えなくなる」

「僕は今でも待ってます。先輩となら、そうできるとも思ってます」

「私はもう手遅れだよ。大人って不思議だよね」

「悲しいな」と、現実をちらつかせるような目と言い方で彼女は言った。

 昔の彼女ならきっと、何も言わず近くにいただけの僕の手を取ってくれたのに。知らない空を見たかったのに。言葉なんていらなかったのに。

 先輩は死んだ。いや、死ぬ以上に残酷だったかもしれない。僕は彼女の手を取って、ここから逃げ出して、知らない海まで連れて行きたかったのに。叶わない祈りとか届かない理想に手を伸ばしていたかっただけなのに。何もいらなかったのに。彼女と生きられれば、それだけでよかったのに。

 過去の現実だけがいつしか届かぬ夢になって、そして、悪夢は進行形で目覚めぬ現実になっていく。もう目覚めぬ彼女は、あるいは目覚めてしまった彼女はきっと、何かの毒に侵されていた。

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