目覚め始める
規則正しい生活というのが好きじゃなかった。目覚ましの音で目覚める事が正しいなんて思えなくて、カーテンの隙間から覗く青天井に目を細め、それでやっと昼前なんだと理解するような、そんな目覚めを繰り返していたかった。
寝惚け眼を擦りながら、まだ少し薄暗い空をぼうっと眺める。机の上に目を向けると、封筒には「七月五日」と、今日の日付が書かれている。ご丁寧に糊付けされた封を切って、中身を確認する。
『ちゃんと起きた? 朝早いのはいつもだけど、今日は特にね。どうしても日が昇るくらいの時間に行って欲しくてさ。
今日のポイントは二か所。いつもより少なめ。終わったらまた寝てもいいよ。あ、七月四日のやつに書いた通り、花火を持っていく事』
どうせ終わる頃には登校の時間だ。どっちにしろ起きたままだろう。そこまで見越しているなら、この人は性格が悪い。
学校の支度をして、家を出る。ポイントまでは自転車で数分の距離だった。うっすらと明るくなりつつある空の下、人気のない街を走る。夏だというのに半袖から伸びた腕が少し肌寒いくらい、世界は涼し気だった。
手紙にあったポイントは、海沿いの防波堤だった。胸の高さほどの堤防を上り、眼前に広がる海を眺める。朝焼けの空を映し出す水面が、夕方のような橙色に染まっていた。
鞄からインスタントカメラと、昨日のうちに買っておいた花火セットを取り出す。ついでに封筒を取り出して、手紙の文面を確認する。
『今日の指令は、花火セットの中から朝日と全く同じ色の花火を探して、それと太陽を重ねた写真を撮る事。覚えてるかな? 去年のこの日、君を火傷させそうになったよね。あの時は本当にごめんねえ……』
去年の七月五日。買ったはいいが使うタイミングが分からない。彼女はそう言って、朝早くから僕をこの場所に呼び出した。どうしてこの時間だったのかは、理由を訊くのを忘れたから未だ分からず仕舞いだ。
彼女とは堤防の上でしゃがみ込んで花火をした。まだ薄暗かったから、それは夜にやる手持ち花火と大差なかった。けど、朝日が昇り始めた時、丁度彼女が持っていた花火と空の色が重なった。それを喜んだ彼女が花火を振り回し、火花が僕の肌を直撃。馬鹿みたいだと今でも思う。
一年前の出来事を思い出していると、水平線から眩しいものが顔を覗かせてきた。一式揃った花火に目をやるが、そもそもどれがどの色をしているかなんて分からない。仕方なく線香花火を一本取り出して火を点けた。パチパチと音を鳴らしながら飛び散る火の粉は、朝と呼ぶには少し明るい。陽の橙が白に移り変わる前に、仕方なく僕は写真を撮った。これくらいの妥協なら許してくれるだろう。
線香花火を一本使っただけの花火セットを鞄にしまい、自転車に跨って次のポイントへと向かう。指定されていたのは、一見すれば何でもないような山道。だけど、僕にとっては少し思い入れのある道だ。
『確かあれも七月五日だったと記憶しています。暑すぎて学校の傍の駄菓子屋でアイスを買って、んで溶けないようにって影のある山道に入った。そこで、その年初めての蝉の鳴き声を聞いた。手にはアイス、耳には蝉、空にはアイスと同じ色の青空。五感で感じ取る全部が夏で、暑さで馬鹿になった君が「めっちゃ夏っすね」「夏、死なないかな」って言った。同じく暑さで馬鹿になった私にはそれがツボで、大笑いした。それだけの事。
前置きが長くなっちゃった。指令はどこかでアイスを買って、あの場所で蝉を見つけて、青空とその二つを一枚の写真に収める事。ちょっと難易度高いかな?』
青色の氷菓を持ってコンビニを出る頃、空はもう目の眩むような青色を塗り広げていた。アイスが溶けないうちにと、自転車のペダルを回してポイントへ向かう。
今年は例年と比べて立夏が早いらしく、同じ日付だというのに蝉時雨が重く降り注いでいた。当然、蝉もすぐに見つけた。左手にアイス、画角の真ん中に蝉、木々から覗く青。それを右手で持ったカメラで収めた。写真を撮った瞬間、蝉は羽を広げて青空へと羽ばたいていった。
『これを読んでいるという事は、もう八月三十一日って事。いよいよ最終日です。指示通りにいけば、君の生活習慣もすっかり矯正されて、目覚ましの音なんかなくても、朝日が昇る頃に起きられるようになっている事でしょう。寝坊癖のある君にはそれくらいがぴったりです。
