ミスティカ・フォー・ザ・ガールズ

岡畑暁

第1話 ウォッチ・アウト

 その少女は、未来に希望を抱いている。

 女刀めがたな袮室ねむろ、十五歳。春休みにバッサリと切り落としたショートヘアを、スマイリーマークのヘアピンで留めている。大きなフレームの金縁メガネが、これまた大きく見開かれた瞳を強調している。背丈は同年代の女性の中では少し低いくらい。真新しいブレザーの制服に身を包み、看板の横に立って写真を撮られている。

 その看板に書かれているのは〈入学式〉の三文字。

 袮室はこの春から高校生になった。彼女の胸は、新しい環境への希望と期待で満ちていた。電車通学。学校行事。部活にバイト。そして友人。袮室には求めるものが山ほどあった。

 高校生活は三年しかない。袮室にとって青春は謳歌するためのものだった。目一杯楽しむには、三年は短すぎる。

 袮室は胸に誓っている。友達を作ろう。そして人の輪の中へ中へと入っていこう、と。

 彼女の両親は、娘の胸中などつゆ知らず、彼女の晴れ姿を写真に切り取っていた。父親は首からキヤノン製のデジタル一眼レフカメラをぶら下げている。その隣に立つ母親はスマートフォンで写真を撮った。

 袮室は両親と離れ、入学式が行われる体育館へと移動した。

 広大な体育館にパイプ椅子が並べられている。クラスごとに着席する場所が指定されていた。袮室は二組だった。前の方の列で自分の席を探して座る。椅子の背に番号が書いた紙が貼ってあり、それが出席番号と対応していた。

 既に椅子はいくつか埋まっていた。袮室の隣の椅子にも、既に一人の女子生徒が座っていた。袮室は彼女に話しかける。それから互いのことを色々と話して、彼女の顔と名前と出身中学を記憶した。

 その時。彼女の前の列に、一人の新入生がやってくるのが見えた。

 袮室と同じように制服を着た女子生徒。紺色のスカートは膝を覆い隠している。彼女は椅子の背に書かれた番号を見た。

 そして、袮室と彼女の目線が空中で交錯した。

 その新入生は黒髪のロングヘアーを首の後ろで束ねていた。コンビニで売っているようなシンプルすぎるデザインのヘアゴムが頭の後ろに見えている。肌の色は白い。頬には少しそばかすがある。三白眼の瞳が袮室の姿を捉えていた。

 おそらく、時間にして一秒にも満たない間。二人は視線を交わしていた。

 そして、彼女は着席した。

 彼女の隣には誰か別の新入生が座っていたけれど、その人に話しかけるようなこともない。ただじっと座って、不動のまま。おとなしく式典が始まるのを待っている。

 きっと、落ち着いた子なんだろうな。と、袮室は思った。

 

 *

 

 その少女に、未来への希望なんてなかった。

 糸冬いとふゆ一木いつき、十五歳。とうとう春休みの間中美容院に行かなかった。伸び放題になった黒髪は、百均で買ったヘアゴムによって乱雑に束ねられている。そばかすの付いた白い肌と三白眼の瞳が、この世の全てに恨みを抱いているかのような表情を形成している。真新しいブレザーの制服に身を包み、看板の横に立って写真を撮られていた。

 その看板に書かれているのは、〈入学式〉の三文字。

 一木はこの春から高校生になった。彼女の胸は、新しい環境への恐れと不安で満ちている。勉学、部活、学校行事。そして交友関係。この学校のカースト制度に、果たして自分の入り込む余地はあるのだろうか?

 高校生活は三年もある。一木にとって学校は耐え忍ぶものだった。波風を立てずやり過ごすには、三年は長すぎる。

 一木は胸に誓っている。なるべく人と関わるのはやめよう。そして隅の方でひっそりと過ごそう、と。

 彼女の両親は、娘の胸中などつゆ知らず、彼女の晴れ姿を写真に切り取っていた。スマートフォンのカメラを向けられ、一木は一応ピースサインを作ってみる。これ以外に写真の写り方を知らないのである。

 一木は両親と離れ、入学式が行われる体育館へと移動した。

 広大な体育館にパイプ椅子が並べられている。クラスごとに着席する場所が指定されていた。一木は二組だった。前の方の列で自分の席を探す。既にいくつかの座席には新入生が座っていた。

 袮室は自分の座るべき座席を見つけ出す。椅子の背を見て出席番号を確認した。

 その時。彼女の後ろの列に、一人の新入生が座っているのが見えた。

 一木と同じように制服を着た女子生徒。紺色のスカートの裾から膝が見えている。隣にいる別の新入生と何やら話していて、その話し声は一木のいるところまで聞こえていた。

 そして、一木と彼女の目線が空中で交錯した。

 その新入生は茶色っぽいショートヘアの髪だった。どこで売っているのか分からないような、スマイリーマークのヘアピンを着けている。金縁のメガネのフレームは大きく、その奥にある瞳も負けず劣らず大きく見開かれていた。座っているから、背丈の程はよく分からなかった。

