2、中納言 紀長谷雄

 

(切ないような夕暮れだな……)

 館や築地ついじ、通りを歩く物売りの声すら赤々と染め上げる夕日を見つめながら、中納言 紀長谷雄きのはせおはそう思った。

 だから、牛車を断り歩いて館に帰ろうという気になったのだ。

 内裏だいりからの帰りのため、直衣のうし烏帽子えぼしのという正式な装いで供も連れず一人歩いている姿は、貴族としてはいささか妙な姿であった。

 彼はそのことはあまり気にしなかったがあたりが暗くなるに従い、灯りひとつ持たずに出てきてしまったことは気に病んだ。

 しかし、それもすぐにどうでもいいと思う自分がいた。

 今の自分は、闇を怖いとは思わない。

 いっそ、百鬼夜行にでも出くわして喰われてしまったほうがよほどすっきりする。

 長谷雄はせおはこのところ、そのような物騒なことばかり考えていた。


 ◆


 彼は、先日まで名もない女のもとへ通っていた。


 女は、身分の低い貴族の娘で父も他界し、貧しい暮らしをしていた。

 ただ、たいへん美しくその琴の調べは物の怪すらも心動かされるといわれるほど、たおやかな音色だという。

 そんなうわさを聞いて、長谷雄はその女を訪れたのだ。

 容姿端麗で、地位も名誉も持ち合わせている長谷雄はせおは、宮廷でも女や賭け事で浮名を流していた。

 賭け事は特に「双六すごろく」と呼ばれる遊戯ゆうぎで、さいを振り出た目で陣取りをすると言うもの。賭け双六は長谷雄の得意とするところで、宮中でも負け知らずであった。

 今度の女のことも、日常の遊びのひとつで数いる女達の中に名もなき女の存在が加わるだけだと長谷雄は軽く考えていた。


 長谷雄はせおは、はじめてその女を見たとき特別に美しいとは思わなかった。

 確かに、顔かたちは整っており流れる艶やかな黒髪も綺麗だとは思った。

 ただ、彼女程度の容姿の姫は宮中を探せばいくらでもいる。

 だから、彼はいつも他の女たちに言っているものと同じくどき文句を言ったのだ。


「美しい姫よ。あなたに心奪われました」


 この言葉を真剣な気持ちで再び言う日がこようとは夢にも思わないで……。




 長谷雄は、毎日、宮中の勤めで忙しくそれを悟らせないためにも遊びに興じ、次第に自分というものを見失っていた。

 外での派手な振る舞いと裏腹に、心が冷たく頑なになってしまっていることを周りも彼自身も気づいてはいなかった。


(身分の高い者なら、私でなくても相手の男は誰でもよいのだろう)


 いつも微笑んで彼を迎い入れるこの女すら、長谷雄は見下していたのだ。


 けれども、通い始めてしばらくたった頃、長谷雄は彼女の琴の音を聞いた。

 そのときも、やはり胸の奥が締め付けられるほどの夕日だった。

 部屋の中を朱色の陽光が染め上げる。

 彼はそんな美しさに気が付かないほどに疲れ果て、彼女と言葉を交わすことなく脇息きょうそくにもたれ寝入ってしまった。

 まどろみの中、聞いた琴の音は宮中で聞く雅なものとは違っていたが、優しく包みこむような暖かさに満ちていた。


 耳だけではなく、胸に染み入る音色。


 気が付けば、長谷雄は泣いていた。

 その涙は、拭っても拭っても止まることはなかった。


 ――― あなたのお傍にいます。

    ゆっくりとお休み下さい。


 耳元でそうやさしく語られているようなたおやかな調べ。

 彼は、いままでの自分の態度を省み恥じ入った。

 自分の地位におごり、自分を取り巻く女たちを蔑み、身分の低い者たちを嘲る。なんと、愚かな行いだったのかと。

(彼女だけは、確かに初めから地位でも名誉でもなく、疲れた自分を見てくれていた……)

 ようやく、彼女の微笑みは身分や名声に向けられたものではなく、自分に『紀長谷雄きのはせお』という心をすり減らした男を癒すために向けられたものだったと気づいたのだ。

 その日から、長谷雄は彼女に恋をした。


「あなたに心を奪われました! 