さあ、君にはもう、最後の場所がどこか分かっていると思います。なので、敢えてここには明記しません。君が思う、「最後の場所」に相応しいところへ向かってください。私の思う最後の場所と一致した時、そこで最後の指令が待っています』
彼女からの指令を熟す日々で、彼女の思惑通りにならなかった事もある。僕の生活習慣は結局治らなかったし、手紙さえなければ昼まで寝ていたかったという事だ。
いつも通り寝惚け眼のまま、薄暗い廊下を歩く。こんな朝早くから、ましてや夏休み最終日になって学校に行く奴なんて、正直馬鹿げてる。
そう思ったのだが、ふと思い出した。去年のこの日、僕は学校に来ていない。手紙には去年の同じ日付の日、その場所で起きた事だけが記されている。という事は、彼女は去年のこの日に、ここに来ていたという事だ。そこまでしてこんな事をしたかったのかと、今更のように思ってしまう。
手紙を見つけた日以来、訪れていなかった部室は少し埃っぽい空気で充満していた。たまらくなって窓を開ける。
多分、ここだ。でも、指令の書かれた手紙がどこにあるか分からない。部室を探した末に指令が見つからなかったら? 彼女が思う「最後の場所」と僕のそれが一致しなかったら? 僕はその場所を知らないまま、彼女のいない世界で目覚めるしかないのか?
一瞬よぎった考えに気付かないふりをし、捜索を開始する。机の中、棚の中、掃除用具入れの中、本棚の中、果てはゴミ箱まで。部室の隅から隅まで探し回った。汗だくになる頃には、もうすっかり目が覚めていた。
集中力が途切れ、諦めの感情が顔を覗かせそうになった時。ふと、一冊の本が僕の目に留まる。それは彼女が一番好きだと言っていた本だった。手に取り、彼女がお気に入りだと語っていたラストシーンのページを開く。封筒は、そこに挟まっていた。
『八月三十一日』
表面には、彼女らしからぬ綺麗な筆跡でそう書かれていた。裏面を見ると、左下に小さく『よく頑張りました。あるいは、頑張ってないかも?』とも書かれている。確かに。彼女の言っていた事をちゃんと覚えていれば、頑張る必要はなかったかもしれない。
未だ埃っぽい空気を吸い込み、深呼吸をする。何かの拍子に涙が浮かんできそうだったから。数秒、逡巡した後で、覚悟を決めて手紙を取り出した。
『これがもう最後なのかと、書いていて少し名残惜しい気持ちになります。多分、多くを書き遺すべきなのでしょう。でも、何から何まで書いてしまうと、それこそ書き終えぬうちに夏が終わってしまう。なので、私が言いたかった事は、君が自分で思い出してください。私と君がいたあの夏、私が言った事や、私が見せたもの、私が聞かせたもの、私が渡したもの、私が教えたもの。そういう事から、大切なものを一々思い出してください。君がこの手紙を見つけられたように、なんて。
往々にして、大切なものは失った後で気付くといいます。でも私はそれが少し違うと思っていて、失ったものだけが、大切になっていくのだと思うのです。過去も、愛も、青春も、嘘も、想い出も、あの空も、何もかも。全てが、過去形でしか表せないのでしょう。
本当は何となく分かっています。結局、君の寝坊癖は治らなかったのだろうという事。気を抜けば寝てしまいそうな眠気と戦いながら、部室に来てくれるのだろうという事。それでも、目を覚ましながら一生懸命この手紙を探してくれた事。やっぱり、きっと頑張ってくれたのでしょうね。
最後の指令です。写真は必要ありません。ただ一つだけ、お願いです。どうか、私を忘れてください。今までの写真は君の自由にしてくれて構いません。忘れるもよし、大切にするもよし。だけど、過去形になった私だけは、それでも忘れてください。
ゆっくりでいい。寝惚け眼を擦ったままでいい。いつか、顔を上げてください。明けた朝が、君を目覚めさせてくれるから』
ファインダー越しに見える部室に、夏の終わりの朝焼けが差し込む。
震える手で、ゆっくりとシャッターを切る。それはまるで、涙の落ちる速度とよく似ている。
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