来去不(きさらず)行きの……

上松 煌(うえまつ あきら)

 来去不(きさらず)行きの……

               1


 木更津行きの列車に乗った。

ローカル線の車両は真ん中が4人掛けのボックス席になっていて、残りが通勤用のベンチ・シートだ。

宇園徑吉(うそのけいきち)は、なんとなくボックスを選んで座り、周りでも乗降客の気配とざわめきがあった。

日雇いの彼はこれから、住み込みで工場ラインに配属される。

契約は3ヶ月、短いようで長く、長いようで短い。


 目の前にだれかが来たようだ。

腰を下ろす様子に、ふと目を上げる。

「えっ?」

2度見する。

「あ……あの、え、え~と、お……と?」


 生き別れのはずの人がそこにいた。

色あせた黒のスゥエット、丸刈りの頭、30代の狐目の男が彼を見ていた。

徑吉(けいきち)のとまどいなど、他人事のような心無いまなざし。


 あれは小学校2,3年?

1つ違いの年子の弟と腹をすかせていた。

母親はまだ帰って来ない。

もう、深夜の1時を回っている。

ほとんど家にいない父が、今夜はタクアンのようなもので焼酎を煽っている。

そのうちに、思いついたように借家の狭い台所に立つ。

香ばしい匂いから、インスタントラーメンを作り出したようだった。

徑吉(けいきち)は弟をつつく。

彼はギクッと体を震わせたものの、おずおずと近寄り、

「お腹すいた」

と、弱く小声で言った。


 無感動なガラス玉のような父のまなざし。

それでもラーメンを2袋投げてよこした。

2人は大急ぎで礼を言って、そばを離れる。

鍋は父親が使っているし、うっかり勝手にコンロを利用しようものなら、鉄拳が飛んでこないとも限らない。

茶碗に水だけを汲んだ。

2間あるもう1間の、一応子供部屋に逃げ込んで、ゴミ捨て場から拾った低い折りたたみテーブルに戦利品を載せる。

そのままパッケージを破いて、火も通さないでかじりつく。

スープは1袋を半分コにして水に溶いた。

「残り1袋はとっとくよ。また、お腹すいたら飲むんだ」

「う~ん、兄ちゃん、あったまいい」


 ニッコリとうなづく弟は本当に可愛かった。

父も母もなんとなく弟には甘い。

このラーメンだって徑吉(けいきち)が頼んだとしたら、もらえたかどうかもわからない。

彼にとっての弟は利用価値がある子分だった。


 「越し方、越し方ぁ」

車内アナウンスが駅に着いたことを告げていた。

父は無表情な顔を上げて、彼に手を出せと合図した。

コロンと転がる銀色の球。

パチンコ玉だ。

そう、父親はパチンカスだった。


 そのまま振り向きもしないで彼は降りて行く。

地方の無人駅らしい、暗く閑散としたフォームは父親の姿を見る間にかき消した。

宇園徑吉(うそのけいきち)はため息をついて、玉をそっと窓ガラスの溝に転がした。



               2



 床に落とした目に、フッと影がよぎる。

同時に座席の軋む音。

見上げると、老夫婦がちょっと頭を下げてきた。

会釈を返して、なんとなく見知った雰囲気に思わずジッと見てしまう。

「え? 野崎のおじいちゃん、おばあちゃん?」

びっくりした声が出た。


 徑吉が小学校高学年になったころに、2軒長屋の西隣に引っ越してきた夫婦で、穏やかで仲のいい人たちだった。

いつもの普段着で、昔のままにニコニコする。

母親はそのころには完全ネグレクト状態でほとんど何もしてくれなかったから、洗濯も子供たちでしていた。

時々止まってしまう古い洗濯機。

クシャクシャをロクに伸ばしもしないで干してしまうから、衣類はいつもしわだらけ。

友達にからかわれたりするのを見かねて、おばあさんが教えてくれた。

「あのね、こうやって袖たたみにしてパンパンって叩くんだよ。しわが伸びてきれいに乾く」

弟と2人、さっそくパンパンしてみる。


 なるほど。

手の平がちょっと痛くなったけど、しわが伸びて清潔感が出た気がする。

乾いた衣類を取り込んでいるとアイロンを貸してくれた。

ヤケドに気をつけながら、兄弟2人で交互にアイロンをかける。

「わ~、新品みたい。野崎のおばあちゃんがお母ちゃんだったらよかったのに」

弟の弾んだ声。

老夫婦は声を出して笑った。


 時々、おかずやお菓子を差し入れてくれた、そんな関係に影が差したのはいつからだっただろう?