『琴姫』とお呼びしておしたいしてもよいだろうか?」


 柄にもないと思いながらも、長谷雄は真剣に彼女に言うと、

「そのように呼んでいただけるとは、わたくしもうれしゅうございます」

 といって、心洗われるような笑みを返してくれた。

 その笑みにつられ、長谷雄も何年かぶりに心の底から笑うことができたのだった。



 桜の咲く頃、月の美しい日、雪の降る季節……折につけ二人は過ごした。

 そのたびに紡がれる琴の調べは、長谷雄の胸を熱くさせた。

 賭け双六や女遊びに興じ仕事の憂さ晴らしをしていたが、なんともったいないことをしていたのだろう。


 長谷雄の気持ちは一心に琴姫に注がれた。


「あなたの琴の音は本当に美しい。心の隅々に染み渡り、時折り涙が止まらなくなる……」


 契りを交わした床で、琴姫の髪を手で梳きながら長谷雄が問うたことがあった。


「琴は、わたくしの『心』でございます」


 誉められたことが恥ずかしいのか、少し照れながら琴姫は答えた。


「では、私の涙が止まらなくないような曲を弾いているときは、いったいどんなことを思いながら弾いているのだろうか?」


「それは……長谷雄様を想いながら。どうか、あなたさまがこころ安らかになりますようにと願いながら」


 長谷雄は、たまらなく琴姫を愛しく感じ懐に抱き寄せ口付けをした。


 ◆


 しかし、

 琴姫はもういないのだ……。


 傍らにあったぬくもりは失われ、

 二度と戻ることはない……。



 もろもろの宮中行事が忙しく、しばらくの間彼女のもとへ通うことができなかった。

 中納言ちゅうなごんという官職は宮中の要。

 彼女に会いたいと切実に思いながらも、帝の信頼を裏切ることはできず辛い日々が続いた。

 やっと、仕事が片付き琴姫の館へ駆けて行くとすでにそこには誰もいなかった。


 乾いた風が吹き抜けるばかりのその部屋に、ただひとつ、琴があった。

 傍らには一遍いっぺんの歌。

 御手みては琴姫のものだった。



    よるべなみ


    身をこそ遠くへだてつれ


    心は君が


    影となりにき


 ――― 近よるすべのないほどこの身は遠くへだたれてしまいましたが、

    心はあなた様を想いながら、影のようにずっとお傍にいます……。





(これはいったいどういうことだ……)


 嫌な予感が胸中をうずまく。


 黒い霧が体を締めてゆくような錯覚。

『これ以上知ってはいけない』と、もう一人の自分が警鐘を鳴らしていたが確かめずにはいられなかった。


 そして、知ってしまった。


 姫が、流行病で亡くなったということを。


(琴姫が死んだ……?)


 そうか、これは罰なのだ。


 琴姫に出会うまでの間、数々の浮き名を流し、賭け双六に興じ、女との関係すらも遊戯ゆうぎのように軽く考え、人の気持ちを踏みにじったそのツケがここにきて回ってきたのだ。

 一度手に入れた幸せを手放すことほど、辛い仕打ちはない……。


 長谷雄は歌の書かれた文を握り締め、ひざを折り泣いた。



 ◆



 遠くで、家路を急ぐからすの鳴き声が聞こえる。


 沈み行く夕日を見つめながら、長谷雄は胸元に手をやった。

 そこには、姫の最後の文が入っていた。

 せめて琴姫の菩提ぼだいとむらおうと、方々に尋ね歩いたが手がかりは見つからず叶わなかった。


 だからこうして、長谷雄は馬鹿げていると知りながらも夜道を歩くのであった。

 霊でもかまわぬ、琴姫にひと目会ってびたいと……。




    ふしてぬる


    夢路にだにも逢はぬ身は


    なほあさましき


    うつつとぞ思ふ



 ――― 眠りの中で見る夢でさえあなたに会うことがかなわない。

    現実にいる自分などなんの意味があろうか、情けないものだ。



※ 作中の双六とは、今でいうバックギャモンのようなものです。

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