 おそらく、時間にして一秒にも満たない間。二人は視線を交わしていた。

 そして、一木は着席した。

 隣には別の新入生が座っていた。もちろん、会ったこともない相手だ。これからクラスメイトになる人間。でも、初対面で急に話しかけるなんてできるはずがない。

 一木はただじっと座って式典が始まるのを待つ。後ろでは、さっき目が合った新入生と、その隣にいる生徒の楽しげな話し声がまだ続いていた。初対面同士でこんなに話が盛り上がるものだろうか? あるいは、二人は偶然同じ中学の出身だったのだろうか。いや、それはないはずだ。出身中学に関する話題もあって、一木はそれを聞いていたからである。

 きっと、社交的な子なんだろうな。と、一木は思った。

 

 *

 

 入学式から一週間と少し経ったある日。

 袮室は通学路にいた。彼女たちが通う七星しちせい高校の校舎は、最寄り駅から少しばかり歩いた地点にある。だから通学の時間帯になると、同じ制服を着た学生の流れが駅から学校に向けて形成される。

 その中で、袮室は一人歩いていた。ただし、ホットドッグを片手に持ちながら。

 歩き食べは良くないらしい。しかし朝食を食べないのはもっと悪い!

 そんな持論を心の中に掲げながら、ケチャップとマスタードの乗ったホットドッグを口の中に押し込んでいく。

 通学者の波の中に、袮室は見知った顔を見つけた。クラスメイトの女子二人。同じ電車通学組ということで話したことがある。とは言っても、まだ一度きりだったけど。

 口の中に残ったホットドッグを飲み込んでから、元気よく声を掛ける。

「おはよう」

 すると、二人は振り返った。

「あ、女刀さん」

「おはよう」

 それから二人は怪訝な顔で彼女の右手に持たれているものへ目線を集めた。

「何? それ」

「え? ヤバ」

 口々に言っているクラスメイトへ、袮室は説明した。

「いや、だってさ。せっかく朝ごはんがホットドッグなのに、食べないなんてもったいないじゃん」

「にしたって、こんな学校近づいてから食べなくても」

 と、二人のうち一人が呆れたように言う。

「電車遅れそうで急いでたからさ」根室は左腕にはめた腕時計の文字盤を見せた。「電車の中で食べるわけにもいかないし」

「学校着いてから食べればいいじゃん」

「えー、そんなのギョーギ悪いでしょ」

「今の方がよっぽど行儀悪いって」

「そう?」

 言われてみれば、確かにさっきからジロジロ見られている気がする。袮室は急いで残りのホットドッグを口に入れた。

 すると、急いで食べようとしたからだろうか。こぼれたケチャップとマスタードが制服の袖についてしまった。

「あー、やっちゃった」

 まだ袖を通して一週間と少ししか経っていないのに。真っ白い袖だから、余計に染みが目立ってしまっている。

「大丈夫?」

「平気、平気」

 袮室はポケットティッシュを取り出して、袖についたケチャップとマスタードを拭う。しかし染みになってしまった部分は拭い去ることができず、赤と黄色の染みが袖に残ってしまった。

「水で洗わないとダメかなー」

 袮室は呟いた。そして、隣を歩く二人に向かって告げる。

「ごめん。ちょっと先学校行って洗ってくる」

「そうだね。そうした方がいいよ」

「ごめんね!」

 袮室は小走りで学校へ向かって行った。二人のクラスメイトはその背中を見送った。

 

 *

 

 制服姿の目立つ通学路を、一木は一人歩いていた。リュックの紐を手で掴み、耳に入れたワイヤレスイヤホンが外界の音をシャットダウンしている。

 一木の歩調は速い。それは周りと合わせる必要がないからだ。友人や先輩後輩と話しながら投稿している集団の間をすり抜け、追い越しながら学校を目指していく。しかし、やがて一木は歩調を緩めなければならない場面に遭遇した。

 それは、何のことはない。前方にいる集団が道幅いっぱいに広がって歩いていただけのこと。

 一木は彼らを追い抜かす手段を持たず、彼らは一木が後ろにいることに気づかない。

 そうして一木は前方集団と一定の距離を保ちつつ、のろのろと歩行を続けていた。

 すると、その時。後ろから袮室が現れる。それも急いだ様子で。何をそんなに急いでいるのか、小走りで通学路を駆けていく。

 袮室は一木の横を通り過ぎ、その前方集団に後ろから「ちょっとすいません!」と声をかけて、その間をすり抜けた。

 一木にはとても真似できない。知らない人に声をかけるなんて怖すぎる。もしあんなふうにできたら、どんなにラクか。そう思いながら、一木は相変わらず牛歩で学校へ向かうのだった。

 

 *

 

