第2話 大胆さ

 あいりは彼を見ていて、自分のことを本当は好きではないのだということを、結構早い段階から感じていたような気がした。しかし、

――私の思い過ごしなのかも知れない――

 という思いが強く、何とか彼を信じてみようと思った。

 この気持ちはあいりが自分のことを信用できていないからだという気持ちに反映していた。あいりは何事においても、自分を擁護する意識を持っていて、それが逃げに繋がっているということを意識していたのだ。

 自分がいじめられっ子だったという意識から、その思いは繋がっているような気がする。普段から難しいことばかりを考えているのも、一つはそのせいなのかも知れない。

「理屈っぽいわよ」

 と、人と話をしていて、いきなり言われることがあった。

 本人としては、相手に話を合わせているつもりだったが、次第に自分の考えをまくし立てるようになり、それが相手に対して圧迫感を感じさせているなどと、思いもしなかった。一生懸命に話をしているつもりが、説得しているかんじになり、そのまま説教に繋がっていたのだろう。

 頭では分かっているつもりであったが、実際にはそうもいかない。気持ちと裏腹に言葉が止まらずに出てくるということは、完全に自分が暴走してしまっているということである。

 そんな思いからあいりは、自分に対してまわりが何か利用しようとしている感覚は掴むことができた。もちろん、確証があるわけではなく、ただの予感でしかないのだが、それでも相手を信じようとするのだ。

 相手を信用しようとしないと、自分も信じることができないという思いは常々持っていて、それはいじめられっ子だった時代があったから、今までに培われてきたものだと思えるのだった。

「あいりは騙されやすいところがあるのかも知れないわね」

 と、中学に入って友達になりかかった女の子から言われたことがあった。

 その女の子とは結局友達にはなれなかったが、今でもいろいろ忠告してくれたりする。

「忠告って、お友達がしてくれるものではないの?」

 とその人に聞くと、

「そうかしら? そうとは限らないんじゃない?」

「どうして?」

「お友達になってしまうと、どうしてもお友達としてあなたの側に立ってしまって、贔屓目に見てしまうでしょう? お友達という立場でない方が公平に見ることができるので、的確なアドバイスが送れると思わない? 私はそう思っているのよ」

 その女の子は、誰が見てもクールで冷静にしか見えなかった。

 それだけに、彼女にも友達がおらず、あいりも友達は少なかったが、どちらかというと友達になってあげようと思ったのはあいりの方だった。

 だが、そんな感情は相手にそれとなく伝わるもので、

「変な同情なんかいらないわよ」

 と、こっちの気持ちが筒抜けになっているのか、お見通しとばかりに、彼女は言い捨てるように言った。

 あいりはそんな相手に少し怒りを覚えた。

 これはあいりではなくとも誰もが同じ感覚になるのではないか、

――せっかくお友達になってあげようというのに――

 と、完全に上から目線である。

 上から目線の場合、見られた人はまず間違いなく、相手から目下として見られていることは分かるものだ。それをどう解釈するかは、浴びせられた本人の意識だけであって、見下ろした方で、そのことが分かっている人は、

――どっちに転んでもいいわ――

 と思っているのかも知れない。

 なかなか相手を見下ろして見る人は、自分がそんな感情を持っていることに気付かない。同情だとは思っているかも知れないが、見下ろされた人がどう感じるのか、意外と分かっているものだ。それでいて、相手に何かを求めるのは図々しいと言えるのだろうが、相手を見下ろした時点で、図々しさは百も承知、見下ろした時点でその人も後には戻れない状況を作り出しているのだ。

 あいりは、自分が相手を見下ろしていることは分かっていた。それでいて、相手に何かを求めているということには気づかない。だから同情だと思っていたのだが、相手にそのことを指摘されて、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたのだが、それは今まで感じたこともない思いだった。

 その思いを、

――これが屈辱というのもなんだわ――

 いじめられっ子だった頃に、散々感じたはずの屈辱感、それとは違った別の意味での屈辱感を味わうことになってしまったあいりは、

――友達になってあげたい――

 と思った感情を、屈辱感を味わっている間、自らが噛みしめることになった。

――この感覚を忘れられれば、どれほど気が楽なんだろうか?

 とあいりは感じた。

 屈辱感など、一時たりとも早く忘れてしまいたいはずなのに、屈辱感から逃げようとは思わなかった。むしろ、相手があいりから逃げたいと思っているのを感じると、

――逃がしたくない――

 という思いが強くなった。

 それは、今その人を逃がしてしまうと、自分がこのままずっと後悔してしまうということを分かっているからだった。

 あいりは彼女のことをずっと見ているつもりでいたが、実際には、

「友達ができない人なんだ」

 という意識だけしか持っていなかった。

 彼女の本当の姿を見ようとはせず、自分にとって必要な部分しか見ていなかった。そのことをあいりはずっと気付かないでいた。いや、気付いていたのかも知れないが、見て見ぬふりをしていたのかも知れない。

――これって、いじめっ子ではないまわりのその他大勢に感じたことだわ――

 と感じたあいりは、ハッとした。

 自分がいじめられっ子だった頃、なるほど苛めていた連中が嫌いだったし、憎んだりもしたが、それ以上に、まわりの見て見ぬふりをしている連中の視線の方が憎らしかった。

 彼女たちは、見て見ぬふりをしながら、あいりのことを蔑んだ目で見ていたのだ。その視線を感じた時、

――その他大勢もいじめっ子と同類、いや、それ以上に汚い連中なんだわ――

 と感じた。

 自分が苛められなくなったのは、自分が変わったからではなく、いじめっ子たちが自分を苛めることに飽きたからだった。

 つまりは、苛めの対象が他の人に移ったというだけで、苛めている側にすれば、何も変わったわけではない。ただ、あいりは自分が苛められなくなっただけで、ホッとした気分になり、憔悴状態になっていたのは事実だろう。

「助かった」

 という思いが一番強く、そして、

「これで苛められることはない」

 と感じたことで、あいりは今度は自分がその他大勢になったことを自覚した。

 しかし、同じその他大勢でも、他の人たちとは明らかに違う。それは、

「自分にはいじめられっ子の気持ちが分かるその他大勢なんだわ」

 という意識があったからだ。

 だから、誰かが苛められていても、それを見て見ぬふりをする権利があると思っていた。実際に自分の後に苛められるようになった人を見ることもあったが、あいりはその時、自分の気配と意志を何とか打ち消そうとしたものだった。

 打ち消そうとしなければ、打ち消すことはできない。それだけいじめられっ子だった時に受けた傷は、消えることはなかったということであろう。

 いじめられっ子はあいりを見て、

「助けて」

 という視線を浴びせる。

 あいりはその熱い視線に気づいていたが、見て見ぬふりをした。気持ちは痛いほど分かるはずなのに、

「私をそんなに見ないで」

 と訴えていたが、その視線を相手が気付いたかどうかわからない。

 それは自分がいじめられっ子だった時、その他大勢に視線を向けても、誰もその視線に答えてくれる人がいなかったからだ。

――なるほど、ひょっとするとその他大勢の中には私に視線を向けている人もいるかも知れないけど、その人たちは、見ないでほしいといいう気持ちから、自分の哀願とは交わることのないまったく違うところを通り過ぎて行ったのかも知れないわ――

 と感じたのだ。

 いじめっ子の気持ちも、いじめられっ子の気持ちも、今のあいりは分かっていない。そう思うと自分がいじめられっ子だった頃が、遠い昔のように思えたが、実際にはごく最近にも思えるのは、いまだに夢に見ることがあったからなのかも知れない。

 夢に出てくるいじめられっ子の自分は不思議とまったくお無表情だ。自分の顔を意識したことがないあいりは、夢に出てくる自分の顔がのっぺらぼうに見えているのは、逆光の位置でしか自分を見ることができないという夢ならではではないかと思えていたのだ。

 陰湿な苛めとは程遠い感覚に、

「まだよかった」

 と思うのか、それとも、

「どうして私だったのか」

 と思うかの違いが、他人事に思う自分が微妙に立場を変えている感覚を思い知っていたような気がした。

「喉元過ぎれば熱さも忘れる」

 と言われるが、自分が苛められなくンると、いじめられっ子の気持ちが全く分からなくなってしまったのだ。

 そう思うと、

「いじめっ子の中には、以前苛められていた子もいるのかも知れない」

 と感じるようになった、

「ミイラ取りがミイラになる」

 という言葉とはまた違った感覚である。

 苛められていた時期を忘れるはずはないのだが、いじめられっ子が転じていじめっ子になるのは、自分で思っているよりも多いような気がする。逆にいじめられっ子がいじめっ子にならない場合はあるパターンがあるからではないかと思っていた。

 そのパターンというのは、

「苛められていた時のことを夢に見たからではないか」

 と思うようになった。

 夢を見ていて覚えているのが、怖い夢を見た時だというのを意識したのも、怖い夢というのが、

「苛められていた時の生々しい記憶」

 だったからである。

 苛められていた頃というのは、今では信じられないほど、絶えず何かを考えていた。ただそれは前向きな考えではなく、

「いかにこの恐怖から逃れられるか」

 ということを考えていたのだ。

「結論が出るはずもない発想が、ずっと頭の中でループする」

 あくまでもあいりの考えでしかないのだが、怖い夢という定義は夢に見るか見ないかという意識がいつも頭の中に残っているからではないだろうか。

 あいりは、最近根拠のないことでも自分の中で結論付けることが多くなったような気がする。それは自分が大人に近づいたからなのか、それとも本当の怖さというもおのを無意識ながらに感じているからではないかと思うようになった。

