第6話 いつか、桜の木の下で

 白を基調とした病室。手すり付きのベッドがいくつか並べられている。そこに寝ているのは全員が小学生くらいの子供だった。それぞれのベッドはカーテンで仕切られている。

 窓際のベッドの上で上半身だけを起こしているのは、水帯みずおび静香しずか。赤みがかった髪は、毛先が肩に触れるほどの長さ。わずかにウェーブがかかっているのが特徴的だった。

 その隣のベッドにいるのは、女刀めがたな袮室ねむろだった。

 静香はカーテンに隙間を開けて、そこから顔を出す。その手に握られているのは、先日刊行されたばかりの探偵小説だった。兄に頼んで差し入れてもらって、一日で読み切ってしまったばかりだった。

「ねえ、袮室ちゃん。この本、さっき読み終わったんだけど、読む?」

 静香は口調も表情も朗らかで、病の苦しみなどまるで感じさせない。

 一方の袮室は無表情に静香のことを見る。

「わたしは……そういうの、よく分からないから」

「そうなんだ。せっかく面白いのに」

「わたしは、静香の話聞いてる方が面白いよ」

 袮室が言うと、静香は本を脇に置いた。

 静香は探偵小説が大好きで、新しい本を読むといつも誰かに本の内容を話したがった。その相手は大抵隣のベッドにいる袮室だった。静香はいつも情感たっぷりに物語の世界を聞かせてくれた。袮室はあまり小説を読まなかったけれど、静香から話を聞くのは好きだった。

「じゃあ、話してあげる。ネタバレしていいんでしょ?」

 静香の言葉に袮室は頷く。

 周りにいる人への配慮から、静香は声量を小さくして話し始めた。

「まずね、舞台は学校なんだけど。ある日体育倉庫で生徒の一人が殺されちゃうの。でも、その周りには雪が積もってて……」

 袮室は静香の話を興味深そうに聞いていた。


 やがて静香は話を終える。

「……と、いうわけで。密室が出来たのは偶然の産物で、犯人は生徒会長だったのでした。めでたし、めでたし」

 人が死んでるのに、めでたしめでたしもないものだ、と袮室は思う。

「密室殺人とか首切り死体とか、本当にあるのかな」

 袮室は呟いた。

「ないと思うよ」

 苦笑いを交えつつ、静香は答える。

「じゃあ、静香が好きな名探偵も、本当はいないんだ」

「いや、それは分からないよ?」

「どうして?」

「名探偵が活躍するのは、何も殺人事件に限った話じゃないもの。名探偵っていうのは、みんなが気づかない闇に光を当てる人。謎を解き明かす力を持った人のことだから」

「謎?」

「そう、謎」静香は頷いた。「現実の世界にだって謎はあふれてる。だから、それを解決できる人がいれば、その人は名探偵たり得るってこと」

「そうかな」

 袮室は懐疑的だった。

「あ、納得してないな」

「だって、現実の世界に謎なんて、やっぱりないし」

「そんなことないよ。みんなそれに気づかないだけ」

 静香はそう言って、窓の外へ目を向ける。袮室もつられてそちらを向いた。

 袮室たちがいる病室は二階にあって、窓からは病院の出入り口が見えた。建物から門へと続く道には木々が植えられていて、桜の花びらが舞い散っていた。正面には複合ビルがあって、いくつかのテナントが入っている。一階には薬局があった。

「例えば、あの人」

 静香は桜の木の根元を指さした。そこには一人の女性がいる。車椅子に座り、水色の患者着を身に纏っていた。

「あの人がどうかしたの?」

 と、袮室は聞き返す。

「あの人ね、毎日ああやって桜の木の根元に来るんだよ。決まって同じ時間に」

「へえ……そうなんだ」

「不思議だと思わない?」

 静香が聞くと、袮室は首をかしげた。

「いや……別に。ただの日課じゃないの?」

「だから、どうしてそういう日課を持つようになったのかってこと。そういうのが〈謎〉になるんだよ」

「そういうものか……」

 袮室は考えてみた。入院している患者が、毎日ああやって木の根元まで向かう理由。しかし仮説すら頭に浮かんでこない。

 ものの数秒でお手上げになって、袮室は聞いた。

「それで、結局あの人はどんな理由であそこに通ってるの?」

「それを教えちゃったらつまらないでしょ。これは私からの〈挑戦状〉なんだから」

「ケチ」

 袮室は笑いながら言った。静香もくすりと笑う。

 袮室はしばらく静香から出された問題の答えを考えたが、結局結論は出なかった。きっと自分は探偵には向いていないんだな、と彼女は思った。


 *


 袮室は自室のベッドで目を覚ました。

 どうして昔の夢なんて見たのだろう。すっかり忘れたと思っていた、小学生の頃の夢を。

 いや、袮室にとってそれは、忘れることのできない記憶だった。まだ幼い少女だった頃の、ほとんどの時間を過ごした病室。薬品の匂いも、看護師たちの顔も、窓からの景色も、ベッドのシーツの質感も。全て思い出せる。そして、静香の表情も。