あれは……。

「兄ちゃん。ぬれせん食べよう。おばぁちゃんが1個しかないから、ボクにだけって言ったけど半分にすりゃいいじゃん」

「……!」

何気ない言葉が震えるほど心に刺さる。

弟にだけ、自分じゃなくて弟にだけ!

いつもそうだ。

父も母も、そしておばぁちゃんまで。

他人はどうして自分より弟に親切なのだろう?

無言でせんべいを叩き落す。

返す手の平で弟をぶっ叩いた。


 彼が目を見張って硬直するのがわかる。

さらに叩こうとする手をグッとつかまれた。

意外に強い力。

「じゃぁ、兄ちゃんに全部あげるっ。ケンカはヤダ。嫌なんだよ」

そういうことじゃない、一瞬思ったけど、1つ違いの弟の成長振りに内心舌を巻く。

筋力だけじゃない、考え方は自分よりはるかに大人だ。

兄弟、この人生最初のライバルに、すでに負けた気がした。


「思い原、思い原ぁ」

車掌の声が響く。

老人たちは静かに立ち上がって、別れの会釈をする。

おばぁちゃんがハンカチをくれた。

洗ったばかりらしく、濡れていてシワもある。

宇園徑吉はそれをパンパンしてから窓ガラスに張り付けた。

こうしておけば、やがて乾くだろう。



               3



 不思議な気分になっていた。

彼は顔を上げて、おずおずと列車の入り口を見渡した。

2,3人の男女がパラパラとシート席に座り、最後にセーラー服の女子中学生が乗ってきた。

現役中学生でしかも女の子が、自分のそばになんか来るわけはないから、徑吉は興味をなくして再び俯く。

軽い足音が近づいてくる。

え? 

体が自然に硬くなった瞬間、彼女は彼の目の前にいた。


「……」

息を呑んだまま、言葉が出ない。

彼女は親しげにニコッとしたけど、お座成りの感じもなくはなかった。

あのころのままだ。

ごく普通の家庭の子で容姿も勉強も突出したところはないけれど、しつけはキチンと受けていて、金のあるなし、容姿の美醜などでは人を判断しない。

クラスメイトや担任の信頼度も高く、1年2年を通じて生徒会委員を務めていた。

コミュ力のない徑吉が、曲がりなりにも言葉を交わせた数少ない女子だ。

いや、必死で告白した、生涯でただ1人の恋人といっていい。


「う~ん。宇園くんはキライじゃないけど、タイプじゃないんだよね」

彼女は言ったのだ。

「え……」

「うん。あたし、水野くんみたいに引っ張ってくれるヒトじゃないと。宇園くんは静かなタイプだから、ちょっと苦手」

(え? 苦手? ボクって苦手だったの?)

衝撃だった。

それでも心の動揺が言葉になって出ることはなかった。

ジトッとした恨みがましい目に彼女はイラッとしたようで、

「ごめん。気にしないで。宇園くんにはわたしより、もっといいヒトいるって」

と、早口にささやいて、さっさと友達のところに戻っていった。


 ポツンと残された自分。

切なくて悔しくて哀しかった。

(女の子って残酷だ。他に言い方あるだろ)

心が縮むような想いで、そう思った。


 宇園徑吉は硬くなったまま、目を膝に落としていた。

他にリアクションが見つからなかった。

目を合わせることも、まして苦手と言われた過去の言葉を、冗談めかして責めるテクニックなんか持ち合わせていない。

「苦涙(にがなみだ)、苦涙ぁ」

列車にブレーキがかかるのがわかった。

彼女はきっとこの駅で降りていくのだろう。

寂しいような、ホッとするような妙な気持ちがした。


 不意に物柔らかな気配がして、膝に小さな何かが置かれた。

彼女が時々、休み時間にこっそり舐めていたフルーツ・キャンディの1つだった。

包み紙には輪切りのオレンジが印刷されている。

彼はかたくなに顔を上げなかった。

足音が遠ざかり、やがて消えても、彼はキャンディのみを見つめ続けていた。



               4



 夢、奇妙な悪夢を見ている気がした。

首をめぐらして窓の外を見ても、光に乏しい田舎の闇が広がっている。

今度はだれが乗り込んでくるのだろう?

