第3話 見えない雨
梅雨も終盤。そろそろ初夏の足音が近づいてこようかという月曜日。
鏡に映る自分の顔を見てから、冷水を顔に叩き付ける。一木は、自分の中に起こった変化に気づいていた。
学校に行くのが、昔ほど辛くない。
それどころか、少しだけ。ほんの少し、楽しみだとすら思っている。
その理由も彼女は自覚していた。
入学からもうすぐ三ヶ月になる。袮室は男女を問わず、クラスメイトの全員とすっかり打ち解けてしまった。それどころか、その人脈は他のクラスや他の学年にまで及んでいる。
そんな袮室だったが、数多くいる友人を差し置いて、今でも一木と一緒に下校するような生活を続けていた。特別な用事がない時は、毎日一木のことを誘って、一緒に駅まで向かい、そして別れる。それが一木にとっての当たり前になった。
多分、一木の足取りが最近多少なりとも軽くなったのは、袮室が原因なのだろうな。と、一木自身も考えているところだった。
フェイスタオルで顔を拭きながら、改めて鏡に映る自分の顔面を見た。
寝起きであることを差し引いても、とても良い顔とは思えない。どう考えても、袮室のような可愛い子とは釣り合いが取れない。きっとクラスメイトたちも、内心ではそう思っているはずだ。
特別に成績が良いわけでもない。部活で結果を残しているわけでもない。他人と話すのも上手くない。
それなのに袮室が一木の友人を続けてくれる理由があるとすれば、それは一つしか考えられなかった。
一木の中にある、探偵としての才能。
本人だってあるかどうか分からない、そんな曖昧なものを、袮室は確かに存在すると信じている。期待している。一木が〈名探偵〉になってくれると。
そして一木は、少なくとも今までは彼女の期待に応えてきた。
もっとも、謎らしい謎なんてそうそうあるはずもなく。袮室はアンテナを高くして学校の中から謎を見いだそうとしていたが、どれも少し考えれば分かってしまうような、退屈な謎未満に過ぎなかった。
そんなわけで、およそ一月と少し前に起こった漫画研究部内部のいざこざ以来、一木は何の謎も解決していないのだった。
もし、また謎や事件を見つけてしまったらどうしようか。
解決できるものなら、解決してしまうかもしれない。そうすることで、自分が価値ある人間なのだと、袮室が勘違いしてくれるなら。
一木はそんなことを考えながら朝食を食べ、制服に着替えて家を出た。気温は上がってきたから、ジャケットは必要なかった。ブラウスの上に、ベージュ色をした薄手のカーディガンを羽織って家を出る。
雨が降っていた。通りでじめじめすると思った、と一木は独り言つ。雨は家の前の車道の隅に水溜まりを作って、その水面には絶えず波紋が広がっては壊れている。
一木は傘立てから一本傘を取り出した。シンプルなデザインの黒い傘。半年ほど前に出先で雨に降られて、その時にコンビニで買った傘を一木はずっと使い続けていた。
その傘を差して、家を出る。傘に雨粒が当たるたびにバラバラと音が鳴った。一木はポケットから取り出したワイヤレスイヤホンを耳に入れる。ノイズキャンセリングがオンになって、雨音は遠くなった。
学校に着くと、朝っぱらからせわしなく動き回っている生徒の一団を見かけた。
彼らはきっと、文化祭の準備をしている真っ最中だろう。一木はそう推測する。一学期の中間考査も終わり、今は学校中が文化祭に向けて動き出している。文化祭は各文化部が活動の成果を発表する他に、各クラスによる出し物も行われる。大規模な行事だった。
当然、一木の立ち位置は決まっていた。一木はクラブに所属していない。となれば、必然的にクラスの方の出し物に参加することになる。クラスの展示は任意参加とはいえ、あえて不参加を表明することによって「集団行動を乱す生徒」という印象を植え付けることも得策ではない。
となれば、一木が取るべき行動は一つ。目立たない程度に、適度に参加する。言われた仕事は確実にこなし、自分からは何も意見しない。それが一木の望む立場でもあった。
昇降口の横にある傘立てに傘を置いて靴を履き替え、教室へと向かう。梅雨の時期は校舎の中まで湿っているような気がした。
教室に入ると、数人の生徒が教室の窓際の席に集まって裁縫をしていた。あれもまた、文化祭の準備の一環。一木たち一年二組は演劇を披露することになっていた。今行われている作業は、役者が身につけるための衣装の製作だった。
