6、鬼との約束
勝負から数日たった。
長谷雄は、あの夜あったことは愛しいものを亡くし、
しかし、
あの青鬼が、長谷雄の屋敷を訪ねてやってきたのだ。
やはり
そして、そのとなりには賭けの品であった『女』が立っていた。
雨よけの
長谷雄は、夢ではないかと目をこすったがやはり間違えではなかった。
目の前には、鬼と女が立っていた。
「
「ああ、雨の中
長谷雄は自分がとんでもないことを言っているとわかっていたが、男…鬼の寂しげな様子になんとも声を掛けたくなったのだ。
「いいえ、なごりが惜しくなりますのでここまでといたしましょう」
「貴殿、本当によいのか?」
「勝負に負けたのですから、仕方ありませぬ」
鬼の潔さに、長谷雄は感嘆した。
相手は鬼だ。約束を守るふりをして長谷雄を喰うこともできるはず。
けれど、そんなそぶりは
鬼は言葉を続ける。
「どうぞこの女を大事にしてやって下され。その代わり、ひとつお約束を守っていただきます」
「それは?」
「今宵から100日は、この女と
「100日? その理由は?」
「この女は生まれたての赤子のようなもの。まだ、人間としての所作ができかねます。しかし、100日たてば一人前となりましょう」
「なるほどな」
「約束を破り100日より前にこの女を抱くようなことがあれば、あなたは必ず後悔します」
「私が、後悔?」
意味のわからない鬼の申し出に、長谷雄は苦笑したが、鬼は真剣な様子で話を続けた。
「この女の幸せのためにも、決して約束を違えることだけはしませんように」
「女の幸せのためか……面白い。わかった、約束しよう」
それを聞き、鬼は満足そうに去っていった。
後には、鬼が連れてきた女が残った。
(この世のものとは思えぬ美しい女だと鬼は言っておったが……)
長谷雄は、
「雨のなか寒かったであろう」
女は何も言わない。
不思議に思ったが、鬼の連れて来た女だ。多少かわったところもあろうとあまり気にしなかった。
「とにかく、笠をはずし雨をぬぐいなさい。風邪をひくといけない」
笠をはずせという長谷雄の言葉に、女は静かに従った。
笠を外し、髪を振うと流れる黒髪と雨の雫が広がり、
淡雪のような白い肌、
夕暮れの悲しみの紅を差したような口元に、長谷雄は息を呑んだ。
鬼が、この世のものとは思えぬ女と言った意味がようやく分かったのだ。
世に浮名を流した長谷雄が言うのだから間違いはないだろう。
今にも夢幻のように消えてしまいそうな印象をも持ったが、それも雨に濡れてきたせいだと長谷雄は解釈した。
女は不思議なもので、一言も話しをしなかった。
そればかりか、周りが見えているのかいないのか、聞こえているのか聞こえていないのか反応も薄い。
彼は、鬼の言葉を思い出していた。
―――「生まれたての赤子のようなもの」
(反応が薄いのはそのせいか……。
では、抱いたところで面白くもなんともないではないか?)
そこで長谷雄は
(何を考えている。いくら美しくても鬼の女だ。
抱こうなどと思わぬのが賢明だ)
彼は、ため息を一つ吐くと女に話かけた。
「おぬし、名前はないのか?」
「………」
(参った……。名もないのか)
不意にはじめて女の顔を見たときのことが思い出された。
雨を払ったあの瞬間、雫と髪が
「『
分かったと言う意味なのか、女がゆっくりとまぶたを閉じた。
「そうだ、私も名乗ってはいなかったな。
すると、女がはじめて言葉を発した。
「…はせ…お…さ…ま…」
どこか、調子の外れた笛のような声であったが確かに女が話せることがわかり安堵する。
「そうだ、私が長谷雄だ。お前のことは今日から
女は、やはり表情は変えずただゆっくりと頷いた。
◆
確かに美しいが、人形のような謎の多い女に長谷雄は興味をひかれた。
「どこの姫か?」
「なぜ私を賭けの相手に選んだのか? 私を知っているのか?」
「なぜ鬼と一緒にいたのか?」
鬼が語らなかった雫との関係も明らかになるかと期待した問いだったが、答えるどころか、意味すらわかるのか分からないのかも疑わしいありさまに長谷雄は拍子抜けした。
雫は、語りかけても表情ひとつ変えず、声も出さない。
長谷雄が「お食べなさい」だの「傍へ来なさい」「酒を注ぎなさい」だの命令すれば、それなりの反応は返すが、はやりどこかぎこちないのだった。
それは、どことなく少しずつ動作を覚えている子供のようにも見てとれたし、あるいは思い出そうとしているようにも見えた、
(鬼が連れてきた女だ、人間ではなく
そう思いながらも、なぜか彼は雫を手放すことができなかった。
視界の片隅に女性が入ると言うのは悪い気がしなかったから。
容姿こそ似てはいないが、雫に亡き琴姫を重ねていたのかも知れない。
琴姫は物静かな女性で、長谷雄の話しを良く聞いてくれた。
普通の女なら聞いても分からぬか、興味を持たないであろう
雫はそういった意味では、自分の意見を言うわけではなく琴姫にはあまり似ていないが、飽きる様子を見せずに長谷雄の声に一心に耳を傾けている様を彼は
◆
琴姫が亡くなってから、宮中の仕事以外で口を開くことはなかったが、雫が来てからは一人でもよく話をしている。
雫は、頷くだけで言葉を発することすらほとんどないのだが、語りかけずにはいられなかった。
自分は、こんなにも弱い人間で人恋しかったのかと、長谷雄は自分の弱さを認めはじめていた。
「雫。お前は何か望むものはないか?」
長谷雄の突然の問いに、雫は首をかしげた。
彼は、雫の笑顔を見てみたいと思ったのだ。
雫には謎ばかり、しかし、それを知る手立ては少しもない。
雫が、長谷雄に心を開いていないわけでないとは思いながらも、どこか彼女が自分を好いてくれるようなことがしたかったのだ。
雫は、長谷雄の申し出になにか思いついた様子で顔を明るくし口元を動かした。
それは、雫にはめずらしい反応であったが、息がもれるだけで声は上手くでなかった。
もどかしいのか彼女は涙を流した。
まるで、生まれたての赤子のように無防備なその様子を長谷雄はいじらしいとも思えてきた。
「焦ることはない。ゆっくりでいい」
そんな雫を見て、長谷雄は自然とその頬に手を伸ばした。
彼は、白い頬を流れる涙を拭ってやりながら言う。
「傍にいる、大丈夫だ」
長谷雄の声は、ゆっくりと雫の心を包み込んだ。
彼女は安心したのか、深く息を吸いもう一度声を出すことを試みた。
「こと……を……ください……」
ようやく、彼女が発した願いはささやかなものだった。
「琴でいいのだな?」
そう、問い直すと雫は加減ができずに首がもげそうなほど大きく頷いた。
「そうか、琴か! しばし、待っていなさい」
そういうと、長谷雄は隣の部屋に置いてあった琴姫の形見の琴を持ってきた。
「雫。これは、私の大切な人が愛用していた琴だ。このまま、私の涙と
良く手入れされた琴を愛おしそうに手渡すと、指先がかすかに触れあった。
女の手は、ひんやりとしていたが、その顔は、出会ってからはじめての笑顔が見られた。
長谷雄は、自分の止まっていた時間がかすかだが動き出すのを感じた。
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