三日後の誘惑

大隅 スミヲ

三日後の誘惑

 あと三枚だった。

 目標を設定して、それ以降のカレンダーは捨ててしまっていた。日めくりカレンダー。私はこのカレンダーを重宝している。目標の日までがあと何日なのかがわかるためだ。


 朝起きて、コップ一杯の水を飲む。着替えを済ませ、ジョギングに出る。毎朝10キロを走る。これが私のルーティーンだった。

 早朝のジョギングはとても気分が良かった。アスファルトを蹴るスニーカーの感覚もとても良い。これは身体の調子が良いということだ。


 ジョギングを終えて部屋に戻ると、シャワーを浴びてから仕事へ向かう。朝食は抜き。空腹を感じることもあったが、朝から昼の空腹には慣れてしまっており、気にはならなかった。

 仕事はビル清掃だった。作業着に身を包み、スーツを着たサラリーマンたちが通って行く姿を横目で見ながら、フロア清掃を行う。スーツを着る人生もあれば、自分のような人生もあるのだ。


 昼休憩になり、近所のパン屋で買ってきたパンをひとつだけ食べた。野菜が挟んであるだけの質素なサンドイッチだ。それを一つ食べるだけで、昼食は終わらす。残りの時間は、現場の周りを歩いたりして、少しの時間でも体を動かすようにしていた。


 午後の仕事が終わるのは、夕方の四時過ぎだった。この仕事は、通常の仕事よりも早い時間に終わる。それがこの仕事の特権だと思っていた。

 仕事を終えると、その足で私はジムへと向かった。駅から少し離れたところにある、小さなボクシングジムだ。


「おはようございます」


 ジム内に声を掛けて中へと入っていく。どの時間帯でも、ジムでのあいさつは「おはようございます」なのだ。

 この時間はキッズクラスが行われており、トレーナーのおきさんがつまらなそうに子どもたちの相手をしていた。

 もっと楽しそうな顔でやれよ。私は沖さんの顔を見ながら心の中で呟いた。


 サウナスーツに着替えて、シャドーボクシングをはじめる。シャドーは3分1本を12本行う。実際のボクシングの試合が12ラウンドであるため、それを想定したシャドーだ。

 鏡に映る自分の姿を見つめながらフォームを一つ一つ確認して、パンチを打つ。拳が風を切る音だけが自分の耳に届いてくる。自分との闘い。


 シャドーボクシングを終えた後、汗をタオルで拭いて、サンドバッグの前に立つ。バンテージを巻いた拳にグローブをはめて、サンドバッグを叩く。これもまた、同じように3分×12本をこなしていく。ラウンドが進むごとにグローブが重くなっていくのを感じる。もちろん、グローブが重くなっていっているわけではない。それを支える自分の筋肉がグローブの重さを感じて行っているだけなのだ。

 12本終えた頃には、全身がずぶ濡れになっていた。


「お、頑張ってるな」


 ジムの会長が姿を現したのは午後7時過ぎのことだった。派手なシャツにスラックスという姿の会長は元プロボクサーで何度かチャンピオンにもなったことのある人物だったが、いまはその姿を想像することが出来ないくらいに肥えている。突き出した腹と少しでも動けば、ハアハアと上がってしまう息。もう過去の姿は見る影もないのだ。


 キッズクラスの指導を終えたトレーナーの沖にミットを持ってもらい、ミット打ちをはじめる。沖も元プロボクサーだったらしいが、こちらの戦績は知らない。ただ、ボクサー時代に芽が出なくともトレーナーとしては優秀であるということは知っている。このジムから排出された何人ものチャンピオンを育ててきたのが、この沖なのだ。


 沖とのミット打ちを終えて、水を少しだけ飲む。体からはかなりの水分が失われていたため、少量の水であってもかなり美味さを感じられた。


 ミット打ちの後はスパーリングだ。何人かいるプロボクサー志望の若い連中に声を掛けて、マススパーを行う。マスとは、お互いが力を抜いて軽く殴り合うスパーリングのことであり、本気になってパンチを打ちあったりはしない。ここで重要なのは自分のフォームが崩れないかといったことや相手がいることでの攻防の感覚を確かめることだった。


 3ラウンドほどのマススパーを終えた後は、ヘッドギアをつけて実際に3分1ラウンドのスパーリングをはじめる。

 スパーリングではヘッドギアを着けているものの実際に当てるし、ある程度は本気で殴り合う。もちろん、怪我の無いように少しは手加減をしたりもするが、試合に近い形で行うのがスパーリングだ。


 そのスパーを5ラウンド行って、その日は練習を終わりにした。


 最後にシャワーを浴びて体重計に乗る。

 56キロジャスト。

 次の試合はフェザー級で出場する。体重は55.34から57.15キロの間でなければならない。いまのところはセーフ。試合まであと3日。


 帰りは自宅までランニングをする。

 途中、焼き肉屋の前を通った時、換気扇から漂ってきた肉の焼けるいい匂いに思わず足を止めてしまった。


 あと三日だ。三日我慢しろ。

 そう自分に言い聞かせて、三日後の誘惑に抗うのだった。

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