一木の席は作業をしている集団の近くにあって、彼女は気配を殺しながら自分の席に座った。ここで「手伝おうか?」などと声をかけてはいけない。一木は自分に言い聞かせる。それは出しゃばり、余計なお世話というものだ。一木自身も、できることならあんな繊細そうな作業は手伝いたくない。一木は自分のことを不器用であると自負していた。針仕事などしようものなら、自分の親指を突き刺すのがオチである。
そんなわけで、作業中の一団に背を向けて音楽でも聴こうとしたその時。一木は声をかけられた。
「糸冬さん。おはよう」
その声の主は、声だけで分かる。一木が振り返ると、袮室の顔があった。
「あ……女刀さん。今日は早いんだね」
一木は言った。袮室は頷く。その手には裁ちバサミが握られていた。
「ちょっと助っ人を頼まれたから」
「ああ……文化祭の?」
「うん。衣装班が結構、切羽詰まってって聞いてさ」
「そうなんだ……文化祭って、まだ先だと思ってた」
一木が呟くと、後ろで針と糸をせわしなく動かしていた男子生徒が言った。
「そうでもないんだな、それが」彼は一木の方を見た。「スケジュールは押しまくってる。俳優班に衣装を合わせて手直しもしなきゃならん。衣装を着けての通しリハもやりたいと、全体統括からのお達しもある」
それだけ言うと、彼は再び裁縫作業に戻った。彼は一木たちのクラスメイトである
「と、言うわけで……」袮室は手元にあった型紙と布を一木に渡してきた。「人手は多い方がいい!」それから浪川の方を振り返った。「でしょ? 浪川くん」
「そうだな」
と、浪川も答えた。
一木は型紙と布を受け取った。それから袮室は裁ちバサミも渡してくる。
「でも……失敗するかもしれないし」
そう言って一木は辞退しようとする。
「問題ない」と、浪川は言った。「布は無駄に多くあるからな。やり直しはいくらでも利くよ」
そう言われると、一木の立場としては従わざるを得ない。別に、固辞する理由もないのだし。
一木はハサミを手にして、型紙を合わせた布と向かい合う。袮室のやり方を見ながら、慎重にハサミを入れていった。
袮室のハサミの動かし方はまるで迷いがなく、できあがったパーツの形状にも歪みがなかった。
「女刀さん、器用なんだね。意外にも」
衣装班の一人が冗談めかして言うと、袮室は「まあね」と答えた。
「実際、衣装班に来てもらいたいくらいだな」と、浪川も同調する。「俳優班は抜けてもらって」
「わたしが抜けたら誰がマクベスの妻を演じるのって話でしょ」
そう言ってから袮室は一木の方を見た。
「あ、糸冬さんがやってくれるなら、全然アリだけどね」
「やるわけないでしょ……」
と、一木は呟いた。まかり間違っても役者として舞台に立つなどしたくない。冗談だとしても恐ろしすぎる。
「ああ、そういえば、糸冬さんは元々どこの所属なんだっけ?」
浪川は聞いてきた。一木は布から顔を上げて答える。
「照明班……だよ」
一木は自ら志願して照明班になった。リハーサルと本番以外はほとんどやることがないので、段取りさえ覚えてしまえば後は適当に他の班の手伝いをしていればいいという閑職である。
「そうだったのか」浪川はこれ幸いといった表情になる。「よかったら、これからも手伝ってくれないか。暇な時にでいいから」
照明班が閑職であることは周知の事実なので、全体からは助っ人要因として捉えられている節があり、浪川も例外ではなかった。一木は頷く。
「あの……私ができるようなことなら、手伝うから。言ってくれれば……」
「ありがとう。助かるよ」
と、浪川は言った。一木は無言のまま、こくりと小さく頷いた。
それから数日、一木は衣装班の仕事を手伝うことになった。渡された型紙に合わせて布を切り抜いていくだけの単純作業。単純作業は嫌いではなかった。集中して黙々と取り組んでいるように見せれば、会話をする必要もない。
袮室は暇を見つけては衣装班を手伝いに来て、一木にあれこれと話しかけてきた。すると必然的に一木の側も受け答えをせざるを得なくなり、浪川たちとも会話をする機会が発生する。一木はこれだけ長時間クラスメイトとの会話の輪の中に入ったのは初めてだった。
相変わらず面白いことだって言えないし、声だって上手く出すことができない。
けれど、前より少しだけましにはなっている。一木にはそんな気がした。そんな変化が起こったのは、ずっと袮室と一緒にいたおかげなのかもしれない。一木はそう思った。
その日も袮室は衣装班の仕事を手伝っていて、彼女はハサミを動かしながら自分が演劇の中で喋る台詞をそらんじている。マクベスの妻が劇中で発する物騒な台詞の数々は、平穏な教室にはミスマッチだった。
