第4話 ウラハラコーナー
文化祭が終わってから一学期が終わるまではあっという間だった。少なくとも、
忙しい日々を送ったのは、
袮室は時折休日にもメッセージを送ってきて、二人は二人で出かけたりもした。地元で遊ぶこともあれば、時には横浜まで繰り出すこともあった。袮室は出かける先に〈謎〉や〈不思議〉がないかと期待しているようでもあった。
しかし、やはりと言うべきか。袮室が求めるような謎はそう簡単には見つからず、二人はただ休日に遊び回っているだけだった。
袮室の持つバイタリティは一木のそれをはるかに上回っていた。主体性のない一木は、袮室に言われるがまま行動するだけだった。遊びに行く計画を立てるのも、いつも袮室の方だった。
特別な用事がない限り休みの日は日がな一日家から出ない生活を続けてきた一木にとって、誰かと遊びに出かけるということはそれなりに重労働だった。
こうして一学期の日々は過ぎていき、気温は上がり続け、夏になり、袮室たちの制服も半袖になった。
期末考査が近づくとさすがの袮室も遊んでいる余裕がなくなって、一木を誘うこともなくなった。
一木は真面目に試験勉強をした。いい成績を取って、袮室から一目置かれたいという考えが頭の隅にあったことは否定できない。理由はよこしまだったが、ともあれ一木は勉強し、それなりの成績を取った。学年の中で数えれば、真ん中より少し下くらい。自分では真剣に取り組んだつもりだったが、中の下という結果に終わるあたりが自分らしいな、と一木は自嘲した。悔しいとは思わなかった。自分の能力にしては良い結果を出した方だろうと思った。
そうして一学期は終わった。一木は袮室と並んで下校している。袮室は学校の前にあるコンビニで買った棒付きアイスをかじりながら歩いていた。
溶けたアイスが垂れて落ちそうになっている。一木はそれをじっと見つめていた。袮室もそれに気づいて、こぼれそうになった滴を側面からペロリと舐め取った。
と、そこで袮室と一木の目が合う。
一木は慌てたように目を逸らした。袮室は口角を持ち上げながら、アイスを一木の前に差し出す。
「
「た……っ」一木は一瞬言葉を詰まらせた。「食べないよ……。食べかけだし」
「糸冬さんも買えばよかったのに」
袮室はそう言いながら、シャクシャクと残りのアイスをお腹の中に納めてしまった。
一木は額に滲んだ汗を手の甲で拭い、やっぱり貰えばよかったかな、と少しだけ後悔した。
袮室はアイスの棒を片手で持ちながら歩いていく。一木はその横顔に話しかける。
「そういえば……期末、結構よかったんだってね」
一木は直接聞いたわけではなかったが、クラスで騒がれていたので知っていた。
「学年で三十二番」
袮室は答えた。
「凄いね」
一木が率直に賞賛の言葉を口にすると、袮室は嬉しそうに笑った。
「まあね」
「クラスでは一番なんじゃない?」
「いや、クラスで一番は
「ああ……そっか」
一木は頷いた。
大船とは一木たちのクラスメイトの名前で、学年トップを争う頭脳明晰な女子生徒だった。性格は生真面目で、風紀委員に所属している。彼女を知る人間なら、誰もがイメージ通りだと言うだろう。
「でも、二番目か三番目くらいかも」
と、袮室は言う。
「やっぱり、女刀さんは凄いよ。私は全然だったし……」
一木の成績のことは、既に袮室に話してあった。
「そんなことないよ。勉強してたんでしょ?」
「えっ……うん」
一木はそのことを袮室に話してはいなかった。
「やっぱり。中間の時より良かったもんね」
「女刀さん、覚えてたんだ」
一木は、まるで恥じ入るように呟いた。しかし袮室はそんな表情などまるで気に留めていなかった。
「進歩したって意味ではさ、糸冬さんの方が優秀だと思うよ」
「そんなことは……」
「それに、糸冬さんの才能も徐々に広まってきたことだしね」
袮室が言う「才能」とは、探偵としての才能のことだ。文化祭前に浪川の傘が盗まれた一件を解決したことで、一木は浪川の周囲の人々にその存在を知られるようになった。例えば、衣装班にいた人々は一木の名前を覚えたし、彼女の探偵行為についても聞き及んで知っていた。袮室の言う通り、一木の才能は広まり始めていた。
もっとも、それは一木が望んだことではなかったが。
本来波風を立てずに穏やかに生きていくことを望んでいた一木にとって、それは決して喜ばしいことではないのかもしれなかった。しかし謎を解き明かすことは一木にとって袮室の期待に応えていることの証明でもある。
このまま探偵を続けて、どうなるだろう。目立ってしまうかもしれない、という懸念はあった。ただでさえ、袮室のような人間と一緒にいることは耳目を集めてしまうのだから。
しかし一木は、袮室の隣にいることをやめようとは思わなかった。
片手でアイスの棒をもてあそびながら歩く袮室を横目に、一木は考える。ともあれ、これで夏休みになった。しばらくの間、袮室と顔を合わせることもないだろう。
袮室と会う時の得も言われぬ緊張感から解放される安堵感より、袮室に会えなくなることを残念に思う気持ちの方が勝っていた。
もしかすると、自分は袮室に会えないことを寂しく思っているのかもしれない。一木はそんなことを考えた。
夏休みも中盤。学期中の休日を取り返すかのように連日引きこもり続けていた一木は、数日ぶりに外出用の服を着ていた。
