第2話 夢の卵

 糸冬いとふゆ一木いつき七星しちせい高校に入学してから一ヶ月ほど。入学以来初めての席替えが行われた。これまでは出席番号の順番に並んでいただけだったが、今回はくじ引きによってアトランダムに決められた座席である。

 一木の席はほとんど変わらなかった。前と同様。窓際の列。それが一個後ろにずれただけ。見える景色も代わり映えしない。

 変わったのは、周りにいる生徒が誰か、ということだった。もっとも、一木はまだクラスメイトの顔と名前を全然覚えることができずにいるのだが。

 隣の席に新しく来たのは、ちびまる子ちゃんのような黒髪ボブの女子生徒だった。名前を高野たかのという。新しい椅子に腰掛けた高野は、一木の顔を一瞥する。

「よろしく。あー……えーっと……」

「糸冬です」

「ああ、そうだ。糸冬さん。よろしく」

 名前を覚えられていないことを、一木は不快に思ったりしない。必要な時以外、クラスメイトとはほとんど口を利かないのだから、覚えている方がどうかしている。それに、こっちだってクラスメイトのことをまるで覚えられないのだからおあいこだ。

 一木は袮室ねむろのことを考えた。そういえば彼女は、初めて話した時から自分の名前を覚えていた。

 

 入学してからしばらくして、新入生は思い思いの部活動に参加していった。

 袮室も春休みの頃は、何の部に所属すべきか頭を悩ませていたものだった。やはり運動部に入ってインターハイの一つでも目指すべきだろうか。袮室は運動がさりとて得意というわけではなかった。しかしそれは経験が不足しているだけであって、本気で練習すれば才能が開花するのでは……という期待もあった。もしくは、文化部に所属して趣味の世界に没頭するのも悪くない。

 などと、めくるめく可能性に胸を躍らせていた袮室だったが、入学式から一週間後に起こったある出来事がきっかけで、それらの予定をまるまる全て変更してしまった。

 入学以来、袮室は何のクラブにも所属していない。純然たる帰宅部。袮室の人間性を少しでも知る者にしてみれば、これほど意外なことはないだろう。

 袮室が部活をやらない理由はただ一つ。一木に探偵をやらせるために他ならなかった。

 

 今、一木は教室で袮室と喋っている。放課後の教室には数名の生徒が残っていた。一木たち同様に閑談に興じている者たちもあれば、問題集を机に広げて勉強をしている者もいる。一学期の中間考査はまだ先のことなのに、熱心なことだと一木は感心する。東大にでも行くつもりなのだろうか。

 袮室が部活をやらないと決断し、一木は元より部活に所属するつもりなどなかった。二人は帰宅部仲間になった。

 一木としては、せっかくの帰宅部なのだから、授業が終わったら早く家に帰りたい。

 しかし袮室の方は一木のことを呼び止めて、教室で色々と喋りたがる。一木はそれに付き合うことになる。

 本当にさっさと帰りたいのであれば、袮室の誘いなど断って一人で帰れば済む話。なのにそうしないということは、つまるところ、内心では一木の方もそう悪い気はしていないのだった。放課後に、袮室と二人で過ごすこの時間が。

 袮室の口はよく回る。彼女が何か話し、一木はそれに相づちを打つ。一木の方は面白い話題も提供することができなくて、いつも袮室が一方的に話してばかりになってしまう。

 一木は時折、不安に思う。こんなふうに話していて、果たして袮室は楽しいのだろうか、と。こんな調子では、早晩袮室は愛想を尽かして、二度と自分と話してくれなくなるのではないか、と。

 だったら、自分から面白い話をすればいい。

 でも、できなかった。どんなことを言えば袮室を楽しませることができるのか、一木には皆目見当がつかない。芸人のような話術もない。作家のような表現力もない。

 だから一木には、結局袮室の話を聞いて相づちを打つこと以外にできることはなかった。

「それにしたって……」と、袮室は呟く。「驚いたな。学校というものが、こんなにも事件の起こらない場所だとはね!」

 そう言って一木の方を見る。彼女は別段驚いたような表情も見せず、頷いた。

「まあ、本来学校って、そういうものだと思うし……」

 袮室はまだ一木を探偵にすることを諦めていなかった。しかし、肝心の事件や謎が見つからない

 一木に言わせれば、それも当然のことだった。七星高校はありふれた平凡な公立高校である。

「せっかく糸冬さんに探偵をやってもらおうと思ったのにな」

「だ、だから。私はそんなのやらないって……」

「分かってるって」袮室は笑顔でサムズアップしてみせた。「まずは友達から、でしょ?」

 やっぱり袮室は、全然分かっていない。

 自分には全然探偵の才能なんてないのだ。袮室にはそれを分かってもらわなければ。期待が大きくなればなるほど、裏切ってしまった時の罪悪感も強くなるというもの。

 これ以上袮室の期待が膨らんでしまう前に、一木は何とかして自分に対する誤解を解かなければならないと思っていた。

「まあ、そのうち色々起こるよね。密室連続首切り殺人とか」

 物騒なことを朗らかな声で言いながら袮室は立ち上がる。そんなことが起こるのは推理小説の世界だけだ、と一木は心の中で突っ込んだ。袮室は時折現実とフィクションの区別が付いていないかのような言動をする。天然なのかふざけているのか分からない。