一木は作業をする手を止めて、袮室の横顔を見た。そこには何の理由もなく。
袮室は一木の視線に気づき、台詞を途中で切って彼女の方へ顔を向ける。
「どうかした? 糸冬さん」
「えっ?」一木は驚いたように声を上げた。不思議なことに、自分がどうして袮室の横顔へ視線を注いでいたのか、一木自身にも分からなかった。「ああ……いや。あの、様になってるなって思って」
「そう?」袮室ははにかんだ。「それって褒めてる?」
「いや……役者としてってことで」一木は慌てて言った。「役柄と現実の女刀さんとは違うし……」
袮室は息を吹き出して笑った。
「冗談だよ」
「そ……そっか」
一木は安堵して息をつく。一木には苦手なコミュニケーションだった。相手の言っていることが冗談か本気か分からない。相手の表情を見ても、その心理までは見えなかった。
浪川は薄手の布を机の上に広げてチャコペンを片手に何やら印を付けていた。彼は袮室たちの会話に入ってくる。
「実際、女刀さんの演技力については
小栗とは一年二組の演劇において総合演出を担当する生徒の名前である。
「本当?」
と、袮室は聞き返す。
「ああ。演劇部に勧誘しそうな勢いだったぞ」
「ホント? 嬉しい」袮室は笑顔を見せた。「まあ、わたしは部活はやれないんだけど」
「そうだったのか。忙しいのか?」
「そんなところ」と、袮室は頷いた。「わたしは糸冬さんと一緒に名探偵になって、謎解きに高校生活を捧げるから」
浪川は怪訝そうな目線を一木に向けた。
「糸冬さんと?」
「この人には名探偵の素質があるからね」
と、袮室は言う。話題の中心になった一木は目を伏せて、無言で作業を続けていた。
「しかしな。名探偵になると言っても、事件なんてそうそう起こらないだろ。探偵小説研究部にでも入った方がいいんじゃないか?」
と、浪川は言う。袮室はそれに反論して言った。
「わたしたちは現実の世界で名探偵になるんだから。フィクションのお話とは違うの。それに、事件や謎は自分たちの方から探しに行くものだから」
「それは確かに探偵らしいな」
と、浪川は苦笑する。
「だから浪川くんも、不可思議な事件があったらわたしたちに教えてよね」袮室は一木の方へ一瞬目線を送る。「糸冬さんが華麗に解決してみせるから」
一木は目を伏せたまま、小さく頷いている。実際に事件を解決しようという意気込みを持っていることは浪川にも分かった。
浪川は頷いた。
「そうだな……。俺の周りに、そんな事件が起こるとも思えないが。まあ、もしそんなことがあれば世話になるかもな」
しかし、浪川が二人に相談を持ち込むことになるのは、それから一週間後のことだった。
袮室と一木の助けがあって当初の想定以上に衣装の製作は早く進み、浪川たち衣装班はにわかに手に入れたゆとりある生活を享受していた。
袮室も俳優班に注力することになり、一木もリハーサルのために段取りのチェックに余念がなくなった。浪川が「謎」を持ち込んできたのは、そんなある日のことだった。
放課後。作りかけの大道具が散らばる教室に一木と袮室はいた。
教室には小道具を作っている小道具班の生徒たちが数名残っていた。袮室は一木をマクベス役の代わりにして台詞のチェックをしている。一木は袮室の脚本を手に持たされている。袮室の方は台詞を既に暗記していたから脚本を見る必要はなかった。
一木は自分の席に座り、袮室はその正面に立っていた。一木の席から目線を左に向ければ、窓の外には雲に覆われた空が見える。今日もまた雨だった。窓には水滴が付いて、重力に従って下へと流れている。
袮室は一つの場面を演じ終えた。そのタイミングを見計らったように、浪川が現れた。
「女刀さん。少しいいか」
二人は浪川の方へ同時に視線を向けた。
「衣装のこと?」
「いや、個人的なことなんだが……」浪川は言いづらそうに目線を泳がせたが、やがて意を決して告げる。「こないだ言ったこと、覚えてるよな。不可思議な事件があれば、それを解決してくれるって」
「うん」袮室は頷いて、神妙な顔つきになる。「ってことは、事件発生ってこと?」
「そんなに大仰な話でもないんだが……傘が盗まれたんだ」
「それはお気の毒に」袮室は言った。「じゃあ、それを探してほしいって話?」
しかし盗まれた傘を探すという話なら、確かに探偵的な領分には違いないが、一木の推理力が発揮されるような場面ではないかもしれないと思った。
「いや、傘自体はもう戻ってきてるんだよ」
「盗んだ犯人が見つかったの?」
「そうじゃない。気づかないうちに盗られて、気づかないうちに戻ってきてたんだ」