 唐突にあの頃の夢を見たのは、これから起こる出来事への予感かもしれなかった。


 *


 糸冬いとふゆ一木いつきの高校生活は、入学当初に思い描いていたものとは正反対になっていた。

 袮室と一緒に「名探偵になる」なんて荒唐無稽な目標を掲げて、〈謎〉を見つけては、方々へ首を突っ込んだ。

 一木は様々な縁を結んだ。時にクラスメイトと。時に別のクラスの人間と。あるいは、上級生とも。気がつくと、一木の周りには人がいた。

 それは時として、必ずしも良好な関係ばかりではなかった。しかしそれを上回るほどに、一木の周囲には友人がいた。彼女自身ですら、気づかないうちに。

 でも、その中に袮室の姿はない。

 少し前まで、毎日のように一緒にいたのに。最近はめっきり話す機会も減ってしまって、二人は疎遠になっていた。

 きっかけは分かり切っている。今から一ヶ月ほど前に起こった盗難事件。その犯人を一木は突き止めた。しかし、彼女を救おうとした一木の想いは拒絶された。

 あの事件以来、一木と袮室は探偵行為から距離を置くことを決めた。

 二人が出会ったきっかけは、袮室が一木の才能を見いだしたことだった。謎が二人を繋いでいた。

 その繋がりを失った今。一木は、袮室との接し方が分からなくなってしまっていた。

 以前のように二人で話したい。そう思っても、何を話せばいいのか分からない。心臓が勝手に動いて、上手く言葉を出すことができない。

 一木は自分が不思議だった。前はこんなふうではなかったのに。自分が人と話すのが不得手だということは十分承知している。でも、袮室と出会ってからはもう八ヶ月も経つ。いい加減慣れたと思ったのに。

 もっと不思議なのは、他のクラスメイトとは普通に話せるということだ。四月の頃はあんなに人と話すのが怖かったのに、今ではすっかりその気持ちも消え失せて、親しみさえ感じている。

 それなのに、どうして袮室とだけ上手く話せないのか。

 その理由が、一木には分からなかった。


 十二月も中盤。校舎を出た一木は、寒さが厳しくなってきたことを実感する。ダッフルコートのポケットに手を入れて、亀のように首を縮めた。

 コートのポケットからワイヤレスイヤホンを取り出す。袮室と一緒に下校していた頃は使う頻度が減っていたイヤホンも、最近はまた日の目を見るようになった。

 ケースからイヤホンを取り出して、耳に入れようとする。

 その時。一木は手を止めた。

 校門のすぐ脇に、袮室の姿を認めたからである。

 一木は咄嗟に足を止める。向こうは一木の姿に気づいてはいない。

 袮室は誰かと話していた。一木の視界に、その人物が入る。

 背の高い男だった。大学生くらいだろうか。厚手の黒いコートを着込んでいる。

 表情もよく見えなかったし、声も聞こえなかった。しかし、二人が何かしらの関係にあることは分かった。一木の知らない時間を共有してきたことが、感じ取れてしまった。

 一木はいたたまれない気持ちになって、踵を返す。彼女はその日、裏門から帰った。


 *


 家に帰ってきた根室は、自室でコートを脱ぐと、ベッドの上に仰向けになって倒れ込んだ。が、すぐに立ち上がり、今し方ハンガーに掛けたばかりのコートのポケットをまさぐる。

 中から出てきたのは、一枚の白い封筒だった。

〈ネムロちゃんへ〉

 と、右下にペンで書かれている。

 何が書かれているのか確認するのが怖かった。でも、中身は気になる。開けたいけれど、開けたくない。相反する感情が袮室の中で渦巻く。

 意を決して、袮室は封筒に指をかけた。

 慎重に口を破いていくと、中から便箋が顔を出す。四隅に花の模様があしらわれたデザインの、可愛らしい便箋だった。

 二つに折りたたまれた便箋を開く。恐る恐る、袮室はその紙面に目を通した。

 しかし。そこには、何も書かれていなかった。

 手紙は白紙だった。

 袮室は便箋を再び封筒の中にしまい込み、再びコートのポケットの中へ乱雑に突っ込む。

 今度こそ、袮室はベッドの上に倒れ込んだ。スカートに皺が寄るのも気にせず、身をよじる。右腕を横に投げ出して、左手の甲で自分の顔を覆って天井を見た。

「なんでだよ、静香」

 袮室は呟いた。


 *


 学校から駅まで向かう道中。あるいは電車を待っている時。電車に揺られている最中。家に帰った後でさえも。

 一木の心には靄がかかったままだった。

 袮室が話していた、あの男は誰なのだろう。私服を着ていたから、おそらく高校生ではない。年齢から言って大学生という予想は正しいだろう。

 袮室との関係は?

 恋人なのだろうか。

 それを考えると、一木の胸はますます苦しくなった。

 帰宅してすぐ、一木は自分の部屋に閉じこもる。イヤホンは外さないまま、シャッフル再生の流行歌が耳を通り抜けていく。

 コートを着たまま椅子に座り、一木は考えた。

 袮室みたいな女の子だったら、恋人がいてもおかしいことなんて全然ないはずなのに。よしんばその相手が、一木の知らない大学生の男であったとしても、驚くには値しないはずなのに。

 嫌だな、と思った。

 袮室が遠くに行ってしまうかのようで。そのことを考えれば考えるほど、一木の胸はきつく締め付けられる。

 生まれて初めての感情だった。

 一木はスマホを取り出して、音楽を止めた。それから写真フォルダをスワイプして、一枚の写真を表示する。

 いつか体育祭の時に撮った、袮室とのツーショット写真。

 満面の笑みで腕を伸ばしている袮室と、その後ろで何とも言えない表情をしている一木。

 画面の中の袮室の顔を、一木は見つめた。

 その視線に込められる感情が、以前とは別のものに変わっているということは、彼女自身も気づいていた。


 *


 一週間が立っても、袮室の頭は例の手紙のことでいっぱいだった。

 まるでお守りのように、手紙はいつもポケットの中に入れている。あるいは、呪われているかのように。

 なぜ今頃になって、あんな手紙が送られてきたのだろう。

 白紙の手紙を送ってきたことには、それなりの理由があるはずだ。手紙とは本来何かを伝えるためのもの。〈何も伝えない〉ということも、立派に一つのメッセージたり得る。

 その真意は、袮室には分からなかった。

 学校から少し離れた場所にある、小さな公園。ベンチに一人座り、袮室はそんなことを考えた。冷たい風が吹き込んできて顔面を撫でていった。袮室は身震いする。誰と話す気にもならなくて、袮室はこうして一人でいた。

