第7話 嗚呼麗しのちくわパン
あれから冬は深まり、関東にもうっすらと雪が積もったり、翌日にはすぐに溶けたりした。
クリスマスも正月も過ぎ去って、あっという間に新年になった。
やがて冬休みも終わり、再び学校が始まる。
大学受験が近づき、三年生のみならず学校全体が妙に浮つく頃。
二人がその〈謎〉と出会ったのは、そんなある日のことだった。
*
一時はめっきり話す機会も減っていた一木と袮室だったが、この頃はまた元のように会話ができるようになっていた。
袮室が抱えていた過去へのわだかまりも解消され、一木も彼女の過去を知った。それしきのことで袮室のすべてを理解したかのような錯覚を起こすほど一木は自惚れてはいなかった。しかしそれでも、以前より袮室の本質を近く感じることができるようになった。
そして、一木が袮室と再び会話を交わせるようになった理由は、もう一つ。
一木の中に渦巻いていた感情を、彼女自身が検討できたからだ。
それは、きっと多くのティーンエイジャーが経験するような感情で、それ自体は大した問題でもないのだけれど。
問題なのは、それに気づいた時、どうするべきなのか? ということだった。
一木は、自らに問うていた。
自分は袮室と、どうなりたいのか?
このまま友人でいたいのか?
それとも……。
*
一月下旬の学校は、悲喜こもごもだった。
七星学園の大学進学率は非常に高く、その中でも半数以上の生徒が国公立大学を受験する。国公立の入試に必要な共通テストが行われたのが先週のこと。自己採点した結果を手に、三年生たちは学校に顔を出していた。
共通テストの結果を基に、彼らは最終的な受験校を決定する。思うような結果が出なかった者、あるいは思いのほか良い結果が出せた者。歓喜と怨嗟が混じった空気は、階下の一年生教室にまで伝播してくるかのようだった。
しかし、そんな悲喜などまるで関係ないかのように振る舞う生徒もいた。
例えば、
卒業を間近に控えた三年生で、〈空模様観察同好会〉唯一の構成員。その同好会の活動として五階の空き教室を(勝手に)根城とし、放課後の全てを空を見上げて過ごしたという人だ。
この天城だが、周囲の三年生たちが大学受験に向けて忙しくし始めた後でも変わらず空を見上げ続ける生活を続けていた。そんな調子だから、彼女を知る者からは色々と噂の種になっていた。
曰く、出席日数が足りなくて留年するから受験をする意味がない。あるいは、家がとんでもないお金持ちなので、進学も就職もする必要がない。もしくは、許嫁がいて卒業と同時に結婚して専業主婦になることが決まっている。エトセトラ。
そういった根も葉もない噂の渦中にいる天城は、空き教室の窓際の机の上に腰掛けていた。黒いタイツに包まれた脚を組み、購買部で買ったちくわパンをかじっている。
その目の前には、一木と袮室の二人が椅子に座っている。袮室は入学してすぐの頃に天城の存在を知り、その生き様に興味を持った。文化祭の頃、一木と袮室が解決したある事件に天城が少しばかり関係することになり、それをきっかけにして少しばかり縁が深まった。
そういうわけで、袮室は天城を取り巻く噂の真実を知るために、放課後の時間を利用して本人に会いに来たのである。ちなみに一木は付いてきただけだ。
「天城先輩って……受験とか就職とか、しないんですか?」
単刀直入に、袮室は尋ねた。
天城は窓の外を眺めていたが、袮室の質問を受けると、彼女の方へ目を向けた。口の中のパンを飲み込んでから答える。
「推薦で大学決まってるからね、私は」
「あ、そうだったんですね」
袮室は拍子抜けしたように言った。真実を知ってしまえば何てことはない。
「だから留年も結婚もしないし、家だってお金持ちじゃないし」
と、天城は言った。
それを聞きながら一木は、意外だな、と考える。推薦入試とはもっと真面目なタイプの人がするものだと思っていた……というのは偏見だろうか。
「意外だな、とか思ってない?」
天城は一木の方へ目線を向けた。
「い……っ、いや、別にそんなことは」
「こう見えても成績はいい方だからね」
「そう……だったんですね」
やっぱり意外である。
それから天城は脚を組み直しながら言った。