それから浪川は、これが単なる盗難事件に留まらないことを示した。
「傘を盗まれたのは一昨日のことなんだが……問題は、その日は晴れてたってことなんだ」
言われて、袮室と一木は記憶を呼び起こす。確かに、ここ数日は雨の日が続いていたが、一昨日は久々に晴れていた。
晴れた日に傘が盗まれた。にわかに盗難事件が摩訶不思議な要素を帯びてきて、袮室は内心でわくわくするような気持ちを抑えられなかった。もちろん、そんな不謹慎な感情は表には出さなかったが。
「その時の状況を詳しく教えて」
袮室は尋ねた。浪川は頷いて、当日のことを話し始めた。
「その日の前日に雨が降ってたんだが、俺が帰る時には止んでたから学校に忘れちまった。だからその日に回収しようと思ってたんだ。でも、放課後になって帰る時に傘立てを見たらなくなってた」
「それは……」一木はおずおずと質問する。「前の日に盗まれたってことでは、ないんだよね……?」
「ああ。盗難のあった当日の朝、登校した時に昇降口の傘立てに傘があったのを確認してる。だから盗まれたのは一昨日で間違いない」
「そっか……」
「でも、その日は晴れてたんだよね」
袮室は言った。浪川は眉間にしわを寄せて頷いた。
「だから不思議なんだよ。どうして傘を盗んだのか。盗まれたこと自体はいい。もう現物も帰ってきたわけだし、モノ自体もコンビニで買った安物だ。だが、理由が分からないとスッキリしない」
「か……傘が帰ってきたっていうのは、その、どういうふうに……?」
一木は尋ねた。浪川は答える。
「ああ、それか。傘がなくなっていることに気づいてから、俺は校舎の中に引き返した。考えにくいことだが、教室や部室に持って行って、それを忘れてるのかもしれないと思ったからな」
水滴が廊下や教室に落ちると滑りやすくなって危険なので、傘を校舎内に持ち込むことは推奨されていない。しかしうっかり教室まで傘を持ってきてしまう生徒は後を絶たず、梅雨の時期になると教室の後ろの方にはいつも数本の傘が立てかけてあるのが常だった。
「でも、教室にはなかったんだよね?」
一木は尋ねる。もし教室にあったという単純な話なら浪川も悩んだりはしないだろう。
「残念ながら。部室の方も見たが……ああ、俺は手芸部で、第一家庭科室が部室になってるんだが。そっちにもなかったよ」
「それからどうしたの?」
と、袮室が聞いた。
「見つからないんで、これは盗まれたんだと思って諦めて帰ろうと思った。でも昇降口に戻ってきてみたら、傘立てに元通り傘が戻ってた」
「最初に見た時、傘がなくなってたのは確かなんだよね……?」
一木は確認した。浪川は確信を持って頷いた。
「ああ。少なくとも一時的に傘がなくなってたのは間違いない。俺が校舎の中をうろついていたのは三十分くらいの間だから、その間に誰かが傘を返したんだとしか思えない」
一木は考えた。一度盗んだ傘を返すという行為に理由はあるのだろうか。次の日に返却するというのであればまだ理解できる。しかしその日のうちに返すという行為は不可解だった。
しかも、当日は晴れていた。ならば、傘を盗む行為自体の意味合いが不明瞭になってしまう。
「そうだ!」と袮室は顔の横に人差し指を立てた。「日傘だよ。日傘だったら晴れてる日も使うでしょ?」
「わざわざ他人の傘を盗んでまで日傘を……?」
一木がそう指摘すると、袮室はそれに答えた。
「それほど日焼けに気を遣ってる人なんだよ。犯人は色白の人ってことだね」
ちなみに袮室の肌も白い方だった。彼女はそれほど美容に気を遣わないにもかかわらず、なぜか卵のような肌を維持できるタイプの人間だ。一木にとっては羨ましくて仕方なかった。
「悪いが、その推理はハズレだ。俺の傘は透明なビニール傘だからな」
透明な傘では紫外線は防げない。日傘説は早々に否定されてしまった。
「ううん。よく考えたら、三十分後に傘が戻ってきた理由も説明できないといけないんだもんね」
袮室は言った。日傘説にはその視点も欠けていたと、袮室は今更になって気づく。
「本当にその日って、ずっと晴れたままだったかな?」
一木は尋ねた。
「そうだね。一時的にでも雨が降っていたなら、傘を持って行く理由にはなるかも。その後すぐに止んだから、傘を返しに戻ったとか」
と、袮室は言った。
「けどな……あれだけ晴れてたわけだしな。通り雨ってのも考えづらい。それに、俺が見た時には傘に水滴も付いてなかった」
「じゃあ、それも違うか……」
一木は呟いて、考え込んだ。しかしこれといった推理はなかなか出てこなかった。
