あおあおとして夏山よ
木月陽
『大の字に寝て涼しさよ淋しさよ』
奥山にも蝉の声が届くような、夏の盛りのある日の事でした。
「隠れてないで出てこい、子狐」
「居候のくせに生意気」
「俺は居候じゃアない。れっきとしたこのお社の番狸だ」
「お稲荷さんなのに?」
「あァそうさ。責任持って管理してる。悪戯するならよそでやってくれ。仕事の邪魔だ」
「変なの!」
狸が番をする稲荷神社で、ぷくうと頬を膨らませながら小さな女の子に化けた子狐は言いました。だってそうじゃありませんか。
「ガキにゃ判らんだろうがなあ、大人には色々あるんだよ」
「何それ。げっ」
「はッ、まアお前さんが何を言おうが知ったこっちゃないからな。とっとと失せろ」
しっしっ、と作務衣のおじさんに化けた狸は手を払います。でも子狐はどきません。
「ねえおっさん。あたいがここのお狐になったげようか」
「はあ?」
「やっぱし狐のいないお稲荷さんなんて変だもん。ちゃーんとおつとめするから」
「何言ってンだ子狐。喧嘩売ってきたかと思えば――」
そこで、はたと狸の口が止まりました。
「お前さん、おっかさんはどうした」
ぎゅ、と子狐の口がへの字に曲がって、目の縁が赤くなりました。
「……いなくなっちゃったの」
目尻に涙が一雫、そしてまた一雫。じわじわと集まってきた涙は、とうとう目から溢れ出しました。それも当然です。本当はまだおっかさんの背中でねんねしているような年なのですもの。
「わあああああん」
「あ、ほら、そんなに泣きなさんな。大丈夫、大丈夫だから――」
座り込んで泣き出してしまった子狐の前で少しおろおろしてから、狸はおそるおそる子狐を抱き上げました。
「大丈夫、大丈夫――」
慣れない手つきで背中をぽん、ぽんと叩きます。狸の腕がしびれた頃になって、ようやく子狐は泣き止みました。乾いた涙と鼻水がこびり付いたままの顔で、すよすよと眠っています。
「どうしたもンかねえ……」
狸は空を仰ぎました。
奥山にも蝉の声が届くような、夏の盛りのある日の事でした。
○●〇●
「おっさん、お供え物来たよ!」
ぐんと背の伸びた化け姿の子狐が狸のところへ走って行きます。狸と同じ色の作務衣姿です。
ふたおやを亡くした子狐は、結局狸のお稲荷でおつとめをすることになりました。うだうだ言っても狸は人が、いえ狸が良い生き物なのです。ぶつぶつ言いながらおつとめを教えて、いろはを教えて、化け方を教えて、いつの間にか三回も夏がめぐっていました。
「そっち置いといてくれイ。しっぽ出してねえだろうな?」
「ちゃんと気をつけたもん!」
「へいへい。別に疑っちゃいないさ」
よっこいせ、と縁側から立ち上がります。風鈴に頭がぶつかって、チリ、と鳴りました。
「お素麺もらったよ。胡瓜と食べよう」
「素麺か! そりゃあ良いなあ」
子狐の頭に狸がぽんと手を置こうとします。子狐はひょいと避けます。
「もうねんねのがきんちょじゃないもん。子供扱いしないでよ」
「俺にとっちゃ何年経ってもチビ狐なんだけどなア」
「やだァ」
ふいと顔を背けます。ぷくうと頬を膨らませる様子は小さい時と変わりません。つきたてのお餅みたいだなァといつも狸は思ってしまうのですが、昔そう言うと子狐はむくれかえってしばらく口を利かなくなってしまったので、ぐ、とこらえます。
素麺と野菜の入ったかごを抱えて立つ子狐はもう機嫌を直したようで、そうめんそうめん、と口ずさみながら土間へ駆けていきました。
「おい、しっぽと耳!」
きゃーっと声がして、化け直したらしき軽い音が聞こえてきました。
ふはッ、と狸は軽く笑って、ふと寂しそうな顔で軒先の緑を見遣りました。
遠くで日暮が鳴き始めていました。
○●〇●
「何してるのさ、おっさん」
「見ての通り、昼寝さね」
「もうほとんど夜じゃないか」
「だったらなおの事、寝てたって問題ないだろ」
お社の近くの宿所は、家具もほとんどない部屋です。掃除を終えてそのままひっくり返ったのでしょうか、大の字に伸びている狸のそばには、ぞうきんとはたきが転がっていました。
五度目の夏がやってきました。子狐はもうすっかり大人びて、子狐でなくなりました。狸は毛並みに白いものが混じるようになりました。
「この時間だと涼しいねえ」
「畳に寝っ転がると涼しさも増すぞォ。やってみろ」
「うふ」
動きにくい巫女装束から作務衣に化け直して、狐も畳に転がりました。ひんやりと冷えたい草がなるほど心地良くて、くすくすと笑いが漏れます。
柔らかい風が吹いていました。生い茂る緑がざわざわと揺れます。
「さっきまでは、一人で大の字で寝っ転がってたけどなァ――」
「何?」
「涼しいなァとも思うが、何だ、中々に淋しいもんだぜ」
「そうかい」
「あァ。天井が高いなァとか、広さばっかり身に染みてな」
「へえ」
ころん、と転がって少しだけ狸に近付きました。寝返りを打った狸と目が合います。に、と破顔した顔に安心しました。淋しそうな顔をしている狸を見るのはつまらないものです。
「お前さん、べっぴんになったもんだ。気付かなかった」
「ようやく気付いたかい」
遅い遅い、と狸の鼻をつまみました。いつの間にか狐も、に、と笑っていました。
○●〇●
「俺は狐に育てられたのよ」と狸が打ち明けたのは八度目の夏、お社の方まで飛んできた蛍を眺めながらのことでした。
「俺もちびすけの時おっかさんを亡くしてなァ。鳥居の前にぶっ倒れてたのを、ここに住んでた狐に拾われたのよ。あの時は吃驚した。ひもじくて体が痛くて、もうろうとしながら目を開けたら目の前に天女みたいなべっぴんがいたんだから。首根っこ摑まれて持って帰られて、気付けばここの子になってたって寸法さね」
「その狐さんはどうしたんだい?」
ん。うなった狸の鼻先に蛍が止まります。くしゃみして狸は言いました。
「眷属は普通の狐よりゃ長生きだが、出会ったのが遅かったんだろうな。十回目の夏が過ぎる頃だったかなァ、空の向こうに行っちまった」
○●〇●
俺は眷属にゃあなれんから、そう長くはない身だ。いざとなったらお前さん、お社を継いでくれよ。小さい頃はまた言ってらあと聞き流していた言葉も、段々重みを持って狐の胸を冷やすようになりました。
狸はもう化けられません。人間姿になるとかなり背の高い狐が抱き上げてみると、すっぽり腕に収まってしまいます。昔々、泣きじゃくった自分を慣れない手つきであやしてくれたことが無性に切なく思い出され、鼻がつんとしてはこっそり上を向きました。
畳に一人寝っ転がるってのは、涼しいが淋しいぞ。度々狸はそう言います。もうすぐそんな夏ばかりが、自分にも来るのでしょうか。
「厭な話だねえ――」
ぐす、と聞こえないように頑張ってできるだけ小さい音で鼻を啜りましたが、聞こえてしまっていたようです。
「しおらしくなったもンだ」と小さな声で茶化されて、「うるせえやい」と答えた声はもう泣いていました。
そして、十回目の夏がやってきました。
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