 また俯いて、地面の小石を見下ろす。

 その時、頭上から声が聞こえてきた。

「女刀さん」

 久しぶりに聞く声。

 袮室は顔を上げる。

 コート姿の一木がそこに立っていた。

「糸冬さん……」

 その名前を口にするのも、ずいぶん久々な気がした。

 一木は目線を上下左右に動かしながら、やっとのことで袮室の顔を見た。

「あ……あのね。急に声かけちゃって、ごめん」

「いや……別に、謝ることじゃ」

 盗難騒ぎの一件以来、一木との距離感が変わってしまったことは袮室も分かっていた。あの一件は自分に責任があると袮室は思っていて、そのせいで一木と接しづらくなってしまっていた。

「最近、なんか変な感じになっちゃってたのは、わたしのせいだし。糸冬さんは悪くないよ」

「女刀さん、何か悩んでることとかあるんじゃないかと思って。それで、お節介だって分かってるんだけど……私でよかったら、話、聞かせてくれないかなって思って、それで……」

「えっと……わたし、そんなに顔に出てた……?」

 袮室が尋ねると、一木は頷いた。

「女刀さんって、分かりやすい方だと思うよ」

「そんなこと言うの、糸冬さんだけだよ」

「えっ……ご、ごめん」

「謝るところじゃないし」

 袮室は思わず笑った。それから体をずらして、ベンチを半分空ける。そこを手で叩いた。

 一木は袮室の隣に座って、彼女の顔を見た。

「聞いてくれる? わたしの話」

 袮室は言った。一木は頷いた。


「手紙が届いたんだ」

 袮室はポケットから封筒を取り出した。

 一木はその封筒を眺める。〈ネムロちゃんへ〉と書かれているほかには、何も書かれていない。差出人の名前も、受取人の住所も。切手も貼られていなかった。ずっとポケットに入れていたから、封筒には少し皺が出来ている。

「その手紙に……何か書いてあったの?」

 一木が尋ねると、袮室はかぶりを振った。

「その逆」

「逆?」

「何も書かれてなかったの」

「え?」

 一木は聞き返した。

「本当だよ。封筒を開けて中を見たけど、便箋には何も書かれてなかったの。白紙だった」

「でも、女刀さんはその差出人が誰か分かってるんだよね?」

「え? ……うん。そうだけど、何で」

「切手が貼られてないってことは、直接手渡されたか、ポストに自分で投函したかのどっちか。少なくとも、女刀さんと何らかの形で接触した人が差出人ってことになる。もし全然知らない人から渡された手紙だったら、気味が悪くてすぐに捨てちゃうと思う。でも、女刀さんは捨てないでずっとそれを持ってた。多分、ずっとポケットに入れてたから、そうやって皺が出来てるんだよね?」

「うん」

「だから……多分、その手紙は、女刀さんにとっても大切な人から送られてきたんじゃないかなって思った」

「やっぱり。糸冬さんはよく見てるね。この手紙の差出人は、水帯静香って人なんだけど」

 袮室は言った。一木はその名前を頭の中に思い浮かべてみたが、誰の顔も浮かんでこなかった。

「糸冬さんは知らない子。わたしの……昔の友達の名前だから」

「小学校とか、中学の頃の同級生?」

 袮室は首を振る。

「学校は別々だった。静香とは、病院で知り合ったんだ」

「病院で?」

「うん」袮室は頷いた。それから、淡々とした口調で語る。「わたしね、入院してたんだ。子供の頃」

「それは……」

「生まれつき心臓が悪くて」袮室は指先で自分の左胸をトントンと叩いた。「だから、時々入院と退院を繰り返して……みたいな感じだった」

 袮室が幼少の頃、そんな生活をしていたなんて、一木にとってはあまりに突飛だった。でも、袮室の過去を知らずにいたことも事実で、今本人がそう語っている以上、それを疑う理由も根拠も一木にはなかった。

「静香は似たような境遇で同じ病院に入院してた女の子。たまたまベッドが隣で、それで仲良くなったんだけどね。結局、わたしは手術を受けるために、途中で病院を移ることになって、それっきり。

