第5話 ゴルディアスの南京錠

 夏期休業が終わり、新しい学期が始まった。秋というにはまだ暑い頃、体育祭が予定されていた。

 何らかの種目には出場しなければならなくて、一木いつきは女子のリレーに出場することになった。練習の時から一木は、それはそれはひどい走り方を披露したものだった。しかしこの頃になると一木の運動音痴っぷりはクラスメイトたちにも知れ渡ったものだったので、暖かく見守られているような雰囲気でもあった。

 元から体育祭の結果など皆大して気にしてはいなくて、ただ走り回って騒ぎたいだけだった。

 本番で一木は何とか自分の担当する区画を走りきってバトンを渡すことができた。結局アンカーを担った藤沢ふじさわという生徒がごぼう抜きを見せて一木たちのクラスはリレーで優勝した。藤沢は陸上部で中距離をやっていた。

 藤沢がゴールテープを切った時、一木は他のチームメイトと一緒にその様子を見ていた。彼女たちに求められて、一木はハイタッチをした。それからリレーに参加したチーム五人で集合写真を撮った。

 袮室以外の人と写真を撮るのなんて、一木にとっては初めてだった。一木は写真に写るのが嫌いだった。自分の顔なんて残したくはないと思っていた。

 撮ってもらった写真は、チャットで一木にも共有された。一木は自分の写る写真を見た。

 相変わらず上手く笑えていないな、と自分でも思う。周りの四人は満面の笑みなのに、一木だけが曖昧な表情で。

 でも、前よりはましな表情にも見えた。

 その時、後ろから抱きつかれた。一木はもう驚かない。自分に抱きついてくるような人間は一人しかいないと知っているからだ。

 振り返ると、袮室ねむろが立っていた。

「今、汗かいてるから……」

 一木はそう言って袮室の腕をほどいた。

「おっ、いいじゃんその写真」

 袮室は一木が持っているスマホの画面を覗き込んだ。

「何か……流れで撮ることになって」

「可愛く写ってる」

「そうかな」

「ねえ、わたしとも撮ってくれるでしょ?」

 袮室は一木の腕を引っ張った。

「まあ、そのくらいは別に」

 と、一木も頷く。

 袮室はスマホを構えて、内カメラで自分と一木の姿を自撮りした。数枚を撮影してから手を下ろす。

 撮れた写真を確認しながら、袮室は言った。

「これLINEのアイコンにしていいかな」

「いや……絶対やめて」

 そんなことをしたら、知らない人からも自分の顔を見られるはめになる。

「アイコンがツーショだったら、どっちがどっちか分からなくなっちゃうでしょ……?」

 一木がそう言うと、袮室は納得したようだった。

「それもそっか。じゃ、やめとく」

 それから袮室は上機嫌でスマホの写真フォルダを眺め出した。

 その横顔に、一木は告げる。

「あのさ……今の写真。私にも、その……」

「言われなくても、後で送っておくよ」

「う……うん」

「珍しいね。糸冬いとふゆさんがそういうこと言うのって」

「まあ、一応……せっかくだし」

「うん。せっかくだもんね」

 袮室はいたずらっぽく笑いながらスマホを操作した。その直後、一木のスマホに写真が送られてくる。

 一木はその写真を一瞬眺めて、端末に保存した。

「糸冬さん、顔がニヤけてる」

 袮室に指摘され、一木は反射的に自分の頬に手を当てた。


 体育祭が終わるとすぐに中間考査があり、その頃になるとだいぶ気候も涼しくなってきた。一木も制服の上にカーディガンを羽織って過ごすようになる。

 入学以来何度か席替えをしたが、試験の時は監督しやすくするために出席番号順の座り方に直す。試験を目前に控え、一木も窓際の席に座った。

 そこに座って教室を眺めると、一木は入学して間もない頃のことを思い出す。まだ一木が袮室と友達ではなく、あまつさえ会話すら交わしたことがなかった時のことを。

 あれから半年ほどの時間が過ぎた。一木にとってはあっという間だった。学校で過ごす時間なんて、もっと長くて退屈だと思っていたのに。

 その時、一木の背後から声がかかった。袮室の声だった。

「糸冬さん」

 一木は振り返る。制服にパーカー姿の袮室が、カバンを片手に立っている。

「今日、図書館とか寄ってく?」

 袮室は聞いた。中間考査に備え、一木は袮室から勉強を教わっていた。放課後になると図書館や喫茶店に入り浸って袮室の手ほどきを受ける。それがここ一週間ほどの日課だった。

「混んでないかな?」

 一木は聞き返す。

「混んでたらドトール行けばいいよ」

「うん」

 一木は頷いて、カバンを手に立ち上がった。


 結局二人は駅から少し離れたタリーズに入った。周りには、同じように制服姿の学生が何人かいる。私服姿でパソコンに向かっている男性は、レポートを書いている大学生だろうと思われた。

 窓際のカウンター席に並んで座る。二人は生物基礎の問題集を開いていた。テーブルの隅にはコーヒーとメロンソーダが置かれ、窓の向こうには人々の往来が見えた。

 一木が細胞膜の役割について思い出そうと顔をしかめていると、袮室が声をかけてきた。

「ねえねえ」

「何?」

 一木も問題を解くのを中断して、袮室の方に顔を向ける。

「何番くらい?」

「え?」

「目標だよ。次の試験。上から何番目くらい? クラスで」

「それは……下から数えた方が早いんじゃないかな」

「そんなことないと思うけどな。わたしだって、こうやって一緒に勉強してるんだし」

「あっ……」

 一木はいつもの癖で自分を卑下したのだが、それによって勉強を見てくれている袮室までおとしめていたことに気づいた。

「ご……ごめん」

「別に謝らなくてもいいけど。でも、もっと自信持ってもいいと思うよ。糸冬さんって、頑張ってるから」

「うん」

 一木は頷いた。

 それから、先刻袮室からされた質問を真剣に見当する。

「でも……真面目な話、私がちょっと勉強したくらいじゃ、追いつかないような人もいるから」

大船おおふねさんとか?」

 袮室がその名前を出すと、一木は頷いた。その名前は一木にとってあまり心地の良い耳障りを持ってはいなかったが。夏休みの時に浮上した彼女の恋人による賭博疑惑については、一木たちは続報を聞いてはいなかった。

 とはいえ、あれ以来大船との交流は少しばかり増えた。彼女は相変わらず学業に邁進する日々で、今度の中間考査でも好成績を残すだろうと予想されている。

「あとは……丹羽にわさんとか」

 一木は言った。丹羽も大船同様帰宅部で、予備校通いをしている女子生徒である。彼女もまた、大船などには及ばないまでも、学年で上位に入る成績を残していた。

 大船や丹羽。そういった優秀な生徒たちのことを、一木は頭に思い浮かべる。自分と違って、日々勉学に打ち込み、結果を残す人たち。それは良い大学に入るためかもしれないし、単に自己実現の手段なのかもしれなかった。