「そんなわけで暇でさ。同級生はみんな追い込みの時期だからね」
天城はまた一口パンを食べた。
一木はふと口を開いた。
「そのパン……」
「ああ、これ?」
天城は手の中に残ったパンのかけらを見せた。平べったいパンの中にちくわが一本入っていて、ちくわの穴の中にはさらにツナマヨが詰まっている。
「最近はまってるんだよね」
そう言いながら天城は残りのパンを口の中に入れた。
「それ、購買で売ってるやつですよね?」
と、袮室は尋ねた。天城は口の中のものを飲み込みながら頷く。
「大体のパンって昼休みに売り切れちゃうんだけど、これはなぜか放課後まで残っててね」
「パンにちくわって、美味しいんですか……?」
疑るように一木は尋ねる。
「美味しいよ。今度食べてみな。まあ、売れ残ってるから人気はないのかもしれないけど……いや、でもリピーターもいるからな。やっぱり美味しいはずだよ、うん」
「リピーター、ですか?」
と、袮室は聞き返す。
「そうそう。私は週二くらいのペースでこのパン買ってるんだけどさ。毎日買ってる人もいるからね。私が購買部行くと、その人も必ず来るから」
「毎日か。それは相当のファンですね」
袮室は言った。
「一年だから、君たちと同じ学年だよ」
「話したんですか? その人と」
「いや」天城は首を横に振った。「購買部で会うだけだし。でも、一度だけ話しかけたな。『毎日買ってるの?』って」
すると、一木が聞き返した。
「その人……何て答えてましたか?」
「毎日来てるって言ってた。結局、それくらいしか話さなかったけどね」
「でも、覚えてはいるんですね」
と、袮室は聞いた。
「ちくわパンリピーター仲間だもん。覚えるでしょ、そりゃ」
「どんな人なんです?」
袮室は尋ねた。天城と同じ味覚センスの持ち主に少しだけ興味が湧いたのである。
「糸冬さんと同じくらいの背丈で……ちょっと可愛い感じの顔の男の子」
一木と同じくらいの背丈ということは、男子としてはそこまで背が高い方ではない。袮室と一木はまだ見ぬちくわパンリピーターを頭の中に思い描いた。
翌日の放課後。一木と袮室は購買部に行ってみることにした。授業が終わるとすぐに二人して教室を出て、二階にある購買部へと向かう。
購買部は階段を上がって正面にあった。周囲には数人の生徒が行き交っている。
袮室は購買部の中へ入っていこうとする。その時、一木はふと背後に視線を感じた。
一木は振り返る。しかし、そこには掃除用具入れのロッカーが並んでいるだけだった。
気のせいだったのかな、と思いつつ、一木は袮室の後に続いて購買部の中へと入った。
そこは、一木は数えるほどしか足を踏み入れたことがない空間だった。広さは教室一つ分ほどで、壁を取り囲むようにして商品が並べられている。文房具や教科書の他に、ジャージなどもあった。
奥のレジに会計係の中年の女性がいるほかは、室内には誰もいない。昼休みは大いに繁盛する購買部だったが、わざわざ放課後に訪れる者は少ない。
正面に置かれたカゴにはかつてぎっしりとパンが詰め込まれていたが、今残っているのは数個のちくわパンのみだった。
「これだ」
袮室はビニール袋に入ったパンを手に取った。一個百三十円。一木も同じようにパンを取る。
「すみませーん、これお願いしまーす」
レジのおばさんに袮室は声を掛ける。「はいはーい」と、彼女は商品を受け取った。
「これ、美味しいですか」
レジ打ちをしている店員に、袮室は尋ねる。
「そうですね。私は結構好きですけどねえ」
その言い方に、「その割に売れていないのだが」という含みが持たれていることは袮室たちにも分かった。
袮室は財布から小銭を取り出しながら、さらに尋ねる。
「でも、リピーターも多いって聞きましたよ。なんでも、放課後に毎日買いに来る人がいるとかで」
「えっ、毎日ですか。そんな熱心な人はさすがに……」
「いないんですか?」
と、意外そうに袮室が聞き返す。店員は頷いた。
「ええ、そうねえ。よく買いに来てくれる人はいますけどね。ほら、昼休みだったら人がいっぱいいるけど、放課後はあまり来ないでしょう? だから、毎日同じもの買ってたら覚えてるはずだと思うんですよね」