 そして一木に向かって呼びかけた。

「そろそろ帰ろ」

「あっ……うん」

 一木はカバンを手に立ち上がった。袮室と二人して教室を後にする。

 こんなふうに誰かと一緒に帰ること自体、一ヶ月前の一木にしてみれば信じられないことだった。そして、それがほとんど毎日のように続く習慣になったということも。しかし一番信じられないのは、その相手が袮室だということだった。

 袮室は一木に愛想を尽かす素振りすら見せず、「友達」でいることを続けてくれている。いつか「相棒」になるために。

 それはまるで、ぬるい温泉のように心地よくて、ずっと浸かっていたくなってしまうような感覚だったけれど。

 それでも、いつかは手放さなければならないのだろうな、と一木は思っている。

 自分に価値がないと知られてしまうのは、怖いから。

 頭ではそう思っているのだが、一木はなかなか行動を起こすことができずにいた。

 そしてその日も、袮室の後ろに続いて教室を出た。その直後。

 教室の中から、二人を呼び止める声があった。

「ねえ、女刀めがたなさん」

 袮室と一木はほとんど同時に振り返った。

 教室の出入り口のところに立っていたのは、二人のクラスメイトである高野だった。

「あ、高野さん? どうしたの」

 袮室は尋ねた。

「いや……さっき教室で、二人が話してるのが耳に入っちゃってさ」高野は袮室と一木の顔を見比べるように見た。「不思議な出来事を探してるんだってね?」

「いや……」

 一木の言葉を遮るように、袮室は身を乗り出して頷いた。小刻みに、何度も。

「うんうんうんうん、そうなんだよ。で、高野さん。何かあったの? 不思議なこと」

「まあ、不思議というか何というか。ちょっとばかしね」

 高野さんはどこか困ったような笑みを浮かべて頷いた。

 

 三人は場所を変える。人気のない廊下で高野の話を聞くことにした。廊下には吹奏楽部が金管楽器を練習する音が響いている。まだ音を出すのにさえ苦労しているのは一年生だろうか、と一木は考えていた。

 高野は廊下の窓枠にもたれかかり、一木と袮室を正面にして話を始めた。

「これは私が所属してるクラブで起こった『事件』なんだけど」

 そう高野は前置きした。

「高野さんは確か……漫研だったよね」

 袮室が言うと高野は頷いた。

「そう。よく覚えてるね、女刀さん」

「まあ、クラスメイトのことは大体ね。それで、漫研で何があったの?」

「そんな深刻な話でもないんだけどね。漫研──つまり、漫画研究部。漫画を研究するってことは、当然自分で描いたりもするんだけど。先輩が切ったネームに、ちょっとした問題があってね」

「ネームって、どんなんだっけ?」

 袮室は高野の話を中断させて聞いた。なぜか隣にいる一木に目線を向けながら。一木は渋々答える。

「漫画を描く前に、コマ割りとか構図とか台詞とかをざっくりと描いたもので……漫画の設計図みたいなもの、かな」

「そういう理解で合ってるかな」

 と、高野は頷いた。一木は恐縮したように目を伏せる。

「それで、どこまで話したっけ? ああ、そうそう。先輩が切ったネームの話ね。

 その先輩は藤本ふじもとって言うんだけどね。藤本先輩はネームの段階では家で一人で作業してるんだけど、ネームが完成したら一旦部員に共有してフィードバックをもらうことにしてるんだよね」

 なるほど、と袮室は頷く。そうやって他人の意見を取り入れながら漫画をブラッシュアップしていくのだろう。

「でも、その段階で問題があった?」

 袮室が尋ねると、高野は頷いた。

「うん。漫研にいるもう一人の先輩で、安孫子あびこって人がいてね。藤本先輩とは同じ学年なんだけど。その安孫子先輩が、藤本先輩のネームを見た時に、なんと言うか……複雑そうな表情をしてて。で、その日の帰りがけに安孫子先輩から話を聞いたんだよね。

 安孫子先輩が言うにはね、藤本先輩に見せてもらったネームの内容を知っていたって言うんだよ」

「知っていた?」袮室が聞き返す。「その安孫子さんは、事前に藤本さんから漫画の内容を聞かされてたってこと?」

 高野は首を横に振った。

「いや、そうではなくて。安孫子先輩は、そのネームと同じ内容の夢を見たって言うんだよ」

「夢?」袮室はハッとした表情を見せた。「そうか。予知夢!」

「すごい飛躍……」

 一木が呟いた声は、袮室の耳には届かなかった。 高野は笑いながら言う。

「まあ、安孫子先輩はニュータイプじゃないからさ。超能力ってことはないだろうと思って。それで、色々話を聞いてみたんだよ。そしたら、安孫子先輩が夢日記を書いてるって聞いて。見せてもらったんだよね」