袮室は、パン、と手を叩いて言った。
「とりあえずさ。一昨日本当に雨が降っていたのか確認してみるってのはどう?」
「そうだな」浪川は頷いた。「だが、仮に記録を確認したとしても、局所的で短時間の雨だったら見落とされてる可能性もあるんじゃないのか?」
「大丈夫」袮室は立ち上がった。「この学校の周りの天気だったら、誰よりも詳しい人がいるから」
袮室は一木と浪川を連れて、校舎五階の空き教室へと向かった。七星学園は現在一つの学年に九つのクラスを持っているが、かつて実験的に生徒数を増やした際、一時的に十個目のクラスを設けたことがあった。袮室たちが向かったのは、かつて三年十組として使用された教室だった。現在は教室としても部室としても使用されておらず、用途を持たない。鍵もずっと開けっぱなしというなおざりっぷりだった。
教室の扉は開け放たれたままになっており、袮室たちはその中に一人の生徒がいるのを見た。窓際に置かれた机の上に座り、スカートの下で脚を組んで窓の外を見上げている。
その生徒は、袮室たちの来訪に気づいて振り返る。
「君は確か一年の……女刀さん」
「こんにちは、先輩」袮室は挨拶してから、残る二人に彼女のことを紹介した。「こちらは三年の
入学してから二年強の間、平日は毎日欠かさず空を観察し続けているという天城の行動は、生徒たちの間では有名だった。一木たち一年生はまだ限られた者しか天城の存在を知らないが、広まるのも時間の問題と言えた。
「空を観察ってことは……」
浪川は、自分がどうしてここに来たのかを察した。一木の方は上級生を目の前にして恐縮し、縮こまるばかりである。
「何か知りたいことでもあるの?」
と、天城は尋ねる。
「そうなんです」袮室は頷いた。「一昨日の水曜日、雨が降ったかどうか知りたくて」
「一昨日の?」
天城の表情に、小さく驚いたような色が広がった。しかしすぐに平生の表情を取り戻した天城は、自分が今尻の下に敷いている机の中から一冊の手帳を取り出した。
その手帳は市販の日記帳だったが、その中身は全て天候のことしか書かれていないという代物だった。
「一応言っておくけど、私の記録では日が暮れるまでのことしか書いてないよ」
「それで構いません」
と、浪川は言った。傘が消えたのはまだ日が昇っている日中のことだったからである。
天城は手帳を開き、一昨日のページを示した。
「ずっと晴れだったみたいだよ」
「やっぱり、一度も雨は降ってないですか。一瞬たりとも?」
袮室が念のために尋ねると、天城は頷いた。
「そうだね。一瞬たりとも」
「そうですか……」
一様に難しい顔をしている一年生三人に向かって、天城は声をかけた。
「何か根拠があって聞きに来てるんだよね? 私が見落とすはずないんだけど、こうも続くと自信が……いや、私が間違えるはずもないんだけどさ」
天城は同じようなことを二度繰り返した。しかし一木が気になったのは繰り返しの間の部分だった。
「『続く』って……その、どういう……ことですか?」
「ああ、昨日も同じようなことを聞きに来た子がいたから。二年の子だったけど。もしかして知り合いだったりする?」
「いや……どうでしょうね」袮室は言葉を濁した。「ちなみに、どなたでした?」
「名前は確か……
その名前を袮室は頭の中でメモに書き留める。
「いえ、やっぱり知らない人でした。話を聞きたいんですが、連絡取れませんかね?」
袮室はそう打診した。浪川の傘の件と関係があるかは分からないが、現状何らかの手がかりになりそうなのはその白石とかいう生徒しかいない。
「連絡先は知らないけど、放課後はいつも部室にいるって言ってたから、部室に行けば会えるんじゃないかな。探偵小説研究部だって言ってたよ」
「分かりました。ありがとうございます」
袮室は頭を下げて、空き教室を後にする。一木と浪川も天城に一礼して袮室の後に続いた。天城はまた空模様の観察へと戻った。
廊下を迷いなく歩いて行く袮室へ、一木は尋ねた。
「探偵小説研究部って、どこにあるの……?」
「二階の多目的教室だよ」
袮室は答える。「よく覚えてるな」と浪川が感心する声が後ろから聞こえてきた。
階段を降りて二階へと戻ってくる。一年生の教室が並んでいた。いくつかの教室は、扉に装飾が施されている。文化祭に向け、教室を改造している最中だった。
ある教室の廊下の壁には、壁画のようなものが描かれていた。一木は思わず足を止めて、その絵に見入る。まるでファミコンの画面のような、解像度の荒い風景画だった。山や青空、白い雲が描かれている。