 だが、本当の怖さというものは、中学生のあいりが経験しているはずもなかった。だから、無意識ながらに、想像だけはできるのではないかと思うようになったのだが、それこそ根拠などあるはずもなかった。

 夢に見て、覚えている夢が怖い夢だということはあいりの中で結論付けているものであるが、覚えていないものに、怖いものはないという意識はなかった。ただ、怖い夢だけを覚えているという感覚から、逆の発想で、覚えていないことに怖いことはないという発想になってしまっているのだと感じていた。

 そう思うと、本当の怖さをいまだに知ることのないのは当たり前のことであり、本当の怖さを果たして夢に見るのかという疑問を感じたことで、

「夢を見るということ自体が、本当の怖さなのではないだろうか?」

 と思うようになっていた。

 そういう意味で、

「夢というのは、本当は眠りに就けば必ず見るものだ」

 という思いを抱いくことがあったが、この思いが一番信憑性があるのではないかと思うようになった。

 そんな中で覚えているものと、目が覚めるにしたがって忘れていくものがある。忘れていくものでも、夢を忘れるといううのが分かっているのだから、夢を見たという意識はあるのだ。

 それなのに、夢を絶えず見ていたと感じるというのは、それまでの意識に反するものである。それは自分にとって新しい発見であり、発見から逆に発想をループさせることもあるのだと、あいりは感じていた。

 見ている夢の怖さの度合いを、

「夢を見るのは無意識だ」

 ということであれば、夢を見ている時には、怖いと思っているのだろうか?

 目が覚めてから怖いと感じるのは、夢を覚えているからである。その覚えている夢というのは怖い夢がほとんどなのだから、目が覚めてから初めてその夢が怖かったと感じたのだとしても、それは不思議ではないことだ。

 逆にそっちの方が心境性があるのかも知れない。

 ただ、覚えている夢が怖い夢ばかりだということに捉われてしまうから、覚えていない夢は、

「怖い夢ではなかった」

 と思うのは早急すぎるのではないだろうか。

 そこまで考えていないとしても、ちょっと考えれば雪崩式な発想として、そういう流れの発想になることは致し方のないことであろう。

 あいりは、夢を見るという現象を、何かの論理として、頭の中で組み立てようとするのは危険な気がしてきた。

――覚えていない夢でも、怖い夢はあった――

 と思うと、今度は、覚えていない夢の中で、怖い夢とそうでない夢との間に何か違いがあるのではないかとも感じられた。

 論理的に考えることは危険だと思いながら、浮かんでくる発想の誘惑に勝つことのできないあいりは、危険だと思いながらも頭の中でどうしても理論を組み立ててしまう。それも、

「夢の夢たるゆえん」

 に起因しているのではないかと思い、そのまま、考えることをやめようとは、サラサラ思わなかった。

 怖い夢と、そうでもない夢との違いは、覚えていないという思いと、忘れてしまったという思いとの違いではないかと考えた。

 覚えていないということと、忘れてしまったということの違いは、結果としては同じことではあるが、その過程が違っている。

 覚えていないということは、覚えておこうという意識があったかなかったかにかかわらず、最終的に覚えていないという、一種の静的な感情によるものではないかと考えた。

 逆に忘れてしまったというのは、最初から、

「覚えておきたい」

「忘れたくない」

 という意識が確実にそこには存在していたのだ。

 その前者に比べて後者の方がその思いは強いことだろう、最初に感じるとすれば前者で、途中から思うとすれば、後者になる。つまりは忘れたくないという思いの方が、明らかに意識している夢に対して、自分に未練があるからに違いない。

 最初の覚えていない夢というのは、怖い夢ではないことがほとんどではないだろうか。自分の意識が働いていたのか働いていないのかすら曖昧な場合、どちらでもいいという中途半端な考えの中で覚えていない夢、意識の強さを感じない夢は、きっと夢の中で感じた意識として、

「こんな夢なら、いつでも見れる」

 という感覚だったに違いない。

 しかし、忘れてしまった夢として

「覚えておきたい」

 と感じるのは、それほど意識の強くないもので、それほど怖い夢ではないものを指示しているのではないかと思う。

 だが、本当に覚えていない夢との違いがどこにあるのかと考えた時に、やはり行きつく先は、

「いつでも見ることができる夢だ」

 と思える夢か、そうでない夢かの違いではないだろうか。

 そして、実際に、

「忘れたくない」

 と思う夢は、怖い夢を見た時に違いない。

 それでも覚えていないというのは、それが自分にとって、本当に怖い夢だったのかどうかというラインになるのだろう。覚えていないといけないと無意識に感じる夢は、本当に怖い夢だと言えるだろう。

 では、自分が感じる、

「本当に怖い夢」

 というのは、どんな夢であろうか。

 あいりは、その夢を、

「もう一人の自分の存在」

 に置き換えて考えてみた。

 もう一人の自分が夢の中に出てくるということは、夢を見ていない時でも、もう一人の自分を意識しているということだ。夢を見て、もう一人の自分を意識したということを忘れないということは、これでもかと自分の中に、それこそ、夢の中でも現実世界でも思い知らせるという警鐘を鳴らしているのかも知れない。

 もう一人の自分が、実際のあいりとどういう関係になるのかということよりも、実際のあいりと似ているのか、それともまったく正反対なのかということの方が、あいりには気になっていた。

 あいりにとってもう一人の自分の存在は、その存在が自分にどのような影響をもたらすかということよりも、存在そのものの方が気になることで、存在意義という言葉で言い表せるものだと思うようになった。

 もう一人の自分の存在意義は、どれほど夢を見ていて、その夢を覚えているのかということにかかっているような気がした。確かに最近では頻繁に夢を覚えていることが多い。もちろん、もう一人の自分の存在を意識させるもので、怖さは目が覚めても残っていた。

 だが、同じ残っているにしても、頻繁に見ていると、その残っている怖さが、次第に薄れて行っていることを感じていた。

 ただ、その薄れていっているというのも、怖さを感じた延長線上にあるところから一直線に薄れていっているような感覚ではない薄れているというよりも弱まっているという感覚に近く、この違いは、元々の恐怖の元が同じものであるかどうかという根本的なところに由来するものであった。

 そもそももう一人の自分の存在が、どうして怖いのか。そのことを考えていたあいりは、頻繁にもう一人の自分の夢を見るようになって、怖さの度合いが変わってきていることで、怖さの正体を知る必要はないのではないかと思うようになっていった。

 あいりは。夢を見ている時、時々絵を描いていることがあった。

 実際に絵を描いてみたいと思ったこともあり、中学の美術の授業でお、絵画に興味を持って臨んだこともあった。

 しかし、あいりは絵に対してどうしても造詣を深めることができなかった。

 学校から、校外授業の一環として、美術鑑賞というものがあり、近くの美術館に学校から行ったことがあった、

 たくさんの絵画が展示されていて、そこにあるのは、当然名のある画家の手によるもので、美術的価値の高いものばかりである。

 皆、それなりに絵画に見入っていたのだが、その中のどれだけの人が、絵画を芸術として理解している人がいることだろうと思うと、何となくウソくさく感じられたあいりは、すぐにその場から立ち去りたいくらいの気持ちになった。

――こんな絵のどこがいいのかしら?

 と感じたが、皆がゆっくりと進んでいるのは、まんざらでもないような気がしてきた。

――どうしてなんだろう?

 最初あいりは、その答えがまったく分からなかった。

 しかし、自分もゆっくりと進むにつれて、次第に呼吸困難に陥っているかのように思えてきた。

 そのうちに耳鳴りが聞こえてくるのを感じると、その耳鳴りの正体が、鼓膜を揺すっていることによる耳の奥の痛みであることに気が付いた。

――そうだわ。この建物の独特な雰囲気に私は酔ってしまったに違いない――

 と感じた。

 そういえば、臭いも次第にきつく感じられてきた。最初から臭いは感じていたが、最初はそれほど嫌なものではなく、むしろ、美術館という独特な雰囲気には欠かせないもので、「どちらかというと、この臭いをそのうちに好きになるんじゃないかしら」

 と感じるようになった。

 臭いというのは、鼻を突く臭いには敏感なもので、刺激の強さから、

――気持ちの悪いものに違いない――

 という先入観があるような気がしていたが、その場の雰囲気によって、中には忘れられなくなるような臭いもきっと含まれているのではないかと思うようにもなっていた。

 これも、夢と同じで、

「忘れたくない」

 と感じるものと、

「覚えておきたい」

 と感じるものの二種類があるように思う。

 癖になってしまうであろう臭いに対しては、夢の時と反対で、

「覚えておきたい」

 と感じることの方が多いに違いない。

 美術館の独特な臭いと、ただただ無駄にだだっ広いだけに見える空間に、空気の薄さが感じられ、呼吸困難から気分が悪くなってしまったのは、

――ひとえにその広い空間に支配されたシチュエーションによるものではないか――

 としりは感じたのだ。

 あいりが美術館で気分が悪くなってから、頻繁にもう一人の自分が出てくるようになってきたのは。

 もう一人の自分は、夢の中で絵を描いていた。

 それは毎回というわけではない。いつもはあいりのことをじっと見ているだけで、何もしない。それが怖さを増幅させるのであるから、絵を描いているもう一人の自分に、恐怖心を抱くことはなかった。