 一度だけ、昔入院してた病院を訪ねてみたんだけどね。静香は別の病院に移ったらしくて、詳しい足取りは分からなかった」

「でも、手紙を受け取ったってことは、また会えたんじゃ……?」

「手紙を届けてくれたのは、静香のお兄さんなんだ。上一じょういちさんって言うんだけど、よく静香のお見舞いに来てたから、わたしとも知り合いでね。

 今は大学生で、都内の大学に通ってるらしいんだけど、静香から預かった手紙を渡すために学校まで来て。正直、かなりびっくりしたけど」

「もしかして、あの時の……」

 一木は思わず口に出していた。

 校門のすぐ側にいた大学生くらいの男。そして、彼と話していた袮室。一木の脳裏に記憶が蘇る。

「あの時?」

 袮室は聞き返した。

「あ……いや」

「もしかして、見てたの?」

「それは……たまたまっていうか」

「いたなら声かけてくれればよかったのに」

「別に、盗み見するつもりじゃなくて……。ただ、その……」

 言いにくそうにしている一木の顔を、きょとんとした表情で覗き込む袮室。漫画だったら袮室の頭上に「?」が浮かんでいる場面だった。

「そ、その……邪魔しちゃだめなのかな、とか思って」

「邪魔って、何が?」

「だから、その……。あの男の人が、女刀さんの彼氏……なのかなって思って……」

 一木の勘違いは、袮室にとっては意外だった。

「いや……全然違うから」

「だ……だよね。ごめん」

 一木は俯きながら言った。

「そもそもわたし、年上とかそもそもタイプじゃないし」

「じゃあ、同級生だったら?」

「うん、同級生の方が……いや、話が脱線してるってば」

「あ……うん。えっと……それで、そのお兄さんから手紙を受け取ったんだよね。でも、何でお兄さんは女刀さんがこの学校にいることを知ってたの?」

「昔、静香と話したことがあって。ちょうど、わたしが手術を受けるために病院を出て行く前くらいだったかな。手術が上手くいったら高校にも普通に通えるようになるって話をしてて、それで、どこの高校に通いたいかって。わたしがその時に七星学園の名前を出したんだ。静香はそれを覚えてたみたいで」

 中学の頃にした話だから、袮室が実際に七星学園を受験したのかどうかも、合格したのかどうかも静香には分からなかったはず。しかし上一はその曖昧な手がかりを元にして袮室へ手紙を渡しに来たのだ。

 そしてそれは、静香の望みだった。

「上一さんから聞いたんだけど……静香は、長野の病院に移ったんだって。まだ心臓も悪いままで、高校には通えてなくて、通信で勉強してるって。

 わたし、ずっと静香のことが気がかりで。わたしは家にお金があったから、海外に行って検査を受けたり、手術代を払ったりできたけど、静香はずっと病院から出られないままで。高校にだって通えてなくて。

 学校が楽しくなればなるほど、心のどこかであの子のことが引っかかった。静香は今もどこかの病院にいるのに、自分だけ外の世界で楽しんでていいのかなって。もしかしたら、静香はわたしのことを恨んでるんじゃないかなって。わたしが、あの子のことを置き去りにしたから。だから、急に手紙を渡されて、少し怖かった。

 でも、良い知らせでも悪い知らせでも受け止めようって思って手紙を開いたのに。そこには何も書かれてなかった」

 袮室は手に持っていた封筒を一瞥してから、こう言った。

「もしかすると……この手紙は、静香の意思表示なんじゃないかなって思って」

「意思表示って……?」

 と、一木は尋ねる。

「『お前となんか、もう話したくない』っていう、メッセージ」

 袮室は答えた。

「それは……っ」一木の口から、自然と言葉が零れていた。頭の中に思い浮かんだことが、そのまま声になって出てきているような感覚だった。「それは、悲観的すぎるよ」

「でも……わたしが逆の立場だったら、わたしを恨んでもおかしくないって思うし」

 袮室が言うと、一木は突然立ち上がった。袮室の正面に立って、彼女のことを見下ろす。

「静香さんは友達だったんでしょ? なのになんでそんなふうに考えるの。いつもは楽観主義なのに、自分のことになった途端急にそうなるわけ? そんなの、全然女刀さんのキャラじゃない」

 袮室は呆気に取られたような表情で一木のことを見上げるばかりだった。

 一木はまくし立てるように袮室へ言葉を投げかけ続ける。

「そんなふうに他人の気持ち勝手に決めつけて、静香さんにだって失礼だよ。静香さんが女刀さんのこと恨んでるって証拠でもあるの?」

「それは……ないけどさ。でも、そうじゃないって証拠もないから」

「だったら、本人に確かめればいいだけ」

「無理だよ」袮室は力なく首を横に振った。「静香の連絡先も知らないんだし……」

「お兄さんと話したんだよね? どこの病院にいるのか聞いてないの?」

「それは……聞いた。長野にある、マリア病院ってところだって」

「分かった」一木は頷いた。「そこに行けば、静香さんと会えるってことだね」

「そこに行けばって……そんな簡単に。長野だよ? 遠いよ?」

「バスでも乗ればすぐに着くよ。……多分」

 一木だって一人で県外に出たことはなかったが、勢いのままにそう言った。

 いつもは即断即決するタイプの袮室だったが、この時ばかりはそうもいかなかった。

「……もし女刀さんがその気なら、私も一緒に行く」

 一木はそう告げて、カバンを手に持つと、公演から去った。

 袮室はベンチに一人残され、黙って地面を見つめていた。


 一木の元に袮室からメッセージが届いたのは、その日の深夜のことだった。

〈行く〉

〈一緒に来てくれる?〉

 二つに分けて送信されたメッセージに、一木は〈うん〉とだけ返信した。


 土曜日の早朝。学校の最寄り駅で二人は待ち合わせる。まだ人の姿もまばらな駅の構内で二人は顔を合わせた。

「おはよう、女刀さん」

 珍しく、一木の方から声を掛けた。

「うん、おはよう」

「じゃあ、行こう」

「うん」

 二人は改札をくぐって駅のホームへと向かい、新宿を目指して電車に乗った。


 新宿から二人は予約していたバスへと乗り換えた。二人がけの座席に並んで座る。暖房は効いていたが、足元には風が吹き込んできて寒かった。一木は備え付けのブランケットを膝の上に掛けた。