腰の引けたまなざしを振り向けた徑吉(けいきち)は、反射的に立ち上がった。

いなせな紺の板前半被(いたまえはっぴ)に、不器用に最敬礼する。

「お……親方……。お元気で?」


『料理人になって美味しい物を作って、みんなに喜んでもらいたい』

卒業文集に書いた将来の希望を目に留めた中学の担任が、自分の親類の料亭に頼み込んでくれたのだ。

宇園徑吉(うそのけいきち)にはかなりハードルが高い有名店だったが、高齢の親方は自分の後継者になれる若者を求めていた。

料理の世界も若年から修行しないと、なかなか一流にはなりにくい。

みんなが大学に進学する世の中で、中卒はまさに金の卵だった。


 板前修業は、住み込みでの「追廻し」から始まった。

いわゆる料理人カースト最下位の見習い期間で、このころは3年間がそれに当てられていた。

だが、彼は親方の期待を裏切って、4年たっても5年たってもそのままだった。

洋の東西を問わず、料理には段取りや勘の良さ、センスや芸術性に加えて、衛生観念や食品についての幅広い知識、食文化への理解洞察などの教養が要求される。

徑吉(けいきち)にはそれが絶望的に欠損していた。

半年で兄弟子たちは匙を投げたが、親方は中学担任から彼をあずかった責任から何とかモノにしようと腐心した。

そして6年目になった時、

「調理師免許をとったらどうか? マーク・シート形式で、落とすための試験じゃないから。受かれば将来的に有利になるだろう」 

と、提案したのだ。

この免許は6科目の国家試験だが、合格率は75%以上と高く、たとえアルバイトでも調理経験が2年あれば受験できる。

現に兄弟子たちのすべてが、この免許を持っていた。


 彼が洗い物をしているときなどにやって来て、設問を出してくれる人もいた。

だが、どの人も学習進行度に疑問を持ち、費用は彼負担で1年の夜間調理師学校に入れようということになった。

これで卒業と同時に、自動的に調理師免許が取れる。

住み込みで、パチンコやギャンブルは禁止だから、給与の使い道はせいぜい風俗くらいで、金は貯まっている。

夜の業務を免除されての学校通いは新鮮で楽しく、彼は心から親方に感謝した。


 それでも、それは長くは続かなかった。

夜間学校生の多くはマジメだが、中には常軌を逸した者もいる。

彼はうかつにもパチンコの罠に落ちたのだ。

悪仲間と授業も受けずに玉をはじき続ける。

重なる欠席に、学校側から連絡が行くのに時間はかからなかった。


 兄弟子たちは激怒し、高齢の親方は声も出ないほどびっくりした。

彼は寄る年波で心疾患を持ち、心筋梗塞を防ぐためにニトログリセリンを常備する体になっていた。

「座りなさい」

4階の親方の部屋に呼ばれ、凛とした声に縮み上がった。

「将来をどうするつもりだ?」

たずねられても上手く返事が出来ない。

年寄りの枯れた声で、懇々と料理人の心得を説かれたが、宇園徑吉(うそのけいきち)の心にはほとんど響かなかった。

アタマの中に鳴り響くのは軍艦マーチだけだ。

それがわかったのだろう。

親方は失望のため息をついて黙った。

悲劇はそのとき起こった。


「あぁっ、う、くっ。薬。ニ、ニトロ、あぁ、そこ、そこ……に……。はや……く」

突然の発作で必死に棚を指差すしぐさに、仰天して立ち上がった。

たぶんこれだろうと手箱をつかんだが、粗忽な動作が災いして瞬間的に中身をぶちまけていた。

あわてて床をはいずったが、ニトログリセリンなるものの形状を彼は知らない。