近づいて見ると、その正体が判明した。小さなビーズをくっつけて、ドット絵を形成したものを壁に貼り付けていたのだ。どうやらまだ描きかけらしい。
それにしても、これだけの規模の絵をビーズで描くとなると、相応の根気が必要になるだろう。一木はそんなことを考えた。
気がつくと、浪川も隣で絵を見ていた。同じことを考えていたらしく、「たいしたもんだな」と呟いている。裁縫という手先を使う趣味を持つ彼にとっては、その苦労もよりリアルに想像できた。
「二人とも、行くよ、ほら」
袮室は少し離れたところから呼び寄せた。
「あっ……ご、ごめん」
一木はそう言って早足で廊下を歩いていった。
袮室は多目的教室の扉をノックした。中から落ち着いた雰囲気の女性の声で「どうぞ」と聞こえてくる。
扉を開くと、まず正面にある巨大な本棚と、その中にぎっしりと詰め込まれた本の背表紙が目に飛び込んでくる。
そしてその本棚を背にし、パイプ椅子の上に腰掛けて本を読んでいる女子生徒が一人。彼女が件の白石である。
黒縁のオーバル型の眼鏡をかけていて、ミディアムショートのストレートヘアーは黒々とした艶を持っていた。
「失礼します。白石さんという方にお会いしたいんですが」
袮室が言うと、彼女は本から目線を上げて答えた。
「白石は私ですが。入部希望者ではなさそうですね」
「そうですね。今日はちょっと、聞きたいことがあって」
「何です?」
「一昨日のことです。白石先輩は、天城先輩に聞きに行かれたそうですね。その日、雨が降っていなかったかって」
「ああ、そのことですか。まあ、結局私の思い過ごしだったようですが」
「実は、わたしたちもその日に雨が降ってたんじゃないかって疑ってるんです。先輩はどうして雨が降ってると思ったんですか?」
「それが不思議でね」と、白石は話し始めた。内心では彼女もその話を誰かに聞いてもらいたがっていたのだ。「雨音が聞こえたんですよ。ザーっと激しくね」
「雨音、ですか……」
袮室は呟いた。浪川も興味を持って、少しばかり身を乗り出した。
「本当に雨が降ってたってことですか?」
白石はかぶりを振った。
「それが分からないんです。部室で雨音を聞いたんですが、その時は本を読むのに集中していて、窓の外の様子は気にしていなくて。すぐに音も止まったから、通り雨のようなものだろうと思って気にしていなかったんです。ですが、その後で帰ろうとして外に出たら、地面がちっとも濡れていなかったので、不思議に思って」
雨音は聞いたが、実際に雨が降った痕跡はない。それで本当に雨が降ったのかどうか分からなくなって、天城のところへ確認しに行った……ということだった。
「雨音を聞いたのはいつ頃でしたか?」
と、袮室は尋ねた。
「刑事の聞き込みみたいですね……別にいいですけど」白石は冗談っぽく言った。「あれは放課後、部室に来てすぐのことでした。授業が終わってから十五分か、三十分後といったところですかね」
「俺の傘がなくなった時間とも、大体合致してる」
浪川は袮室たちに向かって告げた。事情を知らない白石は尋ねた。
「傘?」
「ええ。そもそも、わたしたちがここに来た発端なんですが……」
袮室は、浪川の傘がなくなった事件について端的に説明した。話を聞いた白石は頷いた。
「なるほど。確かにミステリーですね、それは。私が好きなのは殺人事件が起こる話なので、日常の謎は専門外ですが」
「そういうわけで、この糸冬さんと一緒に事件の謎を解こうと東奔西走中なんです」
と、袮室は説明を終えた。白石は、袮室に示された一木の顔を一瞥する。一木は恐縮して縮こまりながら会釈した。
「そうでしたか。私としても、ぜひ真相を見つけてもらいたいものですが」
白石は言った。
一方、一木の中には一つの推理が組み立てられつつあった。一木は唐突に口を開いた。
「あの……白石先輩」
「何です?」
「その雨音ですけど……どっちの方向から聞こえてきたかは、覚えてますか……?」
「どっちの、って……」白石は目線を動かしながら、記憶をたぐり寄せようとする。「それは当然、外から」白石は本棚の横の窓を振り返った。「こっちから聞こえてきたに決まって……」
そこで白石は一瞬絶句してから、「あっ」と声を上げた。
「いや……違う。あの時も私はこうやって窓側を背にして座っていて、雨の音は私の正面から聞こえていたような」
「えっ?」袮室が意外そうに声を上げた。「それじゃあ、校舎の中に雨が降ってたってこと?」
「いや、二階に雨漏りしてたら大問題だと思うよ……」
一木は言った。それもそっか、と袮室は頷く。