 それなのに、その夢を覚えているということは、どこかに怖いと感じた要素が、その夢の中にあったからに違いない。

 それがどこにあるのか、あいりには分からなかった。

 実際のあいりは、絵を描きたいと思いながらも、自分から行動を起こそうとはしなかった。

――もう一人の自分が夢に出てきて、絵を描いているというのは、それは今自分が感じている願望が夢に見させたのかも知れないわ――

 とあいりは感じた。

 夢の中で、絵を描いている自分は、

「これって、本当に自分なのかしら?」

 と思えるほどに、いつになく真剣な顔になってキャンバスを見つめている。

 ただ、その視線はあくまでもキャンバスだけを見つめていて、被写体となっているはずの目の前の風景を見つめているわけではない。

――よくこれで絵が描けるわね――

 と思って見ていたが、よく見ると、絵筆を持った手は確かに動いてはいるのだが、実際のキャンバスを見ると、そこはまっさらな状態である。

「どういうことなの?」

 思わず声に出してしまったが、夢の中のもう一人の自分は、その声にはまったく気づいていないようだった。

 もう一人の自分は、まるで絵描きの先生のように、絵筆を立てて、立てた絵筆を持った手を、しっかりと真正面に置いて、遠近感を図っているようだ。

 その顔は真剣で、まっすぐに被写体を見ているように見えたが、最初に感じた、

「キャンバスだけを見ていて。被写体を見ていない」

 という思いがいつの間にどこに行ってしまったのか不思議だった。

「これこそ、夢であるがゆえんの矛盾していること」

 と言えばそれまでなのだろうが、いくら夢だとはいえ、何でもありだというのは、さすがのあいりも承服できないでいた。

 ただ、それよりも、

――どうして、急に絵を描いているもう一人の自分の夢を意識してしまったんだろう?

 と感じた。

 絵を描いている自分に対して、覚えていなければいけないほどの怖い夢であるという意識はなかった。

 ということは。覚えていたいと思ったのか、忘れたくないと思ったのかのどちらかになるのであろうが、あいりは、どちらなのか、考えあぐねていた。

 あいりは絵を描くことについて、いろいろと考えてみた。絵の中で描いている時、被写体と絵が酷似していることに気が付いた。それは、自分に絵の才能があるわけではなく、被写体が自分の絵に似てくるという、摩訶不思議な現象からのものだった。

 それは、夢ならではの現象であるが、それはやはり潜在意識の中にあることが夢の中で証明されたということになるのであろう。

 最初はそのことに気付いていなかったので、夢を見ているという意識はありながら、

――何かがおかしい――

 と思いながらも何がおかしいのか分かりあぐねていた証拠であろう。

 だが、夢の中の被写体が自分の絵に似てきていることに気が付いてくると、次に目の前に広がる光景がどんな光景なのか想像がつくようになっていた。

――これが自分の発想なのかしら?

 と考えると、あいりは不思議な感覚になっていた。

 あいりは、絵を描けるようになるまでに、時間が掛かった。最初はまるで幼稚園生の落書きではないかと思うほどのひどさに、絵を描くことを断念しようかと思ったほどだが、描いている人を客観的に見ていると、次第にその人の姿が自分に見えてくるから不思議だった。

 実際に絵を描けるようになるまでに、あいりは二つのポイントを考えていた。その二つのポイントというのは、

「バランス感覚と遠近感ではないか」

 と思うようになっていた。

 もっとも、細分化すれば果てしなく細かくできるのだろうが、大きく分けて考えると、バランス感覚と遠近感の二つになるのではないかと考えたのだ。

 決まった長さの少し横長、あるいは被写体によっては縦長の長方形をしたキャンバスに描くのだから、まずはバランス感覚が必須となるのではないかと思った。人の顔であれば、表情を顔のパーツのバランスで表すこともできるし、元々そのバランス自体が、他の人との違いをあらわすためのもので、まるで一人として同じものはないと言われる、指紋のようではないか。

 また遠近感としては、被写体である三次元の世界を、絵の中という二次元に収めようとするのだから、当然立体感をあらわすものは、遠近感に委ねられることになる、

 またバランス感覚に関しては、顔の輪郭だけではなく、風景画では、建物であったり、空や地表、海面に至るまでの配置をバランス感覚として描くことになるのだ、

 絵を描く時に、最初に難しく考えてしまった「明暗」に関しても、遠近感というイメージが立体感に結び付いていると考えれば、濃淡すら、遠近感で括ることができるかも知れない。

 ただ濃淡に関しては遠近感だけではなく、バランス感覚とも密接に結びついているような気がする。

 そう思えば、絵画というものを、最大の括りとしてバランス感覚と遠近感という二つに凝縮したともいえるのではないか。

 それは絵に限ったことではなく、芸術全般に言えることではないかとも考えてみたが、他の芸術にあまり興味を示したことのないあいりだったので、その時は、必要以上のことを考えないようにしようと思うのだった。

 またあいりは絵画に対して、別の発想を感じるようになったのを、最近になって感じていた。

 ひょっとすると、

「この感覚は以前からずっと持っていたものではないか」

 と思ったが、その理由は、最近夢を見ることで絵画への興味を湧きたてさせるからであった。

 夢に見ることで、自分でも絵が描けるという印象を持っていた。被写体が自分の描いた絵に変わってくるのも夢ならではの現象だと言えるのだろうが、この感覚もまさしく、

「夢ならでは」

 と言えるに違いない。

 その感覚とは、絵を自由に扱うという意味で、同じことであった。

 あいりは、以前テレビ番組で、プロの画家がインタビューを受けているのを見たことがあった。

 その時、自分の部屋にいて何もすることもなく、まったりとした時間の中で、ただ漠然と過ごしていたのだが、殺風景な状態だけは避けようと思い、テレビだけはつけていて、実際に見ているわけではないが、目だけはテレビ画面を見つめていた。

「私は絵を描きたいと以前から思っているんですが、なかなか思ったようにはいきませんね」

 と、インタビュアーの人がゲストのプロ作家に語り掛けた。

 プロ作家の人は、

「そうおっしゃる方は結構おられると思います。私も最初はそうでした。でも、私は絵を描く上で大切なことは、大胆さではないかと思うんですよ」

「大胆さ? ですか?」

 と、インタビュアーは、言葉の主旨を思い図るかのように問いただした。

「ええ、大胆さというのは当たり前のことですが、思い切ったこととも言い換えることができます。つまり、そこには覚悟が必要で、本来なら禁じ手だと思われるようなことでもやってしまうことが必要な時が必ずあると私は思っています」

 と言い返した。

 その言葉を聞いて、インタビュアーは理解不能だという顔になったが、その番組を見ていたあいりは、言葉の本質を分かりかねていたが、いつの間にか、自分の意志がテレビの画面に入り込んでしまって、集中していることに気が付いた。

――一体、私はこの作家のどこに集中した気持ちになったのだろう?

 と感じた。

 作家はニッコリと笑って、これから言葉にすることがテレビを見ている人、少なくともあいり一人は巻き込んでいるということに気付いているかのように思えたのだった。

「大胆さという言葉には、人の考えていることと違う発想を持つという意味合いがあり、いわゆる『度肝を抜く』という言葉に代表されるものではないかと思うんです」

 と作家が言うと、

「先生はそんな大胆さを絵に求めているんですか?」

 と、インタビュアーが聞くと、

「私が求めているわけではなく、絵が求めているのを感じるんです。私は絵を描いている時、自分が描いているはずなのに、時々、何かに突き動かされているんじゃないかって思うことがあるんです。複雑な気持ちになりますよ」

 と言って作家は軽くため息をついた。

 そのため息を気付いた人はどれだけいるだろう。あいりはそれほど多くなかったのではないかと感じた。インタビュアーはそのことに気付いていたのか、気付いていて敢えて知らんぷりをしたのか、話を進めるわけではなかったが、すぐに何かを詮索するというわけでもなかった。

 少し沈黙の時間が続き、緊張が張り詰めたような雰囲気がスタジオ内に広がり、

――このままでは、放送事故に思われるのではないか?

 と感じるほどであったが、そこはさすがプロのインタビュアー、痺れが切れかかる前にしっかりと緊張の糸を切った。

「複雑な気持ちと言われますと?」

 というインタビュアーの質問に、あいりは、

――この人、ひょっとして作家のことを考えて、敢えて時間を置いたんじゃないかしら?

