禁忌はその身を横たえる

武江成緒

禁忌はその身を横たえる




 深い森。

 天は緑の葉叢はむらにおおわれ、土は藪や草に満ち、その間をつなぐようにつたこけに覆われた巨大な幹が果てしなく並ぶ緑の魔境。


 無数の鳥とあまたの獣、数え切れぬ蟲たちを養うこの森はしかし、息を殺しているかのように静寂につつまれている。


 それを破るはただ一つ。

 森に慣れた狩人の耳になら、かろうじてとどく、地を這うようなうめき声。

 絶え入りそうなその声が、森の暗がりへとろけるように消えてゆき、ついに本当に絶えたことを確かめて、トゥトゥリはほっと肩をおとした。


 弟であるムヤチェがその息を失い、輝かしくはあるものの、もはや弓を射ることもなくヤーナへの愛をうたうこともない、黄金こがねの像に成り果てたさまを頭に浮かべ、安堵とともに湧きあがったふかいおそれに身を震わせた。




 森の外の者たちが《黄金境エルドラード》と呼ぶこの地。

 その名に反して、巨木の根や荒れ狂うやぶが泥土をおおうこの土地から、金が掘り出されることはない。


 緑のくにの奥の奥。

 大豹ジャグヮールを狩り、うわばみをほふるこの地の猛き狩人ですらもその名を畏れて呼ぶことのない、森の闇の大いなる主。

 その力のひとしずくと伝えられる聖なる泉は、このくにすべての狩人のなかで最も偉大な勇者のみが、その身を清めることを許された禁忌の場だ。


 大いなる主の力に触れることを許された勇者。

 その身体は英気をおび、その血はうっすら黄金こがねのいろに染まるという。

 それが主によみされて、大樹をひしぐ大力だいりきと、鳥の翼に劣らぬ速さで森を駆ける神足とを与えられた聖なる戦士のあかしだと、村の語り部は伝えている。


 そしてまた、大いなる主の不興を買った愚か者は、その血と肉とを命かよわぬ黄金に変えられ、泉のほとりに永遠にめられるのだとも。

 そのあわれながらも美しい成れの果ては、勇者によって人の世界へと持ち帰られて、その栄誉の一部となるとも。




 はるか昔、兄弟ふたりの幼いころ。

 どちらかひとりが必ず泉の試練にうち勝ち、勇者として認められよう。

 そんな無邪気な誓いをした日は、もはやトゥトゥリの心からはすっかり色あせ消えかけていた。


 森を歩く方法も、弓を射るやり方も、自分が教えてやったのだ。

 なのに、ムヤチェはめきめきと狩人としての腕をあげ、森へゆくたびに大ぶりの猪や猿を村へ持ち帰って来た。

 ムヤチェのしとめた大豹ジャグヮールは三頭にのぼり、そのいずれもが、トゥトゥリのしとめた一頭よりも明らかに大物だった。


 鍛錬をつみ、工夫をかさね、長老たちの機嫌をとってはコツを教わり、それでようやく、ムヤチェに次いだ二番目の狩りの名手と、そんな評判がえられた。

 娘たちの熱い視線はみな弟へと注がれて、その中にヤーナの美しい目もあったのだった。




 そんな自分の胸中など知るふうもなく、ムヤチェは幼いころのように『物知りの兄』に相談ごとをよく持ちかけた。

 子供のようなその目を見ると、頼られている誇らしさなどは湧かず、それどころか自分が老いさらばえた知恵袋の長老のひとりにされているような、苛立ちとも恐れともつかぬものがトゥトゥリの胸をかきむしった。


 それだから、試練に向かう若者たちの、その二番手に選ばれて、出立する日の前の夜、一番手であるムヤチェにこう語ったのだった。




――― 大いなる主にまみえるには、捧げものを用意していかねばならんということだ。


――― そんなことは聞いたことはないだろう。長老の誰もあえて教えることはない。しかしな、そうした敬いの心をわきまえてこそ真の勇者というものだそうだ。




 このかたりの、いちばん苦しいところすら疑うふうもないムヤチェの顔。

 それから少し目をそらし、さらに偽りを積み重ねた。




――― 泉にまみえるその前に、自分の腕にひき比べて恥ずかしくない獲物をもって行かねばならんということだ。


――― 俺はいままでったこともないほどの大猪をなんとか獲ろうと思っている。お前なら、大豹ジャグヮールをもう一頭、獲っていけるかも知れないな。




 計略といえるほどのものではない。

 しかしながら、大豹ジャグヮールとは言わずとも、ムヤチェのことだ、大猪か大山猫くらいは狩ろうとすることだろう。

 かすり傷くらいは負ってもおかしくはない。そうでなくとも泉までの道には獲物をじゅうぶん洗えるような、豊かできれいな水をたたえた川も池もありはしない。


 試練に出立してからは五日以内に帰らねばならないのだ。多くの者はそれを守ることも叶わない。

 ムヤチェであろうと、自分や獲物についた血を、流した血を、十分に洗うことは難しいだろう。

 そうなれば、試練における最大の禁忌タブー、聖なる泉に血をもちこんではならぬという掟も、ムヤチェの頭から薄れてしまうかも知れなかった。


 なかば子供の意趣がえしのような企みが、まんまと功を奏してしまったらしいことを、トゥトゥリはその耳でいま感じ取っていた。




 どのぐらい経っただろうか。

 気づかぬままにかなりの時間を、立ちつくしたままじっと過ごしていたらしい。


 喉はからからにかわき、手足や首に、いまいましい蚊のかゆみを感じる。

 かすかに震える足をうごかし、一歩、一歩、トゥトゥリは泉へとあゆんだ。


 ムヤチェ以外の若者はここまで追いつく気配もない。

 自分がこのくにいちばんの戦士となって、人々の敬いとあこがれとを一身に集められるだろう。ヤーナの目も、もちろんのこと。


 そんなことを考えても、震える足は重かった。

 泉のなかに、黄金こがね色にりかたまったムヤチェの姿を、いまにも目にするのではないか。

 そんな恐れがここまで体にのしかかるとは思わなかった。

 足が重い。手が重い。肩も、背中も、頭までも重い気がする。体のすべてがなにか重たい荷にかわってゆくようだ。


 少しぼやけた視界のなかに、黄色くまばゆい光を見た。

 毒蛇の牙でも目にしたかのように、胸の奥がはねあがり、逃れるように跳びすさる。

 重い足が、曲がることもなく、泥土のうえをすべってごとりと倒れこむ。

 見慣れたはずのその足があの、美しくも兇々まがまがしい輝きを放っているのだった。


 なぜだ。

 そう思ってから、黄金に変じている箇所は、忌々しいかゆみを覚えている箇所と同じだと気づいたのだった。




――― 毒蛇の牙におとらぬほどに、蚊に噛まれることを避けるがよい。


――― 吸うたびに、蚊は血を混ぜる。忌まわしい死の病を運び、お前の身体の中へと流す。




 ある長老から聞いた話が重い頭によみがえった。

 聖なる泉に、なぜ血が禁忌タブーとされてきたのか、トゥトゥリはわかったような気がした。

 が、それをはっきり考えることもないまま、そのすべてが硬く、つめたく、だが美しく輝くものへと変じていった。




 緑のくにの奥の奥、聖なる泉。

 そこからすこし離れたやぶの下の泥土のなか、黄金の像がうずもれて、ひとり横たわっているという。


 それに手を触れることはおろか、そこを探し求めることすら、禁忌タブーとされているという。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

禁忌はその身を横たえる 武江成緒 @kamorun2018

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