「へえ、凄い人なんだね、安孫子さんって」袮室は感心したように言った。「わたしだったら、他人に日記見せるなんてとてもとても……」

「夢のことしか書いてない日記だから、昼間に起きた出来事を書いた日記とは違うんじゃ……?」

 横から一木が言った。

「あ、そっか。まあ、夢の出来事だけならいくらでも聞かせていいか」

「うん……そういうことだと思う」

「糸冬さんは日記やってる?」

「いや……私は。女刀さんは付けてるの? 日記」

「たまにね。そうだ、糸冬さんもやろうよ。日記。それで交換日記しよう」

「えっ、いやそれは……私、字汚いし……」

「えー、読めればなんでもいいよ。やろうやろう。交換日記ってなんか、友達っぽいじゃん」

「で、でも。私の日常、面白いことなんて何もないし……」

 萎縮している一木に、高野は声をかける。

「あのー……話、続けていい?」

「あっ! ……うん」

 申し訳なさそうな表情で一木は頷いた。

「ごめんごめん。続けてください」

 と、袮室も続きを促した。

「えっと……それで、安孫子先輩の日記を見せてもらったんだけど」

「日記帳を持ち歩いてたってこと?」

 袮室は尋ねた。

「ああ、日記と言っても紙の日記帳じゃないから。スマホのメモに夢の内容を箇条書きしてるって感じで」

「なるほどね」

「それで私も安孫子先輩の夢日記を見せてもらったんだけど、その内容は藤本先輩のネームとかなり近かった。もちろん、完全に同じっってわけじゃないけどね。内容はファンタジーっていうかSFっていうか、『カウボーイビバップ』的なスペースオペラで。いや、むしろ『ダーティペア』かな?」

 どっちの作品名も一木たちには分からなかった。高野は構わずに続ける。

「とにかく、世界設定とか大雑把な展開とかが藤本先輩のネームに凄くよく似てたんだよね。私もそう思ったから、安孫子先輩の思い込みとかじゃないことはハッキリしてるってわけ」

 そこで高野は話を区切った。

 袮室は、隣にいる一木の表情を一瞥する。一木は高野とほとんど話したことはないし、さっきから高野と会話しているのはほとんどが袮室の方だ。探偵なら、関係者に聞き込みをしなければならない。しかし一木にとってそれが最も不得手とする分野であるということも、袮室には段々と分かってきたところだった。

 ならば、ワトソン役の出番である。

 袮室は一瞬思考して、何を聞き出すべきか考える。

「安孫子さんはいつその夢日記を書いたの?」

「その日──つまり、藤本先輩にネームを見せられた日から、一週間前くらいかな。うん。日付を見たから間違いない」

「その時点では、藤本さんのネームは?」

「どうかな。藤本先輩はネーム作業は家でしかやらないから、どのくらいの速さでやってるかは知らなくて。長さは確か八ページくらいだったけど、まあ、ああいうのってページ数に比例して時間がかかるってものでもないし。アイデアが出てくればすぐに描けるだろうけど、出なかったらそれまでって感じで」

「なるほどね、そういうものか」

 袮室は頷いた。

 安孫子が夢を見た時点で、藤本がネームをどの程度完成させていたかは分からない。大部分が出来ていたのかもしれないし、全く取りかかっていなかった可能性もあった。

 しかし後者なら、安孫子は本当に予知夢を見ていたことになってしまうではないか。

 さっきはああ言ったが、予知夢などというオカルトが現実に存在しないことくらい袮室にも分かっていた。

 では、どうしてネームの内容と夢の内容に一致が起こったのだろうか。

 まるでその疑問に答えるかのように、一木は小さな声で呟いた。

「それだったら……やっぱり、藤本さんが安孫子さんの日記を見たんじゃ」

 しかし高野は首を横に振った。

「私もそう聞いたんだけど、安孫子先輩は誰にもこの日記は見せていないし、夢の話もしてないって。ああ、私以外にはね。でも、私が日記を見せてもらったのも、例のネームを見た後のことだったし」

「じゃあ、藤本さんが日記を盗み見たってことは……」

 おずおずと一木は尋ねた。「まさか」と袮室は否定する。

「他人のスマホ覗き見るなんてあり得ないでしょ」

 本当にお人好しだな、と一木は思った。人間好奇心が勝てばそれくらいのことは平気でするだろう。

 しかし、高野の方も否定的に答えた。

「ううん、私もそれ、ちょっと疑ったんだけどね。安孫子先輩が否定するからさ」

「そ……そうだったの?」

「うん。『藤本は私に黙ってそんなことするようなやつじゃない』って。それに、スマホにはパスコードロックがかかってるから、盗み見るのは無理だろうって」

 高野は言った。そこへ袮室は尋ねる。

「その口ぶりだと、安孫子さんと藤本さんって結構仲いいの?」

「そうだね。二年の先輩は何人かいるんだけど、あの二人は割かしよく一緒に行動してるかな」

 そう言って高野はスマホを取り出した。インスタのアプリを開いて、袮室たちに見せる。SNSに慣れていない一木にとっては、まるで未知の世界がそこで繰り広げられていた。

 高野が見せたのは、ちょうど一週間ほど前の投稿だった。投稿者は藤本のアカウントで、小さなカップケーキの写真が投稿されていた。その写真に付けられたキャプションによれば、これは安孫子の誕生日に二人でお祝いをした時の写真のようである。藤本の家に二人で集まり、カップケーキを食べた、ということらしい。

「へえ。ホントに仲いいんだね」

 と、感心したように袮室は呟く。

 学校で祝うのではなく、わざわざ家に呼んでいるあたり、二人の仲が親密であることは間違いない。

 しかし、袮室にはこれでますます信じられなくなってしまった。本当に藤本は安孫子のスマホを盗み見て、夢日記の内容を盗んだのだろうか?