「でも……大変そうだよね」

 一木は呟いた。

「ああ……丹羽さんみたいな人たちが?」

「うん。ほら、ああやって良い成績取ってると、プレッシャーもあるだろうから」

「そうかもね」

 袮室は頷いた。

女刀めがたなさんは……悩みとかなさそう」

 一木は袮室の顔を見ながら、じゃれるように言った。

「そんなことないよ」

 と、袮室は答える。

「どんな悩みがあるの?」

 一木が尋ねると、袮室は真剣な表情で言った。

「……財布、そろそろ新調しようかなあ、とか」

「やっぱり」

 一木はくすりと笑った。「笑うなよ」と言いながら、袮室も笑っていた。


 試験が終わって一週間が経過し、成績表が返却された。B5サイズの紙片に各教科の点数と偏差値、また合計点数の順位などが一覧表になって書かれている。

 一木の成績は、真ん中より少し上くらいだった。一学期の期末考査からは少し進歩している。決して上位ではないが、半分よりは上に来た。

 袮室は褒めてくれるだろうか。一木はそんなことを考えながら、彼女のことを目で追った。袮室は成績表を受け取るため、教卓から続く列に並んでいる。

 やがて袮室は成績表を持って一木のもとへやってきた。

「嬉しそうだね」

 一木は袮室の表情を見ながら言った。彼女は感情が顔に出やすいタイプだということを一木は知っていた。

「前よりちょっと良かった」袮室は答えた。「一緒に勉強したのがよかったのかも。そうしたら糸冬さんのおかげかな」

「私が一方的に教わってただけでしょ?」

「そうだっけ?」

 袮室はあっさりとした調子でそう答えた。

 その時、教室がにわかに騒がしくなった。何だろうと、一木たちも声がする方向を向く。

 騒ぎの中心にいたのは丹羽だった。

「学年五位?」

 誰かが言うのが聞こえてきた。丹羽は小さく頷く。

 丹羽はいつも長髪を二つ結びにしていて、度の強い眼鏡をかけていた。動作と声が小さいところは一木に少し似ている。だからといって一木が親近感を覚えることはなかった。彼女は連日予備校に通って勉強を続けていて、優等生として有名だったからだ。

 しかし、彼女の努力は誰もが認めるところだったが、実際の成績では大船のような上位層に及んでいなかった。少なくとも、一学期の間は。

 それがいきなりの五位とくれば、クラスがざわつくのも納得がいく。

 丹羽の近くには大船もいた。誰かが聞いた。

「ねえ、大船さんは?」

「ああ……丹羽より下だったよ。今回は負けちゃった」

 大船は、何てことはないように答えた。

 成績表に表示されるのは学年全体の順位のみで、クラス内における順番は分からない。しかし大船より上ということは、丹羽が今回クラストップの成績を取ったことはほとんど疑いようがなかった。

「凄いじゃん、丹羽。大船さんより上なんて」

 クラスメイトたちは口々に丹羽を褒めた。輪の中心にいた丹羽は、曖昧な顔つきで笑っていた。

 その表情から彼女の感情を推し量ることは難しかった。あまり嬉しくないのか、それとも褒められることに慣れていないだけなのか。一木にも袮室にも分からなかった。


 中間考査が終わって一ヶ月弱の時間が経ったある日。

 気温はここ数日で急に下がって、冬が近づいたことを感じさせていた。とはいえ、まだマフラーを巻くほどの寒さではない。一木はカーディガンの上にブレザーを着て、長い黒のソックスを履くと、いつもの時間に家を出た。

 一木が異変を感じ取ったのは、教室へと続く廊下を曲がった時のことだった。

 七星高校では、教室の前の廊下にロッカーが設置されている。高さ四十センチ、幅二十五センチ、奥行き五十センチ弱。それが三段に積み重なって廊下の窓の下に並んでいる。生徒一人につき一つがあてがわれ、教科書や資料集などを保管するのに使われていた。

 そのロッカーの前に、誰かが立っている。窓はブルーシートで覆われ、足元にも同様にシートが敷かれていた。

 一人は担任の上里うえさとという教師だった。この学校で一番若い女性の教師で、担当教科は国語である。白いブラウスの上にベージュのジャケットという、この時期にはお決まりの格好をしていたから、遠くからでもすぐに分かった。

 そして、その横に立って何かを話している女子生徒も、一木にはすぐ分かった。袮室である。

 一木が近づいていくと、袮室はその存在に気づいた。

「あ、おはよう」

「おはよう」

 袮室と上里が続けざまに言った。一木は上里へ軽く頭を下げる。

「あ……おはようございます」それから袮室の方へ向き直った。「ねえ、どうかしたの?」

「ドロボーが入ったって」

 袮室は答えた。

「えっ、泥棒?」

 意外な言葉だったので、一木はつい聞き返してしまう。

「どうやらそうみたいで」

 上里は腕を組みながら、足元のロッカーに目線を向ける。

 ロッカーは南京錠でロックする仕様だった。しかし、上里の目線の先にある錠前は切断されていた。南京錠のシャックルの部分が、途中から断ち切られていた。断面の形状から見て、おそらくボルトカッターのようなもので切断されたのだろう。

「え……全部?」

 一木は自分のロッカーを確認する。一木のロッカーに錠前は取り付けられていなかった。それは壊されたわけではなく、元々付けていなかったのだ。一木のロッカーの中には、数冊の教科書や予備の筆記具くらいしか入っていない。貴重品があるわけでもないので、鍵は付けないままにしておいてある。そういったずぼらな人間は他にも何人かいた。

 一木はしゃがみ込んでロッカーを開けたが、中のものは特に何も減ってはいなかった。

「糸冬さんのは大丈夫だった?」

 上里は聞いてきた。一木は見上げて頷く。

「あ……はい。まあ、元々盗まれるようなもの、ないんですけど」

 一木が隣のロッカーを見ると、そこへ取り付けられていた南京錠は破壊されていなかった。

「やっぱりか」袮室は呟いた。「被害を受けたのは、その辺だけみたい」

 袮室が指さしたのは、中段の右端あたりのロッカーだった。確かに南京錠が破壊されているロッカーはそのあたりに集中しているようで、一木もそのことに気づいた。

「とりあえず女刀さんも教室戻ってて。ありがとう」上里はそう言って立ち去ろうとする。それから二人の方を振り返って言った。「あ、その辺ガラス落ちてるかもしれないから、気をつけてね。まあ、上履き履いてるし、大丈夫だと思うけど」