 やがてバスが動き出す。二人はバスの揺れに身を任せた。

 窓の外から白と青の光が差し込んでいる。窓際に座っている一木はカーテンを閉めた。隣にいる袮室があくびをしていたからだ。

 袮室はそのあくびをかみ殺しながら一木の方を見た。苦笑いしながら言う。

「昨日、全然眠れなくて」

「少し寝たら? 長野まで時間かかるし」

「寝られそうにないかも」

「そっか」

「やっぱり、静香のこと考えちゃって」

「きっと……大丈夫だよ」

 一木が言うと、袮室は小さく頷いた。

「……ねえ。静香さんって、どんな人だったの?」

 一木は尋ねた。袮室はかつてのことを思い出す。

「いつも明るい子だった」

「女刀さんより?」

「それはもう、全然」袮室は頷いた。「わたし、昔は全然こんな感じじゃなかったし」

「そうなの?」

 一木は意外そうに聞き返した。

「もっと……口数だって、少なかったし」

「全然想像できない」

「今はさ、そういう自分を演じてるんだよ。多分」

「でも、それは誰だってそうなのかも」

「うん。かもね」袮室は言った。「でも、静香は本当に明るい人だったんだよ。

 わたしたちって、学校とかほとんど通えなかったから、友達なんて全然いなくて。だからお互いが唯一の友達みたいな感じで」

「ずっと……学校、行ってなかったの?」

 一木が尋ねると、袮室は首肯した。

「小中の頃はね。行けたとしても、たまにだったから」

「全然知らなかった」

「隠してたからね。言わなかったら分からないと思った。普通じゃない人って思われたくなかったから。気づかなかったでしょ?」

「うん」一木は素直に頷いた。「女刀さん、何だって出来るから」

「何でもはできないよ」

「でも、勉強だってできるし。人と話すのだって。私はずっと学校行ってたけど、何もできないし」

「そんなこともないと思うけど」袮室は言った。「勉強するのはさ、学校行ってなくてもできるし。でも、やっぱり出来ないことも多いんだよ。本当はさ。ほら、運動とかはあまり出来ないし」

「でも、泳ぐのは上手いよね」

「病院にプールがあったんだよ。筋力が落ちないように」

「そっか」

 一木は頷いた。

 一瞬会話が途切れて、バスの走行音が聞こえた。

 やがて袮室は話を続ける。

「……そんな感じだったから、高校に行けることになった時に決めたんだ。高校の三年間では、いっぱい友達作って、最大限楽しいことしようって」

「その望みは……叶ってる?」

 一木は尋ねた。

「うん。わたしは今が一番幸せ」

 袮室は答えた。

 しかし、彼女の瞳が笑っていないことに一木は気づいていた。

 その瞳の奥では、静香のことを考えているに違いない。一木はそう考えた。

「静香さんとはいつも、どんなこと話してたの?」

 一木は尋ねた。

「あの子は本が好きだったんだ。わたしはあまり読書をしなかったけど、あの子が読んだ本の話をわたしに聞かせてくれて、それを聞くのは好きだった。

 特に好きだったのは、探偵小説。静香は、名探偵に憧れてた。フィクションじゃない現実でも、きっと名探偵になれるって言って」

 袮室は懐かしそうな、嬉しそうな表情で答える。

「よく探偵ごっこして一緒に遊んだの、覚えてる。暗号で秘密の手紙をやりとりしたりとかさ」

 一木は袮室の幼少期を知らなかったが、想像すると少し微笑ましく思えて、自然と口元が緩んだ。

「あとね、病院の中で謎を探したり」

「今やってることと変わらないじゃない」

「そうかもね」と、袮室は笑った。「今でも何個か覚えてるよ。例えばね。わたしたちがいた病院の出入り口のところに桜の木が植えられてたんだけど、ある入院患者の人が、毎日その桜の木の根元まで来てたんだ。それが何でかって話とか」

「それは……どうしてだったの?」

 一木が聞くと、袮室は首を横に振った。

「知らない。結局その人は退院しちゃったし。静香は答えを知ってたみたいだけど、教えてくれなかったから、それきり」

「そうなんだ」

「もしその時に糸冬さんがいたら、その謎の答えも解いてくれてたのかな」

「どうかな……」

 一木は曖昧な返事をした。

 袮室は膝の上のブランケットを掴んで、椅子に深く座り直す。それから、ぽつりと呟いた。

「糸冬さん、ありがとう」

「えっ……何が?」

「わたし、めちゃめちゃ緊張してたんだけどさ。話してたら少し楽になったから」

「そう……なら、よかった」

「付いてきてくれてありがとうね。後で交通費とか、ちゃんと払うから」

「いいよ。私が勝手に付いてきただけだから」

「……分かった」

 袮室は頷いた。それから、カーテンの隙間から少し外を見る。青空に白い雲がいくつか浮かんでいた。

「糸冬さんはさ……どうして一緒に来てくれたの?」

 袮室はそう聞いてから一木の横顔を見た。一木は目線を合わせないまま、独り言を言うかのように答えた。

「女刀さんのことが、好きだから」

 袮室は再び窓の外へ目を向けた。

「ありがとう」


 何度かサービスエリアを経由して、バスは長野駅前に到着した。

 一木たちは駅の乗り場からタクシーに乗った。マリア病院の名前を告げると、運転手は頷いて車を出した。

 十数分ほど電車に揺られ、病院が近づいてくる。五階建ての白い建物。西洋風の門の横に聖母マリアの銅像があって、幼いイエスを抱いていた。

 運転手に代金を支払って、二人はタクシーを降りた。そのままタクシーは走り去る。門の前に立ち、袮室はマリア像を見上げた。

 そのまま神妙な面持ちで、小さく深呼吸する。

「まずは……面会できるか聞かないとね」

 袮室はそう呟いた。

 門を潜る。構造は、かつて袮室がいた病院と似ていた。門から病院の入り口までタイル張りの通路があって、その両脇に木々が植えられている。冬だから、花は咲いていなかった。裸の枝が風に揺れているだけだ。何の木なのかさえ分からなかった。