 と思った。

 返した質問には、答え方に困るような要素が多分に含まれているものだと感じたあいりは、インタビュアーの気転に関心させられた。しかし、それはあいりの考えすぎであり、それよりも、この二人の意思の疎通が「阿吽の呼吸」であることから、二人だけの空気がスタジオ内を支配していて。あいりが考えたほどの緊張感は実際にはなかったのではないかと思った。

 作家の先生は、そのあたりを熟知しているようで、インタビュアーからの質問に落ち着いて答えていた。

「複雑というのはですね。僕の場合は、いや、僕以外の作家の人にも言えるのではないかと思うのですが、自己顕示欲の強い人が多いんですよ。何かに操られているなどということは自分の中にあるプライドが許さない。もし、そう感じているとしても、本当は口に出すことを自分の中で許さないものなんですよね。それを思うと、僕は今自分で描かされていると言ったのは、作家としてのプライドが許さないはずのことなのに、それでも口にしたという意識を複雑な心境と表現したんです」

 本当であれば、苦虫を噛み潰したような表情になりそうな話なのに、意外とサバサバした表情になっているのが不思議だった。

 やはり、作家とインタビュアーの間には、目に見えない、まるで「同志」のような感覚が芽生えているのではないかと感じるのだ。

「自分が描かされているという感覚は、私には難しくて理解できるものではありませんが、ただ一つ考えられることとすれば、自分の力には限界があると思っていて、それ以上の力を発揮させてくれる何かを探しているのだとすれば、描かされているという目に見えない力もありではないかと思っているのではないかと感じました」

 作家は、その話を微動だにせずに聞いていた。

 インタビュアーの話は、作家というプロ意識の高い人に対しては、かなり微妙な心境をくすぐる言葉だったように思えたのに、作家が微動だにせずに聞いていたというのは、やはり二人の間には強い絆のようなものが存在していて、ひょっとすると、相手の見えない力を引き出す効果を持った存在だとお互いに思っているからなのかも知れない。

 そこにはフィフティフィフティの力が働いていて。お互いに最大の力を発揮できることを分かっているのではないかと思った。

 以前、あいりはこんな話を聞いたことがある。

「フィフティフィフティという関係が一番力を発揮できるんだよ」

 と言われて、

「どういうことですか?」

「例えば、五の二乗は二十五でしょう?」

「ええ」

「でも、足して十になる数と掛け合わせた時、一番大きな数字というのは、二乗なんですよ。つまり片方に一を引いた四と、片方に一を足した六を掛けたとしても、二十四にしかならない。二十五に満たないわけですからね」

 と言われて、あいりは、

「なるほど」

 という言葉とともに、自分がすべてを理解したということを示した。

 相手もその気持ちは分かったようで、それ以上何も言わなかったが、その話がきっかけで、あまり友達のいないあいりは。彼女と少しの間、こういう会話で盛り上がったのであった。

 残念なことに、仲良くなってから半年もしないうちに彼女は父親の仕事の関係で遠くに引っ越してしまったので、会話ができる人がいなくなってしまったが、それも仕方のないことだと思う、

――前の自分に戻っただけだわ――

 と感じただけで、不思議と悲しさはなかった。

 そんなことを思い出している時間が、ちょうど作家とインタビュアーの間に持たれた沈黙の時間だったので、あいりとしても、その時間が長くは感じられなかった。長くは感じられなかったはずなのに、どうして放送事故を予想したのか、自分でも分からない。普段から自分で何かを考えている時、本当は集中しているわけではなく、まわりのことに意外と注意を払っているのではないかと思うようになっていた。

 作家が、

「描かされている」

 と言った言葉を自分で噛みしめているのは見て取れた。

 その表情には、何が複雑な心境なのかということよりも、それ以上に最初に言った、

「大胆さ」

 という言葉の意味をいつ話そうかと、本当はワクワクしているのではないかと思えたからだ。

 あれから、たった数十秒くらいしか経っていないはずなのに、彼が言った大胆さという言葉がまるでだいぶ前だったような気がするのは、あいりいとって珍しいことではなかった。

 インタビュアーの人も満を持して聞こうとしているようだが、あいりとすれば、これ以上満を持してしまうと、今度は焦らしの世界に入ってしまい、却って逆効果になるのではないかと思えていた。

 だが、それはあくまでも聞き手の発想であって、話をしようとしている人たちの方が、そこまで考えているのかどうか、読み取ることはできなかった。

 作家はおもむろに話し始めた。

「描かされていると思った時、僕は絵の基本というものが何であるかということを考えたんです。絵というものは、目の前にあるものを忠実に描くというのが基本だと思って居yタンですよ。特に風景画や人物がを描く場合にですね。確かに抽象画だったり、印象派のような画家は、自分の発想を元に描きます。それは何かを題材にしてはいるけど、目の前のものを描いているわけではありませんよね。画家というものを二つに分けるとすれば、僕は前者に当たるんだろうって思ったんです」

 と作家の先生は言った。

「その通りだと思います」

 インタビュアーも作家が切々と話し始めた時は、その言動を妨げることはできないと思っているのだろう。

 それは職業意識からくるものではなく、作家先生に敬意を表している気持ちから来るものだと認識していたのであろう。

「そこで僕が思ったのは、絵を描くことに大切なことは、大胆さだって思ったんです。これは実は絵を志した人たちが一番最初に感じたことで、それを皆忘れてしまっているだけなんじゃないかってね。僕もその一人なんですが、そのことをどうして忘れるかということではなく、どうして覚えていないのかということではないかと思ったんです。つまりは覚えていなければいけないことであって、忘れてしまうことではないという発想なんですけどね」

 あいりは少し話が難しいので、テレビを見ていて集中しているせいか、時間があっというy間に過ぎているような気がした。

 それだけ話に引き込まれているようで、作家がその次に何を言うのかが気になってしあった。

「大胆さというのは、以前私が別のクリエーターの方とお話した時も、その人も似たようなお話をされていました。そういえばその人は話をしながら、目線が明後日の方向を向いていて、焦点が定まっていなかったような気がしたんですが、今先生とお話をしていて、『描かされている』という発想から、『何かに突き動かされている』という発想に繋がるのではないかと思うようになりました」

 とインタビュアーが言ったが、

「私の『描かされている』という発想と、『何かに突き動かされる』という発想は、少し違っているように感じますよ」

 と、作家の先生は言った。

「どういうことでしょう?」

「ただ、皆さんが感じている感覚とは少し違っているような気もします。どういう感覚かというと何かに突き動かされているというと、自分の意志如何に問わず、外からの力によって動かされていると思うでしょう?」

「ええ」

「でも、描かされているというと、今度は他からの意志は別にして、本人に意志がない場合をいうような気がするんです。でも、それって、本能のままというような感覚ですよね。本能で動いているのに、まるで受動的な表現というのは、私には許せない気がするんですよ」

 作家の話を聞いていると、あくまでも作家の好き嫌いによる発想でしかなく、他の人が聞けば、その説得力はともかく、信憑性も感じられないような気がする。

 インタビュアーの人の表情も複雑で、どう答えていいのか迷っていたが、作家の先生の表情には戸惑いはなかった。

 作家は続けた。

「そこで大胆さという発想が生まれるんです。意外と描かされていると思っている時に、自分が大胆になれるような気がするんですよ。それはやはり本能によるところが強いのではないかと感じることもあります。そして、この大胆さが描かされているという発想から来るのだと思うと、今度はその大胆さがどこにいざなうのかを考えると、おのずと見えてくるものがあったんです」

 作家はそう言って、用意されたドリンクに口をつけた。

 これからいよいよ話が核心に入っていくのではないかと思わせたので、インタビュアーも余計なことを言わないようにしようと思いながら、固唾を飲むことで、相手の出方を見る戦法に出た。

 インタビュアーが話を始めないことを確認したのか、作家の先生はおもむろに口にしたドリンクから口を話して、わざとゆっくりと時間を使っているかのように見えた。

「私が思っている大胆さというのは、省略なんです。目の前にある光景を忠実に描くのが画家の仕事だとずっと思っていました。でも、目の前にあるものをいかに省略できるかということを考えるようになると、それこそが大胆さだと思うようになって、それまで何かに迷っていたと思っていたことのうろこが目から落ちた気がしたんです」

 インタビュアーは少し複雑な表情になった。

 ただ、その顔は予想に反した回答にガッカリしたというイメージではなく、どちらかというと、想像していた通りの答えを聞いたのに、自分の予想が当たったことへの感動がそれほどでもなかったことへの複雑さではないかと思えた。

「省略というと、どのような?」

 とインタビュアーが聞いた。

「省略というと抽象的ですかね。どちらかというと、抹消という方がいいかも知れません。最初からなかったという発想ではなく、実際にはあるものを自らで消し去ってしまうという行為を行うことが大胆さだと思うんです」

「それは作家のインスピレーションですか?」

「そうとも言えるかも知れませんが、僕の場合は、作家としての義務のようなものを感じるんです。自由な発想ではなく、画家としてやっていくうえで、避けては通れないものなのではないかと思うんです」

「でも、そんな発想は他の作家の先生にはないものですよね?」

 とインタビュアーがいうと、作家は少し渋い表情になり、

「果たしてそうでしょうか? 私にはそうは思えないんですよ。皆その発想は持っていて、敢えて封印しているのではないかと思うようになりました」

「じゃあ、その発想は画家になった時からあったんですか?」

「僕は、画家であったり、作家であったりという定義がどのあたりからなのか、曖昧な感じがします。いわゆるプロというのであれば、自分の描く絵がお金になったりすると、それはプロと言えるのではないかと思うんですが、果たして作家や画家というのは、プロとアマチュアという線引きに影響があるのかどうか、疑問でもあるんですよ」

 作家の先生のイメージが、それまで自分に対して頑なな自信を持っているように見えた雰囲気から少し変わったように思えた。

「どういうことでしょう?」

「僕も最初から絵が好きだったわけでもなく、絵を描けるようになるとは、まさか思ってもいなかったんです。だから僕の場合はあるきっかけから描けるようになったんですが、他の作家さんでも同じようにきっかけから描けるようになったというパターンの人も多いんじゃないかと思うんですよ」