「ガラス……ですか?」

 一木は聞き返した。

「そう」上里はブルーシートに覆われた窓に目線を向けた。「そこ、割れちゃってるから。大きい破片は片付けたけど、細かいのが残ってるかもしれないから」

「分かりました」

 一木は頷いた。それから袮室と一緒に教室へ入った。教室には既に数名の生徒がいて、袮室へ事情を聞いてくる。

「やっぱり、泥棒が入ったっぽいよ。ガラスも割られてたし」

 袮室は答えた。

「え、マジの泥棒ってことじゃん。やばいね」

 クラスメイトの一人は言った。

 それから袮室はいくつかの質問に答え、やがて彼らは自分の席へ散っていった。

 他のクラスメイトがいなくなってから、一木は尋ねる。袮室は自分の席に座り、一木はその机の前に立っていた。

「ねえ、女刀さんが第一発見者なの?」

「そうだよ。まあ、偶然だけど」

「ってことは、今日は女刀さんが一番乗り?」

「そう」袮室は頷いた。「昨日教室に忘れ物しちゃってさ。不安だから早く来たんだよね」

「それでガラスが割れてるのを見つけたってことか」

「うん。それで先生呼んで、色々話してたってわけ」

「災難だったね」

「災難なのは鍵を壊された人だよ」

「それもそうか」

 一木は頷いた。

 そこで教室のドアが開いた。入ってきたのは丹羽だった。それを見て、袮室は立ち上がる。

「あっ、丹羽さん。あれ見た?」

 丹羽は廊下の方に一瞬目線を向けた。

「あの……廊下の?」

「鍵が壊されてたんだよ。丹羽さんのもやられてたよ」

「えっ、本当に?」

 丹羽が聞き返すと、袮室は頷いた。

「うん。何か盗られてるかもだから、チェックしといた方がいいよ。あ、ガラス割れてるから、それだけ注意ね」

「うん。ありがと」

 丹羽はそう言って踵を返し、廊下へと戻っていった。


 学校に何者かが侵入した疑いがあるというニュースは瞬く間に全校を駆け巡った。学校の中に警察官まで現れ、生徒たちは緊急の全校集会のために体育館へ集められた。

 教室に戻ってから、上里は生徒たちへ向けて告げた。

「というわけで……さっき戸次先生も言ってましたけど、おそらく泥棒が入りました。今から全員ロッカーの中身を見て、何かなくなってるものがあったら報告。じゃあ行ってきて」

 上里はパンパンと手を叩いた。生徒たちは一斉に立ち上がり、廊下へ出る。他のクラスからもぞろぞろと生徒たちが現れて、廊下はにわかに騒がしくなった。

 一木は既に確認済みだったので、廊下には行かず教室に残る。袮室や丹羽も同様に教室へ残っていた。

 上里は教卓の横に置かれた回転椅子に腰掛けている。丹羽は自分の席に座ったまま、少し大きめの声量で彼女に呼びかけた。

「あの……私、さっき確認したんですが」

「何かなくなってた?」

 上里が聞き返し、丹羽は小さく頷いた。

「眼鏡ケースが……」

「ケースだけ?」

「はい。中は空です」

「オッケー、分かった」

 上里は頷いて、バインダーに挟まれた用紙にそれをメモした。

 やがて生徒たちが三々五々教室に戻ってくる。その中には浪川なみかわの姿もあった。彼は一学期の文化祭の折、一木たちとささやかな交流を持った生徒である。

 その浪川は、教卓の方へ近づいて行って、上里に向かって告げた。

「俺の便覧がなくなってます」

「ああ、国語便覧のこと?」

 上里は聞き返した。浪川は頷く。国語便覧とは国語の授業で使用される副教材で、写真や図版、文学史のデータなどが一冊に纏められている冊子である。

「まあ、なくなってもあんまり困らないですけど」

 と、浪川は言った。事実、国語便覧は授業でほとんど使用されていなかった。

「でも、いつか使うかもしれないしさ」

 上里は、国語科教諭としての立場で言った。それからバインダーを手に取ってメモを書き付ける。 その後、数名の生徒が盗難被害に遭ったと申し出た。全員が鍵を壊された生徒たちだった。盗まれた物品は千差万別で、特別高価なものが盗まれたわけではなかった。

 学校に泥棒が入ったという非日常的な出来事に生徒たちは浮き足立っていたが、被害額の少なさにある意味でがっかりしたような感情が先立ち、授業が始まると急速にその興味は失われていった。


 その日の帰り道。一木と袮室はいつものように並んで歩いていた。前方から風が吹いてきて、袮室は少し身震いする。

「さむっ。急に寒いな。昼間は暖かかったのに」

 袮室のスカートの裾がはためいた。黒いタイツに覆われた脚に、一木の視線はつい向いてしまう。

「泥棒、捕まるかな」

 袮室は呟いた。

「警察の人も来たんでしょ?」

「でも、それも形式的なんだって。被害も大したことなかったし。学校側も大事にしたくないんじゃないかな。学校の敷地内に侵入されて気づかなかったっていうのは、やっぱり問題だし」

 袮室は噂に聞いたことを一木に伝えた。手がかりも少なく、深夜に起こった事件とあっては頼りになる目撃証言もほとんどなく、警察が手をこまねいていることは事実だった。

 一木は難しい顔で考え込みながら歩く。その横顔に、袮室は尋ねた。

「何か気になることでもあるの?」

「いや……気になるっていうか。少し変だと思って」

「何が?」

「あの泥棒……何であんなものばっかり盗んでいったんだろうって」

「それはわたしも気になってた」

「それと、壊されてた鍵のことも。みんな鍵を壊されて中のものを盗られてたんだよね?」

「うん。五つ並んでダダダダダーッとね」

 第一発見者である袮室は、その様子を正確に記憶していた。

「じゃあ、どうして私は何も盗られなかったんだろう。わざわざ鍵を壊して盗むくらいだったら、ついでに鍵のかかってないロッカーも開けるんじゃないかな」

 一木の他にも、ロッカーに鍵をかけていない生徒は何人かいた。しかし彼らは皆盗難被害に遭っていなかった。

「ううん……」袮室は唸った。「どうせ鍵がかかってないから、大したものは入ってないと思ったんじゃないかな」

「でも、結果的に盗んだのって教科書とか眼鏡ケースとかだよね?」

「だよね……じゃあ、別に鍵のかかってないロッカーから盗んでもよかったわけか」

 一木の提示した「違和感」に袮室も納得したようで、彼女は歩きながら数回頷いてみせた。

 それから袮室は一木の方を向いて、にやりと笑った。

「それにしても糸冬さん……やる気だね」

「や……っ、やる気って。何?」

「探偵だよ、探偵。警察を出し抜いて、泥棒を捕まえようって言うんでしょ?」

「そんなわけないでしょ。本物の泥棒を捕まえるなんて、無理に決まってる」

 一木は一息に否定した。

「そうかな。糸冬さんが本気になれば、泥棒を捕まえるくらいわけないって思うけど」

「泥棒が誰か分かっても、フィジカルで負けてたら捕まえられないよ……?」

「そういう時は、わたしが代わりに成敗してあげるから。大丈夫、私結構鍛えてるからね。こんなこともあろうかと、護身術とか勉強してるし」

 袮室は冗談めかして言ったが、本当にやりかねないな、と一木は思った。

「でもなあ、せっかくわたし、第一発見者として現場の全てを目に焼き付けてきたのにな」

 袮室は寂しげな表情で呟いた。

「えっ? どういうこと?」

「偶然とはいえ、事件の発見者になったわけだからさ。先生を呼ぶ前に、現場の状況を観察して、写真にも残しておいたんだよ。糸冬さんが捜査することになったら、きっと役立つだろうと思って」