 教室に「あっ」と素っ頓狂な声が響いたのは、昼休みが始まってすぐのことだった。

 袮室は何気なく時間を確認しようとしただけだった。彼女は腕時計を愛用していて、学校にも毎日着けて行っている。時間を確認する時はスマホや壁掛け時計ではなく、まず腕時計を確認することが習慣になっていた。

 だから、この日もそうしようとして、袖を捲った。

 そして気が付いたのである。左腕に着けていたはずの時計がない、ということに。

 どこにやったのだろう。袮室はまず机の中を探った。何気なく外して、その辺にしまったままになっていたのでは……そう疑ったのである。

 しかし、見つからない。袮室は続けてカバンの中を見る。通学鞄は机の横に掛かっていて、袮室はその口を大きく開き、中に頭を突っ込まん勢いで捜索した。けれど、それも無駄だった。時計は見つからない。

 どこかで落とした? 記憶を辿ったが、思い出せなかった。袮室は毎日時計を着けて生活している。腕に装着している感覚に慣れ切ってしまっているので、着けている状態と着けていない状態に感覚的な違いがない。だからいつから時計を着けていなかったのかも思い出すことができなかった。気づいたきっかけは昼休みに時間を確認しようとした時だ。朝、通学路では確かに着けていたことを覚えている。しかしその間で時計を確認したタイミングは一回もなかった。朝から昼休みまでの間、いつ時計を失くしたのか? 袮室には全く思い出すことができなかった。

 

 一木は教室の隅に座って昼食を広げた。母親が作った弁当は二段になっていて、二段目におかずが、一段目に白米が入っているのが常である。一木は手を合わせて、小さな声で「いただきます」と呟いた。

 教室には一木の他にも昼食を食べている生徒がいた。新しいクラスに配属されて一週間。男子も女子も、この頃になるとある程度同じようなメンツと話すことが増えているようだった。有り体に言えば、グループが形成されつつあった。彼らは皆、数名のグループで机を合わせて昼食を食べている。

 対して、一木は一人だった。目の前にあるのは弁当のみ。友人の姿などない。

 最初のうちは一木を昼食に誘ってくる者もあった。しかし今ではそれも皆無。理由は単純だ。一木自身にも分かっていた。

 一木と一緒にいても、楽しくない。

 自分から話すことはほとんどない。たまに話を振られても、ピントの外れた受け答えしかできない。愛想笑いも下手で、場の空気を凍り付かせる。

 だって、仕方ないじゃないか。一木は思う。上手に話そうと思って話せるものなら、とっくにそうしている。だけど他人を目の前にすると上手に話すことができない。他人の目を見ると声が出なくなる。

 子供の頃から一向に治らない一木の性分。自分の話し方も声も、一木は嫌いだった。

 でも、別にいいじゃないか、と一木は自分に言い聞かせる。元々隅の方でひっそりと過ごすことが一木の望みだった。友人がいなくても、ひとまずこうして生きてはいける。

 一木は卵焼きを口に運んだ。ふわりとしていて美味しかった。自分で作っても、こうはならない。料理の一つでもやってみようと思って練習した時期もあったが、どうにも上手くいかなかった。卵焼きはグチャグチャになってしまうし、魚は焦げてしまう。料理は向いていないと思って、結局やめてしまった。

 卵焼きは甘いのに、連想される記憶は苦いもので、一木は自分のネガティブ具合がほとほと嫌になった。

 その時。教室の入り口が勢いよく開いた。大騒ぎしながら一人の女子生徒が入ってくる。袮室である。

「ない、ない。ないない、ない!」

 ナイナイ、と袮室は連呼している。

 袮室はクラスメイトに何やら聞いて回っている。どうやら探し物をしているようだ、と一木は察した。しかし、だからと言って袮室のことを呼び止めて事情を聞いてやるような勇気も甲斐性も、一木は持ち合わせてはいないのだった。

 そんなわけで一木は袮室のことを無視し、淡々と弁当を食べ続けた。

 

 放課後になっても相変わらず袮室は学校の中を駆け回っていた。

 時計は見つからない。職員室に届けられた落とし物も確認したが、時計の落とし物は一個も届けられていなかった。

 先生にも聞いてみたが、持ち物の管理はしっかりしろ、と逆に叱られてしまった。もっともなことだと袮室自身も思う。あんなに大切な時計なのに、どこで失くしたのか全然思い出せないのだから。

 しかし、クヨクヨしたところで時計が戻ってくるわけでもない。

 入学してから一週間。袮室の周囲には、ある程度の人脈が築かれていた。昼休みの残りの時間を使い、袮室はクラスメイトに聞き込みを行っていた。

 その成果は芳しくなかった。一年生である袮室たちはまだ七星高校に通い始めて日が浅い。まだ部活動すら始めていない生徒がほとんどで、校舎の構造には明るくない。行動範囲は一年生の教室がある二階に限定されていた。移動教室で使う部屋も多くが二階にあるため、それ以外の階にはあまり行かない。そういう事情もあって、有力な手がかりはなかなか集まらなかった。

