9:家路

 まず、違和感に揺さぶられた。

 目の前はまっくらで、意識は沈むように揺蕩っている。 

 眠る自覚もないまま、普段なら緩やかに引き上げられる感覚を楽しむのだが、今日は現実から垂らされたリールの巻き上げが早い。

 原因は違和感だ。

 その正体を探がしてしまうから、霞かかった眠気がどんどんと晴れてしまう。

 気が付いたのは臭い。

 微かだが、確かな生臭さが鼻奥を刺している。

 はて、寝床の近くにごみ箱でも置いてあったか、と記憶を掘り返しはじめたところで、

「っ!」

 献げ社に満ちていた臭いであると気が付く。

 だから路洋のまぶたは、恐れと冷汗とともに見開かれてしまった。


      ※


 目に入ったのは古い木目の天井で、周りは清潔な白カーテンで囲まれていた。

 透ける明るさから、今時分が昼であることがわかる。

「おお。目が醒めましたか」

 詰まった胸を、酸素を求めて浅く短く上下させると、遠くから年老いた声がかけられた。

 先日に顔を合わせた、具香と連れたって壱樹を送り届けた先の、診療所長のものだ。

 驚きと混乱、そして正気の混濁で声をあげられないこちらに構わず、カーテンが開かれた。

 目を眩ます夏の光を背に、先生は笑いかける。

「よかった。神社の階段で倒れていたところを、若衆が見つけたんですよ」

 明け方ころ、夜通しの太鼓囃子を終え帰路についた彼らが、そのまま診療所まで運び込んでくれたのだそうだ。

「軽い脱水症状でしたな。点滴をして少し休めば回復しますよ」

 暑くてビールが美味しいですからなあ、と暗に不養生であるとたしなめてくる。

 曖昧な返事で言われるままに腕を確かめれば、確かに、刺された針から、チューブが伸びている。

「記者さん。夜中の取材も結構ですけど、お酒はほどほどにしておくべきでしたね」

 あくまで、笑い話に収まる個人の失敗なのだ、と医者は笑う。

 路洋は意識を失った経緯を思い返し、けれど祭り明けの穏やかな村の空気に、果たして己が見聞きしたおぞましい光景に疑いが浮き上がる。

 状況から考えて、あの地獄めいたあなぐらから自分を引きずりだしたのは、狂った祭事を取り仕切っていた老人たちであろう。

 つまり、倫理と道徳に悖る行いを目撃されたにも関わらず、こうして日常へ放り出した。

 人のよさそうな老医師もおそらくは彼らの一員ではなく、きっとあの場の者だけが共有する秘密なのだ。

 だけれど、こうも唐突に目を醒めさせられると。

 どうにもただの悪夢だったのでは、という一縷の望みにすがってしまう。

 鼻の奥の臭いさえ、生々しく残っていなければ。

 捨ておくには恐ろしく、だから、真実のかたちを探って指を伸ばす。

「あの、具香さんは」

「昼前まではいたんだがね、どうも流一さんが調子を崩したとかで一度帰られましたよ」

「流一さんが」

「朝方から熱を出して、食欲もないとか。ご家族もいるので、お見舞いに行ったのでしょう」

 背が、泡立った。エアコンの冷気のせいだろうか、それとも、聞き咎めた昨夜の被害者の名前のせいか。

 明瞭になりつつある形は空恐ろしく、少しでも安堵の材料を求めて問いを重ねると、

「壱樹さんはどうしています」

「おや。昨晩遅くに具香さんが迎えにきましたが、ご存じない」

 残酷に、なお恐怖の輪郭を明確にしてきた。

 内臓までも震え上がらせると、廊下より柔らかな女性の声が響いてきた。看護婦と談笑をしながら、こちらに向かっている。

 まさに虚名であるが『村長』を継いだ具香のものであり、

「噂をすれば、だ」

 路洋が知るまま、なに一つ変わらない様子の声音であった。


      ※


「道路、お昼に復旧したと連絡がありましたよ」

 ベッド脇の丸椅子に腰を下ろし、具香は柔らかく微笑む。

 昨晩の凶事を、微かな影すら匂わせない魅力的な笑みだ。

「どうしました、そんなまじまじと見られて……ああ、そうですね。ずっと喪服でしたから……都会の方から見たら変でしょうか」

 地底に根を張る陰鬱な暗がりを思わせる黒色の和装ではなく、白のTシャツに藍のスカートという夏らしい涼やかな格好。

 昨晩の臭いと熱狂を洗い落とし、影すら踏ませぬよう隠してしまう意図なのか。

 路洋は、声を出せないまま背を凍らせる。

 自分の手には一つも確かなものが残っておらず、相手はひたすらに秘し覆ってしまおうとしており、

「大瀬さん。良い記事は書けそうですか」

 確かめるような問いすら、投げつけてきた。

 言われ、では証拠があるじゃないかと、思い出す。

 携帯電話だ。

 献げ社に踏み入る前からカメラを回していた。職業柄、個人情報や取り扱いに配慮が求められるデータがあるため、クラウドサービスは利用していないが、端末ストレージには十分な空きがあったはず。