「そうですか……」
袮室は考え込みながら、小銭と引き換えにパンを受け取る。
その後、一木が無言のまま会計を済ませている間も、袮室は難しい顔で考え込んでいた。
購買部を後にした二人は、階段を降りて教室へと引き返した。教室には他に人はいなくて、夕陽が窓を赤色に染めていた。
袮室は早速ビニール袋を破いてパンを取り出した。パンの周囲はマヨネーズの油でテカテカと輝いている。食欲を誘う魚介的な匂いが鼻腔を刺激した。
一木も同じように袋を破いて、パンを一口かじってみた。ふわふわとしたパン生地と、弾力のあるちくわが不可思議な食感を形成している。味は濃厚で美味しかった。
「ところでさ、」
と、袮室はパンを食べながら言った。
「女刀さんが言いたいことは分かってる。不思議だって言うんでしょ?」
一木は、袮室の言うことを先回りするように言った。
袮室は頷いた。
「そう。天城先輩が言ってたちくわパン男が、購買の店員さんには目撃されてない。これって謎だよね」
「謎、か……」一木は呟いて、ちくわパンの断面を見つめた。「確かに、ちょっと不思議かもしれないけど」
天城は見ているのに、店員には見られていない謎の男子生徒。その正体はまだ一木にも分からなかった。しかし、彼がなぜ天城にしか目撃されていないのか。その理由であれば、一木の中には一つの仮説があった。
そして、その仮説が正しいのであれば、ちくわパン男を捕まえて話を聞くことはそう難しくないと一木は思っていた。
すると、袮室は正面から一木の顔を覗き込んできた。
「糸冬さん、もしかしてもう全部分かってる?」
「いや……っ」突然顔を近づけられて面食らいながら、一木は答えた。「本人に確認を取らないことには……」
「本人って、天城先輩?」
袮室が尋ねると、一木は首を横に振った。
「違う。ちくわパンを買ってる、一年の男子の方だよ。そっちに聞いた方が、話が早いと思う」
「分かった。じゃ、聞きに行こう」袮室はパンを片手に持ったまま立ち上がった。「その口ぶりだと、もう分かってるんでしょ? その人がどこにいるか」
「うん」一木は頷いた。「でも、今日はもう遅いし、明日の方がいいかも。別に、明日でも大丈夫だと思うから」
「そうなの?」袮室は再び、ストンと着席した。「じゃあ、ゆっくり食べよう」
「それがいいよ」
一木はそう言って、さらにちくわパンを口にする。一木の一口は、袮室のそれより小さかった。
翌日の放課後、一木は袮室を連れ、再び購買部へと向かった。
しかし、今度は購買の中へは入らない。そのかわりに、入り口の前で一木は振り返った。
購買部の入り口正面、階段の横のスペースを一木は見た。そこには掃除用具入れが並んでいる他には何もない……かに見えた。
しかし、実際にはそうではない。
階段横のスペースは薄暗く、廊下の側からはよく見えない。一木はその空間へ近づいていく。ロッカーの陰に隠れた部分を覗くと、探すべき人物を見つけた。
「あ、」
と、その男子生徒は言った。
「あっ」
と、一木も同時に声を上げる。
なぜなら、二人には面識があったからだ。一木たちと同じクラスの
「聖さん……放課後にちくわパンを買ってるのって、君だよね?」
硬直したままの聖に向かって、一木は尋ねる。後ろで袮室が「そうなの?」と驚愕していた。
「な……、どうしてそれを……」
聖は縮こまりながら聞き返す。
「天城先輩に聞いたから」
と、一木は答える。
天城の名前を出した途端、聖は急に挙動不審になった。
「とりあえず……ここじゃないところで話そうか」
と、袮室は言った。
一木と袮室、それから聖の三人は、一年二組の教室に戻ってきた。空いている椅子に適当に腰掛けて、まるで刑事の取り調べのように机を挟む。一木と袮室が並んで座り、聖を正面に見据えた。
聖は背中を丸めて座っている。今にも冷や汗をかきそうな表情だった。
「それでさ……」袮室は口を開いた。「糸冬さん、気づいてたの? ちくわパン男の正体が聖くんだって」
「ちくわパン男って……」
と、聖は呟く。
一木はかぶりを振った。
「別に……正体が分かってたわけじゃないよ。聖さんがあそこにいた時は、私も驚いたし」