「親方、待ってて。すぐ。人呼んでくる」

言い捨てて3階の寮に走る。

兄弟子たちが駆けつけて救急車が呼ばれたが、親方の意識は2度と戻らなかった。

「アイツが殺したんだ」

『花板』の声が聞こえた。

本当にそうだと思った。


「悔ヶ峰(くいがみね)、悔ヶ峰ぇ~」

アナウンスが駅名を告げる。

親方が穏やかな目を向けていた。

無表情だったが、最初に会った彼の父親よりはるかに温情のあるまなざしだった。

老人らしい優しくゆるやかな動作で、きれいな葉のようなものを手渡してくれる。

本物の熊笹を飾り切りにしたバランで、その美しさにしばらく我を忘れて見惚れた。

礼を言おうと目を上げた時には席は空で、徑吉(けいきち)は無意識のうちに、子供のように手放しで泣いていた。

無性に悲しくやるせなく、取り返しのつかない過去に対する、無力な自責の念だった。

やがて彼は気を取り直し、バランを大切に窓枠に飾った。

(芸術だ)

心からそう思った。



               5



 この列車はなにかおかしい。

(降りようか)

とも思ったが、1時間に1本では木更津到着が遅れてしまう。

雇い先のマイクロバスと待ち合わせている以上、遅刻は許されなかった。

バスは彼を寮に運んでくれるためのものだったからだ。

とにかく、だれが乗って来ても動揺しない覚悟を決めた。


 それでも自然に目は床に落ちてしまう。

柔らかなコロンの香り。

「え?」

懐かしさが瞬時によみがえる。

「琴恵(ことえ)ちゃん……」

ちょっとおずおずした小柄な子がそこにいた。

露出の多い派手な服装だ。


 あれはもう、彼が40に近いころだった。

徑吉の生活は荒んでいて工場業務や飲食店などを転々としていた。

どこに行っても長続きしない。

不器用で要領が悪いうえに人付き合いがヘタだ。

人に可愛がられないタイプで、処世術として言い訳や屁理屈が身についていたせいもあって、他人から白い目で見られることが多かった。

そんな中で、彼女はなじみの風俗嬢だった。

ちょっと頭の弱い愚鈍か魯鈍と思える子で自分に自信がないのか、押しに弱く人のいいところがあった。

徑吉はそれに目を付けていた。


「琴恵(ことえ)ちゃん。おれ、仕事クビんなっちゃった。今月の給料みんなあげるから、ちょっとだけいっしょに住ませて。ね、ねっ。頼む、お願いだから。次の仕事見つかったら出て行くから。ねっ、ちょっとだけ」

11万ほどの給与明細ごと給料袋を押し付ける。

「え~?」

「頼むよ。このとおりだから」

大げさに土下座して、ホテルの床に頭を擦り付けた。

「おれ、技術あるんだぜ。新橋の「吊り舟」にいた事だってある。調理師免許も持ってる」

昔の事実に嘘を交えてしゃべった。

現在の彼はクビになる今の今まで、工場勤務のただのラインだ。

「えぇっ、「吊り舟」?」

渋っていた彼女の声が変わる。

「すごいっ。徑(けい)ちゃん、すごい人だったんだ。うん、じゃ、次のお店が見つかるまで、あたしのうちにいていいよ。あたし、協力したげる」

(ふっ、チョロイ)

彼女の素直な善意を、内心嗤った。


 徑吉が家賃を払ったのはそれが最初で最後だった。

貯金もいくらかあったが、それもたちまち使い果たした。

食住の心配がなくなると彼はパチンコの誘惑に抗えなかった。

毎日、食っちゃ寝のヒモ生活を続けながら、チンジャラに浸る。

パチンカスだった父の遺伝だろうか?