きっかけは、一木が袮室と電話をしていた時のことだった。夏休みが始まってからというものの、一木はしょっちゅう袮室と電話をしていた。もっとも、いつもかけてくるのは袮室の方からだったが。
その日もいつものように電話をしてきた袮室は、遊びに行きたいと言い出した。夏休みの前半は短期バイトやらで忙しくしていたが、それにも一段落が付いたのだと言っていた。
「そんなわけで、どっか行こうよ、糸冬さん」
スマホから袮室の声が聞こえてくる。彼女はスマホを耳に当て、自室のベッドの上で膝を抱えて座っていた。
一木は聞き返す。
「どっかって、どこ……?」
「わたしはね、プール行きたい」
「えっ、プール?」
「うん」と、電話口の向こうで袮室は頷いた。「夏って言ったらプールでしょ。泳ごう」
「いや、でも……」
一木は答えに窮する。プールなど、彼女が最も行きたくない場所の一つだった。
その様子を察し、袮室は思い出した。
「あ、糸冬さんって泳げないんだっけ」
「泳げないって言うか……泳ぎ方を知らないだけで……」
一木はベッドの上に寝転がりながらモゴモゴと喋った。
「授業の時も全然泳いでなかったもんね」
「まあ、それは……そうだけど」
一木は頷いた。実際、彼女はカナヅチだった。
「よし、じゃあ練習しに行こう」
袮室は言った。
「えっ?」
「だから、泳げるように練習しに行こうよ。特訓だよ、特訓」
「いや……」
一木は口ごもった。なぜ貴重な夏休みの一日を返上して、わざわざ水の中へなど入りにいかねばならないのか。実際のところ一木は日がな一日引きこもっているだけで、何ら生産性のある時間の使い方はしていなかったのだが、そんなことは棚に上げてしまった。
「だめ?」
袮室の声が聞こえてくる。
「だめっていうか……」
「糸冬さんとプール行きたいし……いいでしょ?」
一木の脳内に、上目遣いでこちらを見上げる袮室の表情が浮かぶ。
そして一木は、断ることができなかった。
「……わ……分かった。行く」
「やった!」袮室の飛び跳ねるような声が聞こえてきた。「それじゃ、日程調整しようね。また連絡するから」
それだけ言って電話は切られる。
スマホをベッドの上に投げ出して、一木は仰向けになった。天井のライトが目に入る。目を閉じてもその残像が残っている。
勢いで誘いに乗ってしまったことを少しだけ後悔する気持ちもあったけれど、それ以上に、袮室と会えることが楽しみだった。
そして、現在。数日ぶりに家を出た一木は、土砂降りの雨に出迎えられていた。
家を出た直後はポツポツと降っていた程度だった雨脚は、駅に向かう途中で急速にその勢いを増した。空は黒雲に覆われて薄暗い。傘を差しても横殴りの雨を全て防ぐことはできなかった。
通勤の時間は過ぎていたから、一木の自宅の最寄り駅にも人の姿はほとんどなかった。風も強くて、ホームの中にまで雨が入ってくる。一木は透明なガラスに覆われた待合所で電車を待った。
やがて電車が来て、一木はその中に乗り込んだ。列車の床まで塗れていた。電車の中も空いていて、席に座るのは簡単だった。
学校の最寄り駅を通り過ぎ、さらに一駅。袮室との待ち合わせ場所に一木はたどり着く。改札を出たところにベンチがあって、一木はそこに座って待ち合わせの時間を待った。
およそ十分後、改札の向こうから袮室が姿を現した。待ち合わせ時間の五分ほど前だった。
「ごめん、待たせちゃった」
袮室はそう言いながら一木の正面に立っている。一木はその顔を見上げた。
袮室はタイトなジーンズを茶色い革のメッシュベルトで留めていて、彼女のスタイルの良さが際立っていた。上半身はカーキ色の半袖シャツに覆われている。制服姿に見慣れすぎたせいか、一木にとって彼女の私服はいつも新鮮だった。
駅の外に出ると、相変わらず暴風と横殴りの雨が二人のことを出迎えた。
振り返って見ると小さな駅だった。目指す市民プールは駅から徒歩十五分ほどのところにある。
一木は傘を差したが、風に煽られてひっくり返り、骨が折れて壊れてしまった。しかたなく折れた傘を手に持って歩く。袮室の方は、はなから傘を差すことを放棄していた。
「今日、来ないんじゃないかと思った」
袮室は言った。強風のせいで声はかろうじて聞こえる程度だった。
「さすがに、私だってドタキャンは……」
「でも、こんな天気だし。ていうか台風来てるらしいし」
「えっ、そうなの……?」
一木は素っ頓狂な声で聞き返す。
「あ、知らなかったの?」
と、袮室は意外そうに聞き返した。
「天気予報見てなかったから……。そっか。通りで凄い雨だと思った……」一木はそう呟いてから、袮室の方を見た。「ていうか、女刀さんの方こそ、日程変えてくれればよかったのに……知ってたなら」
「空いてるかと思ってさ」
「そもそも開いてるの?」
「多分」
袮室は答えた。不安に思いながら一木は袮室について行った。
市民プールの入り口は開いていた。営業は通常通り行われているようで、一木は安堵の息を漏らす。
いや、本当によかったのだろうか、と一木は思い直す。そもそも一木はプールなど来たくはなかったのだ。
屋内に入ると、身につけている服がしっとりと濡れていることがよく分かった。一木が愚痴をこぼすと、「どうせ水の中に入るんだからいいじゃん」と袮室は言った。
館内はフローリングで、入り口には下駄箱があった。一木が靴を脱いでいる間、袮室は先に受付で利用者登録を済ませた。