「そ……そうなんだ」そんなことを言われてしまうと、自分が厚意を無下にしているような気分になってしまう一木だった。「写真があるの?」

「うん。バッチリ撮影しといたから」

「じゃあ……見ようかな。一応……」

 一木が言うと、袮室は笑みを浮かべてポケットからスマホを取り出した。

「ちょっと待ってね……」袮室はスマホを操作して、一木に見せた。「ほら」

 二人は立ち止まって、袮室の持つスマホの画面に見入った。

 そこに表示された写真は、今朝のロッカーとその付近の様子を写したものだった。

 一木が登校した時には既に床や窓がブルーシートで覆われていたが、写真が撮られた時点ではまだ何も処理がされていない。閉じられた状態の窓が写真に写っていた。

 窓の鍵はクレセント錠で、その横の部分のガラスが割られている。割れた面積は拳が通るくらいの大きさで、内側に手を伸ばして鍵を開けることは可能だろうと思われた。廊下には割れたガラスの破片が散らばっている。

「……あれ?」

 一木は小さく声を上げた。

「何か分かったの?」

「女刀さん、この写真を撮る前に何かした?」

「してないよ。現場の保存は捜査の原則だもんね。ロッカーも窓も、わたしは一切触ってない」

 袮室はそう断言した。

「だとしたら、変じゃないかな」

 一木はそう言って、写真のある一点を指さした。それは窓の鍵だった。

「変って?」

「鍵が閉まってる。もし犯人がガラスを破って鍵を開けて侵入したなら、窓は開きっぱなしになってるはずだよね。ガラスを割った以上、窓を元通りにしておく理由はないんだから」

 ガラスが割られている以上、現場の状況を回復したところで犯人にメリットはない。袮室も得心した。

「確かにね。仮に犯人が窓から脱出したんだとすれば、外に出てから窓を閉めて、外側から鍵を閉めたってことになるもんね」

「うん。そんな面倒で無意味なこと、するのかなって思って」

「でも、別の経路から出て行ったとすれば?」そう言ってから、袮室は自答する。「いや……その場合も、わざわざ窓の鍵を閉めていく理由はないか」

「そう思う」

 一木は頷いた。

「それって、どういうことなの?」

 袮室は聞いた。

「考えられるのは……偽装とか?」

「つまり、本当は犯人は別のルートから侵入したけど、窓から侵入したと見せかけるためにガラスを割ったってこと?」

「うん」

「でも、何のためにそんなことを?」

「それは……これから考える」

 一木はそう言ってから、気がつくと推理を展開してしまっている自分に気づいた。ここまで来たら、真相を知りたい。そう思っている自分にも。

 袮室はスマホをしまって歩き出す。一木もそれに続いた。

 袮室は一木の方を振り返った。

「糸冬さん、『ここまで来たら真相を解き明かさないと気が済まない』って顔してるよ」

「してないよ……そんな顔」

 一木は顔を背けた。

「ねえ、糸冬さん。わたしたちで真相を調べようよ」

「それは……」

 一木は考えた。

 果たして、自分にこの事件が解決できるのだろうか。今まで解決してきたのは、学校の中で起こったほんの些細な事件でしかなかった。今回のは、それとは明らかに違っている。犯人は学校に侵入し、ガラスを破り、南京錠を破壊して窃盗行為に及んだ。本物の犯罪だ。簡単に解決できるとは思えなかった。そもそも、それは警察の仕事ではないか。

 しかし、同時にこうも思っていた。本物の犯罪者を捕まえることができれば、一木の推理力もまた本物だと証明されるはずだ、と。

「分かった」一木は頷いた。「やってみる。危ないのは嫌だけど、犯人を特定するのは、もしかしたらできるかもしれないし……。でも、あまり期待しないでね? 今回のは、学校の中だけで完結する話じゃないから」

「分かってる。頑張ろうね、糸冬さん。わたしも手伝うから」

 袮室が言うと、一木はもう一度小さく頷いた。


 翌日の朝。一木は教室で袮室から事件の概要を聞かされていた。袮室は一木の机の上にノートを広げている。昨日の晩、袮室が独自に事件について纏めた資料だった。

「犯人が学校の敷地に侵入したのは深夜の十一時ごろで、学校の中は教職員も含めて既に無人になってたみたい。あ、時間が分かってるのは、警報装置が作動したからね」

「警報装置って?」

 と、一木は聞き返す。

「学校の塀の上にはセンサーがあって、誰かが塀を乗り越えると警備員に通報が行く仕組みらしい」

「じゃあ、警備員さんはその時も通報を受けてたんだね」

「うん」袮室はノートのページをめくった。「通報を受けて警備員さんは周辺を捜索したけど、不審者の姿が見えなかったし、他に異常もなかったから、詰め所に戻ったみたい」

「犯人の姿も見てないのか……」

「そういうことになるね」

 もし警備員が目撃者になっていれば、警察が犯人を捕まえることも容易だったかもしれない。しかし実際、犯人は誰にも見つからずに学校を脱出した。

「その警備員さんに話を聞けたら……」

 一木は思いつきを口にした。

「よし。じゃあ、昼休みに聞き込みに行ってみよう」

「で……でも、大丈夫かな。仕事中だろうし……。怒られない?」

「それは行ってみないと分からないけど」

「女刀さん、行ってきてよ」

「だめだよ。探偵と助手は常に二人一組で行動しないと」

「そ……そうなの?」

「とにかく」袮室は卓上のノートを拾い上げた。「次の行動方針は決まりね」


 昼休み。二人は校門横の警備員室を訪れた。門の横に小さな小屋が建てられており、その中に警備員の制服を着た男性が一人いる。

 警備員は近づいてくる二人に気づいて目線を向けてきた。尻込みしている一木に代わり、袮室が警備室に近づいていって、窓から声をかける。

「すみません」

 警備員は温厚そうな顔つきだった。

「何かありましたか?」

「いえ……昨日、いや一昨日か。一昨日のことを聞きたいんです。泥棒が入ったっていう」

「ああ……そのことですか」

 警備員は表情を曇らせた。それから窓際にやってきて、身を乗り出してくる。

「いやね、あれは失態だったな。あの日の晩は僕が夜間警備を担当してたんですがね。警報が鳴ったんで現場を見に行って、異常がないと思ってそのまま戻っちゃったんです。あの警報装置は、誤作動もたまにあるから」