 袮室は病院の中へ入ろうとして、ぴたりと足を止めた。

 向かって右側に植えられた木々の中の一つ。その根元に、少女が立っていた。

 赤みがかった、天然のウェーブヘア。

 紺色のダウンジャケットを着て、タクシーから降りてきたばかりの二人を見つめている。

 まるで、袮室がここに来ると分かっていたかのように。

「し……」

 袮室はその名前を呼ぼうとしたが、声にならなかった。あまりに唐突に、彼女は目の前に現れた。その突然さゆえに、心の準備などまるでできないまま。

 一木に、そっと背中を押された。

 袮室は一木のことを振り返り、それから、真正面で待ち構える少女へと目を向けた。

 数年ぶりに見る、水帯静香の姿を。袮室は、その双眸の中へと映す。

 一歩ずつ歩み寄って、木の下まで向かった。静香は微笑みをたたえて、小首を傾げるような動作をする。

「袮室ちゃん。待ってたよ」

「静香……だよね」

「忘れたわけじゃないでしょ?」

 静香はそう言ってくすりと笑う。

「ま……まさか。でもちょっと、大人っぽくなったね」

「袮室ちゃんもね。垢抜けたっていうのかな?」

 それから静香は、病院の方を振り返った。

「とりあえず、わたしの部屋で話そうか。何とね、個室なんだよ。凄いでしょ?」静香は後ろにいた一木へも目線を向けた。「あなたは……袮室ちゃんのお友達、だよね? 一緒にどうかな。よかったら」

 一木はかぶりを振った。

「私は……いいよ。邪魔しちゃ悪いから。待ってるから、終わったら連絡して」

 袮室は「分かった」と頷いた。


 静香が入院中の病室は三階にあった。窓からは町並みが見渡せる。よく晴れた日だった。

 ベッドサイドにはいくつかの本が並べられていた。新旧さまざまな探偵小説の他に、高校用の教科書もある。

 静香はベッドの縁に座って、ジャケットを脱いだ。ジャケットの下にはグレーのパーカーを着ていた。

 袮室はコートを着たまま、ベッドの横にある丸椅子に腰掛ける。

「静香……その。体調、どう?」

 袮室は聞いた。静香は答える。

「変わらずってところかな。薬飲んでれば、歩き回ったりもできるし。袮室ちゃんは、高校通ってるんでしょ? 兄さんから聞いたよ」

 静香が反対に質問をしてきたので、袮室は頷いた。

「……うん」

「楽しい?」

 静香が尋ねたことに、袮室は答えることができなかった。

 代わりに、恐る恐る、こう尋ねた。

「あの……あのさ。静香、わたしのこと、恨んでるんじゃないの?」

 静香は意外そうに聞き返した。

「恨んでる? 何で?」

「だって……上一さんに預けた手紙が……」

「あの手紙が、どうかしたの?」

 袮室は、ポケットの中から封筒を取り出し、その中から白紙の便箋を出して広げた。

「ほら、これ。この手紙に、何も書いてなかったから。だから……もう、わたしとは何も話したくないって、そういう意思表示なのかと思って……」

「ちょっと待って」静香は真面目な顔つきで、手のひらを顔の前に出した。「この手紙を白紙だと思ってるってことは……つまり、仕掛けに気づいてないってこと?」

「し……仕掛け?」

 袮室が狐につままれたような顔をしているのを見て、静香は額に手を当てて天井を仰いだ。

「……ちょっと待ってね」

 静香はベッドサイドの棚の中からペン立てを取って、その中から一本のペンライトを取り出す。

 スイッチを入れると、ペンライトの先端から紫色の光が発せられた。それはブラックライトだった。

 そしてブラックライトの光を、袮室の手の中の手紙に当てる。

 すると、ライトに反応して、見えなかった文字が浮かび上がってきた。

「えっ……これって」

「さすがの袮室ちゃんでも、これくらいはすぐに気づくと思ったんだけどな。昔よくやったでしょ? こういうの」

 袮室は静香から奪い取るようにしてペンライトを受け取った。それから、一行目から順番にライトを当てて手紙の文面を浮かび上がらせていく。


〈ネムロちゃんへ


 手紙の中とはいえ、こうやって話すのは久しぶりですね。

 兄が無事にこの手紙をあなたに届けられたということは、あなたは念願叶って七星高校に通っているんだと思います。

 高校生活はどうですか? 友人はできましたか? ネムロちゃんが毎日高校に通って、勉強をしたり、部活をやったり、友達と遊んだり。そういった毎日を過ごしているところを想像すると、なんだかわたしまでうれしくなります。

 わたしは今、家族と一緒に長野に移って、そこの病院で過ごしています。

 ネムロちゃんが過ごしているところからは、少し遠いけれど、もし都合が付くときがあったなら、会いに来てくれると嬉しいです。そして、めくるめく学生生活の話をたっぷり聞かせてください。