受付に立っているのは温和そうな顔つきをした中年の女性だった。一木は二人が話しているのを後ろから遠巻きに見ているだけだった。
受付の女性は、袮室と一木のことを興味深そうに見た。
「こんな日に若い人が二人なんて、珍しいですね」
「今日は穴場かと思いまして」
と、袮室は答える。
「確かに今日は空いてると思いますよ」と、受付の女性は言った。「でも、同じようなことを考える人がいるもんですねえ」
「同じようなこと?」
「いや、さっきもね。お二人と同じくらいの年の女の子が一人で来てたから」
その話を聞きながら一木は、物好きは案外いるのかもしれない、と思った。
それから二人は利用料を払い、施設の中へと足を踏み入れた。
袮室は施設の奥に進んでいって、一木はその後に続いた。入り口のすぐ横はロビーになっていて、飲み物やアイスの自動販売機の前にベンチが並んでいる。髪の濡れた大学生くらいの男性が一人で水を飲んでいるほかは、誰もいなかった。「空いているだろう」という袮室の推論は正しかったらしい。
廊下を曲がって、女子更衣室へと入る。コインロッカーを開き、胃対は持参した水着を取り出した。更衣室の中に人の姿はなかったが、鍵の抜かれたロッカーがいくつかあるから、さすがに無人ではないようだと分かった。
袮室は服の下に水着を着ていた。服を脱いでロッカーに入れ、紺の競泳水着だけを身につけた状態になる。一木はその横で服を脱ぎ、袮室が着ているものと似たようなデザインの水着を着た。
一木は長髪を頭の上で纏めて、水泳帽の中に髪の毛を押し込んだ。しかし毛量が多いからそれにも苦労して、最後は袮室に手伝ってもらった。
袮室は眼鏡を外して、代わりに頭の上にゴーグルを付けていた。袮室はいつも眼鏡をかけていたから、彼女の目が何にも覆われていない状態を見るのは一木にとって初めてだった。その顔つきが新鮮で、しばし一木は目を奪われた。向かい合って水泳帽を被せてもらっている間、一木はずっと袮室の目元を見つめていた。
「ちょっと、見つめすぎじゃない?」
袮室は笑い混じりに言った。
「あっ……ごめん」
一木は目を逸らす。
「別にわたしのことだったらいくらでも見ていいけどね」
「そんなんじゃ……ただ、珍しいなと思っただけ」
「珍しい?」
「眼鏡、してないから」
「ああ、確かに」
袮室は頷いた。それから彼女はようやく水泳帽を被せ終える。はみ出た一木の前髪を、袮室は帽子の中に入れていった。一木は目をつぶってされるがままにしている。頭皮が引っ張られる感覚があった。少し痛くて、少し気持ちいい。
「よし」
と、袮室は言った。一木が目を開けると、袮室と目が合った。
「あ……ありがとう」
一木は小さな声で言った。それから彼女は尋ねる。
「ねえ、その目……見えてるの?」
「まあ、一歩先も見えないってほどじゃないから」袮室は答えた。「ぶっちゃけ、この距離だと糸冬さんの顔も分からないけど」
二人の距離は、その時五十センチも離れていなかった。
「それ、ほんとに大丈夫……?」
「平気だよ」袮室は答えた。「これくらい近づけば、バッチリ見えるし」
そう言いながら袮室は、ずいっと距離を縮めた。一木の真正面に袮室の顔が近づいてくる。
心臓に悪い。
一木の体は硬直してしまった。
袮室は一木の心境など知らず、あるいはその表情は見えていなかったのか、ロッカーの鍵を閉めてシャワーを浴びに行ってしまった。一木は袮室のことが少し心配になったので、急いでその後を追いかけた。
プールサイドには監視員が数名いて、ラックにはビート板が並べられている。二十五メートルプールは五つのレーンに別れていて、遊泳用のレーンは左から三つ、右から二番目は練習用、一番右は水中ウォーキング用となっていた。一番右のレーンには年配の利用者たちが数名、列を形成して歩いている。
袮室はプールサイドに置かれた看板が読めないらしく、目を細めて顔を近づけている。一木はその横から腕を引っ張った。
「泳げない人、あそこでやれって書いてある」
一木は右から二番目のレーンを指さした。中学生くらいの男の子が一人で練習をしている他には誰もいない。
「よし、行こう」
袮室は反対に一木の手を引いて、二番レーンの前まで歩いていく。危ないな、と思いつつ、一木は歩調を合わせて歩いた。
袮室が先にプールに入って、続いて一木が入った。プールの床は一木たちがいる方から向こう岸にかけて緩やかな下り坂を描いており、こちら側の水深は浅い。そう身長が高くない袮室でも、水底に足をつくことができた。先客だった男の子は、向こう岸の方からプールサイドへと上がっていく。レーンの中にいるのは一木と袮室の二人きりになった。
隣のレーンでは、凄まじいスピードで二十五メートルを泳ぎ続ける女性が一人。一木はその様子をぼうっと眺める。若い人だった。受付の人が言っていた、一木たちと同年代くらいの女性とは、彼女のことかもしれなかった。
「とりあえず、わたしがお手本見せるから」
そう言って袮室はゴーグルを目元に装着し、壁を蹴ってクロールで泳ぎ始めた。しぶきが目に入ると嫌なので、一木もゴーグルを着ける。
やがて十五メートルほど泳ぐと、袮室はレーンの途中で踵を返して一木が待つ方へと戻ってきた。
「どう? 分かった?」
袮室はゴーグル越しに一木のことを見つめる。
「いや……見ただけじゃ何とも」一木は答えた。「女刀さん、泳ぐの上手いんだね」