 けれども、

「そちら、一緒に落ちていたそうで。若衆が拾ってくれていましたよ」

 彼女は細く白い指をサイドチェストへ指し、路洋に見慣れた精密機器の在り処を教えてくれた。

「記者さんなら普通の人より大切でしょう。電源は入ったので壊れてはいないと思いますけれど」

 ああ、つまり。

 気を失っていた路洋の指先を拝借し、認証を突破するなど容易いことである、と。

「うちにあるお荷物も、あとでお持ちしますよ」

 具香は、微笑む。

 真実へ至る道はもれなく塞いで、一つとして残ってはいないのだとでも言うように。


      ※


「風を入れましょう」

 兄が呆け父親が他界したことで、石斑谷村の権威となった女村長が、しなやかな腰を曲げながらベッドを囲う白カーテンを開いていく。

 その背に目もくれず、路洋は携帯電話を立ち上げていた。

 昨日から幾つも撮っていた画像と動画をスライドさせ、写り映えを確認していく。

 素朴ながら緑の美しい田舎村の様子のあれこれと、とと追祭りの様子だ。写る人々は、年に一度の特別な夜に、屈託ない笑顔を浮かべている。

 これだけでも、記事としては十分だ。

 けれど。

 あの地獄の底で直面した凄惨かつ不可解な絵は、なに一つ、形跡すら残っていない。

 欠片だけでもないか、と祈るように指を滑らせていくと、

「見てください。このお部屋、神社がよく見えますよ」

 見れば、窓から遠く。

 小高い杉山がそそっており、頂に鳥居が覗いていた。

 御とと神社の入り口であり、とと追祭りの出発点でもある。

「昨夜は災難でしたが、良ければぜひ、村のことをご紹介くださいね」

 窓を開け放ち、湿気少ない爽やかで緑の濃い空気で、空調と薬品の無機質な臭いを塗りつぶしていく。

 ひらりひらりと揺れるカーテンを縛れば、女は言い寄るよう枕元へ口先を近付けてきた。

 男を戸惑せるに十分な眉目が間近に迫って、けれど、身動きできない路洋には恐れが先にくる。

 甘い香りをただよわせながら耳元へ、彩を塗るように囁くことには、

「とと様、昨夜は機嫌が良かったのですよ」

 隠し、努めて口にしなかった祀られる銘名。

 こちらの息を鼓動ごと止めるに十分な、恐ろしい名を冠する神が、

「あんなに召し上がったの、この三〇年で初めてじゃあないかしら」

 あの山の薄暗い地下に、延々と息づいているのだと。


      ※


 夕に荷物を届けると言い残した具香を見送れば、男はベッドに一人残された。

 聞こえるのは、風に乗って聞こえてくる蝉の音や、子供らの楽しげな声。

 しかし、路洋の耳朶は、現実にないリズムに叩かれている。

 と、とと、と、とと。

 夜の闇に途切れず響いていた太鼓囃子だ。

 また、いま一つ。

 あの重く湿った地獄の底へ設えた木格子の奥に、暗がりに潜んだ『あれ』の喉からこぼれ落ちていた鳴き声でもある。

 思い出すに、世界への無意味な詮索と、虚脱に襲われる光景。

 自問から生まれる陰鬱から逃げるよう、首を振って目を窓へ。

 見えるのは、こちらに向く朱の鳥居。

 まるで見つめられているようで、今さっきの『村長』の口ぶりもあって、まるで見張られているように思えてしまって。

 ふと、鈍く昏い光が頭に閃く。

「ああ、お前もそうなのか」

 光のない不潔な檻を住まいとし、給餌を糧とするあの姿はまるで、だ。

「囚われているようじゃないか」

 村人たちに見張られ、不自由を強いられ、生かされている。

 自由になるのはせめて声だけで、けれど、かき消すように太鼓が打ち鳴らされて、誰にも届くことなく、また石扉が閉じられるのだ。

 それでも、鳴き続ける。

 であるなら、あの声は、

 悲愴に吼える、哭き叫びではないのだろうか。


   了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

哭叫 ごろん @go_long

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