「そうなんですね。私は作家になるには、生まれながらの素質のようなものがなければいけないんじゃないかって思っていました」

「画家を始めとした芸術家というのは、感性が必要不可欠な気がするんです。感性というのは、生まれながらのものだと僕はずっと思っていました。実際に今でもそう思っています。ただ、表に出ないだけで、それが何かのきっかけで出てくるということもありではないかと思うと、自分が絵を描けるようになった時、描かされていると感じたのも無理もないことではなかったかと思えるようになりました」

「でも、そう思うと、曖昧だと言われた芸術家の定義も、感性という考え方から見れば、分かってきそうな気がするんですが、どうでしょう?」

「僕が大胆な省略を絵画の世界に取り入れようと思ったのは、感性によるものではないかと思っていました。元々、絵を描き始めた時、『自分に絵なんか描けるはずがない』と思いながら、いわゆる半信半疑で描いていたはずなのに、気が付けばバランス感覚も遠近感も身についていたんですよ。そういう意味では生まれながらの感性が僕の中にあったのではないかと思うようになりました」

「それが大切なのかも知れませんね」

「感性というのは、今おっしゃった通り、何が大切なのかということへの探求ではないかと思っているんですよ。だから生まれながらに感じているものもあれば、きっかけから生まれる感性もあると思うんですよね」

「きっかけというのが何であれ、それは偶然ではなく、必然なのかも知れませんね。そういう意味では、やはり作家と呼ばれたり、プロになれる人というのは、限られた人たちではないかと言えるのではないでしょうか?」

「僕が大胆に省略する感覚になったのは、『何か一つを省いても、見た目に違和感のない作品』なのではないかと思ったんです」

「それって、将棋でいう『隙のない布陣』の発想に似ているような気がしますね」

 というインタビュアーの表現に、あいりはかつて聞いた話を思い出した。

 その感覚がまるでデジャブのように重なって、さっきまでとは少し違った印象でテレビ画面に集中しているのを感じた。

 作家の先生もその言葉に反応したようで、

「そうですね。一番隙のない布陣って、最初に並べた布陣なんですよね。一手差すごとに隙が生まれる。それが将棋というものですよね」

「ええ、あの布陣を考えた人って、そういう意味ではすごいと思いますよね」

「僕も今言われたように、省略するということは、鉄壁の布陣を自らで崩しているような気がしていたんです。省略するということは、大胆な気持ちにならないとできないことだと思っているんです。だから、省略するという言葉を使う時は、『大胆な』という言葉を頭につけるようにしているんですよ」

 と言われて、インタビュアーは少し考えていたが、

「なるほど、先生の省略という言葉を使う時は、確かに頭に大胆なという言葉がくっついているように思えますね」

 という言葉を、自分で納得しながら発しているように思えた。

「省略という言葉を発すると、やはり抹消という言葉と切っても切り離せない感覚になるのは、今話をしているだけでも僕は感じるんです」

「私もそう思えてきました」

「抹消という言葉を、抹殺という言葉に変えると、少し物騒な気がしますが、僕は絵の中での省略に関していえば、抹殺よりも抹消の方が怖い気がするんですが、気のせいでしょうか?」

 今度は作家の先生がインタビュアーに謎かけをしているようだ。

「それは言えるかも知れません。殺すという言葉は確かに物騒ですが、生まれ変わらせる力も感じるんですよ。例えば、お互いを打ち消して、相手とプラスマイナスを共有する言葉に、『相殺』という言葉があるくらいだからですね。でも、抹消の消すという言葉には、プラスマイナスと共有するという意味も、生まれ変わるという発想もありません。完全に消し去ってしまうだけにしかなりませんからね」

 インタビュアーの意見は的を得ているような気がした。

 これまでの二人とは、それぞれ立場が変わったかのように感じられた。今度は作家の先生がインタビュアーに意見を求めているかのように感じたが、sれもありではないかと思えた。

「発想になるネタはすでに出尽くした」

 という意味で、作家の先生の役目はいったんここで終わったのではないかと思えたのである。

 大胆な省略はあいりにとって本当に目からうろこが落ちたような話だった。テレビを見ていて自分がインタビュアーになったかのような錯覚を覚えたり、作家が少し考えている素振りを示すと、自分も何かを考えているということに気付き、今度は作家の気分になっていることに気付かされるのだった。

 あいりはテレビの中の二人の立場にいつの間にか入り込んでいるのを感じると、画面の向こうの二人も、知らず知らずに立場が入れ替わっているのではないかと思うようになっていた。

 もちろん、漠然と見ていて分かるものではない。分かったとしても、どのようにどこが入れ替わっているのかなど、想像がつくものではない。ただ一つ言えることは、インタビュアーはかなり作家に対して気を遣っているのだが、作家の方は自分の意見をただ言っているだけだった。

 作家に対してのインタビューというのは、このような状況が一番いいシチュエーションであり、特に作家が気持ちよくインタビューに答えている光景が一番しっくりくるものに見えていた。

「大胆な省略というのは、具体的にはどんな感じなんですか?」

 インタビュアーが聞いた。

 差し障りがないが、漠然とした質問なので、一番回答に困ることではないかと思ったが、質問するインタビュアーとしては別に気を遣っているようには見えなかった。

 それはインタビュアーのファインプレーではないかと思わせた。気を遣っているにもかかわらず、その雰囲気を表に出さないのは、回答者に一番気を遣っている質問の仕方ではないかと感じたからだ。

 インタビュアーと作家の先生の間に阿吽の故郷があり、見ている人に違和感を与えない雰囲気を、

「さすが」

 と感じるあいりも、

――私にもどちらかの素質があるのかも知れないわね――

 と思わせた。

 あいりには人に気を遣う素質があるわけではない。どちらかというと、まわりの雰囲気に染まることも、空気を読むことも苦手だった。だからいじめられっ子だったのであって、人に気を遣うことができていれば、苛められることもなかったのだと思うと、今さらながら後悔させられた。

 では、自分が作家のような、芸術家気質なのかとも思ったが。今のところそんなイメージはない。芸術的なことに興味がないわけではないが、その頃のあいりには、興味はあっても、一歩踏み出すだけの気持ちはなかった。

 芸術に対して一歩踏み出すというのは、別に勇気のいることではない。あいりは芸術に対して敷居の高さを感じているわけではなく、ただ踏み出すためには、何かのきっかけがなければいけないと思っていた。

 勇気を持つことは、きっかけを見つけることよりも簡単ではないかと思っていた。

 勇気というのは、何か思い切ることさえできれば、持つことができるものだ。きっかけはきっかけになるものを見つける必要があり、目の前にあっても気づかない場合さえある。つまりはきっかけを見つけるようになるには、自分の中で前向きな姿勢でなければ見つけることができないものだと思っている。

 きっかけを掴むことはあいりにとっての実感であり、勇気を持つことはどちらかというと自力でしかないように思えていた。

「きっかけは人から与えられるものなのかも知れない」

 と思った時期もあった。

 今でもその思いは変わっていない。勇気は自分だけで持つことができるものなのに、きっかけは自分に対する影響を、自分なりに消化できた時、きっかけとして自分の中で、まるで自分から掴んだような気になるのだった。

「きっかけは自分で自分にウソをつくようなものだ」

 とも考えた。

 しかし、そのウソはポジティブなもので、ウソをつくことを悪いことだとは言えないという数少ない発想でもある。

「ウソをつく」

 という表現に語弊があれば、

「辻褄を合わせる」

 という表現の方がしっくりくるのではないだろうか。

 きっかけは人によって与えられるのが最初なのだろうが、それを生かすか殺すかは本人次第である。それが、

「辻褄合わせ」

 の発想になるのではないだろうか。

 辻褄合わせという言葉をイメージしたあいりは、

――同じような発想を別の言葉で感じたことがあったような気がするわ――

 と感じた。

 すぐにはそれがどこからくるものなのか、すぐには分からなかったが、思い出してみると、

「そっか」

 と、納得するに至った。

 辻褄合わせというと、この言葉が枕詞のように、いつもであればすぐに発想できたはずだった。この日は自分の中で、発想が回りまわってやっとたどり着いたような気がしたのだ。

「デジャブだわ」

 デジャブというと、

「初めて見るはずの人だったり、風景だったりするものが、どこか懐かしさがあり、以前にもどこかで見たことがあるような気がしてくる」

 ということだった。

 あいりもデジャブを何度か感じたことがある。

 一瞬感じて、すぐに、

「気のせいかも知れない」

 と思うこともあったが、大半は、

「時間が経つにつれて、前にも見たようなという気持ちがどんどん膨らんでくるような気がする」

 というものだった。

 きっかけとは、辻褄合わせという感覚を、最初のインスピレーションだけでやり過ごしてしまっては掴むことができないものだと思っていた。だから今のあいりはきっかけはいくらでも自分のまわりにあるものだという感覚になり、ただ今が思春期で多感な時期だということが影響しているのではないかと思うと、少し寂しい気がした。

 この寂しさがどこからくるものなのか自分でもよく分からなかったが。それも、

「思春期の思春期たるゆえん」

 のように考えていた。

 デジャブは、目の前に広がった光景を、

「一瞬どこかで」

 と感じたことを間違いだと思いたくないという感覚から辻褄を合わせようと思うものではないかと思っていた。

 曖昧さが自分を納得させようとしているからなのかも知れないが、今回の作家の話にある、

「大胆な省略」

 という発想も、この辻褄合わせという発想に微妙に関係しているように思えてならなかった。

 つまりは、作家のいう大胆な省略という発想も、

――結局、辻褄合わせの発想ではないのだろうか?