「そうなんだ……」それから袮室は聖の方へ目を向ける。「っていうか、聖くん。何であんなところに隠れてたの? 張り込み?」
「それは……」
聖は答えにくそうにする。それから、チラと一木の方へ目線を向けた。
「あの……糸冬さんは、分かってるんだよね? 僕が何してたか、とか……」
「まあ……多分」
と、一木は答える。
「それで、天城先輩が言ってた、っていうのは?」
聖が尋ねると、袮室は天城から聞いた話や、購買部で聞いた話などを伝え、謎の〈ちくわパン男〉を捜索するに至った経緯を話した。
話を聞くと、聖は呟いた。
「そうだったのか……先輩が、僕のことを」
「それで、聖くん」袮室は聞いた。「本当のところ……どういうことなの? 毎日パンを買ってるはずなのに、店員さんはそれを覚えてないっていうのは」
「それは……多分、本人の視点からだと分かりづらいと思う」と、一木が言った。「だから聖さん、私が代わりに説明してもいい?」
「ああ、うん。頼んでいいなら」
聖の許可も得て、一木は小さく深呼吸した。こうして人の前で謎を解き明かすのは久しぶりな気がした。
「まず……天城先輩の認識と、店員さんの認識が食い違ってたことが、そもそもの謎の発端だったわけだよね。それで、どっちの認識が正しいのかってことだけど。正しいのは、店員さんの認識の方だと思う。つまり、実際には聖さんは、毎日ちくわパンを買いに来たわけじゃなかった」
一木が聖の方を一瞥すると、彼は首肯した。
「じゃあ、どうして天城先輩はそんな勘違いを?」
と、袮室が聞き返す。
「そもそも、天城先輩は毎日放課後に購買部に通ってるわけじゃない。気が向いた日にちくわパンを買いに行ってるだけだから。つまり、本来天城先輩の視点から『聖さんが毎日パンを買いに来てる』ってことは断言できないはず。
でも、仮に週の三日、聖さんがちくわパンを買うところを目撃したら? 残りの二日も、その人は同じように行動してるって勘違いする可能性もある……と、思う」
人は分からないことを類推したがる生き物だ。天城の勘違いも、そんな類推から生まれていた。
それから、一木はさらにこう続けた。
「もっと言えば……天城先輩には勘違いしやすい土壌が整っていたから。例えば、先輩は特定の曜日にパンを買ってたわけじゃない。だから、聖さんを目撃する曜日も、必然的にランダムになった。もし『毎週月曜日』みたいに決まってたら、部活や委員会の兼ね合いって考えることもできたけど、そうはならなかったから。
あと、極めつけは、聖さん本人が『毎日来てる』って言ったこと……だと思う」
「じゃあ、それって嘘だったってこと?」
袮室は聖の方を見た。一木は助け船を出すように、聖に代わって答える。
「嘘っていうか……咄嗟にそう答えちゃっただけ、なんだよね?」
「いや、まあ、うん。突然聞かれたから、つい」
と、聖もそれを認める。
それから一木は、話を纏めにかかった。
「つまり、聖さんは毎日購買に通ってたわけじゃない。けど、天城先輩が購買に行った日は、必ず聖さんの姿を目撃してた。……聖さんは、天城先輩がいる日にだけ購買に行ってたんだよね」
聖は観念したように頷いた。
「……そう、です」
「えっと、つまり?」
まだいまいちピンと来ていない袮室は、一木にさらなる説明を求めた。
「つまり……聖さんは毎日購買部の前に張り込んで、放課後に購買に入る人を見張ってたんだよ。あそこの、ロッカーがある空間なら、廊下側からは見つかりにくいから。それで、天城先輩が購買に来たのを確認した時だけ、自分も購買に入って、天城先輩と同じものを買った」
「ってことは……」袮室は聖の方へ顔を向ける。「聖くん、天城先輩のことが好きなの?」
「声が大きいよ」
と、聖は言った。しかしそれを否定することはしなかった。
聖は椅子に深く座り直し、小さくため息をついた。
「……そうだよ。糸冬さんの言ってた通り」
「でも、天城先輩とは接点ないんだよね?」
袮室が聞き返すと、聖は苦々しく頷いた。
「たまたまあの空き教室にいるのを見かけて、それで……」
「じゃあ、一目惚れだ」
袮室はどこか楽しそうに言った。
「まあ、そういうことになるのかな」
