先輩と僕
@maitakemaitakem
プロローグ
いつも、それを見ている。
静かな部室、開いた窓から吹き抜けるそよ風、充満する緑の匂い、晩春の空気。
彼女は本を読んでいる。なんてことのない木の机に両の二の腕を置き、白くて小さな手で、表紙も背表紙も真っ黒な文庫本を開いている。
机をいくつか挟んだ先、近くも遠からずな距離。声も出せず、鼻息すら躊躇うような空気の中、僕は椅子に座ってそれを見ている。
目を開けた時、「ここがどちらなのか」を考える事から全て始まる。でも、現実と夢に違いなんて何も無い。「どちらだろうと自分は自分だ」と、どっちにしろ思うのだろう。だから、ここがどちらかなんて考えるだけ無駄と知っている。
「私は何にだってなれるよ」
ぽつりと、彼女が言った。視線は活字を追いかけたまま、僕の耳にしっかりと入る明瞭さで。
「独り言ですか」
「『独り言だよ』って言ったらどうするの」
「無視します」
「頭がおかしくなったって心配して欲しいな」
「先輩は割とそういう人ですよ」
彼女は何も言わず、ただ不機嫌そうに眉をひそめた。否定せず自覚している辺りも彼女らしい。
「独り言じゃないなら、何が言いたいんですか」
「言ったじゃん、私は何にだってなれるって」
「それだけですか」
意味が分かっても意図が分からず、僕も眉を寄せた。先輩は一つ息をつき、文庫本に栞を挟む。桜の押し花の栞だった。
「必要な事って意味。私は何にだってなれる。それが人じゃなくても、形の無いものでも、存在しないものでも」
先輩は机に本を置き、両腕を伸ばして背伸びをした。欠伸を噛み殺し、目の中に表面張力でゆらゆらと零れないものが溜まっていく。
先輩は割とこういう人なのだ。頭がおかしくなった、なんて心配する方がおかしい。彼女が何かになると言えばそうなるのだろうし、意味も無く「死ぬ」と言えばそうするのだろう。
「つまり、必要な事というのはどういう意味でしょう?」
「何にしても前置きは必要だからだよ。始まりが無くて、途中から続くなんて気持ち悪いでしょ。映画でも、音楽でも、小説でも、夢だったとしても」
先輩は右手で頬杖をつきながら、左手で文庫本の表紙をそっとなぞった。タイトルも何もない、ただ真っ黒な本。カバーを買ったら喜んでくれるだろうか。
「だから、もし君に後輩ができたら、その時はちゃんと始めてあげてよ?」
「何をですか」
「何って、部活の話だよ」
「いきなり始めたら困惑するでしょ」と、先輩は視線を落としたまま呟いた。どうだろうか。後輩ができても、僕はちゃんと始められない気がする。何の脈絡もなく、途中から始める想像をする方がずっと容易かった。
「それで、話の続きだけどさ」
そこで、彼女は初めて顔を上げて僕と目を合わせた。何度も見た、ずっと見ていた、なんでもない先輩の瞳。
「私が何にでもなれるなら、君は何になって欲しい?」
頬杖はついたまま、眠たげにも見えるおっとりとした目つきで僕を見つめる。彼女の背にある窓から青が覗いている。
「特に無いです」
「つまらないなあ。何でもだよ? 君が望むなら、お金とか名声とか、称賛とか愛とか、そういうものにだってなれる」
「別にいいですって」
「じゃあ君は何が欲しいの?」
そう訊ねられた時、僕は瞼を閉じた。ここはどちらだろう。
分かっている。証明なんて何も無い。境界線は曖昧。けれど、確かな事はある。いつだろうとどこだろうと、結局自分は自分でしかない。どこにも行けない、何者にも成れない。そういう、どうしようもなく悲しい事だけがある。
「僕は、先輩が先輩でいてくれたら、それ以外は何もいらないです」
それと同じだ。先輩が何になろうと、どこに行こうと、変わらず先輩が先輩なら、それだけでいい。それだけを持っていれば、どこからだって始められる。それをプロローグにできる。
僕がどんな表情でそれを言ったか分からないけど、先輩は笑っていた。「いい後輩を持った」と、嬉しそうにはにかんでいた。
「分かった。約束するよ。私は私のまま、君は君のまま。だから結局、この物語の——」
それが、最後だった。そこで僕は目覚めた。
「おはよう」
顔を上げる。机をいくつか挟んだ先、近くも遠からずな距離。その先に彼女がいる。
「夢心地、みたいな顔してる。どんな夢見たの?」
「……あんまり覚えてないです。なんか、先輩がいた気がします」
僕が言うと彼女は柔らかく微笑んだ。ここはどちらだろう。それを考える事から、全てが始まる。
「夢でも現実でも私と一緒か。可哀想に」
「そんな事ないです。僕は楽しいですよ」
「君って割とそういう子だよね」
消えゆく残夢の中で声がする。言葉が反響する。続きは聞けなかった。でも、彼女が何を言いたかったのか、僕には分かる気がする。
「……なに笑ってるの?」
活字を追いかけていた目で彼女が訊ねた。僕は「なんでもないです」と、両腕を伸ばしながら言った。欠伸を噛み殺す。
「先輩だなって思っただけですよ」
「何それ」
「ただの独り言です」
「私じゃないかもしれないよ? 私の形をした別の何かかもしれない」
「いや、絶対先輩ですよ。分かります」
静かな部室、開いた窓から吹くそよ風、充満する緑の匂い、晩春の空気。彼女はそこで本を読んでいる。
「先輩、それ何読んでるんですか」
「これ? この本は——」
いつも、それを見ている。
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