 と思わせたからだ。

 あいりが、テレビを見ながら自分の中での発想を膨らませていると、インタビュアーへの質問に、作家が答えるまでの間に、ここまでの発想を巡らせていた自分に、ビックリしてしまった。

――まるで夢のような時間の感覚だわ――

 とあいりは感じた。

「夢というのは、目が覚める瞬間のすぐ前、数秒くらいの間に見るものらしいよ」

 という話を思い出していた。

 確かに完全に目が覚めてしまって夢を、覚えている覚えていないということは別にして、思い出そうとすると、かなり時間的に長い範囲の夢を見ていたはずなのに、意識として残っているものは、まるで紙の上で繰り広げられた薄っぺらい世界でしかないような気がするのだった。

 テレビの中の時間と、あいりが一人で感じている時間とは、隔たりがあるような気がした。どっちが正しい感覚なのか分からないが、少なくとも感じているのはあいりなので、とりあえず自分の感覚が違っているという考えから始めることにした。

――起きている時に夢を見るというのって、ありなのかしら?

 と考えてもいた。

 作家は質問された内容を咀嚼しながら考えていたのか、回答に少し苦慮していたようだ。それでもやっと口を開いたかと思うと、その表情が、カメラ目線であったことで、

――この人、私の気持ちが分かるのかしら?

 とさえ感じた。

 しかし、不特定多数の人間が見ているテレビで、そんなことがあるわけもなく、

――何てバカバカしいことを感じたのかしら?

 と考えた自分が恥ずかしくもあった。

 だが次の瞬間に感じたのは、さらに恐ろしい感覚だったことに、あいりは背筋が寒くなるのを感じた。

――この作家の先生は、ひょっとして、テレビを見ている人たちが、同じように自分の世界に入り込み一人で考え、そして同じタイミングで我に返ることをしっていたんじゃないかしら? そしてそのタイミングを見計らうかのように語り始めたとすれば、すごいことだわ――

 と感じた。

 またさらに発展した考えがあって、

――彼が苦慮したような表情になったのは、本当はまわりをその気にさせるための計算された演技だったのではないか?

 とも感じてくると、自分の発想が末恐ろしいものに感じられた。

 しかも、その発想が人によっての計算だなどと思っている自分が恐ろしくなってきたのだ。

 そう思えてくると、彼にとって質問されたことの内容よりも、その質問から派生する何かを予感していることの方が重要に感じられているように思えてならなかった。

「大胆な省略という言葉で、大胆なという部分と、省略という部分とでは、あなたにとってどっちを重要視しますか?」

 と聞かれ、少しインタビュアーは戸惑っていた。

 あいりもまさかそんな質問返しが待っているなどと思ってもいなかったので、テレビを見ていて戸惑ってしまった自分を感じていた。

 インタビュアーは少し考えてから、

「私は大胆さというところに興味を惹かれます。省略というのは確かに意表をついた発想ではありますが、大胆にという言葉が頭につかなかったら、意表をついただけで終わってしまうような気がするんですよ」

「じゃあ、あなたは理論よりもインパクトを強く持ったというわけですね?」

「そう言えるかも知れません」

「僕の場合は、大胆なという言葉が頭につかなければ、きっと省略するなんて意識は生まれてこなかったと思うんですよ。確かに省略は意表をつきますが、僕にとっては当たり前のことのように思えていたんです。だから逆に大胆なという言葉をつけないと、他の人の意識に残らないと真剣に思った時期がありました」

 という言葉を聞いて、

――やっぱりこの人は常人とは少し違った感性の持ち主に違いないんだわ――

 と、あいりは感じた。

「ということは、先生は省略するという意識は、画家なら誰でお持ち合わせている感覚だという風に感じていらしたんですか?」

「ええ、そうです。もっと言えば、画家だからというわけではなく、画家ではない他の人も絵を描こうと思った時、省略するという意識をタブーだとは思っていなかったと感じていました。言い換えれば、絵を描く時には、タブーというものは存在しないんだという発想になっていたと言っても過言ではありません」

 言われてみれば、一体誰が、絵を描く時、目の前のものを忠実に描かなければいけないということを当たり前のように感じるようになったのだろう。確かに目の前の光景を違う形に描いてしまうことは、まるで改ざんでもしているかのように思わせるのは、

――改ざんというものは悪いことだ――

 という常識に囚われているからなのかも知れない。

 人を欺く改ざんはいけないことなのかも知れないが、芸術という答えのないものに改ざんというものは、果たして悪い部類に入るのであろうか。創造した人が、

「これでいいんだ」

 と言えば、それは誰が何と言おうとも、その人のオリジナルになるのではないかと思うのは、発想が自由すぎるからであろうか。

 あいりは芸術家というものの発想が、どこまで許されるもので、どこからが許されないものなのかを考えていたが、結局は、芸術家である自分が、自分を許せるのか許せないのかのどちらになるかということになるのではないかと思うのだった。

 あいりが絵を描きたいと思うようになったのは、高校二年生になってからのことだった。中学の時に見た画家のインタビューがずっと気になっていたこともあったが、何か芸術的なことへ一歩踏み出してみたいという思い尾あったからだ。

 なかなか素人が簡単に描けるののではなかったが、それでも何となく描けるような気がしていたのは、あの時のインタビューを聞いたからだった。

「大胆に省略する」

 という言葉はあいりに衝撃を与えた。

 実際に自分で絵を描き始めた時、イメージだけは残しつつ、アレンジして描くということはもちろんのこと、インタビューで言っていた、

「大胆な省略」

 などありえるはずはないと思ったからだ。

 初めてできた彼氏とのデートの時、相手の話を聞き上手だということを理解はしていたあいりだったが、自分から話すなどできないことだと思っていた。

 しかし、彼が急に無口になり、その場の雰囲気が悪化の一途を辿った時、何も話すことのできない自分にいら立ちを覚え、相手に対してよりも自分に対しての方に憤りを感じたことは、今でも思い出せた。

 それからその彼氏とはそのまま疎遠になり、自然消滅したのだが、あいりは今までかかわってきた人とほとんど最後は疎遠になってから、自然消滅するパターンが多くなっていることに気が付いた。

 ただこの思いはかなり後になってから気付いたことで、高校生になってからしばらくは、自分にそんな特徴があったなど、思ってもいなかった。

 その原因は普通に考えれば、あいりにあるに違いない。ただ、他の人のパターンをよく知っているわけではないので、疎遠になってからの自然消滅というのが稀なパターンなのか、それとも結構あることなのかは分からなかった。こんなことを聞ける相手もおらず、それこそ聞いた相手の気分を害してしまうのではないかと思えることであるからだ。

 あいりは最初の彼と話が合わなかったことが、自然消滅の原因だと思っていた。実際には話が合わなかったわけではなく、合わないだけの話すらできていなかったのだ。あいりはしばらくの間、彼と会話のない時間を過ごしてはいたが、一言二言は言葉を交わし、その内容があまりにもお互いに隔たりがあったことで、話が続かなかったと思っていた。

 確かにそんな時間帯もあったが、それ以外のほとんどの時間は、お互いに無口を貫いていた時間だった。

 ただ、話のきっかけをずっと考えていた時間帯でもある。その時間をあいりはなぜか意識として薄くしか記憶していなかったのだろう。

 その時にふと思い出したのが、中学の時にテレビで見た画家へのインタビューだった。

 あの時に、きっかけについて自分で考えていたのを思い出したのだ。あの時に一瞬考えて、何かの結論のようなものを導き出し、それが自分の中で無意識に後から出てくるものになった瞬間から、きっかけを考えたという思いは、意識からも記憶からも消えてしまい、自分で封印してしまったのではないかと思っていた。

 それを今、あの時がついさっきのことのように思い出したのだ。

 あいりが意識の奥で深く考えている時というのは、まるで夢を見ているようなものだ。我に返ると、それまで考えていたことを忘れてしまう。ほんの少ししか時間が経っていないのに、まったく意識の中から消えていて、

「記憶の奥に封印されてしまったのではないか?」

 と思うに至るのだった。

 ただ、この時のように、封印してしまった記憶がふいによみがえってくることがある。それこそ何かのきっかけによるものなのだろうが、そのきっかけというアイテムを遣って思い出すものが、

「きっかけ」

 というキーワードであるということは皮肉なことであった。

 確かあいりがあの時にきっかけについて考えたのは、勇気を持つということと比較したことだったように思えた。

 その記憶は、その時のシチュエーションがあってこそ、百パーセントになるのだろうが、今はあの時と場面の心境も、そして経過した時間にもかなりの隔たりがあった。当然、あの時の心境に陥るということはまったくできることではないが、それでもこの時、この瞬間に思い出すということは、それなりに何かを暗示させるものがあるに違いない。

 あの時に何を考えたのか思い出そうとしても、シチュエーションは思い出せないが、何をどう感じたのかだけは思い出せた。

「きっかけと勇気。きっかけとは人から与えられるが自分の中に入ってからは、辻褄合わせに入り込むものではないか」

 という意識を思い出した。

 まずきっかけは人から与えられるものであるということ。あいりが絵を描きたいと思ったのは、確かに外部からの影響を受けたからに相違なかった。

 だが、実際に描きたいと思うようになって行動に起こすようになるには、きっかけだけでは薄いものがある。最終的に描くという覚悟を決めるまでに至る間、そのきっかけは自分の中にあったのだろうか? あいりはそれを考えていると、深く考えれば考えるほど、きっかけが遠のいていくような気がした。

――きっかけから、覚悟までを考えてはいけないのかしら?