金は彼女の稼ぎに頼りきり、もらえないと暴力に走ったりした。


 1年になったころだった。

「ねぇ、早く仕事見つけて。あたし、もうムリ」

涙目で琴恵(ことえ)が訴えてきた。

「バカ言ってんじゃねぇっ。黙って働けっ。いいか、おれは人をぶっ殺したことだってあるんだぜ」

これは親方のことだが、事情を知らなければ凶悪な人殺しを連想してしまう。

彼は意識してこの言い方をしたのだ。

「え……」

一瞬、絶句して硬直する彼女に追い討ちをかける。

「そう。女子供でも容赦しねぇってこと」

琴恵(ことえ)はそれっきり、彼に出て行けとは言わなくなった。

それからまた1年ほど、徑吉は鼻歌交じりで女の稼ぎを食い散らし続けた。


「ね、悪気はなかったんだからさ」

彼が言いかけたとき、

「屑の居(くずのい)、屑の居ぃ」

車掌の声が到着を告げた。

彼女はすぐに立ち上がり、逃げるように足早に出て行った。

振り向きさえしなかった。

「ちぇっ」

ちょっと鼻白らむ。


 ふと座席を見ると、彼女のいた後にガムの包み紙のようなものが畳んで置いてある。

手を伸ばして開けてみた。

ひらがなで、

「うそつき うそばっかり」

と、書いてあった。

「ふっ」

鼻で嗤う。

捨てようと思ったが、思い直して窓枠のふちに置いた。 



               7



 次々と乗り込んでくる乗客たちに、自分の生き様を突きつけられている気がした。

「昔のことはしゃあねぇ」

言い訳のようにつぶやいて、ふて腐れたまなざしを入り口に向ける。

男ばかりが数人乗り込んでくるのが見えた。

「あ……」

その1人を認めるや、宇園徑吉は瞬間的に座席の隅に縮こまった。

「どうしよう」

腕で顔を隠しながら、見つからないようにと祈る。


 さっきの琴恵との別れは、彼女の突然の失踪だった。

彼の横暴に耐えられなくなったのだろう。

古アパートに手持ちのすべてを残したままだ。

徑吉はふてぶてしく、月末までそ知らぬふりで住み続け、それから消えた。

後は野となれ山となれだった。

経済成長の好景気の時代で、住み込みの仕事もイヤというほどある。


 だが、世間は狭いもので、それから半年もしないうちに彼は琴恵を見かけていた。

偶然にも彼の寮からほんの数分の駅近の街角だった。

深夜の町を見え隠れにあとをつける。

ほどなく彼女の住居を特定した。

アパートではなく、マンションだった。

「琴恵っ」

声をかけると彼女は顔色を変えて、正面玄関に飛び込もうとする。

それをつかまえて道路まで引き戻した。

「あ~、ああ。なにもしないで。怖い。あ、あたし、もう、カレいるの。部屋で待ってる」

「ふっ。ほんとかぁ、どこの部屋だ?」

「あ、あ、あそこ、2階の角。ほら明かり点いてる。ホ、ホントよ。ほんっとにカレいるの。声出せば来るよ」

「バ~カ。おまえはおれの女だろ。別れろ。浮気は許さねぇ。おれがどんな男か知ってるだろ、女子供でも……なぁ?」 

 

 凄むと、彼女は観念したように黙った。

それでも必死で顔を上げる。

「わかった。徑ちゃんの言うとおりにする。ね、あたし別れるよ。そんなに深い付き合いじゃないし」

「よぉ~し。いつまでだ? 期限を決めろ。そうそうは待てねぇぜ」

「じゃ、あさっての月曜日。ね。あたし、休みだから。来て。……徑ちゃんは仕事やってるの?」

「ったりめぇだろ。おめえがフケたんで今じゃ立派な職工さまだ」

正直言えば立派でも職工でもなかったから、またまた嘘を口走ったわけだ。  


 月曜日は残業もなく、21時の時間通りに業務を終わった徑吉は、なんとなく頬が緩む。

一昨日の感じでは琴恵は以前より羽振りがよさそうだ。

また彼女の稼ぎで、遠慮なくパチンカスの毎日を楽しめる。

 

 マンションが見えてきた。

2階の角部屋の窓が開いていて、女が人待ち顔に佇んでいる。

彼を見つけるや、早く早くと言うように手招きした。

(へっ、やっぱアイツ、おれが忘れられねぇんだな)

