溶けちゃうロリポップ


 私の「ゆるさん」は長く尾を引いていた。一週間くらい。


「ゆるしてよー花梨ちゃん。ごめんてばー」

「もういいでしょ、亀山さん、もういいって」

「でも花梨ちゃん怒ってんじゃん」


 亀山はつんと唇をとがらせた。かわいい。

 でも、ゆるさん。

 というか、もはや眼鏡を強奪したことを許すとか許さないとかの問題ではなくて、もちろん許してないのかって言うとそうでもなくって、単純に亀山は私のプライベートバリアをバリバリと破って押し入ってきた。それはかつてのサイコバニーと全く同じで、教室の隅で本を読んでるような小学生だった私を小麦色の肌に変えたのと全く同じで、だからこそのだった。


 私だけがあなたを覚えていることが。あなたが私を忘れてしまったことが。

 ゆるさん。


 黙ったままの私に飽きたのか、亀山は急に話題を変えた。車が強引な急カーブ切るみたいに、唐突に。


「そういえば花梨ちゃん、あのさ。数Ⅱ教えてくれる。この前の小テスト赤点だったんだ。明日再テストがある……」

「え」


 しゅんとうなだれるサイコバニー。

 確かにこの前小テストがあった。我らが担任にして数学担当のマキノ先生はとにかく優しくないので、小テストは点数がとれるようになるまで何度もやらされる。

 いやそれよりも。

「どうして私なの? ほかにも私より頭いい子いるじゃない」

 亀山は合わせた手の陰からにっと笑った。

「花梨ちゃんならうんって言ってくれそうだから」


 どういう理由なんだ。懐柔しやすそうってことだろうか。

 でもその通り。私は亀山になら「しょうがないな」って言ってもいいような気がしてる。というか、言ってもいい。言う。


「しょうがないなぁ。私でわかるところまでなら。で、亀山さんは……」

「ゆーりだってばあ」

「呼ばないよ」


 かたくなに私は言った。あなたはサイコバニーなんだよ。何一つ上書きしたくない。そうしたら過去が嘘になってしまいそうな気がして。あれが私が勝手に見てた夢になっちゃうんじゃないかって、そんなことを考えてる。

 ねえサイコバニー。昔みたいに、「りんちゃん」て呼んでくれたら許してもいいよ。


 全部許すよ。許す。



「で、亀山さんはどこで躓いてるの」

「全部!」

 元気なお返事だ。私は大きなため息をつく。問題集と参考書の付箋を参照して、この前の小テストの範囲はどこだったかなと考えを巡らせる。


「教えるのは今じゃ無理だよ。放課後とか……」

「放課後!いいよ!そうしよ! なんならぼくの家に来てくれてもいいよ!」

「家?」

「うん、おうちデートってやつだね」

「ちょっと変なこと言わないで」


 期待するじゃん。期待しちゃうじゃん。いろんなことをさあ!

 私はサイコバニーの家に行ったことがない。色めき立った胸をおさえて、「今日?」と聞く。

「もっちろん、小テストは明日だから」


 心の準備をするまでもなく、「おうちデート」はすぐそこまで迫っていた。


 どうしよう。今日の下着、上下で揃いじゃない――いやサイコバニーはそんなことしない。しないったらしない。そういう、人にお見せできないようなこと考えてるのは私だけなんだから。


「ね、いいでしょ花梨ちゃん」

 アイスブルーの瞳がにっこり笑う。私は引き寄せられるみたいに、うなずく。

「わかった。参考書だけ取りに行かせてよ」




 自室に鞄をどすんと床に置き、必要なものだけトートバッグにつめる。数Ⅱの参考書、ノート、教科書、それから……。いつものペンケース。スマートホン。財布……。

 私は汗臭い制服を脱いできれいめの私服に着替えた。もちろん、ブラとショーツの柄もそろえた。

 期待してるわけじゃない。期待してるわけじゃないと思う。でもなんだか据わりが悪くってそうしてしまった。

 戦場に赴く武士か、戦士か何かみたいな気持ちで、連絡用ホワイトボードに「夕飯はいらないです」と書き込んでおく。これ見たお母さんはどう思うだろう。

 花梨にようやく彼氏が、って喜ぶのかな。

 ずんと重くなった胃のあたりをさすって、私はアパートの鍵を閉める。



 待ち合わせたファストフード店の真ん前にはすでに制服のままのサイコバニーがいて、棒付き飴をペロペロなめていた。

「花梨ちゃん、思ったより早いね」

「亀山さんこそ」

「花梨ちゃん、おうちデートだからって気合い入りすぎ。すごいおしゃれしてきてんじゃん。かわいいね」

 私の顔にさっと赤みが差すのがわかった。照れている、と思った。照れているってことを客観的に観測できると、なかなかどうして自分というものが気持ち悪く感じられる。

 うわー。照れちゃってるよ。きもー。

「こ、これは汗臭かったから……つい」

「そんな花梨ちゃんにお裾分けしちゃう、はいロリポップ」

 亀山のポケットから出てきたのは、彼女が舐めている棒付き飴とそっくり同じものだった。「ちょっと溶けてるかも。ごめんね」

「何味?」

「スターフルーツ味」

「なにそれ」


 包み紙を破って飴を頬張る。甘いんだか酸っぱいんだかわからない、独特の味がした。サイコバニーが言ったとおり、ちょっとだけ溶けていた。

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