 とあいりは思うようになった。

 元々のきっかけは、画家の話の中にあった。

「大胆な省略」

 という言葉があいりの中に衝撃として残ったからだと思っている。

 大胆な省略という言葉がどうしてここまで衝撃的に感じられたのかというと、省略という言葉を、あいりは抹消というより、抹殺という意識に近さを感じたからなのかも知れない。

 抹消というよりも抹殺という方が、あいりにとってよりグロテスクなイメージを与えてくれる。本当は抹消の方が、この世から存在すら消し去ってしまうという意味で残酷なのだろうが、あいりは敢えて抹殺の方が自分の中でのグロテスクな印象を表してくれるものだと思っているのだ。

 ということは、

「大胆な省略」

 という言葉で連想する抹殺された被写体は、本当にこの世からその存在自体を消し去ることではなく、存在は頭の中に残しながら、表現することをしないということになるのではないだろうか。

 あいりがどうしてそんな発想になったのかというと、記憶に残しておきたくはないが、どうしても潜在意識の中であったり、封印される記憶、つまりは、自分の中でまったくなかったことにするまでの最終段階での受け口には残ってしまうものがあるということである。

 それは、自分の意志に反したものなのだろうか?

 あいりはそうは思わない。本当に抹消してしまいたいという意識があったとしても、思い入れが強いほど、封印される記憶という崖っぷちまできた時、どうしても消すことのできない記憶として封印してしまうのだろう。

「だから、その領域は無限大に近く、計り知れない質量を有しているのかも知れない」

 と思っている。

――ふふ、まるで物理学を考えているようだわ――

 とあいりは思い、思わず苦笑いをした。

 無限大であり、まるで崖っぷちに価しているその、

「記憶の封印」

 という場所からは、大海原が見える。

 見えるのは大海原と、ドロドロにくすんだ空の色だけである。

 真っ青な海や空ばかりを想像していたあいりは、荒々しいがけっぷcg比からの光景をどうして想像することになったのか不思議だった。

 絵を描くことができなくても、見ることは結構あった。美術館にフラっと立ち寄ることも多く、無意識に展示されている絵画を見ては、それまでせわしない世の中の一人として存在していたことを痛感していた。

 あいりは、崖っぷちを断崖絶壁として想像していたが、実はそんな感じではなかった。確かに少し高いところから見ているようだったが、眼下には砂浜が広がっていて、そこに打ち付けられる波は、砂に掻き消されているように見えた。

 そのせいもあってか、耳鳴りは聞こえているのだが、波の打ち付ける音が聞こえてくることはない。風もかなり強く吹いているにも関わらず、その威力を身体が感じることはなかった。

 寒さも何も感じない。風の強さからすれば、痛みも感じられそうだが、それもない。ただ、目の前の光景をずっと見ていると、風が目に突き刺さるようで、これだけは痛みを感じた。

 それなのに、瞬きは許されなかった。眼球が渇いてくるのを感じるのだが、目を閉じることはできない。ただ。痛みはある一定のところまで来ると、それ以上に痛みを感じさせない。それどころか、痛みが痺れに変わり、次第にマヒしてくるようにも感じられた。

 目の前の海はどんどん波が高くなっていっているようだが、最後には砂浜の砂に飲み込まれる。あいりに波が何かの影響を与えることはなく、この光景での波が、あいりにとってまったく意味をなしていないような気持ちになっていたが、波を無視することはできなかった。

 あいりは、真正面しか見ることのできない自分のその立場を何とかしたいと思った。

「夢なら早く覚めてほしい」

 という思いではあるが、それは夢だとはどうしても思えない。

 いや、

「夢であってほしくない」

 とも思うのだ。

 もしそれが夢であるとすれば、

「きっと目が覚めてしまうと覚えていないに違いない」

 と思ったからだ。

 夢というのは、怖い夢でない限り、

「目が覚めるにしたがって忘れてしまっていくものだ」

 という発想から来るものだが、崖っぷちにいるという夢は怖い夢であるはずなので忘れてしまうだろうと感じるはずなのに、忘れてしまうことを恐れているのは、どうしてなのだろうか。

 崖っぷちというイメージを怖い夢として意識していないのか、それとも、怖い夢でも忘れてしまわない夢もあるということを感じたからなのか、最初は分からなかった。だが、確かに崖っぷちに佇んでいるというのは、紛れもなく怖い夢である。しかも、この夢は記憶の奥に封印されるべきものではないと思っていた。

「じゃあ、記憶の奥に封印されないのだとすれば、どこに行ってしまうというのかしら?」

 と、自分に問いかけてみた。

 自分の心の中はその答えを知っているように思ったからなのだが、その答えへのキーワードが何なのか、すぐには思い浮かばなかった。

 だが、そのキーワードは自分のすぐそばにいて、その気配も感じているのだが、決して見ることのできないものであるという意識があった。

「そういえば、過去にこれと同じ感覚に陥ったことがあったわ」

 と、過去の記憶を思い起こしてみると、意外とアッサリ思い出すことができたことにビックリした。

 それは、頼子という友達ができた時に感じた思いであり、偶然見つけた図書館での本に書いてあった、

「暗黒星」

 という天体学者が創造したという星のお話だった。

 ただ、あいりがその時に感じた暗黒星というものは、光を発することも反射することもないだけではなく、確か気配も相手に悟らせないものだったような気がした。だが、この時に感じたキーワードは、気配だけはやたらと強いものだった。

 気配だけはやたらと強いということは、暗黒星の存在意義を根本から打ち消しているものであることから、

「姿かたちは似ているが、その趣旨、つまりは存在意義に関することではまったく違ったものが、世の中には相対的に存在しているのではないか」

 という発想が頭に浮かんできた。

 まるで鏡に写った被写体が、左右対称であるかのような感覚。左右対称でなければまったく同じものなのに、左右対称であるがゆえに、まったく違った世界に存在しているということを言わずもがなに証明しているもの。そんな存在を意識したのだった。

 左右対称のものを見ている時に鏡の発想になるのは、あいりだけではないだろうが、鏡という発想に、左右対称という発想を織り交ぜた時、無限という発想を思い浮かべる人がどれだけいるだろうか?

 あいりは、鏡を自分の前と後ろに置いた時、前に写っている自分が、反対側の鏡にも移っていき、それが、どんどん小さくなっていく中で、無限に続いているという思いを抱くのだ。

 その時写っている被写体は、

「どこまで行っても、限りなくゼロに近い」

 という発想を思い浮かべる。

 ゼロにはならないのだが、無限に続くという発想をしたのであれば、ゼロにならないということは、どこか矛盾を孕んでいるように感じるのだ。


この矛盾は、別の意味で「暗黒星」の存在にもありえるものであり、鏡に写った左右対称という条件にも矛盾を与えるものではないかと思えてきた。

 あいりは、鏡に写った自分が本当に左右対称なのかと、ずっと鏡を凝視したことがあった。もちろん、そんなことは無駄な労力だとは思いながら、たった一度だけの無駄な時間を費やすことで、自己満足に浸るということをしたことがあった。だが、その無駄を無駄だと思っていては先には進まない。何か無駄以外のものが必ずあると思うことで、先に進めるのだ。それが何であるかということは大したことではない。要するに感じることが大切なのだ。

 あいりは鏡を見ていて、

――これのどこに省略できる何かがあるというのか?

 と考えた。

 その時あいりがふっと感じたこととして、

――そういえば最近、鏡を見ていることが多くなったような気がする――

 今までは女の子でありながら、そんなに頻繁に鏡を見ることはなかった。

 まわりからは、

「女の子なんだから、毎日でも自分の姿を鏡に写して確認しないといけないわよ」

 と言われていた。

 一体何を確認しないといけないのか、あいりには分からなかった。分からないのだから聞けばいいのだろうが、それも恥ずかしい。

「何をいまさら」

 と言われるのが怖かったのだ。

 しかし、今のあいりには、まわりから、

「何をいまさら」

 と聞かれても、別に気にすることはない。

 逆に、

「どうして毎日自分を確認しないといけないの?」

 と聞かれれば、堂々とこちらから逆に質問ができる気がした。

 ただ、自分からはその話題に触れようとは思わない。話題に触れること自体が気持ち悪いことなのだ。

 そう思っていたので、敢えて自分から鏡を見ることはしなかった。別に意地を張っているわけではないので、いつの間にか鏡を見るようになっている自分にいまさらビックリすることはないのだが、気が付いた自分がどう反応していいのか戸惑っていることにビックリしていたのだ。

 あいりが、自分の姿を鏡で見て、何かを省略したいと思ったことには。さほどビックリしたわけではない。

 あくまでも、

「そういえば」

 という程度のことなのだ。

 別に意識しなければ、そのままやり過ごしていただけのこと。意識することに何ら意味はなさないように思えたのだ。

 あいりは、省略することに、自分の勇気が必要だということに気が付いた。

「きっかけと勇気。きっかけとは人から与えられるが自分の中に入ってからは、辻褄合わせに入り込むものではないか」

 と感じたのを思い出した。

 何かを感じるのはきっかけ、そしてきっかけは辻褄合わせに繋がっていると考えたが、勇気はその先にあるものではないかと思っている。

 辻褄合わせをするということは、自分の中で納得のいっていなかったことを納得させること。言葉としては。あまりいいイメージではない辻褄合わせだが、絶えず自分の中で辻褄合わせというのは、意識の生でフル描いてしているものではないだろうか。

――大胆な省略は辻褄合わせのための必須のアイテムではないか?

