エピローグ

 テオは、暖かな潮風に抱かれて、クリスの館からほど近い砂浜に横たわっていた。浅い海水に腰上まで浸かって、大きく膨れた腹を優しく撫でる。内側から、思い切り腹を打つ感覚があり、顔を顰めながらも、自然と唇が弧を描いた。

(元気そうで、良かった。もうそろそろだ)

 アレックスと愛し合ってから、ゆうに二年が経っていた。テオの腹にはもう一つの生命が宿り、この二年あまりを共に過ごしている。

 人魚の子供は卵から産まれるが、人間のように、すぐに胎内から出てくるわけではない。数年かけて、卵から産まれ、自分が産まれた卵を食べて、胎内に分泌される栄養豊富なミルクを飲み、胎内でしばらく過ごしてから、ようやく外界へ出る。テオの子もまた、胎内を我が家として、日々を生きていた。

「テオ」

 肩を支えるアレックスが、気遣わしげにテオの手を擦った。アレックスは初めて会った時よりも、大人びた顔つきになっている。真っ直ぐに見つめられるたび、テオは極上の安心感と、甘く優しい苦しさに、胸がいっぱいになる。二年間、少しの喧嘩もなく過ごせたわけではないが、テオは一度も、自分を不幸などと思ったことはない。むしろ、クリームを何層にも重ねるように、愛情は厚くなっていくのだ。

 テオは頭を傾けながら、鈍い動作で頷いて、アレックスの手に自分の指を絡めた。

「うん……」

 人魚という生き物は長寿のため、繁殖行動自体が珍しく、出産はテオですら未知な部分が多い。腹の子はただの胎児ではないため、尚更だ。人魚は水陸両方で呼吸できるが、海中で生活する人魚の胎児が、肺でしか呼吸できないなどということは、通常ならばさすがにない。海中で一人で産むのが自然な流れなのだが、今回は例外だ。テオの中にいるのは、人間であるアレックスと、人魚であるテオの子供だ。産まれてくる子供が肺で呼吸するのか、エラで呼吸するのか、まったく見当もつかなかった。

(だけど、アレックスと何度も話した、あの仮説通りなら)

 産まれてくる子供は、人間と同じように肺呼吸をするだろう。テオは、アレックスとその可能性について、何度も話し合った。ただ、世の中には両生類という生き物もいるくらいだ。あくまで可能性の域を出ない。何があっても動けるように、出産に浅瀬を選んだ。クリスは産婆よろしく、テオの隣で今か今かと待ち構えている。

 テオは深く息を吐き出すと、アレックスの手を握りながら顔を歪めた。

「ううっ」

 激痛が腹の中心から体中に放散し、再び腹へと戻る。体内を絶えず循環する痛みに、気が遠くなりそうだった。苦悶の声が、絶えず口から溢れ出る。テオの中ですくすくと育っていた子は、一定の間隔を置いて、徐々に外へ向かって胎内を下りており、もうすぐそこまできていた。

(う……きてる)

 脂汗を滲ませて、手を握る力を強くする。体の一部を埋めていたものが抜けていく感覚よりも、胎内で何かがつっかえて、動きが止まる感覚の方が辛かった。クリスやアレックスが必死に声をかけているが、あまりの苦痛に朦朧としているテオには、何と言っているか、理解するのも難しい。視界は霞み、今にも真っ暗闇に囚われそうだ。耳に届く声だけを頼りに、意識を現実に繋ぎ止めている。

 テオもアレックスも知らなかったことだが、本来人魚の出産は、人間のものほど苦痛を伴わない。胎児の尾は柔らかく、小さいため、つっかえるということもないのだ。だが、この時テオの中にいた子は、違った。

 尾の切れ目は大きく裂け、そこから徐々に頭が出て、胴が出て、下半身が出る。柔らかな砂の上に受け止められた、小さな赤子の姿を見た瞬間、テオは青ざめた。

「あっ――」

 掠れた悲鳴が喉から出て、呼吸が止まりそうになる。赤子には尾ではなく、人間と同じ、二本の足があった。テオの中につかえていたのは、この二本の足だったのだ。視界に映る子供は、まるきり人間だ。即座にテオは、自分から産まれた子供が溺れてしまうのではないかと、恐怖に包まれた。凍りついたテオの前で、クリスが急いで子供を抱えあげて、海から引き上げた。強張った顔を近づけてくまなく観察し、短く溜息を吐く。

「うん……うん、おそらく、大丈夫だ」

 クリスの腕に抱かれた赤子には、頭にも人間と同じ耳があり、耳の上には飾りのように小さなひれ、裏にエラと思しき小さな切れ込みがあった。声も出さずにパクパクと動いていた口は、水中から引き上げられた途端に、小さな声を漏らした。間髪いれず、大きな泣き声に変わって、辺りに響き渡る。

(え!?)