 今すぐにじゃなくても、構いません。

 でも、できればお昼頃に来てください。その時間、わたしは桜の木の下で待とうと思います。もしあなたが来てくれた時に、真っ先に見つけられるように。


 静香〉


 最後の一行までライトを当てて、袮室は手紙の文面を読み終えた。

 右手にペンライトを、左手に手紙を持ったまま、袮室は目を覆った。目尻に触れた便箋に、じわりと水が染みこんだ。

「そんなに感動的だった? わたしの手紙」

 冗談めかして尋ねる静香に、袮室は声を震わせながら答えた。

「違うよ。安心したから」

「安心?」

「ずっと怖かったから。静香に嫌われてたんじゃないかって」

「もう……そんなわけないじゃん。相変わらず変な考え方する子だな、袮室ちゃんは」

「だって。わたしだけ治って、学校にも通って。静香は高校にも行けてないのに。恨まれてても、仕方ないかなって……」

 袮室はそう言って目を伏せる。しかし、静香は目を逸らすことを許さなかった。

 体をクッと曲げて、静香は袮室の視界に入ってくる。

「本当にそう思ってる? 逆の立場だったら、袮室ちゃんはわたしのことを恨んでた?」

「それは……」

 と、袮室は言葉を詰まらせる。

 静香は言った。

「袮室ちゃんは、わたしの気持ちを考えてるんじゃないよ。自分の後ろめたさを仮託してるだけ。本当にわたしの気持ちを考えたら、恨んでなんかいないってすぐに分かるはずだもの。

 わたしはね、嬉しいんだよ、袮室ちゃん。袮室ちゃんが学校に行って、部活とかバイトとか、文化祭とかテストとか、私が本の中でしか知らないような世界を、実際に経験してるんだと思うと」

「……うん」袮室は頷いた。「ごめん。わたし、静香の気持ちを決めつけてた」

 袮室が言うと、静香は白い歯を見せて笑った。

「申し訳ないと思ってるなら、わたしに聞かせてよ。高校の話」

「うん。いくらでも」

 袮室は頷いた。


 それから時間の許す限り、袮室は話をした。

 文化祭で演劇をやったこと。試験で良い成績を取ったこと。体育祭で友人たちと写真を撮ったこと。その全てを、慈しむように静香は聞いた。

 そして、袮室が目にしてきた〈謎〉の数々。

「昔、言ったよね」袮室は言った。「『現実の世界に名探偵なんていない』って」

「言ってたね」

 と、静香も頷く。

「でもね。見つけたんだ。〈名探偵〉になれる人を」

「もしかして……さっきの子?」

 静香は、病院の前で会った髪の長い少女の姿を思い出す。

「そう」袮室は頷いた。「だからわたし、あの子のワトソンになろうと思って」

「いいじゃない」

「結局断られちゃって、友達から始めることになったんだけど」袮室は苦笑いしながら頭をかいた。「でも、本当に凄い人なんだよ。最初はね、わたしの腕時計を見つけてくれて……」

 そうして袮室は、一木と共に出会った謎を静香へ語った。そして、一木がどのようにして真実を見つけたのかも。

 その結果、時として誰かの不幸を知ってしまったことも。

 話を聞くと、静香は言った。

「その人はさ。他の人が気づかないようなことに気づく人なんだろうね。望むと望まざるとにかかわらず、真実を知ってしまうタイプの人」

「うん。きっとそうなんだと思う」

「だから、知らなくていいことまで知ってしまう」

「わたしのせいなんだよ」袮室は懺悔するように呟いた。「わたしが余計なことをさせたから、あの子のことを傷つけちゃった。

 さっきの、盗難事件の話だけどさ。わたしたちは、盗んだ犯人の人に事情があるって知ったから、その人のことを助けたいって思ってた。でも、それはただのお節介でしかなかったから」

「そうかもね」静香は頷いた。袮室は彼女の顔を見た。「でも、名探偵ってのはお節介じゃないと務まらないんだよ」

 袮室は、少し懐かしいような気分になった。静香は「探偵たるもの云々」という持論をよく語っていた。

「じゃあ……やっぱり、やらない方がよかったんだ。謎を解くことなんて」

「それは違うよ」静香は首を横に振った。それから、こう尋ねた。「ねえ、袮室ちゃんをこの病院に連れてきたのって、その子なんじゃない?」

「え? ……うん。そうだけど」

「だったら、その子がいなかったら袮室ちゃんはずっと会いに来てくれなかったかもしれないってことだよね。そして、ずっとわたしが袮室ちゃんのことを恨んでるって勘違いしたままだった」