 どこかで落としたのだろうか。あの時計は祖母から貰ったお下がりで、バンドが相当古くなっていた。緩んで外れてしまうこともあり得る。今朝は訳あって通学路で少し急いでいた。その時に落としたのだろうか。

 そうなると、まずは通学路を駅まで遡って探すべきだろうか。誰かに拾われていなければ、見つかる可能性は十分にある。それでダメなら交番に行って……いや、とにかくまずは行動しなければ。袮室は思い付いたらすぐに行動するタイプの人間だった。猪突猛進とは、彼女のために用意された四字熟語なのである。

 袮室はカバンも持たないまま、教室を飛び出した。廊下に出て、昇降口までダッシュで向かおうとする。

 あまりに急いでいる袮室は、前方不注意だった。

 そして、その時たまたま廊下を歩いていた一木も、やっぱり前方不注意だった。こちらは急いでいたわけでもなく、ただ俯き加減で歩いていたというだけのことなのだが。

 二人は衝突した。袮室の額が一木の鼻の頭に直撃する。一木にしてみれば、突然廊下で頭突きを食らったような格好である。

 ──折れた! 絶対折れた!

 心の中で一木は自らの鼻の骨を案ずる。もちろんそれは一木の勘違いで、彼女の骨はどこも折れてはいない。

 その場で鼻を押さえている一木に、袮室は凄まじい勢いで謝罪した。

「ごめん! 大丈夫? 本当にごめん! 急いでたから……」

 袮室は心配そうな表情で一木の顔を覗き込んだ。

「平気?」

 そう言って一木の手を取り、顔面からどける。一木の手のひらが袮室の手に掴まれた。袮室の袖に、ほのかに何かの染みが滲んでいると一木は気付いた。でも、そんなことを気にしている余裕は今の一木にはない。

 袮室の顔が一木の真正面に近づいてくる。文字通り、目と鼻の先。袮室の高い鼻の頭は、今にも一木の顔と接触しそうなくらいだった。なんてまつ毛の長い人なんだ、などと一木は余計なことを考える。レンズ越しの袮室の視線は、彼女が額をぶつけた一木の鼻に注がれている。そんなにまじまじと見ないでほしい、と一木は思った。自分の鼻は低く潰れていて、コンプレックスの象徴のようなパーツなのだから。でも、逃げることはできなかった。なぜなら袮室の手はずっと一木の手を掴んだままだったからである。

 やがて袮室は顔を離した。

「よかった。平気そうだね」

「そ、そう」

 一木はなんとか、それだけ答えた。本当はめちゃくちゃ痛かったし、何ならまだジンジンとした痛みが残っているけれど、骨まで折れたわけではなさそうだ、ということは段々分かってきたところだった。

 涙目になりそうなのを堪えながら、一木は愛想笑いをしてみせる。

「えっと……も、もう大丈夫だから」

 一木は袮室と話したことはなかったが、一方的に存在を認知していたし、印象にも残っていた。天真爛漫かつ明朗闊達そうな雰囲気の女の子。入学してからわずか一週間だと言うのに、既に複数人のクラスメイトと交友関係を築いている。一木にとってはミラクルだ。魔法使いとしか思えなかった。

 しかし、こうして目の前にしてみると、その理由も何となく紐解ける。顔は極めて可愛い。大きな目も、高い鼻も、小さくてふっくらとした唇も。化粧か何かしているのだろうか。一木はそんなもの、一度もしたことがない。月とスッポンとはこういう時に使う慣用句だろうな、と一木は思った。話し声もハキハキとしていて、他人に好かれるための要素が全て揃っているように思われた。