 警備員はそう説明した。一木たちにとっては幸いなことに、彼はお喋りな性格のようだ。自分の失態をあえて他人に話すことで楽になりたがっているのかもしれなかった。

 一木は袮室の背後から顔を出した。

「ま……窓はどうでしたか。割れてませんでしたか。その時」

「なぜかは分からないけど、その時は見落としちゃったみたいでねえ。割れてるのを見つけてたら、さすがにその場で報告しますから」

「そうなんですね」

 袮室は頷いた。窓はそこまで派手に割られていたわけではない。深夜で暗ければ気づかないこともあるだろうと思った。

 それから袮室はさらに聞いた。

「泥棒が来たのは夜中の十一時ごろって聞いたんですけど」

「そうですね」警備員は頷いた。「ああ、そうそう。センサーが作動した記録が残ってるんですよ」

 警備員は小屋の中にあるパソコンを操作して、そこに表示された表を見せた。塀の上に設置されたセンサーが作動した記録が表示されている。

 一木と袮室はその画面を覗き込んだ。直近の履歴は一昨日の日付。午後十一時三分と記録されている。その日に警報装置が作動したのは一回きりのようだった。

「えっと……これだけ、ですか?」

 一木はおずおずと尋ねた。

「そうですね。この一回だけ」

「そうですか……」

 一木は頷いた。

 袮室はアイコンタクトで、他に聞くべきことはないかと確認した。一木は特にないと答える。袮室は警備員に向き直った。

「お仕事中にどうもすみません。ありがとうございました」

 袮室はそう言って警備員に頭を下げた。一木もその横で小さく礼をした。


 校門から教室に戻る道すがら、袮室は聞いた。

「ねえ、最後に聞いてたアレ、どういうことだったの? 『これだけか』って」

「警報装置が一回しか作動してないのはおかしいと思って」

「そうなの?」

「だって泥棒が学校の外に逃げたなら、入った時と出た時で二回塀を越えるはずだよね。そうしたら、警報も二回作動すると思って」

「あっ、そうじゃん」袮室は合点がいったように頷く。「じゃあ、入る時か出る時か、どっちかの一回はセンサーを回避したってこと? あるいは……まだ学校の中にいるとか」

「……怖いこと言わないでよ」

「冗談」袮室は言った。「でも、センサーを回避できるルートを知ってるなら、どうして一回は警報装置に引っかかったんだろう」

「例えば……内側からしか使えないルートだったとか?」

 一木は思いついたことを口にしたが、確信はほとんどなかった。学校の構造をざっと頭の中でシミュレーションしてみても、そんな出入り口は思いつかなかった。

「警報の件は一旦保留だね」袮室は言った。「次はどうする?」

「えっと……」一木は一瞬考えてから答える。「そういえば、誰が何を盗まれたのかって、まだ把握してないかも。私」

「オッケー。その辺も纏めておいたから」

 袮室は言った。

 教室に戻ってくると、袮室は自分の机の上にノートを広げた。一木は机を挟んで袮室の正面にしゃがみ込むと、ノートの紙面を覗き込む。

 そのページには、盗難の被害者と盗まれた物品がリストアップされていた。袮室が個人的に聞き取って纏めたものだった。


24 浪川 国語便覧

25 丹羽 メガネケース(中身なし)

27 早坂はやさか ジャージ(上)

28 藤沢 モバイルバッテリー


 そのリストを一木は眺める。

「盗まれたものに共通点はないか……。高そうなものはないし」元々ロッカーに貴重品を入れる者は少ない。「強いて言うなら、バッテリーとか?」

「でも百均で買った安物だって言ってたよ」

 袮室は教えた。

「そっか……」一木は改めてリストに目を向けた。「この数字……出席番号だよね?」

 一木が指さしたのは、名前の前に記されている二桁の数字だった。

「うん。狙われたロッカーは並んでたから、出席番号順に連番で盗まれたみたい」

「二十六番の人は?」

 一木は聞いた。連続する五つの番号のうち、二十六番だけが抜けている。

野瀬のせさんのことか」袮室は言った。それは出席番号二十六番の生徒の名前だった。「野瀬さんは何も盗まれなかったんだって」

「盗まれなかった? でも……」一木は先日の朝見たロッカーの様子を思い出す。「確か、野瀬さんの南京錠も壊されてたよね?」

「うん。けど、盗まれたものはなかったんだって」

「何も入ってなかったとか?」

「いや、そういうわけじゃないみたいだけどね。とにかく、何も盗られてなかったんだって」

「そうなんだ……」

 一木は違和感を覚えた。鍵は破壊されているのに、盗まれたものはなかった。特に盗みたいものがなかったからだろうか? しかし浪川などは資料集まで盗まれている。それとも、一見無秩序に見える他の物品にも、何か見落としている共通点があったのだろうか。

「ちょっと……気になるな」

 一木は呟いた。

「野瀬さんのこと?」

 と、袮室は聞き返す。

「うん。やっぱり、一人だけ何も盗まれてないのは不自然かなと思って」

 そうして一木と袮室は野瀬に話を聞きに行くことになった。


 野瀬は昼休みにはいつも学食にいて、袮室がそのことを知っていたから、探すのに時間はかからなかった。彼女は既に食事を終えていて、一緒に食事をしていた二人の女子生徒と談笑しているところだった。