実際、袮室の泳ぎ方は上手かった。一木は水泳の授業の時も遠巻きに袮室が泳ぐところを見ていたが、目の前で見せられて改めてそう思った。特別速いわけではないが、フォームが美しい。
「水泳は結構やってたからな」
「あっ、水泳部だったの?」
「いや、」袮室は首を横に振った。「ただ個人的に……やる機会が多くて」
「水泳を?」
「うん」
「そうなんだ」
「水泳って言っても、競技としてってわけじゃなくてね。速く泳ぐのとかは、あんまり」
「速くなるためじゃないなら……単純に、運動のためにってこと?」
一木は尋ねた。袮室は頷く。
「そう。体力が付くように」
「それって、小学生とか中学生とかの頃の話だよね?」
「そうだよ?」
「そんな子供の頃から体力に気を遣ってたんだね」
「わたしは健康第一なの」
袮室はそう言って笑いかける。
「女刀さん、休んだことないもんね」
「そういうこと。さ、練習しよう。練習すればすぐできるようになるから」
「う、うん……」
一木は自分の運動神経のなさを嫌というほど自覚しているので、袮室のように無邪気に「やればできる」と考えることは毛頭できなかった。
「授業の時、糸冬さんのこと見てて思ったんだけどさ、」
「みっ、見てたの……?」
一木としては、なるべく袮室から離れたところにいたつもりだったのだが。
「だって気になるじゃん。でさ、思ったわけ。息継ぎが出来てないからダメなんじゃないかって」
「まあ、それもあると思うけど……」
実際には足の振り方も手の動かし方も分かってはいなくて、一木にとっては何が出来ていないのかさえ分からないような状況だったのだが、息継ぎの仕方が分かっていないこともまた事実だった。
「こういうのは要素をバラバラに分解して、一個ずつ片付けていくのが良いと思うんだよね。だからさ」
袮室は水中で一木の両手を握った。
「こうやってわたしが支えてるから、まず息継ぎだけやってみて」
「う……うん」
一木は頷いた。
水中で手が触れあう。その感触は柔らかかった。それは袮室の手が柔らかいせいなのか、それとも水中にいるからなのか。一木には分からなかったが、とにかく彼女は袮室の手を握り返し、そのまま水面に顔を付けた。
足を動かす。体が浮き上がる。ゴーグルのレンズを通してプールの底が見えた。二色の正方形のタイルが並んで模様を描いている。
耳まで水中に沈んで、周囲の音が遠くなる。顔の周りに水がまとわりついてくるような感覚。一木は水が怖かった。別に、溺れたトラウマも持っていないのに。
少しだけ目線を上げると、水着に覆われた袮室のお腹が見えた。それを注視しているのが少し恥ずかしくて、一木は目線を袮室の足下へ向ける。
「ほら、頭横にしてみて」
水面の上から声が聞こえる。一木は言われた通り頭を横にして、息を吸おうとする。しかし上手くいかない。水が口の中に入ってきてしまい、一木は咳き込んだ。水中に沈み込みそうになって、袮室の手を無意識に強く握った。
水底に足をついて落ち着きを取り戻し、一木は慌てたように手を離す。
「ご……ごめん」
「タイミングがちょっと早いんだと思うよ」
袮室は言った。
「そうなの……かも」
一木は頷く。
「もう一回やってみよう」
一木は黙って頷いた。
それから三時間ほどの間、休憩を挟みながら一木の練習は続いた。
最初のうちはてんでダメだった一木の泳ぎ方も、相応の時間練習を重ねれば少しはまともになった。それでもまだ自力で泳ぐには一歩至らなかったが。
中央の三番レーンでは、相変わらず例の若い女性が泳ぎ続けていた。彼女は一木たちより前から泳いでいたから、少なくとも三時間以上は泳いでいることになる。
よく体力が続くものだな……と、一木は彼女の方をぼんやり見つめる。
「糸冬さん、ほら、もう一回やってみようよ」
「もう疲れたんだけど……」
「じゃあこれがラスト一回ってことで」
「さっきもそう言ってたよ」
「いいじゃん。もう少しで泳げそうなんだからさ」
そんなことを袮室が言い始めてからもう十回はトライしている。
「分かった……これで本当に終わりね?」
一木は言った。
水面で体を横にして、壁を蹴って進む。練習した通りに手足を動かす。視界には水の底しか見えない。タイルは同じ模様を描いているだけ。進んではいる。しかし、どれほど進んでいるのかが分からない。
胸が苦しい。さっきから心臓の鼓動が速まっている。このまま心臓が動きすぎて死んでしまうのではないかしらと一木はあらぬ心配までした。水面に顔を出して息を吸う。それから再び水の中へ。手で水をかき続ける。前へと進む。水を蹴って前へ。
ゴツ、と。何かが手に当たった。
一木は泳ぐのをやめて、前を見る。
それはプールの壁だった。
振り返ると、さっき一木が立っていた向こう岸が遙か遠くに見える。一木は壁に手を突いてプールの床に立ち、向こう岸を見つめていた。
バシャッと水しぶきが上がった。それは一木の横からだった。一木が気づかないうちに、袮室は一木の後ろについて来ていた。
水しぶきが上がった理由は、袮室が一木に抱きついたからだった。
袮室の腕が一木の両腕を抱き留める。胸が潰れるくらい体が密着した。
「泳げてた!」
袮室は言った。
「泳げてた……?」
「出来てた。完璧」
袮室はそう言いながら腕を放した。
一木は息を切らしながら頷く。
「もういいよね……? 上がろう」
「うん」
袮室は頷いた。プールサイドに手を突いて、体を持ち上げてプールから上がる。