「だったらどういうことなんだ」
浪川は聞いた。
「白石先輩の聞いた雨音の件を解明すれば、浪川さんの傘が盗まれた理由も分かる……はず」
と、一木は答えた。
「糸冬さん……でしたっけ」白石は一木のことを見据えた。「聞かせてください。あなたの推理を」
一木は小さく頷いて、それから袮室と目を合わせた。それから彼女は真相を解明し始めた。
「じゃあ……最初に、雨音の件から。白石先輩は雨音を聞いた。でも、天城先輩の話だと、実際には雨は降っていないはず。天城先輩の言うことを信じるなら、こう考えるしかないと思います。つまり、白石先輩は雨音によく似た音を雨音と誤認した、ということです」
「なるほど」白石は頷いた。「実際に雨が降っているところを見たわけではありませんから、あり得る話です。しかし、何と間違えたと?」
「それは……ビーズです」
「ビーズ?」
袮室は聞き返した。一木は頷く。
「先輩が聞いたと言っていたのは、ザーという音。細かいビーズが大量に落ちたら、似たような音になると思います。レインスティックみたいに」
筒の中に細かい穀物の粒などを入れて、雨音のような音を鳴らす楽器があると、一木は何かの本で読んだことがあった。
「言われてみれば、そんな音だったような気も……ですが、ビーズなんてどうして学校にあるんです」
「文化祭で、ビーズを使っているクラスがあって……」
「そうか。例のドット絵を作るために」
浪川は言った。ここに来る道中で見た、あるクラスの飾り付けを思い出す。無数のビーズで作られたドット絵の壁画を。
一木は頷いた。
「まあ、ビーズを使った飾り付けを考えてるクラスは、他にもあるのかもしれないけど……。とにかく、そのクラスの人は飾り付けに使うビーズを、どこか別の場所から運ぼうとした。多分、袋か何かに入れて。でも、途中で袋が破けたとかで、ビーズをばら撒いてしまったんです。それがこの部室の目の前だった。ですが、先輩はそれを雨音だと思った……ということなんじゃないかと」
「そうだったんですね。外でそんな大変なことになっていたなら、手伝ってあげればよかった。私が部室を出た時には廊下はなんともありませんでしたから。それはつまり、散らばったビーズは既に片付けられた後だった、ということですよね?」
白石が尋ねると、一木は頷いた。
「多分、そういうことなんじゃないかと」
「雨音の件は納得行ったよ」話を聞いていた浪川は口を開いた。「だが、もしそうなら、雨は実際には降っていなかったことになる。俺の傘が盗られた理由に説明は付くのか?」
「うん。じゃあ、今度はそっちを説明するね」
一木は浪川の方へ向き直った。
「そもそも問題は、傘を何に使ったのかってことだった。雨を防ぐためでもないし、もちろん日傘でもない。つまり、本来の用途とは別の目的で使ってるんじゃないかって。
そして、ここの前の廊下で起こったことを考えれば、その用途もはっきりする。浪川さんの傘は、受け皿として利用されたんじゃないかな」
「受け皿って、もしかして」
「廊下に散らばったビーズ。それを回収してから、運ばないといけなかった。でも、運搬に使っていた袋は破けて使えない。そこでその人たちは、開いた傘をひっくり返して、その中にビーズを溜めて運ぶことを考えたんだと思う。
でも、その日は珍しく晴れてたから、誰も自分の傘を持っていなかった。それで仕方なく傘立てにあった浪川さんの傘を借りることにした。それがちょうど浪川さんが帰ろうとしたのと入れ違いになって、もう一度見に行った時には使い終わった傘が返却されていた……って、ことだと思うんだけど」
一木の推理を聞いて、袮室は頷いた。
「その日は晴れてたから、ちょっとくらい借りても問題ないと思ったのかもね」
「うん……まあ、だからと言って、勝手に持って行ったらダメだとは思うけど……」
それから一木は、当事者である浪川の顔を見た。「どうかな、浪川さん。納得した……?」
「ああ」浪川は頷いた。「そういうことだったなら、納得だよ」
「そっか……よかった」
一木は心の中で胸をなで下ろした。今回も無事に「探偵役」をやりおおせたという安堵感が彼女の胸中を支配する。
「なかなかの推理でしたよ、糸冬さん」
と、白石は賛辞を送る。
「あ……ありがとうございます」
と、一木は頭を下げた。
それから一年生三人は探偵小説研究部の部室を後にした。廊下を歩きながら、一木はおずおずと浪川へ話しかける。
「あの……浪川さん。その、さっき私が言ったことは、そんなに根拠があるような話でもないって言うか……。だから、えっと、あのクラスの人にさっきの話をするのは……」