 だからこそ、一木は一刻も早く逃げ出したかった。

 こんな人と一緒にいては、自分が惨めになる一方だ。そう思ったから。

 しかし、袮室は一木を逃がそうとしなかった。

「本当にごめん。痛かったでしょ?」

「そ、それは、まあ。でもそこまで痛かったわけじゃないっていうか。ていうか、私の方も、前とかあんまし見てなかったし」

「わたしの方は、ちょっとばかし急いでたから」

「あっ……探し物のこと?」

 一木が言うと、袮室はグイ、と顔面を近づけてきた。

「そうそう。そうなんだよ。何で分かったの?」

「あっ、それは、その、女刀さんが教室で探してるの、見かけてて……それで」

「ああ、そうか。そうだよね。あれだけ大騒ぎしてればね」

 袮室は自分の頭を掻きながら言った。大騒ぎしている自覚はあったのか、と一木は心の中で呟く。

「ええと、まだ見つからないの?」

 一木は聞いてから、聞いたことを後悔した。急いでいたのだから、見つかっていないに決まっている。分かりきったことを聞いてどうなると言うのだ。

 しかし袮室は別段気にすることなく、一木の質問に答えた。

「うん。だから探しに行こうと思って……」それから彼女は一木の顔を見た。「ちなみに糸冬さん、見てない?」

「あ……いや」

「そっか。見てないか」

「いや、あの、そうじゃなくて」

「やっぱり見たの?」

「その、そうでもなくて」

「どっち?」

「な、何を探してるのかは、知らないから……」

「あ、そうか」袮室は拍子抜けしたように言った。「探してるのはね、腕時計」

「そうなんだ」

「私がいつも着けてるやつなんだけど……革のバンドで、文字盤の大きさはこれくらい」袮室は人差し指と親指で直径三センチほどの円を作って見せた。「文字盤は白で、アラビア数字で時間が書いてあるシンプルなデザインのやつ」

 詳しく説明されたところで、一木は時計の落とし物も忘れ物も見ていないので何も答えることができない。

 ただ首を横に振っただけだった。

 袮室の方も取り立てて期待していたわけでもないので、それほど肩を落としたような素振りも見せず、「そっか。ありがとう」と言って去ろうとした。

 その時、一木は意外な行動に出る。

 何より意外に感じたのは、一木自身だった。

「あの……待って」

 なぜだかは自分でも分からなかったが、一木は袮室のことを呼び止めた。

「何?」

「いや、その……。その、時計。やっぱり大事なものなのかな……って」

「ああ……」袮室は頷いた。「うん。おばあちゃんから貰った、大事な時計だから。そんなに高いやつじゃないんだけどさ。もう二度と手に入らない、特別な時計って言うか」

「そうなんだ……」

 一木は呟いた。

 別に、袮室に同情しているわけではない。そんなに大切な時計なら、大切に扱えばよかったのだ。それを不注意で失くすなんて自業自得。そう思った。

 でも、袮室の語り口から、彼女が本心からその時計を大切に思っていることも伝わってきてしまった。

「ずっと探してるんだけど、全然見つからなくて。お昼休みの間もずっと探してたから、お昼ご飯もまだだし……」

「それは……かわいそう」

「やっぱり外で落としたのかなー」

 袮室はがっくりとした調子で呟く。

「あ……それで、外に探しに行くところだったんだ」

「うん。今朝ちょっと急いでたし……あと、誰か交番に届けてくれてるかもしれないし」

 袮室は言った。学校の中ならまだしも、外で落としたのだとしたら、果たして見つかるだろうかと一木は思う。

「学校の中には、なかったの?」

 と、一木は聞いた。

「うん。学校の中……特に二階は隅々まで探したし。あと、職員室にも届いてなかったよ」

 袮室は答えた。

 一木は考える。そこまで探して見つからないのであれば、誰かが拾って盗んでしまったのではないだろうか。女性用の時計は小さい。ポケットに入れてしまえば目立たないし、もう放課後だから盗んだ犯人は帰宅している可能性もある。一旦家に持ち帰られてしまったなら、犯人を見つけ出すことは極めて困難になる。

 でも、目の前にいる袮室は、そんな可能性つゆも考えていない。いや、もしかすると考えているのかもしれない。しかし彼女は、他人の悪意を疑うより先に、まず自分にできることをしようとする。そういう人間なのだろう。

 と、一木は思った。

 一木は考えてみる。もし時計が誰にも発見されていないとしたら? あそこにその時計はあるのではないだろうか。

「あの……外に探しに行く前に、なんだけど……」

「何?」

「一階の昇降口横のトイレは探した?」

 一木が尋ねると、袮室は目を丸くした。

 それから一秒ほどの沈黙。

 そして、袮室は「あーっ!」と大きな声を上げた。

「そこだ!」

 

 袮室と一木は、二人で校舎の一階に訪れた。

 昇降口にはクラスごとに分かれた下駄箱が並んでいる。その真正面にはトイレがあった。右が男子トイレで、左が女子トイレ。袮室は祈るような気持ちで女子トイレに入っていく。

 洗面台を見る。果たして、探し物の時計はそこに置かれていた。洗面台の上、鏡の前のスペースに。

 鏡に、袮室の満面の笑みが写し出される。

「あった!」

 時計を素早く手に取り、表と裏を確認する。裏蓋に傷が付いている。間違いなく袮室の時計だった。

「本当にあった。凄い。ありがとうね、糸冬さん」

 袮室はしきりに時計を眺めて感心してから、それを左腕にはめ直す。一木はその様子をトイレの入り口から見ていた。

 袮室はこの時計を自分の手でこの場所に置いた。ただ、そのことを忘れていただけ。初めから慎重に自分の行動を振り返れば、あるいは自力で思い出せたかもしれない。

 しかし、袮室が今驚愕しているのは、自分でも忘れていたはずの行動を、一木が知っていたということに対してだった。

 袮室と一木はトイレから出る。袮室は一木の両肩をがっしりと掴んで尋ねた。

「ねえ、どうして時計があそこにあるって分かったの?」

 一木は両肩を掴まれていることにたじろぎ、視線をあっちこっちへ泳がせる。しどろもどろになりながら、一木はその質問に単語一つで答える。

「染み……」

「えっ? シミ?」

 何を言われたのか分からず、思わず袮室は手を離す。

 距離が離れて少しばかり落ち着きを取り戻した一木は、理路整然と思考の過程を説いた。

「うん。時計を失くしたってことは、時計が勝手に外れて落ちちゃったか、自分でどこかに置いたのを忘れたかのどっちかってことになる。前者の可能性は低いから、後者だったらどうかって考えた。