「もし仮に藤本さんが安孫子さんの日記を元にしてネームを作ったんだとして……もしそうなら、安孫子さんに相談して許可を貰えばいい話じゃない?」

 袮室は言った。一木はそれに答えて言う。

「やっぱり、盗み見たから……? 話しちゃったら、スマホを見たことも言わなきゃいけないから」

「やっぱり、安孫子先輩の言ってることが間違ってるのかな。藤本先輩は本当はスマホを覗き見してたってこと?」

 高野は一木に向かって尋ねた。一木は曖昧な返事をする。

「いや……それはまだ、断定はできないけど」

「でも、覗き見するって言ったってどうやって……」

 高野は考え込む。

 一木はいくつか方策を考えついていた。それを確認するために、おずおずと質問を繰り出す。

「安孫子さんは、スマホを肌身離さず持っているタイプの人?」

「どうだったかな……」高野は考え込む。「いや、違うな。安孫子先輩、よく部室で原稿やってるんだけど、その時によくスマホを離れた場所に置いておくことがよくあって」

「それは何のために?」

 と、袮室は尋ねる。

「集中するためだよ。スマホが手元にあると、ついツイッターとかピクシブとか見ちゃうからって」

「ああ、そういうことか」

「だったら、トイレとかで中座する時は……?」

 一木は尋ねた。

「そうだね……確かに、その時も置きっぱなしだったかも。だとしたら、もし藤本先輩が安孫子先輩と部室で二人きりの時にスマホが放置されてれば、中身を見るチャンスがあったことになるってことなのかな?」

 高野が尋ねると、袮室が横から言った。

「でもさ、ロックのことは? 安孫子さんのスマホにはロックがかかってたんでしょ?」

「それは……」一木が答えて言う。「藤本さんは安孫子さんと仲が良くて、誕生日とかも知ってたわけだよね。生年月日とか、単純なパスコードなら、突破するのは簡単……だと、思う」

「そっか。じゃあ、藤本さんがスマホを見る方法自体はあったかもしれないってことだね」

 袮室は言った。しかし高野はやはり懐疑的なままだった。

「でも、どうにも納得できないんだよね。そりゃ、物理的には可能だったのかもしれないけどさ。そもそも何のためにそんなことしたんだろう? 最初から夢日記を見ることが目的だったのかな?」

「魔が差したってことなのかも……」

 一木は呟くように言った。

「それに、安孫子先輩の夢日記の内容をそのまま漫画にしようとするなんて変だと思わない? おまけに、それを本人に見せるなんて」

 高野は言った。

 確かに、藤本が安孫子の夢日記を盗み見たのだとすれば、あまりに不可解な点が多い。袮室はそおう思った。

「ううん……どういうことなんだろうね?」

 袮室は一木に向かって尋ねた。

「見た本人も忘れてるのかも……」

「どういうこと?」

「たとえば、藤本さんが偶然安孫子さんの夢日記を目にしてしまったとするでしょ? 日記を見ちゃったこと自体は忘れても、その内容は無意識の中に残ってたのかもしれない。そして、それが自分の中にあるオリジナルの漫画のアイデアと混同してしまった……とか」

 一木はそう言った。しかし彼女はひとまず〈藤本が安孫子の夢日記を見た〉という前提の元に合理的な説明を加えたに過ぎなかった。一木自身も、その説明を完全に真実だと確信しているわけではなかった。

 では、真実は何なのだろうか。それが一木にはまだ分からなかった。

「じゃあ、逆なのかな……」

 と、一木は独り言のように呟く。

「逆?」

 と、袮室が聞き返す。

「うん。ネームが先にあって、安孫子さんの方がその内容を見たのかも」

「やっぱり予知夢?」

 袮室が言うと、高野も真面目な顔を作って言った。

「やっぱり安孫子先輩は超能力に目覚めてたんだね。学園都市のレベル5なんだよ」

 一木はその冗談に付き合わずに言った。

「……真面目な話、安孫子さんの方がネームを見た可能性はあるんじゃないかって、私は思うんだけど。だから夢にその内容が出てきたんじゃないかって」

「でも、藤本先輩はネームの完成前は誰にも見せないで作業するし、作業してるのも家だから、目にするチャンスはないんじゃ?」

 高野が指摘した。しかし一木はその程度の反論は想定済みだった。

「安孫子さんと藤本さんは仲がいいんだよね? さっき見せてもらった、誕生日の日の画像も、自宅で撮った写真だったし。つまり、お互いの家に上がるような関係だったはず。安孫子さんが藤本さんの家に遊びに行ったりしたなら、制作中のネームを見る機会もあったかも。故意に盗み見たわけじゃなくても、偶然目に入っちゃったとか……」