「分かってる。話さないよ。俺は理由が知りたかっただけだしな。向こうも緊急だったんだろう。傘の一本くらいで目くじらは立てない」
「なら、よかった」
と、一木は呟く。
「疑問が氷解してスッキリしたから、トータルでは良い気分だよ。ありがとう、糸冬さん。女刀さんも」
浪川は言った。一木はわずかに口元を綻ばせて頷いた。
その日の帰り道、一木と袮室は並んで歩いていた。雨はもう上がっていて、一木は畳んだ傘をステッキのように地面に突きながら歩く。袮室の折りたたみ傘はカバンの中にしまわれていた。
雲の隙間からわずかに晴れ間が見えていて、濡れた路面がキラキラと輝いていた。光の下を歩きながら、袮室は言った。
「糸冬さんも、だいぶ探偵らしくなってきたね」
「そう、なのかな」
そもそも、探偵らしいとは何かすら一木には分かっていなかった。
それから一木は呟く。
「そういえば、上級生の人と話したの、初めてだったかも……」
「探偵たるもの、年上だからって怖じ気づいてたらダメだからね」
「そうなの……?」
「まあ、そういう時のためにわたしがいるってもんだけどね」
袮室は一木に向かって笑いかけた。
一木は思い出す。今日一日、話を聞き出してくれたのはほとんど常に袮室だったと。
一木一人では、情報を集めるのは無理だった。
しかし袮室一人では、集めた情報を総合して真相にたどり着くことはできなかったかもしれない。
二人のうち、どちらが欠けても真相にはたどり着かない。そんな相互的な関係になれているのだとすれば。
それは、対等な友達と言ってもいいのかもしれない。
一木は、頭の片隅でそんなことを考えた。
「でも、早々に解決できてよかったよ」袮室は言った。「これで『マクベス』に集中できるってもんだよ」
それから袮室は空を見上げて、「あー、緊張するな」と呟いた。
「女刀さんも、緊張とかするんだ」
「そりゃ、するよ。舞台に立つなんて初めてだし」
「大丈夫だよ。文化祭の演劇なんて、知り合いくらいしか見に来ないんだし……」
「でも、やっぱり成功させたいな。せっかくクラスのみんなで作る演劇なんだからさ」
そんなことを真面目な顔をして言えてしまうなんて、袮室はやっぱり自分とは違ったタイプの人間なんだなと一木は思った。少なくとも一木にとっては、自分の担当する仕事さえ失敗しなければ、演劇そのものの成否はどうでもいいとさえ思っていた。
でも、今は少しだけ、成功させたいという気持ちも芽生えている。
一木の中に芽生えた感情は、袮室から受けた影響を示していた。でも、一木はまだ自分の中に生まれた気持ちにはっきりと気づいてはいなかった。
一木は聞いた。
「ねえ、中学の文化祭はどんなことしてたの?」
きっと袮室のことだから、中学の時も中心的な役割を演じていたに違いない。一木の通う中学の文化祭は部活単位で行われるものだったから、帰宅部である一木にはほとんど無関係のイベントだったが。
しかし袮室の反応は、一木の予想とは違っていた。
「いや、中学の頃はね。文化祭とかは、あんまり」
「あ……そういうの、やらない学校だったの?」
「そういうわけじゃないけど。ちょっと……風邪引いちゃって。参加できなかったんだよね」
一木はその言葉に違和感を覚えた。中学は三年あって、その全てで風邪を引いたとは思えない。
袮室の表情は一見すると笑顔で、何気ないことのように語っているが、話を変えたがっていることは明白だった。彼女は早々にこの話を打ち切ろうとしていた。
その態度は一木にさえ分かってしまうほどに露骨で、とてもそれ以上話を続ける気にはならなかった。
「あのさ……女刀さん」
一木は言った。袮室は一木の方を見る。
それからしばらく一木は何も言わなかった。数歩を歩いたところで、ようやく彼女は口を開いた。
「が……学校のさ、自販機のラインナップ、変わったよね」
結局一木の中から出てきたのは、そんなつまらない話題だけだった。
袮室は普段通りの明るい調子で答える。
「そろそろ夏だからね」
一木は「うん」と言って頷く。やがて前方に駅舎が見えてきた。
袮室が自分の中学時代について嘘をついているのだとして、その裏にどんな意図が隠されているのか、一木には分からなかった。そしてそれを暴こうとも思わなかった。
一木は気づいていた。自分が袮室の過去を何も知らない、ということに。
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