 女刀さんは、時計を『いつも着けてる』って言った。だから、外で理由もなく着けたり外したりはしないはず。何か理由がないと外さない。でも、今日は体育の授業もなかったし、外す理由がなさそうだった。

 でも、制服の袖に付いたその染みを見れば、理由が分かる。それって、ソースとかケチャップとかの染みだよね……?」

 袮室は何回か頷いた。

「うん、ケチャップ」

「女刀さん……その、ケチャップをこぼしたのって、通学中なんじゃない……? アメリカンドッグとか、ホットドッグとか……」

 一木の指摘に、袮室は目を白黒させる。

「確かにホットドッグ食べたけど、なんで通学中に食べたことまで……」そこまで言ってから、袮室はある考えに思い当たる。「あ、そっか。糸冬さんも見てたの? いたなら声かけてくれればよかったのに」

 そんなことできるはずないだろ、と心の内で思いながら、一木は首を振った。

「いや、見たわけじゃなくて」

「じゃあ何で分かるの?」

 袮室は聞いた。一木はさらに説明を続ける。

「その汚れ……。まだ新しい感じだし、女刀さんみたいな人が、染みの付いたままの制服を放置してそのまま学校に着てくるとも思えないから、その染みは今日付いたものなんだって分かる。でも、今日は昼休みの間もずっと時計を探してたから、お昼は食べていない。だったらケチャップをこぼしたのはお昼の時じゃないはず。つまり、それより前。でも、それより前に何かを食べてる様子は、私が見る限りだとなかった。

 つまり、食べたのは学校に来る前。家でこぼしたならその場で服を取り替えればいい。ので、ケチャップが袖に付いたのは家を出てから学校に来るまでの間に絞られる。だから必然的に、通学途中のことだって分かる。寄り道して買い食いをしたとか……」

「違うから」袮室は顔の前で腕をブンブン振って否定した。「家でお母さんが朝ごはんにホットドッグ作ってくれて。でも電車の時間近かったから食べる時間がなかったの。でももったいないからって、ラップに包んで持たせてくれたわけ」

 学校に着いてから食べればよかったのでは? と一木は思ったが、それをあえて指摘することはしない。

 代わりに、淡々と説明を続けた。

「……ええと、とにかく、それで通学中にケチャップをこぼしたんだなって分かった。でも、その袖、染みにはなってるけど滲んでて、洗ったような跡がある。多分ケチャップが付いちゃってから、すぐに袖を洗ったはず。

 通学途中の出来事だから、洗い流すにはいつも使ってる二階の洗面台じゃなくて、昇降口に一番近いところ……つまり、一階のトイレの流しを使うはずだって思った。ケチャップが付いたのは左袖。洗うためには時計が邪魔だから、当然外すことになる。

 ここのトイレはどこのクラスからも遠いからあまり使われないし、まだ探してないんじゃないかと思って」

 一木の説明を聞き終え、袮室は目を丸くしていた。

 自分自身ですら忘れていたような自分の行動が、見てきたかのように説明されてしまった。でも、一木は見ていないと言う。だったらまるで魔法か千里眼だ。

 一階のトイレは立地上使われる機会が少ない。だから時計が落とし物として届けられることはなかった。それに、一年生の行動範囲からも外れているから、当然聞き込みからも情報は得られなかった。袮室はクラスメイトから得られる情報に頼ろうとしすぎたために、時計のありかを突き止められなかったのだ。

 一木が得た情報は、ほんのわずか。しかし、それらを結び付けて、袮室には至ることができなかった真実に至った。

「糸冬さんって凄いんだね。全然知らなかった」

 袮室が褒めると、一木は目を逸らした。

「いっ、いや。偶然だから。当てずっぽうみたいなものだし」

 それは褒められ慣れていない故の反応なのだが、袮室にはそれが分からなかった。

 ただ、突然目を逸らしたりしてどうしたのだろう? と疑問に思うばかり。

 さっきまで思考の道筋を説明している時はそれなりに流暢に話していた一木だったが、いざ袮室に褒められるとやっぱり何を言えばいいのか分からなくなって、声も自然と小さくなってしまった。