 袮室は野瀬の横に近づいていって、声をかけた。

「野瀬さん。ちょっといいかな」

 彼女は顔を袮室の方へ向けた。袮室と、その後ろにいた一木と目を合わせる。

「何か用事?」

「ちょっと聞きたいことがあってさ」

「何?」

 野瀬は不機嫌そうな表情を見せる。あるいは二人のことを警戒しているのかもしれなかった。袮室はともかくとして、一木の方とは野瀬はほとんど接点がなかった。

「昨日の泥棒だけどさ。野瀬さんもやられたんだよね、鍵」

「ああ……アレね」

 野瀬の顔に一瞬、うんざりするような表情が浮かんだ。しかし野瀬はすぐにその表情を打ち消す。 袮室は聞いた。

「何も盗まれなかったんだよね?」

「そうだよ。何も」

「見落としてるとかってことは?」

 袮室が確認を取ると、野瀬はむっとして答える。

「自分のものくらい把握してるよ」

「ろ……ロッカーには、何が入ってたの……?」

 一木は袮室の後ろから聞いた。

「別に……普通だよ。みんなと一緒だと思うけど。教科書とか、文具とか」

「そ……そうなんだ」

 やはり物が入っていなかったわけではなかった。しかし盗まれてはいないと野瀬は言い張る。

「調べてるわけ? 盗難事件のこと。ひょっとして、犯人を捕まえようとか?」

 野瀬が聞くと、袮室は頷く。「こいつら、マジか……」と野瀬は小声で呟いた。

「犯人は糸冬さんとわたしが捕まえるから」

 袮室は宣言した。


 学食から教室に戻る道すがら、袮室は小声で耳打ちした。

「本当だと思う? 野瀬さんの話」

 一木は首を横に振った。

「何か隠してるような気は……する」

 それは直感のようなものだったが、一木の中にはある種の確信があった。野瀬の態度は明らかに妙だった。

 もし仮に野瀬も盗難の被害に遭っていて、それを隠しているとしたら? 野瀬は被害者の立場のはずだ。それなのに隠し事をする理由というのは、一木にも考えつかなかった。

「でも、このまま野瀬さんを探っても、情報引き出せそうにないよね」

 袮室は言った。

「うん」

「だからさ、周りから攻めてみるってのはどう?」

「周り?」

「そう。例えば部活とか委員会とか、野瀬さんと仲が良い人に話を聞いてみるのはどう?」

「まあ、いいかも……」

 一木はそう言ったが、さっきの不機嫌そうな野瀬の態度を思い出すにつれ、彼女の友人ともあまり関わりたくないという気持ちが強くなった。

「野瀬さんはバレー部だよね。バレー部といえば……河西かさいさんか」

 河西とは女子バレー部の一年生で、クラスは違ったが、袮室が面識を持っている生徒の一人だった。

「よくすぐに出てくるよね……そういうの」

 一木は呟く。

「有能でしょ? 助手として」

 袮室はそう言って、ふふん、と笑った。


 放課後。一木と袮室は、図書室で河西と合っていた。河西はセミロングの髪をポニーテールに纏めている。机を挟んで、一木と袮室の正面に座っていた。

「急にどうしたわけ? 野瀬のこと聞きたいなんてさ。あんたら、あいつと同じクラスでしょ?」

 河西は言った。図書室には絨毯が敷かれていて、会話の声は吸収されて響かない。少し離れた机には勉強中の生徒もいて、彼女たちの会話は自然と小声になる。

「クラスメイトからは分からないようなこともあるんじゃないかなと思って」袮室は言った。「最近、変わった様子はなかった?」

「変わったと言えばまあ……変わったよね」

 河西は言った。

「具体的には?」

 と、袮室は聞き返す。

「最近やけに羽振りがいいっていうかさ。前は親からそんなに小遣いもらってなかったはずなのに」

 一木は話を聞きながら、また賭博じゃないだろうな、と心の中で独りごちた。

「それは……理由とかって」

 一木は恐る恐る尋ねた。

「いやあ……これ、あんまり言わないでほしいんだけどね」そう前置きしながら、河西は小声で告げる。「野瀬、言ってたんだよね。『良い金づるが手に入った』的なこと」

「か……金づる?」

 一木は聞き返した。

「まあ、マジで『金づる』って言葉を使ってたわけじゃないけどね。そういうニュアンスのことを言ってたから」

「それで、その、収入源はどこから……?」

 河西は肩をすくめた。

「それは教えてもらえないよ。ま、大方パパでもいるんじゃない?」

「えっ、お父さんがお小遣いくれるってこと?」

 袮室が聞き返すと、河西は笑い混じりのため息を漏らした。

「いや、マジのパパじゃなくてさ。お金くれるオッサンってこと。あるでしょ? そういうの」

 そこまで言えば、さすがの袮室にも合点がいったようだった。

 一木には河西の言わんとすることが理解できていた。つまり、野瀬は援助交際をしているのではないか、と河西は疑っているのだ。

「それって……確かなの?」

 袮室は聞いた。河西は首を横に振った。

「いや、私の勘だけどさ。女子高生が短期間でそんな金稼ぐ手段なんてないでしょ、他に。ATM見つけたんだよ、きっと」

 言い草としては「金づる」と「ATM」とどちらがひどいのだろうと一木は考えた。

「それで……他に何か変わったことは?」

 と、袮室が尋ねた。

「他にはね……あ、こないだあんたらのクラスのナントカって人と話してるの見かけたわ。えっと……名前なんて言ったかな。ほらあの、眼鏡かけてる優等生っぽい感じの、声が小さい女子」

「もしかして、丹羽さんのこと?」

 袮室が言うと、「そうそう、それそれ」と河西は頷いた。

「丹羽さんだわ。何か廊下で話し込んでてさ。ああいうタイプの子ともつるむんだーって思って、意外だったから覚えてる」

 その情報は一木たちにとっても意外だった。野瀬と丹羽は性格的には真逆のタイプで、少なくともクラスの中では接点があるように見えなかったからだ。

「何を話してたみたいだった?」

「通りかかっただけだから、そこまでは聞いてない」

 河西は答えた。

 それ以上の情報を引き出すことはできず、袮室たちは河西に礼を言って図書室を後にした。


 図書室を出てから、二人は荷物を取るために教室へ戻る。階段を上がりながら袮室は呟く。

「本当に野瀬さん、やってるのかな」

「援交を?」

 一木が聞き返すと、袮室は頷いた。

 援助交際には売買春を伴わない場合もあるが、いずれにせよ男性と会って金銭を受け取っていることには問題がある。明るみに出れば、学校から何らかの処分が下される可能性は高い。

 窃盗だけでも厄介だったところに、またしてもきな臭い疑惑が立ち上がってきたな、と一木は考えた。

「まあ、それも……私たちが関わることじゃないよ」一木は言った。「それより、私たちは泥棒を捕まえるんでしょ?」

「だね」袮室は気を取り直して頷く。「ねえ、さっき丹羽さんの話が出てたよね」

「廊下で野瀬さんと話してたっていう?」

「うん。事件と関係あるかな?」

「どうだろう……」

 一木は考えた。丹羽も被害者のリストに入っていたことを思い出す。出席番号が野瀬と前後しているから、ロッカーも横並びになっていたはずだ。野瀬と丹羽の二人には、一木たちが気づいていない接点があるのだろうか?


