7、長谷雄と雫

 

 宮中からの帰り道。

 長谷雄は、牛車を断り歩いて帰る。


 青鬼と会ったあの夜とは異なり明かりの用意はあったが、いまだに夜道を一人歩くなどという無謀な癖は抜けてはいなかった。


 しかし、今日は違っていた。


 道端に咲く美しい桔梗ききょうの花が目にとまったのだ。

 姿優しい紫色の花を見て、長谷雄はふと雫を思い手折たておる。


 桔梗は、琴姫の好きな花だった。

 雫がどの花を好きかなどわからないが、彼女はきっと喜んでくれると思った。

 それは、あまりにも自然な思いつきだっただけに、彼は戸惑う。


(いつから、私はあの鬼の女に想いを寄せるようになったのだ?)


 ――― そう、あれは鬼の女だ。


 しかし、ここしばらく彼自身そのことを忘れていた。

 雫は自分が名をつけたのだ。

 子供のようにとはいかないが、いつのまにか家族のように大切な存在となっていた。

 何も語らずとも、ただ一緒にたたずんでいてくれるだけで十分満ち足りた気持ちがしていた。



 長谷雄は、日が暮れる前に足早に屋敷へ戻ると雫に桔梗の花を手渡した。


 触れた手は以前と同じようにひんやりとしていた。


「寒くはないか?」


 彼は、しばしその手を包み込み温めた。


 雫は、ぎこちない動きで顔を上げた。

 彼女の本当の姿を知らないはずの長谷雄が、かつてと同じように花を贈り、その手をとったことに驚いたからだ。

 ただ、それが別れに近づくことを雫だけは知っていた。


「雫、笑ってはくれぬのか?」


 その問いに、雫は逆に泣きそうな顔をした。


「まいったな……泣かせるつもりはないのだよ。ただ、お前は美しいから笑えばもっと美しいのだろうなと思っただけだ」


 長谷雄は、正直に心のうちを話しひたいかいいた。

 雫がまだ、うまく感情を出せないことは知っている。

 彼の行為を迷惑に思い困っているわけでないことは、分かっているつもりだ。


無理強むりじいをするつもりはないのだ。許してくれ」


 照れたように笑うと長谷雄は、雫の白い手を名残惜しそうに離した。


 彼女は、貰った桔梗の花を握り締め、こくりと頷いた。




 ◆




 眠る前に酒をあおることは、琴姫が亡くなってからは長谷雄の日課になっていた。

 酒さえ飲めば、なんとか眠ることができたからだ。

 その量が過ぎることも自覚はしていた、しかし、止めることもできなかった。


 今宵も、一人で杯を傾けていた。


 傍らで、雫が琴を弾いている。


 ぎこちなく、決して上手くはなかったが何故か琴姫の琴の音に似た澄んだ音色に視界がにじんでいく。


 ―――涙だ。


 長谷雄は、杯を取り落とし震える手で口元を抑え声を殺した。



 雫はすぐに、彼の様子に気がついた。そして、静かにそばに寄り添い、そっと長谷雄の涙をそでぬぐった。


「泣か…ないで……」


 そして、彼を安心させるため柔らかな微笑みを浮かべてこう言った。


「そばに…います……。大丈夫……」


 それは先日、長谷雄が雫に言った言葉であった。


 雫の言葉はたどたどしかったが、声は小川のせせらぎのような心地よい声音だった。


「雫っ!」


 いじらしい言葉に、彼は思わず彼女を抱きしめた。

 冷たく乾ききった彼の心に、雫の優しさが染みたのだ。


 雫もまたあらがうことなく長谷雄の腕の中にいた。

 そうして、彼が雫の頬に手を伸ばしおとがいに手をかけたとき、ふと長谷雄はあのときの鬼の言葉を思い出したのだ。


『あなたとそして、この女の幸せのために100日は辛抱を……』


 鬼はそう言っていたではないか?

 まだ、二ヶ月ほどある。


 長谷雄が名残惜しそうに、身を引く。


「鬼との約束を違え無体なことをすることろだった。すまない」


 彼が、目を伏せてびる。


 雫は、大きくかぶりを横に振った。

 そして、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


「わたくしも……おなじ気持ち……」


 長いまつげに縁どられた黒い瞳は濡れていた。

 長谷雄は、彼女の気持ちに偽りはないと思いながらもその言葉に甘えることはできなかった。


(琴姫を不幸にした私が、雫を幸せにできるはずもない……)


 長谷雄は、気を取り直して冗談交じりに笑った。


「お前がそう言うなら、100日たったあかつきにはめとってもかまわぬか?」


 その言葉に、雫は目を見開きその後、無邪気な笑顔を返してくれた。

 それだけで、彼は十分満足だった。


「では、あともう少しの辛抱だな」


 そういって、長谷雄も笑顔を返したものの、雫にこれ以上のことを求める気持ちは失せていた。



 大事な人だ。


 今度こそ傍にいてくれさえすれば、それでいい……。




 ◆




 雫の琴は日増しに上達した。


 それと同時に、立ち居振る舞いも自然になり、話も自然にできるようになってきた。



「長谷雄様、夕食をお持ちいたしました」


「ありがとう、雫もそこにお座りなさい」


「はい」


 雫は白鷺そらさぎがゆっくりと舞い降りるかのような優雅な所作しょさで長谷雄の傍に座った。


(ほう、美しい……)


 長谷雄は感嘆の息を吐く。


「はじめて会った頃とは見違えるようだな」


「さようでございますか?」


 長谷雄に酒を注ぎながら、雫がはにかむように笑う。


「ああ、お前をひと目みたときあまりの美しさに人間ではないかと疑ったものだ」


「まあ……」


「今も美しいと思っていることには違いないが、以前とは違い心根の美しさをも感じるのだよ」


 酒をぐいと呷った長谷雄を心配そうに見つめ、雫は言う。


「長谷雄様が、お元気になられることだけがわたくしの願いでございます」



 雫が琴を奏ではじめる。

 優しくあたりを包みこむたおやかな調べ。


 しかし、その温かさが長谷雄の心を掻き乱していた。


 琴姫はよく、『琴はわたくしの心』と言っていた。

 ならば、これは雫の心だというのか?



(泣かないで……悲しまないで)


 雫の琴はそう言っている。


(泣かないで……)



 なぜ、雫は私の心の内を知っているのだろうか?


 私の、内に巣くう琴姫を追って逝きたいという闇も見透かしているのだろうか……。


 杯を覗き込むと、そこには心細げな男の顔が映った。



 ◆



 その夜、長谷雄はせおは夢を見た。


 あの青鬼が、なぜか琴姫に語りかけている。


「100日我慢すれば、この世に留まることが出来るのだ。私もそれを望む……」


 青鬼は、必死な様子で琴姫を思いとどまらせているようだ。

 しかし、琴姫は頭を振る。


「わたくしは、もう見てられないのです……あのように酒に溺れては時期に長谷雄様が死んでしまいます。

 100日も待っていたら、長谷雄様は先に黄泉よみかれてしまわれます。それでは、わたくしが還ってきた意味がございませぬ」


 はらはらと涙をこぼす琴姫を見て、青鬼はため息混じりに答える。


「……お前に与えた体だ、好きにするがよい」



(なぜ? 雫ではなく、琴姫と鬼が話をしているのだ??)



 自分の夢であるのに、意味がわからぬことにいらだちながら長谷雄は目を覚ました。



 ひどく頭が痛い。


 それもどうでもいいことだと思う自分がいる。



 いまだに、琴姫のいる黄泉よみに行きたいと自らの命を軽んずる気持ちがくすぶっているのだろう。

 

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