一木も同じようにしてプールから出ようとしたが、腕に上手く力が入らなかった。
袮室は手を差し伸べてくる。一木はその手を握ってプールから這い上がった。
プールサイドに立つと、一木は足元がふらついて倒れそうになった。プールサイドを歩いていた人と背中からぶつかってしまう。
「あっ……す、すみません……」
一木は振り返って謝った。
その人は、さっきまで三番レーンでひたすら泳ぎ続けていた女性だった。
「いえ、こちらこそ」
その女性も振り返る。一木は彼女と目を合わせた。
「あ、」
一木は声を上げた。
「もしかして、糸冬さん?」
そう尋ねてきた女性は、一木たちのクラスメイトである大船だった。
「うん。大船さん……だよね?」
「こんな日に知り合いと会うなんて」
大船はくすりと笑いながら言った。彼女は一木以上に背が高かった。向かい合うと見下ろされるような格好になる。
それから大船は、後ろにいる袮室に目線を動かす。
「ってことは……そっちにいるのは女刀か」
「うん」袮室は頷いた。「大船さんも来てたんだね。全然気づかなかった。ほら、わたしって目悪いし」
「私の方は、どっかで聞いた声だなと思ってた」
「きっ……聞こえてたの?」
一木は尋ねた。
「まあ、あれだけ大騒ぎしてればね」
「大騒ぎ……」
「でもよかったじゃない。泳げるようになったんでしょ?」
「それは……うん、一応」
「おめでとう」
大船が言うと、一木は小さく頭を下げた。それを見て大船はまたくすりと笑う。
「じゃあ私、行くから。またね」
大船はそう言い残して去った。
一木と袮室はそれからジャグジーに入って体を温め、シャワーを浴びて更衣室に戻った。
一木の髪を乾かすには時間がかかった。洗面台の鏡の前に座り、背後に立つ袮室に髪を乾かしてもらう。袮室は備え付けのドライヤーを片手に持ち、丁寧にドライヤーの風を髪に当てていった。
ようやく一木の髪も乾いて、二人は脱いだ水着を乾燥機にかけてから更衣室を出た。
二人が更衣室を出ると、休憩スペースのベンチに大船が座っているのが見えた。セブンティーンのアイス(ラムネ味)を齧りながら、袮室たちへ向けて片手を挙げる。
「どうも」
袮室と一木は大船の前に歩み寄る。
「もしかして、わたしたちのこと待ってた?」
袮室が尋ねると、大船はアイスを食べ尽くしてから頷いた。
「まあ、そんなところ」それから大船は立ち上がる。「どっか行かない? ファミレスとか、喫茶店とか」
「えっと……」
袮室は一木の方を一瞥した。一木は小さく頷く。一木は大船と話したことはほとんどなくて、正直に言えば緊張していたが、異論を挟む方が怖かった。
袮室は一木が頷いたのを見てから、大船の方に向き直る。
「うん。ご一緒しようかな」袮室は窓の方へ目を向けた。「相変わらずひどい天気だけどね」
「近くにサイゼあるんだけど、いいかな? そこで」
大船の提案に二人は頷いた。三人は雨混じりの風が吹きすさぶ外へと出た。
市民プールを出てから数分歩き、国道沿いのサイゼリヤに向かう。一階部分は駐車場になっていて、店舗は建物の二階にあった。袮室たちは階段を上がって店の中に入った。
店内に客は数組しかおらず、三人は並ばずに席に座ることができた。窓際の四人がけテーブルに座る。一木と袮室が並んで座り、その正面に大船が一人で座った。
昼食にしては少し遅い時間だった。元々袮室たちはもっと早くプールを出るつもりだったのだが、つい熱中して遅くなってしまった。
大船はパスタを注文し、袮室はドリアを注文した。一木は袮室と同じものを頼もうと決めていたので、自動的にドリアを注文することになった。それから三人分のドリンクバーも注文する。
ドリンクバーからお茶を取ってきて、一木は椅子に座り直す。まだプールに浸かっていた時の浮遊感が体に残っていた。手のひらには長風呂した時のように皺があった。
それから少し遅れて来た袮室と一木が座り直す。それぞれ飲み物を前に置いて、一息つく。
「今日はさすがに泳ぎ疲れた」
大船は呟いた。
「よく来るの? こっち」
と、袮室が尋ねる。
「そうだね。何回か来てる。どうせ予備校行く時にこの路線使うしね」
「好きなんだ、水泳」
「うん。高校入ったら水泳部に入ろうかって、一瞬本気で考えたくらい」
「そうなんだ」
「まあ、結局入らなかったけどね。私にとって水泳は単純にストレス解消の手段でしかないし。そんな暇もないしね」
「ストレス多いんだ?」
袮室が冗談っぽく尋ねると、大船の方も笑いながら頷いた。
「まあね。こないだも……」言いさして、大船はやめようとした。「いや、やっぱりいいや」
「えー、気になるじゃん」
「個人的な愚痴みたいなものだし。女刀さんたちに話すようなことでもないかな」
「いいよ。あんまり近くない方が話せることもあるでしょ?」
袮室が言うと、大船は少し考えてから頷いた。
「うん……それもそうか」
「そうだよ、きっと」
「じゃあ話すけど、私の彼氏の話でね」
「あ、大船さんって彼氏いるんだ」
「今、意外って思った?」
「そんなことは」
「いいよ別に。自分でもキャラと合わないなって思う」
「どんな人?」
「多分知らないと思う。別のクラスのやつで、
「聞いたことあるような、ないような」
袮室は正直に答えた。先ほどから一言も喋らずにお茶を飲んでいる一木は、もちろん耳にしたことはない名前である。