 一木たちが教室に戻ってくると、大船が机に向かってノートに方程式を書き連ねていた。横には予備校のテキストもある。

「あ、探偵コンビ」

 大船は手を止めて、二人の方を見た。

「勉強中?」

 と、袮室が聞く。

「今日は予備校の授業ちょっと遅いから、時間潰してから行こうと思って」

「そうなんだ」袮室はそう言ってから、ふと思い出す。「そういえば大船さん、丹羽さんと同じ予備校だったよね?」

「ああ、うん。クラスは違うから、あんまり話さないけど」

「丹羽さんってさ、どんな感じ?」

「どんな感じって言われても……まあ、真面目な人だよね。成績にすごいこだわってる感じ」

「こだわる?」

「前にちらっと聞いたけど、親が結構厳しいみたいでさ。良い成績取らないとダメなんだって。こないだの中間は良かったみたいだから一安心かと思ったけど、相変わらず浮かない顔だし。逆にプレッシャーなのかな」

 大船はどこか人ごとのように言った。実際彼女にとっては人ごとだった。

「私、そろそろ行かないと。また明日ね」

 大船はノートとテキストをカバンの中に入れて立ち上がり、そのまま教室を出て行った。


 丹羽に話を聞くことができたのは翌日のことだった。彼女は早朝から登校して始業までの間図書館で勉強するのをルーティンとしていた。

 袮室たちは丹羽のことを捕まえて、図書館の端の方へ連れ出した。全集や名作選が並ぶ本棚の前には、他の生徒の姿はない。

 丹羽は何かにおびえたような態度で袮室のことを見る。それから、かすれたような小さい声で聞いた。

「何……? 聞きたいことって」

「こないだの盗難事件だけど」

 と、袮室は切り出す。

「ああ……うん。あれね」

「丹羽さんも盗まれちゃったんだよね? メガネケース」

「まあ、中身はなかったし……」丹羽は歯切れの悪い答え方をする。「それがどうかしたの?」

「いや、聞きたいのはそれとは別のことで」袮室は本題に入った。「丹羽さんってさ、野瀬さんと仲いいの?」

 その名前を聞いた途端、丹羽は小さく息を吸い込んだ。その反応を一木は見逃さなかった。

 丹羽は目を逸らしてかぶりを振った。

「別に……仲いいってことは、ないと思うけど」

「でも、話してるところを見たって人が……」

「私とあの人が話すことなんて、あるわけないじゃん」

 丹羽はそう言って否定した。しかし、勢いよく否定する態度が逆に一木たちの疑念を深めた。

「よしんば私が野瀬さんと話してたからって……それが何だって言うの? クラスメイトだから、話くらいするでしょ」

 さっきと言っていることが真逆で、丹羽が焦っていることは明白だった。しかし一木たちはあえてそれを指摘しなかった。


 丹羽を図書館に残し、一木たちは教室に戻ってくる。まだ始業までには時間があって、教室の中に生徒の姿はまばらだった。

「丹羽さんはどうして野瀬さんと話してたことを否定したがるのかなあ」

 袮室は呟いた。

「多分……それも分かるかも」

 一木は言った。

「それ“も”ってことは、他にも分かったことがあるってこと?」

 袮室は一木の言葉尻を捕まえて尋ねる。一木は頷いた。

「うん。泥棒の正体も分かった」

「本当?」

「でも、先に確認しなきゃいけないから……女刀さん、お願いできる?」

「もちろん。何でも言って」

 袮室は頷いた。一木はあることを袮室に頼んだ。

 土日を挟んで、月曜日の放課後。

 学校の敷地のはずれ、体育館の裏に一木は立っていた。隣には袮室と、正面には丹羽がいる。体育館は日光を遮り、地面は湿っていた。体育館の中からは、バスケットシューズが床と擦れる音が響いてくる。

 土日の間、一木は考えた。この真相を解き明かすべきなのかを。それでも、もし自分の推理が事実なら、見て見ぬふりをするわけにはいかないと思った。

 だからこそ、丹羽をこの場に呼び寄せたのだ。

「あの……どうして私を呼んだの? 私、予備校の自習室行こうと思ってたんだけど」

「ごめん」一木は言った。「でも、どうしても話さなくちゃいけないことがあって」

「……何?」

 丹羽は一木のことを睨み付けるように見た。

 一木は一瞬尻込みしそうになるが、視界の端に袮室の姿を捉え、少しだけ安心する。それから小さく息を吸い込んで、言った。

「話は、先週の盗難事件の話。

 あの事件の犯人は、丹羽さん……だよね?」

「何言って……っ」丹羽は言葉を詰まらせながら言う。「私は、被害者じゃん。物を盗られてる側でしょ?」

「自分で自分のものを盗んだんじゃない?」

「話にならない」丹羽はかぶりを振った。「そもそも、あの事件は学校の外から侵入した犯人が盗んでいったんじゃないの? それなのに、生徒を犯人と疑うなんて」

「それは……多分、丹羽さんがやった偽装工作……だよね?」

 一木の指摘に、丹羽はドキリとしたような表情を見せた。それを見て、一木は自分の推理が正しいのだとますます確信する。

「偽装って……?」

「全部外部犯だと思わせるために仕組んだってこと。あなたは別に、深夜に学校に忍び込んで窃盗をしたんじゃない。放課後、人がいなくなったタイミングを見計らって鍵を壊し、中の物を盗んだ。

 それから深夜に学校を再訪して、塀の上に立って警報装置をわざと作動させた。それからすぐに塀の外に逃げた。予備校に通ってるなら帰りが遅くなることもあるだろうから、家族にもそこまで怪しまれないはずだから。

 最後に早朝に登校して、外からガラスを割れば偽装工作は完了。……どう? 大体、こんな感じだと思うんだけど」

 それぞれの手がかりに残されていた違和感は、こうして説明されるはずだと一木は確信していた。犯人は最初から学校の敷地に「侵入」してはいなかったのだ。

 しかし、丹羽はそれを認めようとしなかった。

「でも……! 私がそこまでして他人のロッカーの中身漁って、何の意味があるって言うの……?」

「それは……自分のものを取り返すため、なんだよね」

 一木が言うと、丹羽は驚きのために目を見開いた。

「何で……何で、知って……」

「聞いたから」

「だ……、誰に」

「野瀬さん」

 一木がその名前を口にすると、丹羽は一瞬で絶望的な表情に変わった。一木はその表情に向かって言う。

「金曜に……野瀬さんから聞いたから。野瀬さんは何も盗られてなかったって言ってたけど、それは嘘だった。本当は野瀬さんは、ロッカーの中に現金の入った封筒を隠してたんだよね」