ほくそ笑んで中に入り、廊下を進むと突き当たりの玄関ドアが開いて、彼女が満面の笑みで顔を出した。

「遅かったねぇ」


 1LDKの部屋は家具などもそろっていて居心地がよさそうだった。

主人面でソファに腰を下ろす。

「宇園徑吉さんですね? あ、琴恵はおれの女房なんで」

キッチンとリビングを隔てるの壁の向こうから、低い男の声が耳を刺す。

「えっ?」

唖然とする目の前に30そこそこの男が現れる。

小粋な角刈りで、痩せ型だが筋肉質のしっかりしたガタイ、手には包丁ダコがあった。

モノホンの板前だ。

「ちょっと、表に出てもらいましょうかね」

徑吉はそれだけで卒倒する思いがした。


 ギシッと前の座席が軋む。

男特有の固い気配に、声が震える。

間違いない。

琴恵の旦那の板前が、今、目の前にいる。

「ああ、ごめんなさい。ゆ、許して、許してください。2度と現れませんから」



               8



 相手は返事をしない。

そういえば、彼の前に現れる人々はだれ1人として声を発しない。


 あの日、彼は駐車場に引きずり出され、お決まりの殴る蹴るの制裁を受けた。

「おれはひ、人殺しだって、し、してんだぞっ」

徑吉の切り札にも動じない。

「ほう、前科者か。うっしゃ、遠慮なく叩きのめすワ」

逆効果だった。


「終点。木更津(きさらづ)、木更津(きさらづ)ぅ~」

このアナウンスは、まさに神の救いだった。

徑吉は弾かれたように、板前の前から立ち上がった。

とにかく真っ先に電車から飛び出して逃げるのだ。

寮へのマイクロバスが待っているのは北口だ。

一刻も早くバスに乗りたい。


 木更津には何度か来たことがある。

見知った構内にはしっかりとした現実感があり、行きかう人にもおかしなところはない。

それでも意外に時間がかかったらしく、改札を通過したときには、ロータリーにいたマイクロバスが今にも発車しようとしていた。

「あっ、待てっ、待ってくれ。乗る、乗りますぅ。おいっ、おおいっ」

全力で走り出す。

パアアアアァァ~アアアンッ。

度肝を抜く強烈な光線と鼓膜をつんざく警告音。

自分をボコボコにされる、あの駐車場の恐怖がよみがえって、

「ぅわあああああぁっ」

全身で叫んでいた。


 圧倒的暴力でぶっ飛ばされる感覚があり、どこかのプラットフォームに投げ出された。

木更津駅ではないことを瞬間的に理解した。

「来去不(きさらず)」。

古ぼけた案内板があり、左矢印には「此岸(しがん)」右矢印には「彼岸ひがん)」とあった。

異様さにしばらく呆然とする。


「え?」

自分が動いている感覚。

東京駅にある「動く歩道」そっくりのローラーの上にいた。

それが彼岸ひがん)方向にかなりのスピードで移動している。

「ええっ? じょうだんじゃねぇっ」

必死で此岸(しがん)に向かって逆走する。

パラパラと舞い落ちてくるのは、列車内でもらったパチンコ玉・ハンカチ・キャンディ・バラン・うそつきと書かれた紙だ。

それがまるで逃がすものかというように無数に降って来る。

琴恵の旦那の板前からは何ももらっていないが、もらうとしたらどうせ鉄拳だ。


 宇園徑吉(うそのけいきち)は走る。

走って走って、走り続ける。

(これが地獄ってモノなのかもしれないな。安易な人生の報いかよ)

後悔とともに思い当たるが、走るのをやめるわけにはいかない。


 遠くから近づいてくる救急車の音に、ざわめく人々の声が聞こえる。

「ええ。急に飛び出したんです」

「どこかの会社のマイクロバスに乗ろうとしたみたい。日雇いの人じゃないですかね?」

「とにかくすごい勢いで道路を渡ろうとして。自殺行為ですよ」

此岸(しがん)方向に街の気配。

彼はそこに戻らなければいけない。

いや、戻りたい。

この切なる願いのために、限りなく途切れることなく、彼は爆走を続ける。


 たぶん、今も……。


 

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