「まあ、存在感ないからな、あいつ。で、その深沢が最近なんかこう……付き合いが悪いっていうか」
「そうなの?」
「こう言っちゃなんだけど、あいつって暇人なんだよね。私の方が圧倒的に忙しくて、だから遊びに行く時は私のスケジュールに合わせるのが常態化してる。だけど最近用事が増えたみたいで」
「それで不安なんだ?」
袮室が言うと、大船は鼻で笑うような仕草を見せた。
「不安? まさか」大船はオレンジジュースを一口飲んだ。「あいつに浮気とか二股とか、物理的に無理だからね。そもそも昔から全然モテないんだし……」
「でっ……でも、実際大船さんは付き合ってるわけだし……」
一木が口を挟んだ。大船は彼女の方に目線を向けた。
「私は特別枠というか……自分でも趣味が特殊なのは自覚してるから」
それはそれで恋人に対して失礼だなと思ったが、一木は言わないでおいた。
代わりに尋ねる。
「さっき、『昔から』って言ってたよね。その、深沢さんとは高校に入る前から?」
「同じマンションに住んでる。幼稚園の頃から小中高とずっと一緒」
「なんかロマンチックだね」
と、袮室は言った。「そんないいもんじゃないけど」と、大船は目を逸らしながら答える。
「そういうわけだから、深沢のことはよく知ってる」
「じゃあ浮気を疑ってるとか、そういう悩みがあるわけじゃないんだね」
袮室は安堵したように言った。しかし大船の方は浮かない顔になる。
「まあ、あり得ないとは思ってるんだけどね。でも何となく最近……隠し事されてるような気がして」
「隠し事?」
「そう。明確な根拠があるわけじゃないんだけどさ。態度が妙でね。お金がないからデートの日程をずらそうって言った翌週に、急に金回りがよくなって『奢る』とか言い出してみたり。あと、急に趣味が変わったりとか」
「どんなふうに?」
「前は全然スポーツ興味なかったくせに、急に高校野球に詳しくなってたりとか。もしかして、他の誰かの影響なんじゃないかって」
「なるほどね……」
袮室は何かかける言葉を探したが、自分の中には見つからないことに気づいた。一木はそのまま何も言わなかった。
二人が無言でいるのを見て、大船は口を開いた。少しだけ高いトーンで告げる。
「まあ、さっきも言ったけど、あり得ないって思ってるから」
「そっか。ならいいんだけど」
袮室は答えた。その時店員が料理を運んできた。それで話は中断されて、一木たちは内心で胸を撫で下ろした。
料理を半分ほど食べたところで、大船は再び口を開いた。
「そういえば前から気になってたんだけど。二人って中学一緒だったりする?」
「いや、全然別々だよ」
袮室は答えた。一木もその横で頷く。
やはり、自分と袮室が一緒にいることは違和感があるのだろう。一木はそんなことを考えた。
「そうなんだ」大船は頷きながらフォークにパスタを巻き付けていく。「割と早い時期から仲よさそうにしてたから、てっきり入学前から知り合いなのかと」
一木は首を横に振った。
「女刀さんとは、たまたまって言うか……」
「わたしが時計をなくした時、糸冬さんが見つけてくれたの。わたしだってどこに置いてきたか忘れてたのに、少ない手がかりだけでズバッと言い当てて」
袮室がその時の思い出を語ると、一木は恥ずかしそうに俯いた。
「いやだから、あれはまぐれで」
「その時ビビッと来たんだよね。この人こそ名探偵になれる逸材だ!って」
「なるほどね。じゃ、噂は本当だったんだ」
「噂?」
「『女刀袮室と糸冬一木は名探偵になろうとしてる』って」
「正確には、名探偵になるのは糸冬さんね。わたしはその助手になる予定だから」
「探偵と助手は二人で一人でしょ? だったら似たようなものだよ」
「ううん、ま、それもそうか」
袮室は頷きながらドリアを口に運ぶ。
一木は食事の手を止めて、大船に向かって尋ねた。
「そ、そんな噂になってるの……?」
「まあね。女刀さんって、何て言うか、目立つし」
つまり、一緒にいる一木もついでに目立ってしまっているということ。
やはり、当初思い描いていた高校生活とはだいぶ乖離してきているような気がしてならなかった。一木が求めていたのは、目立たずひっそりと平穏に生きていく生活だったはず。断じてクラスの噂話の主語になるような生活はしない予定だったのだが。
大船はさらに言った。
「それに、浪川の傘も見つけたとかで」
「いや、傘を見つけたわけじゃなくて……、傘が盗まれた理由を見つけただけっていうか……」
一木は訂正したが、大船にとっては些細なことだった。
「着実に広まってるみたいだね。糸冬さんの名声」
袮室は嬉しそうに言った。一木は別に嬉しくも何ともなかったので、何も答えなかった。
「ああ、そうそう。せっかくなら、私の事件も解決してもらおうかな」
何のことはない調子で大船は言った。
「事件?」
と、袮室は聞き返す。
「言葉の綾だよ。ちょっとした謎ってこと。さっきの話とも無関係。こないだ少し、変なものを見てさ」
大船の表情や口ぶりから、そこまで深刻な話でなさそうなのは察することができた。少なくとも先刻の恋愛相談よりはずっと気軽そうな話のようだったので、袮室たちはそれを聞くことにした。
「聞かせて。糸冬さんが解決してくれるから。……多分」
「じゃあ最初から、順を追って。
さっき話した深沢だけど、部活は放送部に所属しててね。放送部は放送室を部室として使ってて、こないだちょっと放送室に遊びに行ったんだ」
