亀山さんと花梨ちゃん


 すっかり「りんちゃん」のことなんか忘れた風のサイコバニーは、いや亀山は、この七年でずいぶん行儀の悪い生徒になったようだ。何かあるたびに小さな付箋が机の端に貼られる。そのほとんどが質問だ。どうでもいいことを聞いてくる。あの先生の髪って本物?とか(たしかに整髪料ベッタベタでヅラみたいな頭ではあったけれども)、この教科書ってちょっと読みにくいねとか(知らんがな)、花梨ちゃんて血液型何型?とか(今聞く話題じゃないだろ!)。


「ねえ亀山さん」

「ゆーりって呼んでよお」


 転校生の物珍しさから集まってきてるクラスメイトをよそに、亀山は私を仰ぎ見た。肩より短いショートボブがふわっと揺れる。くらっとしたけれど、私は私で、仁王立ちよろしく腰に手を当てている。今は「そういう」感じじゃないんだ。


「授業中に付箋貼ってくるの、勉強の、じゃまだから、やめてほしい」


 言い切った。よし、言い切ってやったぞ、サイコバニー相手に。


「花梨ちゃんって勉強頑張りたいタイプだったんだ」

「普通でしょ。だから、そういう話は直にすればいいよ。今とか」

 そう、昼休みに堂々と聞けばいいんだよ!

「へえ」


 亀山の目がきらっと光った……ような気がした。

「そういうことはちゃんと言えるんだぁ」

 私は言葉に詰まった。何かふくんだような亀山の言葉はいちいちサイコバニーを想起させた。当然、彼女はあのサイコバニーで間違いないんだから……。

「言うに決まってるでしょ。だって迷惑だから」

 私はそっぽを向いた。言い過ぎの自覚はあったけれど、嘘泣きの下手な亀山はうつむいて顔を覆った。


「くすん。迷惑だったんだね……」

「泣き真似はやめて、ダサい」


 ずばっと言い切ると、サイコバニーは秒で泣き止む。切り替えが早い。ほら、周りの取り巻き達が目を白黒させてるぞ。サイコバニー、神秘的な転校生のガワがはげてるぞ。


 亀山はにっこり笑って手を組んだ。長い指だ。白魚みたいな。


「はは、花梨ちゃんて面白い。石の下とかでうじうじしてそうなのに、思ったよりずけずけものを言うんだね」

「亀山さん、そんな風に私のこと思ってたわけ!?」

「だからゆーりって呼んでよ、花梨ちゃん。もうクラスメイトじゃんぼくたち」

「……ひっくり返っても呼ばない」



 サイコバニーは私のことも、私と過ごした数年も忘れてしまってる。



 私は腕を組んだ。

「あのね、古典の先生の髪型は自前」

「マジ? 嘘じゃん」

 サイコバニーは餌に食いつくサメみたいに立ち上がった。

「あれが?」

「……それで、前の教科書がどうだったかは知らないけど、この高校はそこそこ進学校だから」

「あー」

「それから私の血液型はA型」

「みたまんまだねー」

「わかった? 聞きたいことは直接聞いて。授業中の机に、付箋貼るんじゃなくて!」


 亀山は去って行くクラスメイト達にひらっと手を振って、薄いアイスブルーの瞳をこちらに向ける。


「ねえその眼鏡、伊達?」

「度が入ってる。中学の頃目が悪くなったの」

「なんで?」

「知らないよ。気付いたら何も見えなくなってた」

「……そうなんだあ」


 それからのサイコバニーの一連の行動は電光石火だった。私の眼鏡をすっとぬきとり、自分で掛けたのだ。つまり私はサイコバニーに眼鏡を強奪されて何も見えなくなった。


「んにゃー!」

「……わ、この眼鏡マジで度キッツ。よくこんなの掛けてるね」


 といいつつ私のぼんやりした視界の中、サイコバニーは眼鏡を返してくれる様子はない。待ってよ、眼鏡がないと本当になにも見えないんだって。


「返してよ!」


 私はキョンシーかミイラみたいに両腕を突き出して、亀山に迫った。


「ほんとにしゃれにならない、何も見えないの!」


 サイコバニィイイイイ! と絶叫しそうになったが、サイコバニーってあだ名さえ忘れられてた時の絶望を味わいたくなくて、すんでのところで飲み込む。


 私はまだ、サイコバニーが「サイコバニー」を覚えている可能性を諦めていない。


「ちょっと亀山、」

「花梨ちゃんの視界、ぼくが掌握しちゃえるんだな」

「何言ってんのよ! 早く……!」


 わたわたと手を動かす私に、サイコバニーは眼鏡を返してくれた。耳元の髪の毛を避けるように探る眼鏡のつるが、そして両耳に添えられたちょっと冷たいサイコバニーの手が、それを教えてくれた。レンズごしの少しずれた視界が元通りになるまできっかり三秒かかった。 一番最初に映り込むのは、白くなった彼女のひたいだ。


「花梨ちゃん、ゆるして?」


 お願い、とばかりに合わせた手を頬まで寄せて、サイコバニーは笑う。私は何かを吸い取られたみたいにぼうっとして、それから我に返った。


「ゆるさん」


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