追憶 ―十五年後―
会社の帰り道、私は見知らぬ女性に話しかけられた。
日頃、お世話になっていますから。
夫の部下と名乗る彼女に、お茶に誘われた。
戸惑いながらも了承したのは、彼女が並外れて美しかったからだ。
同じ年頃なのにまるで別の生き物のよう。
そんな女性に夫を褒められて、舞い上がらなかったと言えば嘘になる。
それに、この人のバッグ。私と同じブランドだ。
結婚前に夫がプレゼントしてくれたことを思い出す。
喫茶店に入った私たちは、互いの仕事の話で盛り上がった。
主婦なら気後れしただろう。働いていてよかったと思う。
夫は会社では、愛妻家として知られているそうだ。
彼女も結婚願望があると言い、色々と生活のことを聞いてくる。
話し上手な彼女に問われるまま、私は答える。
家は新築で、まだまだローンが残っていること。
夫は優しいけれど、気が利かないこと。
結婚に不満はないが、仕事が忙しく、すれ違いが多いこと。
共働きの平凡な生活に聞き入る彼女が不思議だったが、悪い気はしない。
喫茶店からバーに移り、私たちは話し続けた。
彼女を家に誘ったのは、帰り道でにわか雨に打たれたからだ。
ずぶ濡れの彼女を連れて、私は家の扉を開けた。
土間には夫の靴。この時間の帰宅は珍しい。
声をかけると、ワイシャツのまま玄関に現れた。
意外な来客に目を丸くしながら、私たちにタオルをくれる。
シャワー、お先にどうぞ。
いえ、私は後で。
譲り合いの末、私が先に入ることになった。
ずぶ濡れの服を着たまま、ふと思い立ち、風呂場を出た。
そっと引き返し、部屋を伺うと、二人が抱き合っていた。
夫が濡れた服を脱がし、女が腕を絡める。口づけはどちらともなく。
ああ、やっぱり。
驚きはなかった。そんな気はしていたのだ。
十五年前のあの時から、いつかこんな日が来ると思っていた。
けれどもう、私は泣きじゃくる子供じゃない。
家族を奪われるのも、家を追い出されるのも二度と御免だ。
あれっ。シャワー、まだだったんだ。
先にお茶を出した方がいいと思って。
お茶を淹れて部屋に戻ると、夫が目を泳がせる。
男は本当に嘘が下手だ。女には簡単なことなのに。
白磁のティーカップを、まず彼女、そして夫の前におく。
彼女には黄色、夫には白のドライフラワーを浮かべて。
嬉しい。温かくて、とてもいい香り。
手作りのジャスミンティーなの。
手作りなんですか? すごいです。
うちにこんなお茶があるなんて、知らなかったよ。
鼻腔を突く芳香が、あの日の記憶を呼び覚ます。
あれ以来、ジャスミン茶が飲めなくなった。
手元にあるのは、今日のための来客用だけだ。
「……彼女に、お似合いだと思って」
白い花はジャスミン。
黄色い花はカロライナジャスミン。
名前は同じジャスミンでも、こちらは全く別の種だ。
根や蜜に強い毒を持ち、飲めば呼吸麻痺と心機能障害をもたらす。
今夜、彼女を泊めてあげたいんだが、どうかな?
もう時間も遅いし、服も乾かないしさ。
私は、構わないけど。
ありがとうございます。お世話になります。
頭を下げる彼女を残し、私は風呂場に戻った。
冷え切った体を温めるため、シャワーの温度を上げた。
茉莉禍 ―マツリカ― 梶野カメムシ @kamemushi_kazino
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