「大船さんが行ったってこと?」
袮室が確認を取ると、大船は頷いた。
「そう。私が行った。
それで放送室の中に入ったんだけどさ。あそこの部屋ってポスターが貼ってあるんだよ。なんか、NHKが主催してる大会?のポスター。まあ、知らないだろうけど」
「うん。知らなかった。でも、そのポスターがどうかしたの?」
「妙だったのはそのポスターなんだよ。四隅だけ裏返しにされてたの」
「四隅だけ……?」
袮室は聞き返した。聞いただけでは状況が想像しにくい。
「そのポスターは全面に絵が描かれてるんだけど。その角のところが三角に切り取られて、切り取った角の部分だけ裏返しにして貼られてたんだよ。それが四隅ともそうなってて、表になってる部分は画鋲で留められてた。
最初は四隅だけ白いデザインなのかなって思ったんだけど、近づいて見たら、四隅だけ裏になってるって気づいたんだよね」
四隅だけを切って裏返しにされたポスター。確かに不可解な話だと一木は思った。隣では袮室も首をかしげている。しかし一木には既にいくつかの仮説が思いついていた。
「その時のこと、もう少し詳しく教えてくれる? そうしたら理由、分かるかも……」
一木は言った。大船は頷く。
「構わないよ。糸冬さんの推理も聞きたいしね」そう言って、大船は当日の状況を詳しく説明し始めた。「あれはちょうど一週間前くらいだったかな。私は風紀委員の用事で学校にいて、その日にたまたま深沢も学校に来てるって聞いてたから、用事が終わった後放送室に遊びに行ったの。放送部ってその辺おおらかで、部員じゃなくても割とウェルカムなところがあるから。時間は確か……お昼過ぎ。二時くらいだったかな。
で、放送室の前まで行って、廊下に深沢を呼び出した。すぐに入れてくれると思ったんだけど、少し待てって言われてね。深沢だけ放送室の中に戻って、数分待たされた。ま、大方雑誌でも隠してたんじゃないかな。成人向けのやつ」
「ああ……」
袮室は頷いた。放送部の男女比は男子の比率が圧倒的に多い。部室にそういった物品が隠されていても不思議はないと思われた。
特に大船は生真面目な性格である。ルールは厳格に守らなければ気が済まない。それは周囲の人間にも適用される。成人向けと言ったら、成人になってからでないと許さない。大船はそういった性格の人間である。
「ま、結局見つからなかったし、不問にしてやったけどね。あいつ、何か隠してると思う。間違いないよ。そういう態度だったから。いや、話が逸れたな。ポスターの話だったね。
それで、少し待たされてから放送室に入れてもらって、しばらくあいつと喋ったり、ゲームしたりしてた。その最中にポスターの件に気づいたんだけど、あいつに聞いても答えてくれなくて」
「部室には、深沢さん以外に人はいたの?」
一木は尋ねた。
「二人ぐらいいたかな。どっちも放送部の人。なんかスマホ見ながら異様に盛り上がってた。何を見てたのかは知らないけど。ポスターの件は、その人たちには聞かなかった。盛り上がってたから、邪魔しちゃ悪いと思ってね」
「そっか……」
一木の中にあった仮説のうちの一つが強化されていく。最後の確認のために一木は質問をした。
「そのポスター……四隅が切ってあったんだよね。それって、カッターとかハサミとかで切られてたの? それとも、破いたような感じだった?」
「確か……」大船は記憶をたぐり寄せた。「確か、そう。後者だったよ。破いたっぽい感じの断面だった」
「なるほど……」
一木は小さな声で呟いた。袮室は彼女の顔を覗き込む。
「分かったの?」
袮室の質問に、一木は一瞬逡巡した。
一木の中には一つの推理が既に組み上がっていた。しかし、それを明かすことは深沢の、ひいては大船のためにならないのではないか。一木はそう感じていた。
自分の考えた推理が真実かどうかは分からない。しかし、間違っていると断定する根拠もないはず。
そして、一木は迷った。その推理を大船に話すべきなのかどうか。
迷った末に、一木は選んだ。〈話さない〉という選択肢を。
「……いや、分からないかも……」
一木が言うと、大船は頷いた。
「そっか。まあ、仕方ない。私の話聞いただけで理由を推理するなんて無理に決まってるよね。そもそも、元から理由なんてないのかも。何となくやってるだけで」
「うん……きっとそうなのかも」
一木は言った。大船はパスタを食べ終わり、グラスを傾けてお茶を飲み込んだ。
三人がサイゼリヤを出る頃には雨は上がっていた。風はまだ少し強かったが、雲の隙間からわずかに晴れ間も見えている。
「じゃあ、私寄るとこあるから。今日はありがとう。話聞いてくれて」
大船は一木たちに向き合って言う。
「また二学期にね。大船さん」
袮室が言うと、大船は頷き、振り返って歩き去った。
「じゃ……わたしたちも帰ろっか」
袮室は言った。一木は頷いた。
曇り空の下を二人で歩いて行く。一木の手には折れた傘が握られていた。
「今日、疲れたね」
袮室は言った。
「うん」
一木は頷く。
「明日筋肉痛だよ」
「それはちょっと……やだな」
「たまにはいいでしょ?」
「うん……まあ」
「それでさ、」袮室は言った。「あのポスターのこと。どういう理由があったの?」
「えっ?」
一木は歩きながら袮室の方を見る。袮室は目を合わせてきた。
「分かってたんでしょ? 本当は。でもあえて言わなかった」