「だったら話しに行けばいいのに。先輩、どうせ毎日あそこにいるって分かってるんだから」
「そんなこと簡単にできたら苦労してないんだよ」と、聖は言った。「空き教室に自分から出向いたら、こっちに気があるのがバレバレになっちゃうだろ」
「でも、購買部で偶然会ったっていう体なら、そうはならないから……。そういうこと、だよね?」
一木は尋ねた。聖は頷いて、それを認める。
「そうだよ。……でも、そうか。先輩、僕のこと覚えてたんだな」
「顔だけね」
と、袮室は言う。
「まあ、認知されてるなら、作戦は上手くいってるってことなのかも」
と、一木は聖のことを擁護した。
「でもさ……本当に先輩のことが好きなら、そんな悠長なことしてる暇なくない? だって、先輩ってもう三年でしょ。あと少しで卒業じゃん」
袮室が言うと、痛いところを突かれたとでも言うように、聖は苦々しい顔をした。
「それは……僕だって分かってるよ」
「あ……ごめんごめん。偉そうなこと言って」
「別に怒ってないけどさ」
そう言いながら聖は立ち上がった。
「でも……バレて逆にスッキリしたかも」
と、彼は清々しい表情で言った。
「なら、よかった」
と、一木は小さく呟く。その表情は安堵に包まれていた。
「天城先輩とも、一回ちゃんと話してみるよ」
聖はそう言って教室を出て行く。袮室はその背中に「頑張ってね!」と声をかけた。
一木と袮室は学校を出て、二人並んで駅を目指す。コートを着てもなお一月の夜空は肌寒かった。頭上には星が瞬いている。
コートのポケットに手を入れて少し身震いしながら、袮室は言った。
「よく考えてみれば……今回の話って、当人たちにしてみれば、別に謎でも何でもないんだよね」
「確かに……そうだね」
天城にしてみれば、聖は毎日ちくわパンを買っている熱烈ちくわパンリピーターと信じて疑っていなかったわけだから、それを謎と認識することもない。矛盾に気づいたのは、天城と購買の店員の双方から話を聞いた袮室と一木だけだ。
「結局、謎かどうかなんて認識次第ってことなのかもね」
と、袮室は言った。一木は黙って頷いた。
会話が途切れ、一木は夜道を歩きながら頭の中で考えた。
もう謎を解いたりしないと思っていたのに、気がつくと謎を解いていた。
四月の頃は、こんなことをするなんて思っていなかったのに。一木の高校生活は、当初思い描いていた姿とは何もかもが違ってしまっていた。
一木は、隣を歩く袮室の顔を盗み見る。
全部、この人のせいだ。
袮室と過ごす時間は、一木にとって人生で経験したことがないくらいに楽しかった。彼女のことを考えるたび、彼女と話すたび、一木の人生はカラフルに染め上げられていく。総天然色の映画のように。
一木が謎を解くのは、袮室の側にいたいから。
謎はこの世の中にあふれている。人はとにかく、何かを隠したがる。
一木は他人と話すのが苦手だった。建前に隠された本音ばかりを見てしまうから。人が隠したがることばかり、一木には分かってしまうから。
でも、それが役に立つ時もある。
袮室と会って、一木はそのことを知った。
一木は、ふと思い出した。袮室が先刻、聖に言っていたことを。
──本当に好きなら、悠長なことをしている暇はない。
時間がないのは、多分自分も同じだ。一木はそう思った。
学年が上がれば、クラスも変わる。また袮室と同じクラスになるかは分からない。そうなれば、自分と袮室を繋ぐものは残るだろうか?
未来を想像して、一木は少しだけ不安に駆られた。
どれだけ推理を働かせても、分からない想いはきっとある。例えば、心の奥底にある特別な感情は。
それを知ってもらうには、多分、伝えなければならないのだろう。口に出して、偽らず、正面から。
自分は、ずっと袮室と一緒にいたい、と。
頭の中には言葉が雑然と散らばって、少しも上手く話せる予感がしなかった。でも、今というタイミングを逃したら、この感情ごと言葉が逃げていってしまうような気がして、我知らず一木は口を開いていた。
「女刀さん。話したいことが、あるんだけど」
(おわり)
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