 何はともあれ、時計も見つかった。彼女も満足したことだろう。思わぬ寄り道をすることになったが、これで家に帰ることができる。

 一木がそう思ったのも束の間。彼女が「じゃあ私はこれで」の一言を発するより早く、袮室の方が一木のことを捕まえた。

「ねえ、もうちょっと話そうよ。これから帰る?」

「えっ? ああ……うん」

「じゃあ一緒に帰ろう。電車でしょ? 駅まで一緒しよ」

 袮室は言った。まるで断られる可能性なんて一ミクロンも考えていないみたいに。

 そして、一木はそれを断る方法も知らない。

 

 袮室は教室から荷物を取ってきて、二人は並んで学校を出た。

 一木にとっては、高校に入ってから初めてのことだった。誰かと一緒に下校する、ということが。

 周りには何人か、同じように下校中の生徒がいる。一木は自分がどう見られているのかを気にした。自分と袮室では、雰囲気からして全然違う。顔立ちも肌の綺麗さもスカート丈も、何もかもが違っている。今すれ違った人は、どう思っただろう。自分と袮室を比較しただろうか。

 せっかく他人と並んで歩いているのに、そんなことばかり気にする自分の自意識が嫌になって、一木は自己嫌悪に陥った。

 そんな一木の内心は知らないで、袮室は声をかける。

「ねえ、糸冬さん。今日は本当にありがとう。全部糸冬さんのおかげ」

「そんな、大げさに言わなくても……」一木は小さな声で答えた。「でも、よかったね。おばあさんの形見の時計が見つかって」

 一木が呟いた一言に、袮室は怪訝な表情をした。

「えっ? 形見?」

 今度は一木の方も眉を顰めて袮室の顔を見返す。

「えっ? 違うの?」

「違うよ。おばあちゃん、フツーに生きてるし」

「でも、『もう二度と手に入らない』って……」

「ああ、それはメーカーが生産終了してるから」

 あっけらかんとした調子で袮室は答えた。

「あ、ああ……なんだ。そうだったんだ……」

 一木は消え入りそうな声で答えた。とんだ早とちりをしてしまったものだと思う。

「でも、」と、朗らかな口調で袮室は言った。「大事な時計ってのはホントだし。だから、マジで感謝してるよ。ありがと」

 その真っ直ぐな感謝の念に当てられたみたいに、一木は袮室の瞳を見た。

 いつもは、自分から他人の目を見るなんて絶対に無理だった。

 でも、その時はなぜか袮室の目を見ることができた。

 そして、一木は小さく頷く。

「……うん」

 それだけ言うのが、今の一木には精一杯だった。

 経験したことのない感情が胸の奥に渦巻いている。一木は自分の中にある、正体不明の感情に気づいていた。

 でも、それを分析することはせず。そっと蓋をする。

 袮室と関わるのは、これが最初で最後だろう。

 そう思っていた。

 

 翌日の朝。一木は教室で自分の席に座り、一人スマホの画面を見ていた。

 一木の登校時間は早い。遅刻するのが不安で、早めに行動しすぎてしまう。結果的に始業よりずっと早く学校に着いて、暇を持て余すことになるのだ。

 まだ教室には数名しか生徒がおらず、そのうちの二人が何か話している。教室にはその話し声だけが響き、後は無言。

 そこで、勢いよく扉が開いた。

 袮室が教室に入ってくる。彼女はそのまま一直線に一木の正面まで歩いてくる。

「おはよう! 糸冬さん」

 袮室は笑顔で声をかけた。

「あ……うん」

 本当なら「おはよう」と言いたいところだったが、朝一番の一木が急に挨拶などできるはずもなく。彼女にできたのは、ただ曖昧に頷くことだけだった。

 

 袮室は一木を目の前にして、ある確信めいた予感を抱いていた。

 一木にはきっと、素質がある。

 ほんの些細な手がかりから、真実を見抜く才能。それは単に頭がいいとか、観察力が優れているとか、勘がいいとか。そんなこととは別の場所にある、特別な才覚。一木は、隠された真実に光を当て、それを見出すことができる。

 言うなればそれは、フィクションの中の名探偵のように。

 一木には、探偵の素質がある。袮室にはその予感があった。本人がそれを自覚しているのかは分からなかった。多分、していないのだろう。

 そして、袮室の中にある、もう一つの予感。

 この一週間と少しの間、袮室は多くの友人を作った。でも、その中に探偵の素質を持った人は一人もいなかった。

 今、袮室は一木の顔を正面から見て、そして思う。

 ──この人と一緒にいれば、わたしの学校生活は絶対に面白くなる!

 だから、袮室は一木の顔面に顔を近づけて、言った。

「糸冬さん。わたしを……わたしを、君のワトソンにして!」

 一木は面食らって、しばし袮室の顔を見ていた。

 昨日初めて話したクラスメイトから突然飛び出してきた要求。一木には全く意味不明だった。

 袮室がワトソンなら、自分は……ホームズ?