「無意識に目に入ってた漫画の内容が、夢として現れたってことか」

 袮室は頷きながら言った。

「結局、どっちの可能性もあるってことだね」

 と、高野は議論の内容をまとめた。

 安孫子の夢日記が先に存在し、藤本がそれを漫画にしたのか。

 あるいは、藤本のネームが先に存在し、安孫子がそれを夢に見たのか。

 漫画が先か、夢が先か。

 一木にも、それは分からなかった。

「どうかな? 糸冬さん」

 袮室は一木の顔を覗き込むように見た。真相を突き止めることを期待する表情。一木の精神にプレッシャーがのしかかる。

 一瞬のうちに一木は思考した。これまでに高野から聞いた話に手がかりはないか? 夢と漫画の関係を解き明かす証拠は?

 しかし、その意味はなかった。

 一木が決定的な結論を出すことはかなわず。ただ無言で首を横に振ってみせただけだった。

「そっか。まあ、そう簡単に分かるものでもないよね」

 高野は言った。

「ご、ごめんなさい……話聞いたのに、結局何も分からなくて」

 消え入るような声で一木は言う。

「大丈夫」高野は笑顔を作ってみせる。「最初も言ったけど、そんなに深刻な話でもないしさ。偶然だったのかもしれないし」

「……うん」

 一木は頷く。

 高野はスマホの画面を見て「もうこんな時間か」と言った。

「私、そろそろ行くね。また何かあったら話すから」

「うん。よろしく」

 と、袮室は言った。

 高野は廊下を足早に去って行き、一木と袮室はその背中を見送った。

 やがて高野の姿は廊下の角を曲がっていって見えなくなる。袮室は隣に立つ一木に向かって言った。

「さてと。わたしたちも帰ろっか」

 一木は無言で頷いた。

 

 学校の正門を出て、駅へと続く道を二人で歩く。

 一木は隣を歩く袮室の表情を盗み見ようとした。西日が逆光になって、袮室がどんな顔をしているのかは分からなかった。

 せっかく袮室が待望していた「謎」がやってきたと言うのに、結局ろくな解決も思いつくことができなかった。

 一木は考える。袮室は失望しただろうか、と。

 いや、もしそうだとすれば、それでもいいのかもしれない。

 袮室が期待するような探偵の才能は、一木にはないのだから。少なくとも、一木はそう思っている。彼女は自分の才能を信じてはいなかった。

 だとしたら、袮室を失望させるのはある種の必然。

 一木のことを見限った袮室は、きっと離れていくだろう。でも、それも仕方ない。遅かれ早かれ訪れていた宿命のようなものだ。それが今のタイミングだったというだけのこと。

 今の状況が、奇跡的だったというだけのこと。袮室のような人間と並んで歩くことができたこの一ヶ月が、一木の人生にしてみればイレギュラーだったのだ。

 だから、袮室が離れていくとしても、それは必然なのだ。

 そう思いながら一木は改めて、おそるおそる袮室の顔を見た。

 夕陽に照らされた袮室の顔は、眉間にしわを寄せ、少しばかり俯き加減になって、難しい顔で歩いていた。

 一木はその横顔に声をかけようとして、呟く。

「あの……」

 しかし、それとほとんど同時に袮室が大きな声を出した。

「あー! やっぱり分かんない!」

「え?」

「高野さんの話、ずっと考えてたんだけど、全然分からない。ネームが先にあったのか、夢を先に見たのか……」

「うん、私も……」

 そう言いかけた一木の言葉を、袮室が遮る。

「でも! 糸冬さんならきっと分かるよ」

「いや、私だって分からないよ」

「それは、手がかりが足りないからでしょ? いくら名探偵でも、手がかりが十分じゃなかったら、真相なんて分からないもんね」

 袮室は顔の横にピンと人差し指を立てながら言う。

 その表情は、真実を求めることをまるで諦めていないようだった。ただ、信じていた。一木が真相を解き明かすことを。

 一木の心が揺らいだ。自分を期待しているこの純真な目に報いたい。まだもう少しだけ、袮室のことを騙していたい。自分は本当に名探偵なのだと思わせていたい。そして、ほんのわずかでもいい。彼女の隣にいたい、と。

 だから一木は、小さく頷いて言った。

「そう……なの、かも」

「そうだよ!」

 袮室は嬉しそうにそう言って、一木の肩に抱きついてくる。突然抱きつかれ、一木の体は少しだけよろめいた。

 袮室の体が一木の体に密着してきて、互いの頬は触れ合いそうなくらいに近い。袮室の髪からシャンプーの良い香りが漂ってきた。袮室の枝毛一つないショートヘアが視界の隅に入ってくる。何をどうすればこんな髪になるのだろう。一木には想像が付かない。