「知ってたんだ」
「糸冬さんのことなら、結構分かるようになってきたから」
「そっか……」一木は進行方向へ向き直って頷いた。「確かに女刀さんの言うとおり。一個可能性は思いついてた」
「でも、言わなかったんだ」
「大船さんには、聞かせるべきじゃないと思ったから。でも、自分じゃどうすべきか分からなくなって。だから……聞いてくれる? 女刀さん」
「分かった。聞かせて」
「うん」
一木は頷いて、自分で考えた推理を話し始めた。
「大船さんは、四隅だけが裏返ってたって言ってた。でも、その認識が間違ってたんじゃないかなって」
「どういうこと?」
「四隅だけが裏返ってたんじゃなくて、四隅以外が表向きに変えられてたってことじゃないかな」
「最初は裏返しの状態で貼られてて、中央だけがまたひっくり返って表向きになってたってことか。でも、どうしてそんなことに?」
「ポスターの四隅は元々テープか何かで留められてたんだと思う。それを急いで表向きに戻そうとして、ポスターが四隅を残して破けた。それをそのまま表向きにして画鋲で留めたから、四隅だけ裏の状態になったんだと思う。
大船さんは、部室に入る前に少し待たされたって言ってた。その間に深沢さんがポスターを表向きに戻してたんじゃないかな」
「ポスターを急いで表向きにしなくちゃいけなかったのはどうして? ていうか、なんでそもそもポスターを裏向きで貼ってたわけ?」
「ポスターの裏は白紙になってるから、そこに何かを書き込んでたんだと思う。そして、その内容は大船さんに見られたらまずいものだった」
「それは……何?」
袮室が尋ねると、一木はそれに答えて言った。
「多分、高校野球」
「野球って……甲子園?」
「うん」一木は頷いた。「大船さん、深沢さんについてこう言ってたよね。『急に高校野球に詳しくなった』って。それに、部室にいたっていう放送部員の二人。スマホで何か見て盛り上がってたって」
「そっか。その人たちも高校野球見てたんだ」
「多分、そうだと思う。それで、その試合結果をポスターの裏に書き出してた」
「それはずいぶん熱心な……でも、どうしてそれを大船さんに隠そうとしたの? 単に部内で高校野球が流行ってたってだけでしょ?」
「それだけなら、隠す必要はない。でも、深沢さんは隠そうとした。
多分ね、深沢さんたちは高校野球にお金を賭けてたんじゃないかな」
「お金を……野球賭博ってやつ?」
袮室は声を潜めて尋ねる。
「うん」一木は頷いた。「大船さん、言ってたよね。深沢さんがここ最近、お金を持っていたり持っていなかったりって。急にお金が増えたならバイトを始めたとか、その逆だったら単なる浪費で説明がつく。でも、賭博で勝ったり負けたりを繰り返していれば、お金も増えたり減ったりするはずだから」
「それじゃあ、結構大きめのお金が賭けられてるのかな」
「そうかもしれない。数千円……下手すると、五ケタってことも」
それは高校生である一木たちにとっては大金だった。
もしかすると、最初はもっと安めの金額から賭けていたのかもしれない。しかし回数を重ねるごとに金額が増えていった。もしかすると、これからも増えていくのかもしれない。それほどまでに、放送部内の賭博行為は常態化していたのかもしれない。
「そして……だからこそ深沢さんは、恋人である大船さんにはそのことを知られたくなかった。日本の法律では賭博行為は違法で、大船さんはルールを重んじる人だったから」
「なるほど……それで迷ってたんだね」
袮室には、一木がこの推理を大船に語らなかった理由がよく分かった。
これは今まで解き明かしてきた謎とは明らかに違う。賭博はれっきとした犯罪で、もし事実なら参加していた深沢や放送部員たちは罪に問われるかもしれない。他人の人生に影響を与えるかもしれないのだ。
それに、正しいか間違っているかにかかわらず、推理を話せば、深沢に対する疑念を大船に植え付けることとなる。それがきっかけで二人の関係が悪化することも十分考えられた。
「わたしは……よかったと思うよ。大船さんに何も言わなくて」
袮室は言った。一木は安心したように頷く。
「うん」
「わたしが理想とする名探偵はさ。推理で誰かを不幸にするような人間のことじゃないもの。
もし本当に野球賭博をやってるんだとしても、それは当人たちが何とかすべきことだから」
「うん」
「それに……糸冬さんの推理力が本物ってことは、わたしが知ってるからね」
袮室はそう言って一木に笑いかける。一木は何も言わずに頷いた。
やがて二人は駅にたどり着く。登りと下りで改札口が別になっていて、二人は改札の前でしばらく立ち話をした。
「今日……楽しかった?」
袮室は聞いた。少し不安げに、苦笑いするような表情を浮かべながら、上目遣いに一木のことを見上げる。
一木がそれに答えるより前に、電車の時間が迫る。袮室が乗るはずの電車だった。
電光掲示板を振り返り、袮室は言った。
「じゃあ、またね。糸冬さん」
改札をくぐって行こうとする袮室へ、一木は声をかけた。
「あの……、女刀さん」
袮室は改札の手前で振り返る。一木は告げた。
「楽しかったよ。今日」
それを聞くと、袮室は笑顔で頷き、そして改札の向こうへと去っていった。
(つづく)
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