 テオの疲れ切った体に、焦りが降り積もる。テオは、人間の赤子が泣くことを知らなかった。動けないまま青ざめているテオに、アレックスが慌てて声をかけた。

「大丈夫、大丈夫だ! 人間の子供は泣いている方が元気で良いんだ」

 その声は確信を持っていたが、大きな戸惑いと、焦りも含んでいる。アレックスとて、自分の子が無事産まれて、感動でいっぱいの傍ら、泣き叫ぶ赤子に平静ではいられなかった。クリスがテオの腕に赤子を持っていき、そっと抱かせた。赤子の体温は、人魚と同じく低かったが、抱いているうちに段々と温かくなっていき、頬に驚愕するほどの赤味が差していく。血のように赤い顔で大泣きする赤子を前にして、テオだけでなく、アレックスも、体を支えたまま硬直している。クリスが眉をつり上げた。

「おい、アレックス! 君は動けるだろう。何をしている!? さっさと産湯を持って来るか、赤子の世話をするか、テオの体を見るかしろ! ノアはいるか!?」

「はーい! こちらに!」

 館の方から声がして、走ってきたノアが、すかさずタオルを差し出した。クリスが手際よく産湯を準備している間に、アレックスはオロオロしながら、ほかほかのタオルで赤子を包もうとする。テオは、波が薄く染み渡る砂浜にぐったりと背中を預けて、彼らに子供を任せることにした。暴れている子供を包むよりは難しくないだろうに、アレックスは、硝子細工にでも触れるかのように、こわごわと接している。その様子が何だかおかしくて、気持ちがふっと軽くなった。吸い込んだ潮風の香りが、ようやく美味しく感じられる。

「アレックス、顔を見ておくれ」

 何とかタオルで包み終えたアレックスが、近付いて、二人で赤子を覗き込んだ。先程まで、ぎゅっと瞑っていた目は少しだけ開いており、深い紫色が覗いていた。一般的な人間の赤子より、体はやや小さく、頭には、焦げ茶色のフワフワとした毛が生えてきている。

 クリスが用意した産湯に、アレックスがノアと協力して赤子を入れる。砂浜に仰向けになって、三人の様子を眺めていると、クリスがテオの体に異常がないか調べながら、ボソッと呟いた。

「人間の血が入ると、見た目がほぼ人間になるんだな……」

 テオは頭を動かして、クリスの耳あたりへ視線を注ぐ。

「あのひれやエラは、このまま残るんだろうか?」

「……はっきりとは言えないが、成長とともに体に吸収されたり、塞がったりする可能性は、あるかもしれない」

「君も、そうだったのかい?」

 その言葉に、クリスは目を見開いた。アレックスが一瞬、こちらに視線を向けたが、すぐに赤子へかかりきりになる。

「前に、アレックスが話していたんだ。クリス、君は、君こそが、人間と人魚の子供なんじゃないかい? 君が人魚の生殖について調べていた、一番の理由は……」

 クリスは数秒、黙りこくった後、曖昧に首を傾げて、冗談ぽく笑った。

「さあな。確かに……私の母は、人魚だったらしい。が、本当かどうかなど、知らん」

 やっぱり、とテオは確信した。引っ掛かることは、かなり前からあった。以前、怪我をしたテオとアレックスを導いた指笛――あれはやはり、恋人同士の逢瀬に使われていたものだ。

「私は、あまり信じていなかったさ。だが、考えてもみろ。私達は人魚について、知らないことが多すぎる。人間と人魚の生殖が可能なのだと証明できれば、私のことも、あながち夢物語とも言えんだろう?」

 クリスが、人魚の生殖方法について、特別心を傾けていた理由。それはすなわち、クリスの出自に関わることだったのだ。

 テオはクリスを見つめたまま、次の言葉を待った。クリスは再び数秒、口を噤んでいたが、自分の耳のあたりに手をやって、遠くに視線を投げた。

「……髪で、隠れているが。私の耳の後ろに、それぞれ、一筋の痣がある。耳の上には、小さいがでっぱりがある。それが何かは、わからない……」

 赤子をタオルで器用に包み直したノアの隣で、アレックスが、目を瞬かせてクリスの耳へ視線をやった。彼は、自分が包んだ時より快適そうにしている赤子を抱いて、テオの隣へ戻ってくる。テオはノアに支えられながら体を起こして、アレックスの方へもたれかかった。今まで体の一部だったものが目の前にいる感覚は、不思議だが、温かな心地だ。彼が抱く赤子の柔らかな頬を、指先でつついて、クリスに微笑みかけた。

「クリスのお母さんも、こんな気分だったのかも、しれないね」

 クリスは目を丸くして、おかしなものでも見るような目で、テオとアレックスを見比べる。一瞬だけ、泣きそうな顔をして、ほんのり耳を赤くすると、拳を握りしめて勢いよく立ち上がった。

「いや! これだけでは、私の出生について何とも言えんぞ。重要なのは、この子がどう成長するかだ。この子の成長過程は、必ずや良い資料になるに違いない。どうせ君達は、我が家に住み続ける気なんだろう? この子の部屋も作ってやろうとも。私は研究のため、この子の成長を見届けるのだ!」

 鼻息荒く宣言するクリスに、テオは、アレックスと顔を見合わせた。研究のためなどと言ってはいるが、その実、友人から産まれた、自分と同じ境遇かもしれない子供の行く末が、気になっているだけかもしれない。

 テオとアレックス、どちらからともなく笑みが溢れる。腕の中の赤子ごと、テオを優しく抱き寄せるアレックスに、テオは幸福で胸をいっぱいにして、寄り添った。

 

 

                 了

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愛しの人魚と冒険譚 笹本舗 @saarasara

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