8、雫と琴姫

 

 気が付けば、あの奇妙な賭けから三月みつきほどたった。


「美しい月だな」


「ええ、ほんとうに」


 御簾みすを上げ、仲むつまじく寄り添い満月を見つめる長谷雄と雫。


「そなたは、あの月からの姫なのではないのか?」


 酒を飲んで頬を赤らめた長谷雄は、照れくさそうにそう言った。



「月に帰ったかぐや姫のように、そなたもいつかあの月へ帰ってしまうような気がして不安なのだ」

「………」

「雫、どこにも行かないでくれ。ただ、傍にいて琴を奏でてくれるだけでいい」


 それ以上は何も望まない……。


 望んではいけないのだ。


 過ぎた望みは、琴姫のように不幸にしてしまう。



 雫がうながされるまま静かに酒を注ぐ。


 紅い杯に酒が満たされると、長谷雄は一気に飲み干した。

 しばらく雫と語らいながら酒を飲んでいた長谷雄は、酔いが回りようやく眠ることができた。

 眠っているというのに、その姿は起きているときよりも影が深く辛そうに見えた。

 雫は、そんな長谷雄に膝を貸し黙ってその顔を見つめた。


「長谷雄さま……」


 雫が、長谷雄の前髪をいとおしそうに撫でる。

 それは、琴の音と同様に、彼の心を解きほぐしているようだった。


 その光景を他の者が見たら、むかしからの恋人同士のように見えたことだろう。



(何度出会っても、姿が変わっても。

 わたくしはあなたに惹かれてしまうのですね……)




 長谷雄は、夢心地の中、琴姫の気配を感じていた。


(ああ、琴姫が帰ってきたのだ)


「琴姫……もう、どこへも……行くな……」


 そう、それは寝言であった。


 しかし、伸ばされた手を雫はしっかりと握り締め涙に濡れた頬に寄せた。



「こんなに想われて、わたくしは幸せです」


 はらはらと、涙は止まらない。


 その、涙のしずくが長谷雄の頬に落ちた。


「ん……しずく?」


 夢の中で、琴姫だと思ったのは雫であった。


「雫……、お前は琴姫なのか?」



 ぼんやりとする頭で、長谷雄はつい問うてしまった。


 雫の琴の音を聞いてから、漠然とそんなことを考えていたが、これを聞いたら自分は歯止めが利かなくなると思い問うことはなかった。

 それ以前に、そんな馬鹿なことがあるわけがないと思っていたのだ。


 琴姫は死んだのだ。


 そうわかっていながら、このときばかりは酒の力も借りて言ってしまった。



 雫は、覚悟を決めていた。


 彼女は、長谷雄の心の内に巣くう闇を知っていた。

 また、酒の力を借りなければ十分に眠れないほど疲れ果てていることも……。

 長谷雄の体も心も、限界なのだ。


 愛しい人が病に倒れるのを見る為に戻ってきたのではない。

 なんとか、その内にある罪悪感を拭い、新たに歩き出して欲しいと願ったからこそ戻ってきたのだ。


 それだけを見届けたかった。


 再び一緒に歩むことを望んだわけではない。

 彼女は、伝えたかった。

 琴姫わたしが死んだのは、決してあなたのせいではないと……。



 雫は大きく息を吐くと微笑んで一遍の歌を詠んだ。





    よるべなみ


    身をこそ遠くへだてつれ


    心は君が


    影となりにき



 ――― 近よるすべのないほどこの身は遠く隔たれてしまいましたが、

    心はあなた様を想いながら、影のようにずっとお傍にいます……。




 それはとても美しく、触れたら消えてしまう夢のように思えた。


 しかし、夢ではなかった。



「それは、琴姫の最後の歌。なぜ雫が知っているのだ!?」


 驚きを隠せぬ長谷雄の手を取り、雫は続ける。


「あなたがあまりにも嘆き悲しみ夜道を歩き、酒を飲み眠れない様を見て心配で冥府へ行けなくなってしまったのです。

 どうかご自分を大切にしてくださいまし。そして、悲しまないでください……それだけを言いたく一時もどってまいりました」


 それが真実だった。


――― 『雫』は『琴姫』だったのだ。



「そうして、朱雀門のあたりを彷徨さまっていましたらあの青鬼がわたくしをこの世にどどめ、自分の下へ置きたいと申しました。それが、叶うならわたくしに人の器をくれるというのです。

