兄の掃除夫でいるための誓約
木古おうみ
兄の掃除夫でいるための誓約
昨日は兄のピアスを盗んだ。
プラチナの楕円の飾りがついた、片方だけのやつ。
もう片方は先月洗面台から転げ落ちて排水溝の空洞に呑まれたのを知っている。それに兄は盲目になってから、目測を誤ってピアス穴の真横の突き刺して血を流すことがある。どのみち、もう要らないものだ。
俺は灰皿いっぱいの吸殻をビニール袋捨てて、袋の中に霧吹きで水をかける。火災防止と、灰が飛び散らないように。洗面台で灰皿を洗って、乾いた布巾で拭う。
灰皿を元の場所に置いて、俺は煙草を吸う。綺麗にしたものは最初に使いたい。新雪に足跡をつけるようなものだ。
煙を吐いていると、椅子に腰掛けた兄が遠くを見つめて言う。
「
俺は知らないと答える。
「また排水溝に落ちたんだろ」
「洗面所か。落下防止のキャップをつけてるのにな」
「俺が掃除のとき外すからな」
「ちゃんと戻しといてくれよ」
兄は見えない目を細めて苦笑する。
「ピアスなんてやめろよ。また血まみれになる。穴だって開ける気なかったんだろ」
「まあな。大学生のとき、友だちの家で呑んでるとき、酔った勢いで開けたんだ」
「開けられたんだろ。三ヶ月だけ付き合った奴に」
「よく覚えてるな」
俺は火を揉み消した。蚕のような吸殻が載った灰皿を元に戻す。
下に置いてあった五百円玉をわかりやすいよう隅に避けておく。手なんてつけない。
俺が盗むのはどうでもいいものばかりだ。
先週はローズソルト。兄がここに引っ越してきたとき、祝いに贈られたもの。火を使う料理は危ないからさせない。シャツの袖がガスコンロにくっつけば火だるまになる。
先月盗んだのは文庫本。点字じゃないから読めないはずだ。
俺は雑巾を絞って棚を拭く。猫の形の置物は耳の凹凸まで埃を落とす。観葉植物の鉢植えは一旦下ろす。
間違っても兄の動線には置かない。転んで額を切って大惨事になったことがある。血の汚れは弱アルカリ性の粉末洗剤か酸素系漂白剤で落とす。間違っても熱湯はつけない。凝固してより落とすのが大変になる。
掃除夫代わりをすることに異存はない。兄の目が見えなくなったのは、俺のせいでもあるからだ。
目が見えなくなるまでの兄は俺と違って、いわゆる非の打ち所がない奴だった。大人しいのに常に友人に囲まれて、成績も上位だった。スポーツはそれほどでもなかったが大したことじゃない。
このままいい企業に就職して、当然のように友だちの中の誰かひとりと結婚して家庭を持つんだろうと思っていた。
盲目になってからもときどき昔の友人が訪ねてくるが、ほとんど隠居老人のように暮らしている。
見えなくなってよかったよ、疲れてたんだと兄は言った。
俺を気遣って言ったのかもしれないが、俺を掃除夫代わりに顎で使って、内職の仕事以外何もしないでいる暮らしぶりを見ていると、案外兄は無職が天職なのかもしれないと思う。
「そろそろクローゼットから夏服を出しておいてくれないか」
「五着くらいでいいか」
クローゼットの天井には二本の突っ張り棒をつけて、前後に入れ替えるだけで衣替えが済むようにしている。冬服をしまう前に油染みがないか調べる。
シャツの襟についた油は重曹をつけておくといい。
兄の服は無彩色とベージュとカーキだけだ。
見えなくても奇抜な取り合わせにならないように。たまに上下白だったり、黒づくめだったり、結婚式か葬式のようになる。全身白のときにケチャップをこぼしたら目も当てられない。
浮気した花嫁を殺した新郎みたいになる。ケチャップの汚れを落とすコツは日光に当てて乾かすことだ。
「お前が買ってきた柄物のシャツは?」
「捨てた。何で柄物ってわかる?」
「裏地に刺繍の凹凸があった」
一度嫌がらせにゴロツキみたいな龍の柄のシャツを買ったことがある。薄い布地にプリントされているから、触ってもわからないと思ったが違うらしい。
盲目になると他の五感が研ぎ澄まされるという。
兄の目が見えないのは、心因性の部分が強いらしい。ショックで声が出なくなる話は聞いたことがあるが、盲目になるとは知らなかった。
冬物をしまう前に、ポケットの内側を改める。レシート、洋服のタグ、クーポン券、百二十一円。小銭は全部棚に置く。
俺は兄から何でも盗むが、金だけは盗まない。それだけは決めている。
ショートコートのポケットの奥から長いスカーフが出てきた。ストライプの派手なもの。誰かの贈り物の包装だったんだろう。今日盗むのはこれに決めた。
俺は椅子に腰掛けている兄の背後に回って、絞首台のロープのようにスカーフを首元に回してみる。
「晃?」
兄は気配を感じたようだが、電子タブレットを持ったまま逃げようともしない。俺はスカーフを退ける。
兄のうなじの窪みに冷たい汗が溜まってるのを見て、俺は笑う。
「晃、俺の本知らないか。古い文庫本。排水溝には落ちないだろ」
「知らない。点字か?」
「違うけど」
「ならいいだろ。読めないんだから」
「貰い物なんだ」
「何てタイトルだよ」
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」
「
「そう、見たか?」
「見てないけど、あったら言う」
先月俺が盗んだ本だ。
兄はまた苦笑して耳にイヤホンを押し当てた。タブレットの音声読み上げ機能で電子書籍を読んでいるらしい。
兄が読書家になったのは高校生の頃だ。
博識な司書教諭がいて、話しかけるために背伸びして難しい本を読んだと笑っていた。
俺が盗んだ本は司書教諭からの贈り物だろう。兄の名前が書いてあった。男の字だったが、生徒の名前を呼び捨てで書くのが嫌らしくて気に入らなかった。
「俺は夕方でお前が朝日みたいな名前だろう。だから、俺は暗い中で生きることになったのかな」
盲目になってすぐ兄はそう言った。嫌味かと思ったが、単なる独り言だったようだ。
「暗いのは嫌か」と聞いたら、兄は首を振った。
「俺は元々暗いよ。明るい奴らといて自分もそうだと勘違いしてた。今の方がずっと気楽だ」
兄は俺が何を盗んでも深入りしないが、あの本だけは気にしているようだ。
挟まっていた図書カードは抜いて、兄の財布に戻しておいた。
俺は兄の財布の中を知っている。遠くの二十四時間営業のカフェのスタンプカードを盗もうと思ったが、あれも金の一種かと思ってやめた。
俺は兄のタブレットの中も知っている。電子書籍と映画配信サービス。兄が一心不乱に眺めているのは、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』。そんなに執着していたのか。
俺は後ろから覗き込む。
「電子で読めるんだからいいだろ」
「俺にも思い出ってものがあるんだよ。お前、隠してないよな?」
「ご冗談でしょう……」
俺は兄の椅子のキャスターを雑巾で拭く。
イヤホンの先端が垂れている。これじゃ音声は耳に流れてこない。
「コートに入ってた小銭、棚に置いてあるから」
「ああ、ありがとう」
俺は金だけは盗まない。その代わりに目が見えなくなる前の兄の痕跡を全部盗む。
金に手をつけないうちは、兄も黙っているだろう。だから、俺も「本当は見えているくせに」とは言わない。
その間はまだ、兄の掃除夫でいられる。
兄の掃除夫でいるための誓約 木古おうみ @kipplemaker
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