 何より一木は、他人からこんなにもパーソナルスペースを侵食されたのは初めてのことで、緊張のあまり心臓の鼓動が速まって、全身が硬直して動かせなくなった。

 袮室は一木の様子など気にすることなく、抱きついたままの姿勢で言う。

「だから、明日からも徹底的に捜査して、真相を突き止めよう。糸冬さんとわたしの、最初の事件だからね」

 一木は今の状況では、喉の奥から声をひねり出すのが精一杯だった。

「あ……うん」

 口に出来たのはそれだけで、しかし袮室はそれを了承の台詞と受け取ったようだった。

 袮室は一木の体から離れる。柑橘系のシャンプーの香りがまだ体の周りに残っているような気がして、一木はしばらくの間落ち着かなかった。しかし離れてしまうと、何かもったいないような、残念なような、そんな複雑な感情も残った。

 

 高野が再び一木のところに現れたのは、翌日のことだった。まだ袮室は登校してきていない。

 朝早くに登校していた一木を捕まえて、相談を持ちかけてくる。

「糸冬さん。昨日のことなんだけど……」

「えっ……昨日のって……漫研の?」

 一木が聞き返すと、高野は頷いた。

「そう。ちょっと……問題が発生しちゃってね」

「問題って……何?」

 一木がそう聞いたのと同時に、袮室が教室に入ってくる。

「おはよう、二人とも」袮室は一木と高野の間に割って入るようにした。「何の話してたの? 昨日のこと?」

 一木は頷く。

「うん……何か、問題があったって……」

「ちょうどよかった。女刀さんも聞いてよ」

 高野は言った。袮室は頷いて姿勢を正す。

「聞かせて」

「問題っていうのは、昨日あったことなんだけど。あの後、女刀さんたちと話してから部室に行って。そしたら藤本先輩と安孫子先輩がいてね」

「問題の二人が揃ってたんだ」

 と、袮室は言った。高野は頷く。

「そう。昨日の話に出てた二人ね。で、その時に私がちょっとやらかしちゃってさ」

「やらかしたって?」

「うん……例の、夢日記のことを漏らしちゃったんだよね。安孫子先輩は私にしか話してなくて、藤本先輩本人には話してなかったみたいで。

 でも、藤本先輩には寝耳に水だったみたいでね。安孫子先輩が完成前のネームを盗み見たんじゃないかって。

 そしたら、安孫子先輩の方も、藤本先輩が夢日記を見たんだろうって。売り言葉に買い言葉みたいな感じだよね。

 どっちも相手に言われたことは否定したんだけど、結局水掛け論みたいになっちゃって。険悪っていうか、もう部室の空気最悪って感じで。まるで綾波とアスカが二人で乗ってるエレベーターに乗り合わせちゃったみたいな」

 最後の比喩は袮室たちにはよく分からなかったが、ともかく袮室は頷いた。

「そっか……大変みたいだね」

「まあ、元はと言えば私の口が滑っちゃったのが悪いんだけどさ。でも、なんかスッキリしない状況だよね。だってさ、ほら。先輩たち二人のうち、どっちかが嘘を言ってるってことになるでしょ?」

 すると、一木は高野に向かって尋ねた。

「たっ……高野さんは、どっちが、その……怪しいって思う……?」

 それは高野にとっては答えにくい質問だった。しかし彼女は一瞬考えてから、答えた。

「私の所感で言えば……藤本先輩の方が嘘ついてそうかな」

「それは、どうして……」

「別に、証拠とかあるわけじゃないけどさ。藤本先輩がネームを作り始めたのは完成する一週間前くらいだったらしくて、安孫子先輩が夢を見た時点ではまだ一ページも描き始めてなかったらしいんだよね。だから時系列的に言っても、安孫子先輩がネームを見るのは無理なんじゃないかって。

 それに、藤本先輩が言ってたんだけど、『あの漫画は自分が考えたオリジナルだ』って。だから夢日記をパクったわけじゃないって言ってた。でも、その時の先輩、なんだか目が泳いでるような感じがしてさ」

「それは確かに、ちょっと怪しいかも」

 袮室は頷いた。しかし他人を疑うことに慣れていない袮室は、この期に及んでも藤本が夢日記を盗み見た可能性に否定的だった。

「そもそも、本当にどっちかが嘘をついてるのかな」

「それはやっぱり、そうなんじゃない?」と、高野は言った。「夢日記か漫画か、どっちかが盗まれたとしか思えないわけだし。でも先輩たちは二人とも否定してるわけだから、それはどっちかが嘘をついてるってことになるでしょ」