 いやいや、まさか。

 ありえない。

 昨日のことはただのまぐれに過ぎない。一木は自分の才能を信用していなかった。自分に何か一つでも才覚があるということ自体、一木には信じられないことだった。

 だから一木は、目を逸らしながら聞き返す。

「えっと……それは、どういう……?」

「わたし、思ったんだよね。糸冬さんはきっと、謎を解ける側の人間なんだって」

「いや、そんなことは……」

 ない、と言おうとした一木の台詞を、袮室が遮った。

「学校の中にも、不思議なことって色々あるでしょ。それを解き明かすんだよ。二人で!」

「二人?」一木は聞き返した。「えっと……その、二人っていうのは」

「もちろん、わたしと糸冬さん」

 袮室は自分と一木を交互に指差した。

「わたしは糸冬さんみたいに推理したりとかは無理だけど、手伝うことならできる。だから糸冬さん、わたしの相棒になって!」

 袮室は一木の机の上に両手を突いて、前のめりになって一木の顔を正面から見た。

 一木は、袮室の瞳を見た。まるで爛漫に咲き誇る花のように、その瞳は輝きながら、真っ直ぐに一木の目の中を見ている。その視線が一木の瞳を射抜いた。

 でも、それも一瞬のこと。

 一木はすぐに目を逸らしてしまう。袮室の表情が、あまりにも眩し過ぎたから。

 袮室のような人が、自分のことを評価してくれている。その言葉に、きっと偽りはない。だからこそ、嬉しくて、感動的で。そして、気持ち悪かった。

 自分を信じる人がいるなんてことが、一木にとっては一番信じられなかった。

 一木は、首を横に振る。

「それは……無理、だと、思う」

 袮室は、少しばかり残念そうな顔をした。

 しかし、それも束の間。すぐに彼女は一木へ向かって笑いかける。

「そっか……うん。じゃあ、仕方ない」

 あっさりと引き下がり、自分の席へと向かう袮室の背中を、一木はしばし見ていた。

 袮室はもっと強引な人なのかと思っていた。こんなにあっさりと諦めるなんて。

 あるいは……自分は、袮室にもっと強く引き止めてほしかったのだろうか?

 それこそあり得ない。自分の中に芽生えた疑念を、一木は心の中で一蹴する。

 袮室の隣にいても、自分が惨めになるだけ。あんなに可愛くて明るい人と、自分が釣り合うはずがない。

 それに、昨日はたまたま謎が解けたけど、いつも上手くいくなんて限らない。このまま話を続ければ、袮室だっていつか愛想を尽かす。そして、自分のことが嫌いになるに決まってる。

 だから、これでよかったのだ。

 一木は自分にそう言い聞かせた。

 そのうち教室には人が増えてきた。一木はワイヤレスイヤホンを耳に入れた。

 

 その日一日、袮室は驚くほどおとなしかった。

 それは、反芻していたからだった。今朝の一木とのやりとりを。

 そして袮室は、一つの結論を出した。

 

 袮室が再び一木に話しかけてきたのは、放課後になってからのことだった。

 一木が自分の席に座って荷物を纏めていると、朝と同じように袮室が正面から現れた。

「ねえ、糸冬さん」

「あ……な、何?」

 一木は手を止めて袮室の方を見た。

「わたしさ、考えたんだけど。やっぱりいきなり相棒になってなんて言うのは、無茶だったかなって」

 袮室は言った。

「う……うん。まあ、そうだね」

 と、一木は小さく頷いた。

「考えてみれば、糸冬さんの方にだって色々事情があるはずだよね。部活とかバイトとかさ」

「ああ……いや。そういうのは……」

 一木は部活もバイトもやるつもりはなかった。しかし、袮室は一木の話などまるで意に介していないかのように続けた。

「とにかく、いきなり相棒になるのが無理だってことは、よーく分かった」

 一木は安堵して息をつく。やっぱり彼女は、例の意味不明な思いつきを諦めてくれたのだ。そしてそのまま、一木のことも忘れていくだろう。

 一木がそう思った、次の瞬間。

 袮室の言葉が続いた。

「だから糸冬さん。友達から始めよう」

 袮室の左手が差し伸べられる。制服の白い袖口から、使い古された腕時計の文字盤がキラリと覗く。

 逡巡したのは、多分一刹那。

 それ以上の時間は要らなかった。一木は半ば無意識に、その手に触れていた。自分でも何が何だか分からないままに。一木の手は、袮室の手より少しばかり大きかった。

 一木の左手が、そっと袮室の左手に触れた瞬間。袮室は固くその手を握り締めた。

 手のひらを通じて、袮室の体温が伝わってくる。

 袮室の方は、人懐っこい笑みを浮かべて。

 一木の方は、苦笑いのような曖昧な表情で。

 互いの手を、数秒間握り続ける。

 一木に、高校に入って初めての友達ができた。

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