「それは……そうかもしれない」

「つまりさ、わたしが何を言いたいかっていうとね。結局、時と場合によるってことだよ。そういうお節介が、良い結果を導くことだってある。今回みたいにね。

 だからさ。悪い結果ばかり見て、悲観することないと思うよ」

「そっか……。うん。そうだね」

 袮室は頷いた。心の中がスッキリとしたような、晴れ晴れとした表情だった。

 静香は胸の前で、ポン、と両手を叩いた。

「じゃあ、そろそろ帰る?」

 袮室は袖をまくって腕時計を見た。話し込むあまり、時間が経つのを忘れていたようだった。病院に来てから既に二時間ほどが経過していた。

「あ……もうこんな時間?」

「日帰りでしょ? 早く帰らないと、電車なくなるんじゃない?」

「だね」

「それに、あんまり友達のこと待たせてると、いつまで経っても助手にしてもらえないかも」

「そうだった」

 袮室はスマホを取り出して確認したが、一木からの連絡は入っていなかった。

「出口まで送るよ」

 と、静香は立ち上がった。


 エレベーターに乗って、袮室と静香は一階に降りてきた。

 受付カウンターの前にはソファが並べられ、受診に来た患者や見舞客に混じって一木は一人座っていた。耳にはワイヤレスイヤホンを入れ、八十年代の歌謡曲を聴いていた。

 やがて袮室たちが現れたことに気づくと、一木はイヤホンを耳から取った。ソファに座ったまま、静香に向かって小さくお辞儀をする。

「もういいの?」

 袮室に向かって一木は尋ねる。袮室は頷いた。

「うん。待たせちゃってごめんね」

「いいよ。私が待つって言ったんだし」

 すると、袮室の後ろから静香がひょこっと顔を出した。

「初めまして、水帯です。さっきは挨拶もちゃんとしなくてごめんなさい」

「あ……糸冬です。こっちこそ、勝手に付いてきちゃって」

 すると、静香は一木のすぐ横に腰掛けた。ソファに手のひらを沈み込ませ、ずい、と顔を近づけてくる。

「そんなの全然! 袮室ちゃんのお友達だったら、誰でもウェルカムだから」

「は、はあ。ならいいんだけど」

 初対面なのに距離が近い人だな、と一木は思った。

「それにさ、袮室ちゃんから聞いたよ。糸冬さんが連れてきてくれたんでしょ? 袮室ちゃんのこと」

「それはまあ、成り行きっていうか」

「わたし、ちゃんと手紙で招待したんだけど。袮室ちゃんってば気づいてなかったみたいで」

 横で話を聞いていた袮室はばつが悪そうに目を逸らす。

「やっぱり……そうだったんだ」

 一木は呟いた。

「『やっぱり』ってことはもしかして、糸冬さんは気づいてたのかな? 手紙の仕掛けに」

「確証があったわけじゃないけど。でも、あなたのことを女刀さんから聞いて、わざわざお兄さんを使ってまで、わざと白紙の手紙を送りつけるような人とは思えなかった。だから妙だなと思ってたんだ。

 それで、バスの中で話を聞いて、もしかしたらって思った。二人は昔、探偵ごっこをして遊んでたって。その中で、秘密の手紙を送り合ったって言ってたから。だから、一見白紙に見えるあの手紙も、そういった秘密の手紙の一種なんじゃないかって予想は立ってたよ」

「でも……それが分かったのに、手紙の内容を検討しなかったのはどうして?」

 静香は尋ねた。袮室が病室に来るまで手紙の文面を知らず白紙だと思い込んでいたことからそれは明らかだった。

「手紙の本当の内容は分からないから。今の二人の態度を見ていれば、手紙の文面が女刀さんにとって悪いものじゃないって予想はできる。でも、あの時点ではまだそれは分からなかった。だから……知らないままにしておく方が、いいんじゃないかと思って」

「なるほどね」静香は頷いた。「わたしと引き合わせて、事態が好転する方に賭けたってわけか」

「うん。……だから、手紙の内容は私も知らない。さっき、あの手紙で女刀さんのことを招待したって言ってたよね? でも、私が女刀さんをあなたに会わせたのは、ただの偶然」

「偶然でも何でもいいんだよ。正解にたどり着いたなら」

 静香はそう言って口角を持ち上げる。一木もつられて、少しだけ笑った。

 それから静香は、ソファから立ち上がって二人のことを見た。

「じゃあね、袮室ちゃん。それに糸冬さんも。もしわたしが元気になったら……今度は、わたしの方から会いに行くよ」

「うん」袮室は頷いた。「楽しみにしてる」

 それから一木も立ち上がった。静香に一礼して去ろうとする。

 しかし、静香は「あ、」と何かを思い出したように声を上げた。

 袮室と一木は、同時に静香の方へ視線を集める。

「そうだ、袮室ちゃん。わたしが昔出した〈挑戦状〉、覚えてる?」

「ああ……あの病院に入院してたお姉さんのことでしょ。毎日、桜の木の下に通うのを日課にしてた」

「今なら、あの謎の答えも分かるんじゃない?」

「うん、分かるよ」袮室は頷いた。「あの人も……今の静香と同じ。待ってたんだね。誰かのことを」

 袮室が言うと、静香は満面の笑みで「正解」と返した。


 それから一木と袮室は、長野駅から再びバスに乗り、新宿まで向かった。バスの中で袮室は電池が切れたように眠って、サービスエリアでもとうとう目を覚まさなかった。缶コーヒーを飲みながら、一木は袮室の寝顔を見ていた。

 新宿から電車を乗り継ぎ地元に戻ってきた頃、あたりはすっかり夜になっていた。

 朝に待ち合わせをした駅の改札前で、一木は袮室と向かい合う。周囲の雑踏は、二人のことなど気にせずに歩いて行く。

「じゃあ……今日は、これで」

 別れを告げる一木を、袮室は呼び止めた。

「待って」

 一木は言われた通り、その場で静止して袮室のことをじっと見つめる。

 数秒後、袮室は口を開いた。

「今日……付いてきてくれて、心強かった。ありがとう」

「うん。だったら、よかった」

 それから袮室は、パッと明るい表情になった。

「また学校でね。糸冬さん」

 一木は、小さく頷いた。袮室は時折一木の方を振り返りながら去って行く。その姿を一木は見送っていた。


(つづく)

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