「あいつが……野瀬が、そう認めたの?」

「うん。大体察しは付いてたから……。すぐに認めてくれたよ」

「そっか……」

 丹羽は観念したように呟いた。もはや隠し立てはできないと気づいていた。

「でも、そのお金は元々丹羽さんのものだった……そうだよね?」

「うん」丹羽は頷いた。「どうして野瀬が私のお金を持っているのか……その理由は聞いた?」

「聞いたよ。脅迫して手に入れたんだって」

「そうじゃなくてさ、」丹羽はいらついたように言う。「どんなネタであいつが私のことを脅してたのか、それは聞いたの?」

「それは……野瀬さんからは、聞いてない」

 と、一木は答える。丹羽は自嘲するように笑った。

「それはそうか。あいつにとっては、貴重な収入源だもんね。他人に話すはずないか」

「でも」と、一木は続ける。丹羽の目線が一木の顔を睨む。「大体、見当は付いてる」

「……言ってみて」

「あなたは、野瀬さんと接点がほとんどなかった。でも、それが発生するタイミングもある。あなたと野瀬さんは、出席番号が前後してるから。

 定期試験の時、席の順番が出席番号順に並び替えられる。だから、何かあるとしたら試験の時。そうしたら、丹羽さんが脅されてる理由も分かる。多分……カンニング、とか」

 一木がそこまで言うと、丹羽は地面にしゃがみ込んで両手で顔を覆った。

 それから、彼女は深い深いため息をついて、指の隙間から一木のことを見上げた。

「そうだよ。私がやった。君の言ってること、全部正解。

 私は二学期の中間試験でカンニングをして、その現場を野瀬に押さえられた。隠しカメラで撮られてたんだよ。多分、準備してる時からバレてたんだと思うけど。

 動画を学校に提出されたくなかったら、金を払えって言われて……。カンニングなんてしたのバレたら、停学とかになるかもしれないし。そんなことなったら私、親に殺されるの確定だから。絶対バレるわけにいかなかったの」

 すると、今まで黙って見ていた袮室が口を開いた。

「それで、野瀬さんにお金を?」

「払ったよ。最初は数千円とかだったけどさ。段々額が増えていって。あの封筒に入ってたのは、五万」

 丹羽の口調は投げやりだった。五万円は高校生にとっては大金で、容易に払える額でないことは明らかだった。

「だから、そのお金を取り返そうとしたんだね」

 一木は言った。

「そう」丹羽は頷いた。「ほとんど全財産だった。親から追加でお金なんか貰えないし、食費だってそこから出さなきゃいけないし。だから、どうしても取り返したかった。

 あいつが学校のロッカーに金を隠してることは知ってた。あいつにとっても汚い金だから、家族の目には入れたくなかったんだと思うけど。

 でも、普通に盗んだら私が取り返したってバレるから。だから外部から来た誰かが盗んだように見せかけた。夜中に学校まで行ったり、窓ガラスを割ったり……。野瀬のロッカーだけピンポイントで狙ったら怪しまれると思ったから、念のために近くの鍵も壊して盗んでおいたけど。でも、それも全部無駄だったんだね」

 丹羽は力なく言って、地面の方へ目線を向けた。

 一木はゆっくりと丹羽の方へ歩み寄る。

「丹羽さん……分かってるんでしょ? こんなやり方でお金を取り返しても、根本的な問題は解決しないって」

 野瀬と話を付けない限り、丹羽に対する脅迫は今後も続くだろう。そうなれば、結局丹羽は野瀬に金を払い続けることになる。

「そんなこと……分かってるよ」

 丹羽の表情は一木からは見えなかったが、その声は震えていた。

「だったら、どうすればいいって言うの?」

 丹羽は聞いた。

「私は……やったことを認めて、学校に相談するべきだと思う」

「認める?」丹羽は、ゆらりと立ち上がった。一木のことを正面に見据える。「認めろって言うの? 私がやったことを……私がカンニングして、窃盗犯の正体だってことを?」

「それは確かに、怒られるかもしれないけど……。でも、野瀬さんの脅迫を何とかするには、それしかないって思って……」

 一木の言葉を遮るように、丹羽は叫んだ。

「できないって言ってるじゃん! そんなこと!」丹羽は自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き乱し、一木を睨む。「人ごとだと思って……! 人ごとだと思って、好き勝手言って!」

 突然怒号を飛ばされて、一木は硬直してしまう。

 その一木へ、丹羽は掴みかかろうと向かってくる。

 しかし、丹羽の手が一木の制服の襟に届く寸前、丹羽の手は阻まれた。袮室が丹羽の腕を掴んでいる。

 丹羽は目を見開いて、袮室の方を見た。袮室は小柄だったが、力は存外強かった。

 袮室はそのまま丹羽のことを突き飛ばす。丹羽は少しよろめいて、生気を失ったように立ち尽くした。

 袮室は丹羽の方へ顔を向け、告げる。

「君が何をしようと勝手だけど……糸冬さんに暴力振るったら、許さないから」

 丹羽は何も言わず、俯いて地面を見ているだけだった。

 袮室は冷徹な口調で、さらに言った。

「わたしたちは、君のやったことをバラすつもりはない。だから安心して。でも、野瀬さん以外の人から盗ったものは、返した方がいいと思う。……じゃあ」

 袮室は踵を返して、一木の方を見た。一木は暴力を受けそうになったショックのためか、怯えの混じった表情で丹羽のことを見つめている。

「行こう。糸冬さん」

 袮室に言われ、一木は頷いた。

 二人は去り、体育館の裏には丹羽だけが取り残された。体育館の中からは、部活に励む生徒たちのかけ声と足音が絶え間なく響き続けていた。


 翌日の朝。一木が教室に入ると、数名の机の上に何かが置かれているのを見つけた。それは、野瀬以外の盗難被害者が盗まれた物品だった。それが元の持ち主の机の上に返却されていた。

 それからしばらくして、丹羽が教室に現れた。しかし彼女は一木と一瞬目が合うと、すぐに視線を逸らし、一木のことを無視して自分の席に向かった。一木が声をかける隙などまるでなかった。

 その日、野瀬は学校を欠席していた。


 帰り道に、一木は袮室と話した。その口はとても重かった。

「これで……よかったんだと、思う?」

 一木は尋ねた。袮室に聞いているのか、自分自身に問うているのか、一木自身にも分からなかった。

「よかったんだと思うよ」袮室は歩きながら答える。「わたしたちが事情を知ってる限り、野瀬さんも簡単には丹羽さんのことをゆすれないと思うし」

「うん……そうだね」

 一木は頷いた。

 それから二人は無言のまま歩いて行った。しかし、再び口を開いたのは一木の方だった。

「女刀さん……私、丹羽さんのことを助けてあげたかった。それができるって、思い込んでた。

 でも、私にとっては人ごとだったのかな。

 こんなことだったら、何もしない方がよかったのかな」

「ごめん」袮室は言った。「わたしが……あんなこと言ったから。犯人を突き止めよう、なんて。真相がこんなことなんて、思ってもみなかった」

「でも……実際に丹羽さんを追い詰めたのは、私……だから」

 袮室は首を横に振った。

「糸冬さんは悪くないよ。ただ事実を推理しただけなんだから」

「ただ事実を推理するってことが……悪いことになる時も、あるってことじゃないかな」

 一木の言葉を聞き、袮室は頷いた。

「そうだね……。もう、手に余ってたのかもしれない」袮室は一木へ目線を向けた。「やっぱり、やめようか。探偵なんて、無理だったんだよ。結局」

「……女刀さんは、やめてもいいの?」

 一木の質問に、袮室は一瞬の間を置いてから答えた。

「……うん」

「分かった」

 一木は小さく頷いた。


(つづく)

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