『ひとり住めばあをあをとして草』

   ○●〇●


 できるだけいつも通りでいようと思っていたので、その時も狐は境内を掃き清めている最中でした。


 ふと風がひやりとした気がして慌てて宿所に駆け込むと、あの日と同じ作務衣のおじさんが、縁側で呼吸を止めた狸の傍らに腰掛けていました。


「見ての通りさ。そろそろ行くよ」

「ん」


 俯いた視線の先へ、自分の涙が落ちていきます。一雫、また一雫。


 泣き疲れて眠った時に感じた手の温かさが、初めて握ったほうきの重さが、並んで食べた野菜のおいしさが、夕暮れ時の風の涼しさが、飛び交う蛍の美しさが、雫と一緒に零れ出します。


「うあ、あ」

「ああ、そんなに泣きなさんな。大丈夫、大丈夫だから――」


 あたいが泣いた時におろおろするのは変わりないんだ。


 十回も夏を過ごしたのにね。


 背中を撫でる手のひらの感覚を確かに感じながら、狐はぼろぼろと泣きました。


 いつの間にか眠っていて、目を覚ました時には狸の魂は飛び去っていました。



 奥山にも蝉の声が届くような、夏の盛りのある日のことでした。



   ○●〇●



「――まったくおっさんの言う通りだったねェ」


 天井をぼんやりと見つめながら、狐はひっそりと呟きました。


 お社で暮らし始めてから十一回目の夏がやってきました。ある時夢枕に綺麗な女神が立って、貴女を眷属として認めます、と言い渡されましたが、それからも特に変わった事はありません。変わらない、静かな夏の日です。


「夏の日に畳の上に一人っきりは……どっちを向いても誰の笑顔も見れやしないのは、淋しいよ」


 ひんやりとしたい草の感触が体を包みます。ざわざわと吹き抜ける風を感じました。


「あァ、でもね、あたいは思うんだけど」


 たとい一人っきりでも、夏草は青々として、綺麗だ。


 すう、と緑の香りを吸い込んで、稲荷神社の年若い眷属は、遠い夏を懐かしむように、そっと目を閉じました。


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あおあおとして夏山よ 木月陽 @came1ily_42

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