「そうなのかな……。第三の可能性ってないのかな?」

「第三の可能性?」

 一木は聞き返した。袮室は頷く。

「そう。藤本さんも安孫子さんも嘘は言ってないって可能性」

 そんな可能性が本当にあるのだろうか、と一木は考える。

「女刀さんは、どうしてそんなふうに思うの?」

 何か明瞭な根拠を持った返答を期待しての質問だったが、袮室の回答は一木の期待とは真逆のものだった。

「だって、藤本さんと安孫子さんは友達なんでしょ? だったら、友達を裏切るような真似をするなんて思えなくって」

 そんなことはないだろう、と一木は内心で思った。もちろん、それを口には出さなかったが。どれだけ仲が良い友達でも、裏切ってしまう瞬間はきっとある。

 一木と袮室が二人だけで話している横で、高野はため息をついた。

「何でもいいけどさ、早く仲直りにしてくれないと部室にも行きづらくて。せっかく今日は小野寺おのでらさんが来る日だって言うのに」

「小野寺さんって?」

 と、袮室は聞き返した。

「ああ、漫研のOGだよ。去年卒業した人だから、私たちの三つ上」

 高野は右手の親指と人差し指と中指を立てて「3」を作ってみせた。

「へえ、OGが来るんだ」

「そう。地元の大学に進学したらしいから、そのまま実家に住んでるらしくてね。部室に私物の漫画を置いていったから、ちょくちょく回収に来るんだよね」

「そういうことか」

「でも、結構凄い人なんだよ。私は入れ違いで入学したから、現役の頃の小野寺さんのことはよく知らないんだけどさ。いくつも漫画を描いて、高校生なのに新人賞の佳作に入ったりしてたらしい」

「本当に凄い人なんだ」

「うん。アイデアマンって言うのかな。次から次へとプロットを出せる人だったみたいで。おかげで部室にはあの人が残したプロットのメモが今でも大量に……」

「ま……待って」一木は高野の言葉を遮るように言った。「その小野寺さんだけど、最後に部室に来たのって、いつのこと?」

「えっとね……」高野は記憶の中を探った。「確か、藤本先輩が問題のネームを持ってくる一週間前くらいだから……今からちょうど、三週間前くらいかな」

「そうか。そういうことだったのかも……」

 一木は独り言のように呟いた。

「えっ、どういうこと?」

 と、高野は聞き返す。一木は答えた。

「ずっと不自然に思ってたことがあって……。仮に藤本さんが安孫子さんの夢日記を見たんだとして……あるいは、その反対だったんだとして。どうしてそのことを認めないのかって」

「それはそうでしょ。だって、人のスマホとかネームを盗み見たなんて認められるわけがないもの」

 高野は言った。一木は頷く。

「も……もちろん、それもあるかもしれないけど。でも、別の可能性もあると思って」

「別の可能性?」

「そう……。最初から、どっちも盗み見なんてしてなかったって可能性」

「どっちでもないって言うの? でも、だったらどうして夢の内容と漫画の内容が一致したわけ?」

 高野が聞き返すと、一木はその疑問に答えた。

「あくまで、可能性の一つってことだけど……。夢と漫画は親子じゃなくて、兄弟みたいな関係だったんじゃないかな、って……」

「兄弟って……」袮室は一瞬考え込んでから、すぐに得心して声を上げる。「あっ、もしかして」

 一木はそれを見て頷いた。

「うん。藤本さんと安孫子さんは、互いの漫画や夢日記を見たんじゃなくて、別のものを見たんじゃないかなって」

「別のもの?」

 高野は聞いた。

「漫画や夢と同じ内容の、別の何か。多分それは、OGの小野寺さんが残したプロットのメモだったんじゃないかな?

 小野寺さんが残していったっていうプロットメモは、部員なら誰でも見られるものだったんでしょ?」

 一木が尋ねると、高野は頷いた。

「うん。部室にある棚の中にあって……私は見たことなかったけど、確かに先輩たちは見てたような」

「やっぱり……」一木は呟いた。「それが漫画の内容の本当のネタ元だったんじゃないかな。多分、藤本さんの描いたネームと同じ内容が、小野寺さんのメモに残ってたんだよ」

「じゃあ、藤本先輩は小野寺さんの残したプロットからアイデアを貰ったってことか」高野は頷いた。「でも、だったらどうしてそれを隠してたんだろう。先輩はあの漫画の内容を自分で考えたって言ってたのに……」

「もしかしたら、無自覚だったのかも……。過去に小野寺さんのメモを見て、その内容が強く頭に残ってた。それで無意識のうちに自分の作品に引用してしまった、とか。オリジナルであることを主張する時に、藤本さんの目が泳いでたって言ってたでしょ。それはもしかしたら、実際には他人のアイデアの影響を受けていることを何となく覚えていたからかもしれない」

「そっか。じゃあ、安孫子先輩も同じ?」

「うん……。同じメモを見てて、その内容を無意識的に覚えていたから、夢の内容として現れたんじゃないかな」

「つまり……先輩たちは二人とも嘘をついてたわけじゃなかったってこと?」

「うん。そう考えることも、できるんじゃないかなって……」

「でもさ、」高野は真面目な表情で言った。「そう考えるにしても、まだ疑問はあるよ。先輩たちがメモを見たのは最近じゃないはず。なのに、今頃になって急にそれが記憶の底から出てきたのはどうして? それも、ほとんど同時期に」

「それはきっと、小野寺さんが部室に来たからじゃないかな。小野寺さんが部室に来たっていう時期と、藤本さんがネームに着手した時期、それと安孫子さんが夢を見た時期は一致してる。小野寺さんに久々に会ったことがきっかけで無意識の領域にあった記憶が喚起されたんだとすれば、可能性はあるんじゃないかな……って」