 もし、自分が絵を描くことにならなければ、こんな発想は浮かんでこなかったかも知れない。

 まだ絵を描こうと思っていなかった時、偶然見たテレビ番組での作家のインタビューがどれほどあいりにインパクトを与えたのかということを示している。

 暗黒星という言葉も、頭の中で絶えず反芻しているものではないだろうか。

「存在しているのに、その意識をまわりに一切与えない。気配を消すなどという生易しいものではなく、存在自体を意識させないということが、存在を打ち消していることになるのだ」

 そう思うと、大胆な省略という発想は気配を消すだけではなく、その先にある存在自体も消してしまおうという発想なのかも知れない。

 普通であれば、気配を消すことはできても、存在を消すことはできない。絵だって、目の前のものを忠実に描くという発想から、大胆に抹消するという発想を画家がしてもいいのだろうか?

 つまりは、そこには勇気が必要になってくる。

 絵を描くということについて、あいりはいろいろと考えていた。

「絵というのは芸術の一環であり、芸術とは何もないところから新しいものを生み出すことだ」

 と思っている。

 しかし、芸術というものは、絵だけではない。文学も音楽も彫刻も、それぞれに芸術と言えるものではないだろうか。

 確かに何もないところから新しいものを生み出すのが芸術の醍醐味だと言えるだろう。それ以外にも芸術としては、

「作られたものを表現する」

 という要素尾含んでいるのではないだろうか。

 例えば、音楽などがそうである。

 作曲家によって作られた作品を、オーケストラがコンサートで演奏することで、芸術を伝えている。つまりは、

「表現することも芸術の一つ」

 と言えるのではないだろうか。

 映画にしてもそうだ。

 原作者がいて、その原作に対して映像作品にするという意思を持って、映画製作会社でプロジェクトが作られ、そこで脚本家がドラマにするためのシナリオを作成し、配役を決め、音楽を決め、さらに映画監督によって映像化するための撮影が行われ、そのすべてを組み合わせて一つの映画作品が出来上がるのだ。

 ここには、単独でも十分な芸術作品がある。それを表現という目的を元に集結させたことで、さらに大きな作品として生まれることになる。芸術の大小を単純に比較できるものではないのだろうが、少なくとも、

「芸術は表現の形である」

 とおいう定義に当て嵌るものなのではないだろうか。

 あいりには、そんな大きなプロジェクトの発想はあっても、自分と結びつけて考えることはない。むしろ、おおきな作品を作るよりも、小さな作品をコツコツと罪化させる方が自分らしいと思うし、自分にとって本当に好きなことなのだと思うようになっていた。

「これこそ、芸術家と呼ばれるにふさわしいのではないか」

 と思うようになったのは。自分が芸術を目指すのは、あくまでも、

「新しいものを作り出すこと」

 を芸術だと思っていることを再認識できたからであろう。

 芸術という広義の発想には果てしなさを感じる。否定するわけではないが、あいりにとっての芸術はあくまsで、

「新しいものw作り出すこと」

 なのだ。

 そう思っていると、

「大胆な省略」

 という意味も少し分かってきたような気がした。

 新しいものを作り出すことに集中することで、自分が闇雲になっていることに気付かないでいた。自分の中で意識はしていないつもりだったが、

「質よりも量」

 だという発想が無意識にあったのかも知れない。

 本来芸術家というのは、

「量よりも質」

 でなければいけないと思っていた。

 その発想は今でも変わっていないが、無意識にその思いを否定していた自分に、あいりは気付き始めていた。

 確かに駄作をたくさん作り上げることは芸術を志すものとしては失格なのかも知れないが、たくさんの作品を作ることで、その中から精査されたものが本能的に作ることができるようになるのではないかと思っていた。

 まるで石橋を叩いて渡るかのような慎重になって芸術に向かうというのも大切なことであろうが、あまり慎重になりすぎると、踏み込まなければいけない一歩を踏み込めずにいるかも知れないと感じた。

 断崖絶壁の上に掛かっている橋に、足を踏み入れて、そこから風に煽られたことで、先に進むことも戻ることもできなくなってしまった自分を、あいりは想像してしまった。

「このままどうすればいいっていうの?」

 普通に考えれば、そこから元の場所に戻る方が賢明である。前に進んで先に行きついたとしても、また同じ道を戻ってこなければいけない。そう思うと先に進むことはできない。

 だが、実際には、通り抜けたところから、先に進むことが自分の生きる道であるという発想を、最初に持つことができるかできないかが、断崖絶壁の橋の上の発想ではないか。

 断崖絶壁の発想は、きっと誰もが夢の中で見ることではないかと思っている。それは一生に一度、遅かれ早かれ見るものだ。しかも、それは一生に一度だけのものではないかとあいりは感じた。

 その時にどう感じるかが、その人の将来を占っていると言っても過言ではないだろう。だから、そのタイミングでそんな夢を見るのだろうし、

「ひょっとすると、他の人と同じ夢を共有しているのかも知れない」

 とも思っていた。

 その夢を見ている同じ瞬間、他の誰かも同じような夢を見ている。自分が感じていることが本当に自分の考えなのか分からなくなることがあるのだとすれば。それはが夢を見ている証拠であり、唯一夢を見ている本人に、

「これは夢なのではないだろうか?」

 と感じさせる状態なのかも知れないと思った。

――夢を見ていることを意識するのって、結構たくさんあるんじゃないかしら?

 とあいりは思った。

 目が覚めてから覚えていない夢はたくさんあるが。どうして覚えていないのかということを考えたことはあまりない。

 だが、

「誰かとの夢の共有」

 という発想を抱いたことを思い出してはいけないということになっているのであれば、自分とすれば納得できる気がした。

 つまりは、

「自分の中で辻褄が合っている」

 と言えるのかも知れない。

 夢を共有するということは、夢を別世界だと暗黙のうちに認識することで、ありえないことをありえるという辻褄合わせに匹敵する思いを抱いているのかも知れない。

 大胆な省略をすることが現実世界での辻褄合わせであるならば、夢の共有は夢の世界における辻褄合わせと言えるのではないだろうか。

 夢の世界を別世界と考えた時、絵の世界のように二次元の世界を認めるのであれば、夢の世界は四次元の世界であり、時間を超越したものだと考えたなら、、あいりには一つの結論が見えてきたような気がした。

「三次元の世界から見て、二次元の世界である絵の世界を大胆に省略するのであれば、四次元の世界から見た三次元である我々の世界を、四次元の住人は大胆に省略することができるのではないか」

 という思いであった。

 これは非常に怖い発想である。

 もし、四次元の世界を、

「存在する」

 と過程して、さらに

「四次元の世界というのが、三次元以下の世界を網羅しているものだと考えれば……」

 という発想も成り立つ。

 確かに二次元の世界、一次元の世界というのは、三次元にいる我々から見れば、その両方を網羅した世界がこの三次元の世界だと考えれば、四次元の世界の存在を否定しないのであれば、三次元での発想は四次元にも通用するということになる。

 ただ、四次元の世界に存在する人が、三次元を見て、

「大胆な省略ができる」

 と思うか思わないかということが大切になってくる。

 三次元の人間の発想は、絵の世界を大胆に省略するという感情を持たない。考えてみれば、大胆な省略という発想を今まで誰も考えなかったこと自体が不思議に思えるからだ。だが、もしこの発想がタブーであり、

「発想してはいけない」

 という思いを他力によって三次元の人間が持たされているとすれば、二次元、あるいは一次元の人間が故意に持たせようとしていなかったのかも知れない。

 もちろん、それも二次元、一次元に人間と同じような考えることのできる生物が存在しているというのが前提ではあるのだが、そう思うと、多次元の形を勝手に変えることは、本当はタブーではないかと思えてきた。

「ひょっとして、テレビに映っていたあの画家というのは、本当は私たちと同じ三次元の住人ではないのかも知れない」

 と思えた。

 ひょっとすると、四次元の住人が、三次元である我々を飛び越して、二次元を見つめることで、三次元の我々に対して何かの警鐘を鳴らしているのかも知れない。

 だが、この発想はあくまでも、

「上から目線」

 と言ってもいいかも知れない。

 この発想自体が、三次元である我々中心である。

 以前発想した、

「宇宙の中の地球人」

 と似ているかも知れない、

 地球人だって。宇宙人の中の一種なのに、宇宙人を発想する時は、宇宙人とは別の人類として特別扱いした発想になるものである。

 それも一種の、

「大胆な省略」

 という発想に似ているのではないだろうか。

 大胆な省略という発想は、誰もしないというわけではなく、心の中で思ってはいるが、発想することをタブーだとして考える人がいることを認めたくないという意識が無意識のうちに生成されていると思うことで生まれると言えるのではないだろうか。

 あいりは、ここまで考えることを、勇気のように感じていた。

 きっかけが自分を納得させる辻褄合わせであるとするならば、勇気というのは、他の世界を自分で納得できるように認めさせるという力に匹敵するものではないかとあいりは感じていた。

「きっかけ」と「勇気」

 それは、大胆な省略を提唱した画家が与えてくれた発想であった。その画家の存在自体が、あいりの中における「辻褄合わせ」なのかも知れない……。


                  (  完  )

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異次元の辻褄合わせ 森本 晃次 @kakku

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