 しかし、わたくしは長谷雄さまのものにございます。ですから、はじめて賭けというものをしました。鬼が勝てば鬼のものになり、長谷雄様が勝てばわたくしの勝ち。わたくしは長谷雄さまのもとへ帰ると……」


「そうだったのか! なぜもっと早く言わない」


「わたくしの体はすでに滅び、今や別のもの…どうやってそんなことを証明するのです? それに、この不慣れな体では話すことも琴を弾くことすらままなりませんでしたから」


 月明かりに照らされた雫は月の姫と言っても信じられるほど美しかった。

 それは、内に秘めた覚悟のせいであった。


「琴姫……」


「長谷雄様、『雫』とお呼びください。わたくしは長谷雄様にいただいたこの名前たいそう気に入りました」


(逝くならばこの名で逝きたい……)


 彼女の心は決まっていた。



 このとき、長谷雄は鬼との約束を忘れていた……。



 ◆



 乾いた大地に生えた草が、雨を求めるのは当然のこと。


 そして、一滴の雨粒を思い出せはその思いは一層募る。


 長谷雄は、雫という水を欲する乾いた草だった。



 想いはせきを切ってあふれ出す。


「しずく!」


 長谷雄は、彼女の細い体を抱きすくめ夕暮れ時の朱色を集めたような、唇に顔を寄せた。


「愛しい愛しい……しずく姫」


 彼女の握った手も、唇も、やはりひんやりとしていたが繰り返す口付けで温かくなっていく。


「ずっと、謝りたかった。

 私の行いが悪いために、あなたを奪われたのだとそう思っていた」


「あなたのせいではありませぬ。これは天命というもの」


 長谷雄にゆるりと押し倒され、雫の衣がはらりとほどける。


 しとねには二つ帯。


 腕の中にある柔らかな感覚は、狂おしいほどなつかしく、

 長谷雄は夢心地でその存在を確かめた。


 雪のような雫の肌の隅々に火が宿り、夜がふけてゆく。




 ◆




 月が沈み、日が昇る。


 まぶしい朝日が部屋の中へ差し込んでくる。


 長谷雄は、夜が明けるのがこんなにもうとましいと思ったことはなかった。


 日の光に目を細める長谷雄の目に雫の姿が映った。


「……わたくしは、もう行かなければなりません」


 雫の言葉が理解できぬ長谷雄は問う。


「どこへ? ずっと傍にいてくれるのではなかったのか」


「鬼の言葉をお忘れですか?」



 ――― 鬼の約束。

    100日はちぎってはいけない。


 その言葉を思い出し、長谷雄の血の気が引く。


「100日……そんな!」


「この体、わたくしのものであってわたくしのものであらず。あなたに気味悪がられるのは悲しいので申しませんでしたが、このからだは鬼が死者のよき所のみでしつらえた、ただの器にすぎません。100日の月日を待ちませんと魂と結びつきませぬ」


「では!」


「わたくしは、それでもよいと思いました。一時あなたをおなぐめできればそれでいいと……それ以上望んではいなかったのです。ですから、このたびのことも覚悟の上」


 雫は微笑んだ。

 朝日よりもまぶしく、温かく。


「どうかわたくしの分まで生きてくださいまし。

 わたくしは、あなたさまに二つも名前をいただけて幸せでした。ですから、長谷雄様もどうか幸せになってくださいませ」



「何を言っているのだ?」


 言い知れぬ不安にられ、しずくを抱きしめようとした。


 しかし、その瞬間、雫の笑顔は玻璃はりの器を割ったかのように、あたりに光を振りまきながら四散し砕け散った。


 ――― 水の欠片。


 そのしずくのひとつひとつが、昇ったばかりの朝日を受け輝いた。


「しずくっ!!」


 雫の香の残るしとねに残された水をかき集めたが、元に戻ることはなかった。


 長谷雄の腕は、姫を捕らえることはできなかったのだ。


 頬を濡らす水が、雫のものなのか自分の涙なのかもわからない。




「なぜだ!!」


 長谷雄は叫んだ。



 どうして語ってくれなかったか、いいやそうではない。


 雫に対してではない、自分自身に向けてだった。


 自分は100日待つことができなかったのか。


 なぜ雫を抱いてしまったのか!



 後悔した。



 鬼の言うとおり何度も何度も悔やんだ。


 しかし、雫が戻ってくることはないのだ。


 長谷雄は、彼女の名を呼び続けた。


 言葉にならない声が、喉を駆け上がり焼き続けた。

 

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