「なるほど。確かに、そういう方向でも説明は付くってことか……」

 高野は感心したように頷いた。

「その方向性だったら、検証することもできるんじゃない?」

 と、袮室は言った。

「そうか。該当する内容のメモが見つかれば、証拠になる」

 高野もその意図を察して言った。

「ま……まあ、ただの仮説だから、全然間違ってるかもしれない……けど」

 一木は小さな声で言った。

 気がつくと教室には彼女たち三人以外の生徒も揃っていた。予鈴が鳴り、生徒たちは着席する。袮室も自分の席に戻っていった。

 高野は隣に座る一木に向かって小声で言った。

「後で部室に行って調べてみるね」

 一木は黙って頷いた。

 

 その日の放課後。袮室と一木は二人で電車を待っていた。駅のベンチに座り、袮室は電光掲示板を見上げる。高校の最寄り駅には二つのホームがあって、二人の家は逆方向にあった。一木は一番線を、袮室は二番線を使って帰宅することになる。改札を通って正面には一番線のホームがあった。二番ホームに行くためには階段を使って線路の真上を通る連絡通路を使う必要がある。

 電車が来るまでにはまだ時間があった。袮室は一番ホームに残っていた。一木と話をするために。

「やっぱり、わたしが見込んだ通りだったね」

 袮室は呟いた。一木は目線だけを袮室の方に向ける。

「見込んだ、って……?」

「言ったでしょ。糸冬さんには探偵の才能があるって。思った通り、まぐれなんかじゃなかったんだよ。今回もこうやって真相を突き止めたわけだし」

「それは……でも、本当に合ってるかどうかは、実際に高野さんがメモを見るまで分からなかったんだし」

 一木は言った。

 あの後昼休みに高野は部室でメモを発見し、藤本のネームと合致する内容のプロットを見つけた。

 そのことを報告すると、藤本と安孫子もそのメモを目にしたことを認めた。一年以上前のことだったので覚えていなかったが、実際にメモを目にしたことで記憶が決定的に呼び覚まされた。全ては一木が推理した通りだった。

 藤本と安孫子は互いに対する誤解を無事に解消できた。

 小野寺は本来後輩へ受け継がせるつもりでプロットのメモを部室に残した。だから藤本がそれを基にして漫画を描くことに問題はない。しかし無意識下で他者のアイデアから影響を受けていたことが当人にとっては気に入らず、藤本は完成したネームを白紙に戻した。

 袮室は身を乗り出し、一木の顔を見た。

「だからこそ名探偵なんでしょ?」

「え……?」

 一木は聞き返す。

「高野さんから聞いた話だけで、メモの存在を突き止めたじゃない」

「でも、それは当てずっぽうみたいなもので……」

「それでいいでしょ、別に」袮室はあっさりと、そう言ってのけた。「だって、結果的に合ってたんだし。もし本当に当てずっぽうだとしても、それがたまたま真実と一致してたなら、それはやっぱり才能があるってことなんだよ」

「そっ……そうなの、かな」

「でも、今回もわたし、あんまり活躍できてなかったような……。そこがちょい心残りって感じかな」

 袮室は言った。

「いっ……いや、それは……」

 一木が言おうとするのと同時、袮室は腕時計と駅の電光掲示板を見比べる。

「あ、そろそろ電車来る」袮室は立ち上がった。「また明日ね、糸冬さん」

「ああ……うん。また……」

 袮室は階段を駆け足で上っていき、一木もベンチから立ち上がってホームドアの正面に立った。

 線路を挟んで正面に袮室の姿が見える。袮室は笑顔で手を振っている。一木は後ろを少し確認してから、小さく胸の前で手を振り返した。

 やがて電車がやってきて、去る。袮室の姿は見えなくなった。

 袮室は言った。自分が役に立てなかった、と。でも、一木はそうではないと思っている。確かに真相を推理したのは一木だったのかもしれない。しかし、その道しるべとなったのは、袮室の言葉だったのだから。

 一木は藤本や安孫子のことを疑っていた。どちらかが嘘をついているのだという前提に立って考え、その嘘をどうすれば暴けるのか、それだけを考えていた。

 でも、袮室は違っていた。どちらも嘘をついていないという、第三の可能性がないかと考えていた。そして、正しかったのは袮室の方だった。

 袮室の考え方に影響されたからこそ、一木は真実へとたどり着くことができたのだ。

 袮室は他人を疑うことのできないお人好しだけれど、お人好しにしか見えない真実もある。

 だから、自分なんかよりよっぽど役に立ったのだと。一木は、彼女にそう伝えたかった。

 残念ながら、その前に彼女は帰ってしまったけれど。

 でも、別に構わない。今日伝えなくても、いずれ伝える機会はあるはず。

 一木がそんなことを考えていると、一番ホームにも電車がやってきた。ホームドアが開き、一木は車両の中に乗り込む。この時間の電車は空いていて、座席の確保は容易だった。ドアの横の座席に座って、リュックサックを胸の前に抱える。

 その時、ふと一木は気がついた。自分がこれからも袮室と一緒にいるという前提で物事を考えている、ということに。

 そしてその前提が彼女自身の願望とイコールであることも、一木は自覚していた。

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